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8.覚醒

 その瞬間、玄也はカッと黄色い目を見開いた。

 目の前に朱いもの……仰向けに倒れている玄也の胸の上から朱狐が跳ね上がった。


「玄也!」

 晴の声。

 玄也は一瞬にして状況を読み取った。


「食うな!」

 叫びながら、その手で目の前の朱狐を横殴りに叩き落した。

 跳ね起きた玄也は目の端に映った自分のバックパックをひっつかむ。抜き出した竹管を構え、九字を切った。ズンッという手ごたえとともに、朱狐が吸い込まれた。


「玄也、大丈夫か、玄也!」

 晴が飛びついてくる。その額に獏の目が開いている。

「大丈夫だから、目を閉じて!」

 飛びついてきた晴を受け止めながら、玄也は自分の全身がわなわなと震えているのを感じた。


 怒りで身体が震えるって、本当だったんだ。

 全身を震わせながら、玄也は全てを理解した。

 あれは、朱狐だったんだ。

 幼い頃見た、あの女の人。


 そうだ、あれがそうだったんだ……朱狐が、僕を襲いにウチの杜にまでやって来たって言うのは……。

 しかもいままた、同じ罠で僕をひっかけて……。

 よくも……よくも、僕の気持ちに付け込んで……よくもこんな……!


「玄也、大白狐が……」

「わかってる!」

 玄也はぎゅっと拳を握りしめ、新たな怒りにまた身体が震えるのを感じた。

 ビルが揺れたのは、地響きがしたのは、大白狐が自分の杜を飛び出したからだ。それは、鎮守の神としてのお役目を一瞬でも放棄したことを意味する。


 僕はなんてバカだったんだ……!

 あのときも、僕を後ろから呼んでくれたんだ。

 そして、いまも。

 ご自分の杜から飛び出してまで……僕のために……僕を朱狐から守るために……!


 恥ずかしさと情けなさと、自分自身に対する怒りがぐちゃぐちゃになって、玄也のなかを突き上げてくる。

「ちっ……くしょぉおおお!」

 玄也は拳で床を殴りつけた。


「玄也」

 晴が何かを差し出した。「九尾は俺が思ってたより、ずっと手強いようだ」

 ようやく視線を移した玄也は愕然とする。

「護符……! そう言えば穂波さんは?」


「俺が気づいたときはもういなかった。これだけが落ちてた」

「いや、でもなんで……確かにこれを首にかけたのに……」

 混乱する玄也に晴が歯軋りしながら応える。

「多分、暗示をかけられてたんだ。九尾のやつ、俺たちを陥れるためにわざといったん穂波から抜けて……くそっ、九尾と言えば神格だ、その程度の芸当はできると踏んどくべきだったな」

 晴は玄也の腕を掴む。「それに、九尾はお前には憑けなくても、やっぱ『夢』を見せることはできるようだな?」


「あっ……!」

 口を開けて固まった玄也に晴はうなずく。

「お前自身の夢に、お前を取り込んだんだ。しかも一度引き離した俺をおびきよせて、俺にお前の夢を食うように仕向けて……」

「いや、でも、さっき僕の胸の上にいたのは一尾だった……?」


「あれはエサだ」

 晴はまた歯軋りする。「お前を夢に落とし込んですぐ、九尾は逃げたんだ。その上でエサの尾裂を残して……俺がお前を起こすために夢を食うには、獏の目を開かなきゃなんねえ。そしたらそこにいる尾裂も絶対食っちまう。それが狙いだったんだろう」


 なんという……。

 玄也は絶句した。


 晴は唇を噛みしめている。

「多分、幸成も幸成自身の『夢』にとっ捕まっちまってると思って間違いねえな。それに九尾のやつ、また穂波に憑いてやがるはずだ。二人まとめて人質ってことか……」


「なにがあっても……」

 玄也もギリギリと歯噛みした。「どんなことをしてでも、絶対に、幸成さんと穂波さんを取り返してやる!」


 ピキッと、玄也のこめかみが反応した。

 晴と顔を見合わせるまでもなかった。

 二人は反射的に身を翻し、一気に階段を駆け上った。

 最上階の例の会社。玄也は一瞬のためらいもなくドアに突進した。


「幸成さん!」

 体当たりしてドアをぶち破り転がり込むと、室内に渦巻いていた強い風が一気に流れ出してきた。

 書類が舞い飛ぶオフィスの中、一番奥の窓が……開いている?

 なんでだ、こんな高層ビルの最上階だぞ、窓なんて絶対はめ殺しのはず……と、玄也は一瞬混乱した。


 その玄也の上を、晴が何か叫びながら飛び越えた。

 全開のその窓……ガラスが抜き取られている窓から幸成が身を乗り出している。


 玄也も跳んだ。

 ふっ……と、窓枠から手を離した幸成の背中を、穂波が押した。

 跳びついた玄也は必死に腕を伸ばし、眼下の夜景に向かって傾いていく幸成のジーンズのベルトを掴んだ。


 ガッと窓枠に玄也の薄い腹が食い込む。

 幸成さん、たいしてデカくないのになんでこんなに重いんだよ!

 玄也は渾身の力を込めて幸成をひっぱり上げた。


 どさりと重なりあうように床に落ち、玄也はすぐさま跳ね起きる。目の前で、晴が穂波と……九尾の朱狐と、対峙していた。

 額の目を金色に輝かせ、晴は歯噛みしている。

 デスクの向こうに立つ穂波は、手に握ったカッターナイフの刃をぴたりと自分の頚動脈に当てていた。


「やれやれ……せっかく、狛犬の『夢』を叶えてあげられるところだったのに」

 穂波が……いや、朱狐が、苦笑しながら顎を上げる。

 その様子に、玄也は呆然としていた。


 本当に……狐が憑いているのか?

 大白狐さまが穂波さんに依られたときとはあまりにも違う……こんな状況でなきゃ、とても狐憑きになってるだなんて思えない。


 違和感は、強烈にある。

 見た目も声も穂波さんだけど……でもこれは、穂波さんじゃない。穂波さんの夢が利用されているわけじゃないんだ……これは、明らかに別の誰かだ。完全に、乗っ取られてしまってるんだ。

 しかも……黄色い目を見開いた玄也の背筋が震える。

 穂波さんから全く、狐の匂いがしない。


 やっぱり……さっき、僕が『夢』に取り込まれそうになったときも、穂波さんに九尾が憑いていたのか? 護符を自ら外すよう暗示をかけておいて……僕と晴を引き離してから、僕がわからない間に取り憑いて……僕を『夢』に取り込むためにあんな話をして……。


 薄い笑いを貼り付けた朱狐が、まるで見透かしたように玄也に視線を送る。

「しかし大白狐が飛んで来たのは計算外だったね。あれがなければ、獅子を完全に眠らせてあげられたのだけど」

 カッと、玄也の身体が熱くなった。

「お前なんかに……いいようにされてたまるか!」


「おやおや、ずいぶんと威勢が良くなったねえ」

 叫んだ玄也に朱狐は目を細めて笑う。「お母さんを恋しがって駄々をこねていた坊やは、どこへ行ってしまったんだか」

「この……!」


「玄也!」

 激高する玄也を晴が抑えた。「落ち着け! これがコイツの手なんだ!」


 その様子に朱狐はため息をつく。

「ああ……私が叶えてあげようとしたのは、獅子の坊やの真の望みだったのに……夢を見ることもできない可哀想な獏に言いくるめられてしまうなんて」


「うるさい!」

 玄也は晴の制止を振り切らんばかりに叫んだ。

「お前に、お前なんかに、僕の気持ちがわかってたまるか!」

「それはまた傲慢な。ヒトの身で己の全てがわかるとでも?」

 朱狐がまた顎をそらした。「では何故ヒトは夢を見るのかな? 無意識に沈んだ、己が自覚できない真の思いを掬い取るためではないのかな?」


「玄也、こいつの言うことなんか聞くな!」

 晴が朱狐を睨みつけたまま叫ぶ。

 朱狐は鼻で笑った。

「ふふん、ヒトから夢を奪うしか能のない獏の坊やに言われたくないねえ」

「こっちこそ、てめえなんかに言われたかねえ!」

 晴はまた叫んだ。「夢を叶えてやるだなんて、所詮まやかしじゃねえか! それどころか人に罪を犯させやがって、なにを偉そうに!」


「わからない子だねえ」

 うんざりとまた朱狐はため息をつく。「それでもなお、ヒトは夢を欲しがるものなんだよ」


 すっと目を細めた朱狐が、玄也に視線を送る。

 ぞくっと、玄也の背筋が震えた。


「現実は余りにも辛く苦しく、受け入れがたい。決して叶わぬ望みだと知りながら、それでも夢を求めるその気持ちの、どこが罪なのだろうね?」

 細めた目で玄也を見つめ、低くやさしい声で朱狐はささやく。


「玄也、お母さんを憎めるかい? 実の母を憎むなどと、そんな辛く苦しい思いを、お前はこれから一生、背負っていけるのかい? お前の母は、本当はお前を捨てたくなどなかった……お前を守るために仕方なくお前を大白狐に預けた……そう思うことで、お前は救(・)わ(・)れ(・)る(・)のではないのかい?」


 玄也は、痺れたように身動きもできず、ただ朱狐を見返してしまう。


「玄也、私はお前を救ってあげられる。お前の苦しみを取り除いてあげられる。神に救いを求め、夢にすがりついて生きることの、一体なにが悪いと言うのだろうね? ヒトは、そこまで強い生きものではないのだから……」


「黙れ!」

 晴が叫んだ。


 ビクッと、玄也の身体が揺れる。


「だからって騙していいのか! だからって、殺していいのか!」

 全身をわななかせ、晴は朱狐を睨みつける。

 金色に輝く額の目が、はち切れそうなほど見開いている。

「お前はただ人の心を弄び、踏みにじってるだけじゃねえか!」


 わずかに目を見張った朱狐の口元が、くっとゆがんだ。

「なんとまあ、獏の坊やもずいぶんと言うようになったものだ。あのときは震えて足をすくませ、逃げることもできなかったのに」


 ビリッと、空気が震えた。

「……お前が、あのときの九尾か?」

 低い声で問う晴に、玄也の全身が総毛立った。

 小さな晴の全身から吹き出しているもの……それは、間違いなく『殺気』だった。


「さて、どうだかねえ」

 だが朱狐は、その晴をあざ笑うように首を傾ける。

「私だったかもしれないし、違っていたかもしれないよ」


「……答えろ」

「答えているじゃないか」

 朱狐はうんざりとため息をついた。「全くサカイの者は不便だね。毎回同じ説明をしなければならないのだから……私たちは一にして千、千にして一なのだから、あのときその場に誰がいたかなど、関係ないのだよ」


 朱狐が、その手のカッターナイフで穂波の首をスッとなぞった。

 ぎょっと目を見張る晴と玄也の前で、穂波の首に一筋、血がにじむ。

「ヒトの身体というのは脆いねえ」

 相変わらす朱狐は薄い笑いを貼り付けている。「ささいなことで簡単に滅んでしまう。そして、生まれるたびにまた一からやり直しだ」


 首筋ににじんだ血を、朱狐は指先でつまむ。

「だが私たちは違う。私たちは全てを共有できる。一が滅んでも、また新たな魂が全てを受け継ぎ、全てを受け継いだ一が、また千になるのだよ」

 くすくす笑いながら、朱狐はまた首筋の血をなぞった。

「ああ、この話をすると、先代の獏も、その前の獏も、そのまた前の獏もみな、いまのお前たちと同じ驚いた顔で私を見ていたねえ」


 顎をそらし、朱狐はニイッと笑った。

「私を食うのかい、獏の坊や?」

 その手のカッターナイフが、またスッと穂波の首筋をなぞる。

「……食ってやる」

 うめくようにつぶやき、そして晴は叫んだ。

「俺はお前らを根絶やしにするまで、食って食って食いまくってやる!」


「あっはっはっはっ」

 いきなり、朱狐は笑い出した。

 それも高らかに乾いた声を上げて。

「せいぜいお気張り、夢を奪う神よ」


 いかにも可笑しげに、朱狐は口元をひくつかせる。

「そして、私たちを滅ぼそうなどと考えることが、いかに愚かしいことなのかを思い知るがいい。お前の先代も、そのまた前も、歴代の獏たちがみな思い知ったのと同じように」

 朱狐の、乾いた笑いが不敵な笑みに変わる。

「ヒトが夢を望む限り……私たちが滅びることはない。私たちは、夢を与う神なのだから」


「黙れ!」

 叫んだ晴の目の前に、朱狐は指を突き出す。

「ご覧、狛犬の坊やだってあんなに安らいでいるじゃないか」


 幸成さん!

 ハッと玄也が振り返ってしまったその瞬間、膨大な数の尾裂が一斉に室内に飛び込んできた。


 しまった!

 燃え盛る炎のような朱い影に視界を遮られ、玄也は夢中で竹管をつかみ九字を切る。

 支えきれないほどの重い手ごたえが竹管に流れ込むのと同時に、玄也は九尾に飛びかかっている晴の姿を見た。


 玄也が駆け寄るより速く、晴は穂波の手からカッターナイフを弾き飛ばした。

「逃がすか!」

 晴は瞬時に身を翻し、朱い群の中にその手を伸ばす。

 穂波の額から抜け出したひときわ大きな朱い影、その尻尾を、晴の手がつかんだ。


 九尾!

 見開いた玄也の目の前で、晴はその九尾の朱狐を、その口に全部吸い込んだ。

「食ったぞ! 九尾を食った!」




「晴!」

 玄也が晴に飛びついた。

「玄也、まだ尾裂が……!」

 晴の言葉にハッと玄也は竹管をつかみ直したが、残りの尾裂はすでに開け放たれた窓から逃げてしまっていた。


 散乱したフロアには幸成と穂波が倒れている。

 玄也はようやく我に返った。

 冗談じゃない、ここから逃げたとはいえまだあんなに尾裂が残ってるってのに、晴が眠っちゃったら僕一人で三人抱えて車まで戻るだなんて絶対無理だ。


 晴は眠気を振り払うように頭を振る。

「くそ、眠っちまう前に幸成を起こさねえと」

「起こせるの?」

「いまやる」

 玄也の目の前で、晴は床に倒れている幸成の額に手を当てた。


 幸成は玄也が窓からひっぱり上げたときからずっと意識を失ったままだ。改めてその顔を見ると、本当に……静謐(せいひつ)とでも言えるような顔で幸成は眠っている。

「幸成……起きろ。それは、ただの『夢』だ」

 晴がささやく。

 そして晴はその手を幸成の額に当てた。


 けれど……晴の頭がすでにぐらぐらしている。

「ちくしょう、眠くて……目を開けてらんねえ」

 うめくように晴は言い、そして玄也を呼んだ。

「玄也、俺の目を開けててくれ」

「は?」

「だから、こう、後ろから俺の獏の目が閉じないように、左右から引っ張ってくれってば」


 そ、そんな超物理な方法でいいの? てか、まぶたを物理で開いてても白目になっちゃったりしないの?

 戸惑いながらも玄也は、言われた通り晴の後ろからその額に手を伸ばし、獏の目が閉じてしまわないよう左右から引っ張った。


 そのとたん、玄也の脳内にそれが流れ込んできた。

 そう、いままさに晴が食おうとしている、幸成の夢だ。幸成がいま見ている夢そのものの映像だ。


 ぎょっと身をすくめた玄也の脳裡にいきなり浮かんだのは……××××××××××だった。ぺしゃんこにつぶれた車の中で、××××××××××か細い声で幸成、幸成と呼んでいる。


 そこで突然、映像が切れて巻き戻ったように光景が変わった。

 明るい車の中。

 どこか山の中を走っている。青々と茂った木々、くねくねとした峠道を、窓を全開にして走る車の中で、幼い幸成がはしゃいでいる。

 朱い影。目の前に迫るガードレール。光景が瞬くように現れては消え、泣き叫び母を呼ぶ幼い幸成の声が響いた。


 もうやめてくれ……!

 玄也が思わず手を放しそうになったとき、その映像がブラックアウトした。ふらつく晴が、ようやくその夢を全部食い切ったらしい。


 ぴくっと、幸成の身体が動く。

 玄也がのぞき込む幸成の顔、その閉じられた目から、つっ……と涙がこぼれ落ちた。

「起きろ、幸成」

 晴がもう一度呼びかけると、幸成の目がゆっくりと開いた。

「幸成?」


「幸成さん!」

 ぼんやりと、幸成は顔を動かす。

「俺が、俺たちがわかるか?」

 晴は幸成の頬を両手でぺしぺしと叩く。

「……晴? 玄也も……」


 うつろな幸成の目に、じわりと光が戻ってきた。

 瞬きをし、幸成はため息のようにつぶやく。

「……俺は……生きているのか……?」


「当たり前だ!」

 晴が怒って声を荒げた。「勝手に死んだりしたら、俺が赦さねえぞ!」

「ああ……」

 うめくように応え、そして幸成は口元をわずかにゆるめた。


「幸成さん、幸成さんは朱狐の『夢』に捕まってたんだよ」

 玄也の声に応えるように、幸成は手で自分の顔を拭う。

「どうやら……そうらしいな……」

「起きられるか、幸成?」

 晴の声にうなずき、幸成は身体を起こした。

「九尾はいま俺が食ったが、まだ尾裂が残ってんだ。急かして悪ィが、すぐ大白狐の杜に戻らねえと」


 言われて、幸成の顔がハッとする。

「穂波さんは?」

 玄也も慌てて振り返った。

 穂波も床に倒れたままだった。玄也が抱きかかえて運んでくると、晴がその手で確認する。

「大丈夫だ、九尾も完全に抜けてるし、尾裂も憑いてねえ。すぐ気がつくだろ」


「でも、血が……」

 穂波の首筋ににじんだ血に青ざめる幸成に、玄也が励ますように応える。

「大丈夫、かすり傷だから」

 実際その二本の傷は、皮膚の表面をなぞっているだけのごく浅いものだった。

「玄也、とりあえず穂波に護符を着けてやってくれ」

「ああ、うん」

 玄也は穂波を一旦下ろし、自分のポケットから護符を取り出す。


「ちくしょう、俺はもう何分ももたねえぞ」

 額の目を閉じた晴は、しきりに自分の顔を手でこすっている。

「幸成、穂波を下まで運べるか? 玄也の車にまでたどり着けさえすりゃあ、なんとかなるんだ。俺は玄也に運んでもらって……」


 そのとき、穂波がうめいた。

 玄也も反射的に獣を閉じる。


「穂波さん?」

「穂波?」

 穂波が目を開けた。

 ぼんやりと目を動かし、自分をのぞき込んでいる顔を見上げている。

「……私、どうしたんだっけ……?」

 三人が一斉に安堵の息を吐いた。


 そのまま起き上がろうとする穂波を、玄也が支える。

「ああ、まだ無理しないで穂波さん。大丈夫、幸成さんも無事だし、もう帰るだけだから」

「幸成くん……!」

 穂波がハッとしたように幸成に向き直る。「大丈夫なの? なんか幸成くんが居なくなったとかって、さっき言ってなかった?」


「大丈夫です」

 幸成が苦笑する。

「ホントに? もう、一体何があったの? 私、さっぱりワケわかんないんだけど?」

「帰ってから説明しますよ」

 玄也はなんだか気持ちが焦り始めていた。


 九尾は晴が食ったと言っても、尾裂はまだたっぷり残っている。竹管も残り少ないし、誰かヒトに憑いた状態で襲われたら防ぎ切れないかもしれない。

「とにかくまずウチに戻らないと。穂波さん、幸成さん、立てる?」

「うん、でも私たちより、晴くんの方が大丈夫じゃなさそうじゃない?」


 幸成と一緒に立ち上がりながら、穂波が心配そうに晴を見やった。

 晴は顔をこすりながら、今にも倒れそうなほどふらふらしている。

「あ、晴は僕が担いで運ぶから……」

 応える玄也の声を聞きながら、穂波は手を伸ばして晴の肩に触れた。

 その瞬間、穂波の身体がビクッと跳ねた。


 えっ?

 本当に、一瞬だった。

 穂波が晴を抱えて開いた窓に突進したのだ。


「穂波さん!」

 先に動いたのは幸成。

 晴を抱えて窓からダイブした穂波の後を追い、一瞬のためらいもなく自ら飛び出す。


 くそっ、暗示か!

 獣を閉じていた分だけ出遅れた。

 2秒、いやこの高さなら3秒あるか?


 玄也も力いっぱい窓枠を蹴って飛び降りた。『獣』の力を最大限使った跳躍だ。

 落下する幸成たち……晴を抱えた穂波と、その穂波に手を伸ばした幸成という三人に、玄也はコンマ5秒で追いついた。

 空中で猫のごとく身をよじった玄也は、その長い腕を目一杯伸ばして晴の足をつかむ。そして全身をバネのようにねじってひねり、もつれあっている三人をビルの壁へ向かって振り回した。


「蹴って、幸成さん!」

 考えてしたことではない。

 けれど玄也は、幸成がそれをしてくれると確信していた。その通り、幸成はビルの壁を力いっぱい蹴ってくれた。ビルの壁に大穴が開くほどに。


 よしっ!

 落下速度をいったん殺せた。これで1秒稼げたはずだ。

 勢いよく蹴り出された三人の身体を、玄也は全身で受け止める。玄也が望んだ通りの角度だ。四人の身体がもつれあうようにくるくると回りながらやや速度を落とし、わずかに放物線を描いてさらに落下して行く。


 眼下に迫るアスファルトの黒い路面。

 玄也は身体をひねって落下地点を見定める。穂波ごと晴をぎゅっと抱き寄せ身体を丸めると、幸成も同じように抱きついて身体を丸めた。ひとかたまりになった四人の身体がまたくるりと回る。


 そのまま四人は玄也の狙い通り街路樹、銀杏の大木にぶつかった。

 大木の幹のしなりではじかれれば路面に無事着地できる……はずだったが、さすがに四人は多すぎた。銀杏の幹はその重さに耐えきれずバキバキと折れ、玄也は態勢を立て直し損ねた。


「幸成さん、穂波さんを!」

 言いながら玄也は、穂波の腕から晴を引きはがした。

 晴と二人だけになり身軽になった玄也が、銀杏の枝にたたかれ落下しながら幹を蹴る。

 蹴りの反動を使い、玄也は体をくるりと回す。そして晴を抱えたまま、ようやく玄也の足がアスファルトの路面に着いた。


「ぶはーっ!」

 玄也は詰めていた息を吐き出した。

 歩道にべったりと座り込み、強張っていた身体から力を抜く。

「死ぬかと思った……」


 銀杏の枝葉に叩かれて服はボロボロ。それどころか、夏の薄着が災いして肌も傷だらけの血だらけだ。それにずっと晴を……いや、晴も穂波も幸成もまとめて抱えていた腕もさすがにちょっとしびれている。

 目の前では同じように、穂波を抱えたまま呆然としている幸成が座り込んでいる。


 狛犬の幸成は獅子の玄也ほど身軽ではないので、そのまま自然落下にまかせて着地したようだ。銀杏の枝葉にたたかれまくった幸成の服の破れ具合は、玄也よりも激しい。当然、肌も切れて血だらけだ。

 それでも、彼が抱えていた穂波の服はほとんど破れていないのがさすがだ。全身で守ったのだろう。


「幸成さん」

 玄也が声をかけてもまだ、幸成は呆(ほう)けたような顔をしている。

「幸成さん、角が出てるよ」

「……へっ?」


 ようやく反応した幸成の額を指さし、玄也はにんまりと笑った。

「おめでとう、覚醒したね、狛犬さん」

 自分の額に手を当てた幸成の顔がぎょっとする。

「え、ええぇっ?」

 幸成の額には、高さ5センチほどの短い角が、ちょこんと生えていた。




 大白狐の杜に帰り着いたとき、すでに深夜0時を回っていた。

 宮司は、なにも言わず玄也の肩を抱いてくれた。


 晴と穂波を部屋に寝かし、玄也は一通りの事情を宮司に説明する。宮司はうなずきながら、玄也と幸成の手当てをしてくれた。

「それじゃあ、穂波さんからは目を離さない方がいいね。もしまだ暗示が残っていると大変だから」

「あ、ああ……」

 玄也と一緒に幸成もうなずいた。

 確かに、その危険性がないとは言えない。


「とにかく、当面は穂波さんもウチに居ていただいた方がいいでしょう。幸成さん、穂波さんのお家に連絡してあげられますか? ずいぶん遅い時間になってしまいましたが……」

「あ、大丈夫です。今日、岩坂警部は夜勤のはずですから……」

 うなずいて携帯を取り出す幸成に、宮司が小さく息を吐く。

「大白狐さまに清めていただければいいのですが……いますぐは、ちょっと無理かもしれません」

「え、なんで……」


「僕、大白狐さまのところへ行ってくる」

 幸成の言葉を遮るように、玄也が言った。

 その唐突さに幸成は目を見張ったが、宮司は深くうなずく。

「それがいい。いますぐ行ってきなさい」

 言いながら宮司は、新しい大注連縄(しめなわ)を取り出す。

「さ、これを持って行きなさい」

 うなずいた玄也は無言でそれを受け取った。


 深夜の杜の中を、玄也は歩く。

 すぐに眷属たちがやってきて、玄也の足元にまとわりついた。しきりに話しかけてくれるその頭を撫でながら、玄也は岩屋にたどり着いた。


 小さな朱い鳥居の奥、岩屋の木戸に張られていた大注連縄が真ん中でぷっつりと切れている。

 玄也は、木戸の前で深々と頭を下げ、切れた注連縄を外して持ってきた注連縄を張りなおした。

 新しい注連縄をくぐり、岩屋から地下へと降りていく。


 白い光が見えてきた。

 大白狐は、要石に身体を伏せたままだった。

 玄也が来ることはわかっていたはずだ。けれど、身体を起こすだけの力が、今はないのだ。


 本来憑き狐ではない大白狐がヒトの身体に依れば霊力を消耗する。そしてそれ以上に……自分の杜を飛び出すというのは、神のお役目を放棄してまで飛び出してしまうというのは、恐らく極限まで霊力を消耗する行為なのだろう。


「……大白狐さま」

 こらえていたものが、あふれだした。

 玄也の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 僕はバカだ。

 本当に、どうしようもない大バカだ。


 あふれる涙を拭うこともできない玄也のその顔を、温かい湿った舌が舐めた。

 押し付けられた鼻面を抱き、玄也は泣きじゃくった。小さな子供のように、泣いて泣いて泣きじゃくった。恥ずかしくて情けなくて、そして嬉しくて……たまらなく幸せだった。


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