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3.開示

※人が命を落とすエピソードが出てきます。

※残虐な表現があるため一部伏字(××××××××××)にしています。

ご注意ください。

 目を覚ましたとき、幸成は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 こんなに熟睡したのは久しぶりだ。

 古い木目天井を見上げているうちに思い出す。そうだ、稲荷神社に泊めてもらって……身体を起こすと、脇腹に少し痛みが走る。ああ、肋骨が折れてたんだった。

 枕元に置いてあった時計に目をやると、朝の六時過ぎだ。


 なにか不思議な音がする。

 その、しゅっしゅっという規則正しい音に惹かれるように、幸成は縁側に通じる障子を開けた。

 開けたとたん、シャーッという威嚇の声が同時にいくつも聞こえた。


「あー幸成さん、出てこないで。猫がみんな逃げちゃうから」

 振り向いた玄也がため息をついた。

 玄也は白装束に紺袴姿で、(たけ)(ぼうき)を手にしていた。あのしゅっしゅっという音は、箒で拝殿前の石畳を掃いていた音だったらしい。


「ああもう……みんなー大丈夫だよー、この犬は吠えたり追っかけたりしないからー」

 参道に向かって玄也が声をあげると、石灯籠(いしどうろう)手水舎(てみずや)の陰から、何匹もの猫がそろっと顔を出す。

 やがて縁側に突っ立っている幸成の目の前にも、猫たちがそろそろと出てきた。玄也の足元にまとわりつきながら、うかがうように幸成の方を見ている。


「僕、やたら猫に好かれるんだよね、まあ獅子ってネコ科だからなんだろうけど。おかげでウチはいつも猫だらけで、猫稲荷とか猫神社なんて呼ばれてんだよね」

 ごろごろと喉を鳴らしている猫たちの頭を撫でてやりながら玄也が言う。

 その言葉に、幸成は昨夜の話を思い出す。

「お前、まさか……猫と話ができるとか……?」


「はあ? できるワケないじゃん」

 呆れたように玄也が振り返る。「相手は猫だよ猫。そりゃ、他の人よりは意志の疎通はできてるかもしれないけどさ。だいたい、霊獣同士でも種族が違えば普通、会話なんてできないの」

 言ってから玄也はぼりぼりと頭を掻いた。

「……まあ、神様だの霊獣だの、そうゆうモノとまったく縁なく暮らしてきちゃったら、フツーにわかんないことなのかもしれないけどね」


 そして気を取り直したように、玄也は幸成の胸のコルセットを見る。

「幸成さん、ケガ痛む? 痛くないよね?」

「あ、ああ……ほとんど痛まないが……」

「そうだと思った。僕もそうだから。全治四週間なんて言われてたけど、単純骨折なんて四、五日もすれば完全にくっついちゃうでしょ?」


 言いながら玄也は手水舎の脇からバケツに水を汲んでくる。

「僕には隠さなくていいよ、多分たいがいのことは同じだと思うから。百メートル走だってその気になれば軽く10秒切れるでしょ?」

「えっ……あ、ああ……」

 あいまいながらも幸成はうなずいてしまう。「いや、ちゃんとタイムを計ったことはないし……だいいち、人前で本気を出したこともないが……」


「僕もそう」

 玄也は石畳に打ち水を始める。「本気出したら気味悪がられるもんね。あんまりにも人間離れしちゃってて。おかげで小さい頃からずっと……」

 最後は口の中でだけでつぶやいてから、玄也はため息をついた。

 そして顔を上げ、眉を片方だけ上げる。

「で、ケガが痛まないんなら、朝のお務め、手伝って欲しいんだけど?」




 バケツと雑巾を渡され、幸成は玄也の後について拝殿に入った。

「おじいちゃん、拭き掃除はしちゃダメだって言ったでしょ」

 拝殿に入るなり、玄也が声を上げる。

 中では宮司がすでに雑巾を絞っていた。


「もー腰痛いって言ってるくせに……ここは僕と幸成さんで拭いとくから、さっさと神饌(しんせん)(神様へのお供え)の仕度でもしに行ってよ」

「いや、でも幸成さんはケガをされてるのに……」

「だから、僕とおんなじでこんなのケガのうちに入んないの、すぐ治っちゃうんだから。それにこんな律儀で勤勉なヒト、なんにもするなって言われた方が本人困っちゃうよ。ほらもう、雑巾貸して。僕がするから」


 言われた幸成は思わず宮司と顔を見合わせる。

 宮司の顔に苦笑が浮かび、幸成も苦笑を返してしまう。いや、確かに玄也の言うことは当たってる。何もしないでただじっとしていることの方が、幸成には苦痛なのだ。


「幸成さん、床は僕が雑巾かけるから、壁と障子の桟をお願い。ほら、ぼーっとしないで」

 苦笑を浮かべたまま幸成は玄也の指示に従った。さすがに骨折した昨日の今日では、床の雑巾掛けはキツイということも、玄也はわかっているのだ。

「あ、祭壇は手を出さないで、僕がやるから。ちゃんと手順通りやんないとダメなの」

「そ、そうなのか?」

 祭壇に雑巾を当てようとしていた幸成が、慌てて手を引っ込めた。

「そうだよ。神様の世界はいろいろと決まりごとが多いからね。面倒でもその通りにしないとダメなんだよ」


 言いながら、床に膝を突いていた玄也が立ち上がり、手を洗いなおす。

 その姿に、幸成は不思議な感動を覚えてしまった。猫背でひょろひょろのはずなのに、いまはしゃんと背筋が伸びて腰が座り、袴姿がぴったり板についている。


 玄也は祭壇に向かって深々と頭を下げ、ぱんっぱんっと乾いた音を響かせながらその手を打った。

「実際に大白狐さまがいらっしゃるのは奥の岩屋で、この祭壇はいわば飾りなんだけどさ、でもだからってぞんざいにしていいってモンじゃないんだよね」

 空拭き布を手に、てきぱきと手際よく祭壇を掃除し始めた玄也に、幸成はなんだかさらに感動を覚えてしまう。こいつは本当に……こういう世界で生きてきたんだなあ……と。


「そんなに珍しい? 僕がこういうことしてるの」

 幸成の視線に気がついたのだろう、玄也が顔も上げずに訊いた。

「あ、いや……」

 苦笑しながら幸成は応える。「俺は……こういう世界とは、まったく縁のないところで育ったので……」

「それも不思議だよねえ」

 玄也は手を動かしながらため息をついた。「狛犬さんなのに、神界から切り離されたとこで育ったっていうのも……幸成さん、家族は?」


「ああ……父は俺が生まれる前に亡くなったと聞いている。母も、俺が七歳のときに事故で亡くなった。きょうだいはいないし、親戚もいるのかどうだかわからん」

「天涯孤独の身の上って、いうワケだ?」

 玄也がようやく顔を上げた。

「まあ、そうだな」


 苦笑してうなずく幸成に、玄也はひょいっと小さな像を手渡した。

 きょとんと幸成が受け取ったのは、祭壇に飾ってあった高さ20センチくらいの古い木像だった。

「それが狛犬」

 玄也は自分の手にも別の木像を持っている。「こっちが獅子だよ」


 言われてようやく、幸成はその像をしげしげと見つめた。

「狛犬像はいろんな神社や、場合によっては仏閣にも置いてあるけど、デザインはいろいろでさ」

 玄也が説明してくれる。「でも基本は昨日も言った通り、たてがみが直毛で額に角が一本あるんだ。ほら、僕の獅子の方はたてがみが巻き毛でしょ? 体色も、獅子は普通黄色らしいよ。僕は黒なんだけどさ」


「あ、ああ……」

 幸成の手にある狛犬像は確かに直毛で、額にはちょこんと小さな角が一本出ている。

「そんでだいたい、獅子の像は口が開いてて、狛犬は口が閉じてる。これは神道じゃなくて仏教の影響なんだけど、仁王像なんかと同じ阿形(あぎょう)吽形(うんぎょう)、いわゆる阿吽(あうん)の呼吸ってヤツだよ。ま、そこんとこだけとっても、僕らは『セット』ってことなんだけどね」


 玄也の言葉に、幸成は不思議そうにまたしげしげと狛犬像をながめる。

「これが……俺……?」

「どうもそうらしいよ。実際ホントにそういう姿なのかは怪しいけどね。僕も自分で自分の獣の姿は見たことないし」


「獣、か……」

 幸成はわずかに口元をゆるめた。

 そして、つぶやくように言った。

「俺は……もうずっと、自分がなんなのか、わからなかった。他の人間とは明らかに違うということだけは、わかっていたけれど……」

 顔を上げた幸成が、困ったように、少しだけはにかんだように笑って頭を掻いた。

「お前に昨日、俺はフツウの人間じゃないとはっきり言われて、なんだかホッとしたよ。いや、正直まだ狛犬だとか……神様がどうだとか言われても、さっぱりピンとこないんだが」


 玄也はうろたえてしまいそうだった。

 なんでこのヒト、こんなに素直なんだろ。


 幸成は、さらに玄也をうろたえさせることを言う。

「その……昨日は悪かった。お前の目を見て、あんなに驚いてしまって……申し訳ない」

 玄也は視線を泳がせ、それでもなんとか応えた。

「別に、あれがフツウの反応だからね」


 ダメだ、なんなんだよ、このヒト。

 玄也は思わず身体を掻きむしりたくなってしまう。

 そして同時に思わずにいられなかった。このヒトは、僕みたいに……いじめられたり差別されたりしたことって、ないんだろうか、と。


 お務めを終えて住居に戻ると、朝食の仕度が出来ていた。

 けれど晴はまだ熟睡している。

「一体どのくらいお眠りになるんだろうねえ」

「僕に訊かれても」

 宮司の言葉に、玄也は肩をすくめる。

 そして、また不思議そうな顔をしている幸成に視線を送った。


「ああ、昨日説明してなかったよね。晴くん、つまり莫奇さまは、狐を食ったら眠っちゃうの。それが、最強の神獣である獏の唯一の弱点なんだ」

「バク……?」

「それも言ってなかったっけ」

 玄也は頭を掻いた。「晴くんも身体はヒトで中身が獣なんだけど、霊獣の中でも神使(しんし)の僕らとは違って神格(しんかく)、つまり神様の位にいる獣なんだよ。それが獏」


「バク、と言うと……?」

 幸成はまだ不思議そうな顔をしている。

「獏だよ。ほら、ヒトの悪夢を食ってくれるっていう」

「ああ、あの獏か。へえ……」


 ようやく、納得の色が幸成の顔に浮かんだ。

 その幸成に、玄也はクスリと口をゆがめて笑った。

「でね、コレがその理由。なんで晴くんが、僕らを欲しがってるかのね」

「えっ?」


 目を見開いた幸成の前に、玄也は顔を突き出す。

「言ったでしょ。晴くんは命を狙われてるって。こんなにぐーすか寝込んでるところを襲われたら一発だよ?」

「あっ、ああ、そうだよな……」

 幸成がまた納得したようにうなずく。


 玄也もまた口をゆがめた。

「獏にはいつでもどこでも、安心して眠れる絶対安全圏が必要なんだ。そしてその安全圏、つまりどんな神様にも破られない『結界』を張れるのが狛犬、つまり幸成さんなんだよ」

 ぽかん、と幸成が口を開けた。


「狛犬さんの張る結界は神界最強でね、どんな神様にも神使にも破れない。でも、たった一種族だけ、狛犬の結界を破れる霊獣がいる」

 玄也はニイッと笑う。「それが僕、獅子なんだ」

 口を開けたまま、幸成は玄也を見返している。

 玄也はくっくっと喉を鳴らした。

「これでわかったでしょ? 僕らが『セット』であることの意味と、なんで晴くんが僕らを『セット』で欲しがるのかが、ね」




 晴が目を覚ましたのは、午後遅くなってからだった。

 薄く開けた目で天井を眺めながら、晴はぼんやりとその声を聞いた。


「……基本的に神使ってのは、どの神様にお仕えするか最初から決まってるんだ。僕らみたいに、どんな神社でもその像が置かれてるってのは例外。一番有名なのが、稲荷神のお狐さん。それで実際にお仕えしてる神使のことを、その神様の眷属って呼ぶんだ」

 玄也の説明に、幸成が問いかけている。

「狐の他にもその、神使とか眷属っていうのはいるのか?」

「そうだね、有名なとこだと鹿島さんはその名の通り鹿が眷属だし、住吉さんだと兎だね。神様で言うと、大黒さまは鼠、弁天さまは蛇」


「なんか普通の動物なんだな……想像上の生きものとかじゃなくて」

「あ、幸成さんするどい。そこんとこでも、僕らは特殊なんだよ」

「特殊?」

「うん、獅子も狛犬も想像上の生きもの、つまり神界だけの生きものでさ、しかも最初から、つまり生まれたときから神使だからね。他の動物は、霊体になってから何百年も経て、神界で昇格していって神使や神様になるんだから。おかげで僕らは神使の中でも最高位だしね」


 ようやく、晴はもそっと身体を動かした。

「あ、起きた」

 玄也の声に、晴は起き上がってあくびをしながらぼりぼりと首を掻く。

「……俺、どのくらい寝てた?」

「ほぼまる一日だね」

「そっか……尾裂(おさき)一匹にしちゃ、よく眠っちまったな」


 ぼそっとつぶやくように言い、晴はまた顔を上げる。「じいちゃんは? 杜から出てねえよな?」

「拝殿で祈祷(きとう)してる。午後の予約は二件だけだから、もうすぐ戻ってくると思うよ」

 ぎゅるるるる……。

 晴が言葉で応える前に、その腹が盛大に鳴った。


「……わかったよ、ご飯が残ってるはずだから、おにぎりくらい作ってあげるよ」

 ため息をついて立ち上がる玄也に、晴は頭を掻きながら、それでもひどく嬉しそうに言った。

「うん、悪ィな」


 居間の続きの台所に入った玄也が声をかけてくる。

「晴くん、なんか食べられないもんとかってある?」

「俺、なんでも食うぞ」

 また嬉しそうに応えて、晴も立ち上がって台所に向かう。


 玄也はおひつから出したご飯を容器に移し、電子レンジに入れた。

「サービスになんか具を混ぜてあげるよ」

 言いながら玄也は戸棚をあさる。「花鰹に塩昆布くらいかな」

 ピーッと音を立てた電子レンジから、晴は自分で容器を取り出してきた。

「自分で握る?」

「うん」


 晴は意外と手際がいい。

「じゃあ、さらにサービスでお味噌汁も付けたげるよ。インスタントだけど」

 玄也は鍋に水を入れてコンロにかけた。「晴くん、自分チでも台所に立ったりするんだ?」

「うん、ウチ、ばあちゃんがいろいろうるさくてな。自分のことくらいは自分で出来るようにしなきゃダメだっつって、なんでもやらされてるぞ」


 言いながら、晴は具を混ぜたご飯をぎゅっぎゅっと握っている。

「へえ……料理だけじゃなく、掃除とか洗濯とかも?」

「当たり前だ。俺、自分の拝殿も自分で掃除してんだぞ」

「そりゃ、ある意味すごいねえ。ご神体が自分で掃除って」


 でかいおにぎり二個とお味噌汁をお盆に載せて、晴と玄也が居間に戻ってきた。

 幸成は、なんとも不思議そうな顔で晴と玄也を見比べている。

「いただきまーす」

 両手を合わせるなり、晴は満面の笑みで食べ始めた。


 相変わらず、いやさっきよりもっと、不思議そうな顔で晴を見ている幸成に、玄也は苦笑してしまう。

「やっぱ信じらんない? 晴くんが神様だなんて」

「玄也、幸成にどの程度説明したんだ?」

 幸成が応える前に晴が口を挟んだ。

「とりあえず、要点だけ。ま、僕らはフツウのヒトじゃないって辺りが中心かな。まずはそこんとこ、理解してもらわないとねえ」


「そっか、そうだよな」

 晴はうなずきながらおにぎりを頬張る。「俺らが生まれたのも四百五十年ぶりだもんな、そんだけ間が空いちまえば、いろいろわかんなくなっちまうよな」

「四百五十年ぶりって?」

 幸成の目が丸くなった。

「うん、獏は俺の血族、御ケ代一族から生まれるんだけどな、俺の先代は戦国時代だ」

「戦国時代って……あの、織田信長とかそういう時代?」

「そうだぞ、お前ら、獅子と狛犬の先代も一緒だ。俺たち、四百五十年ぶりにそろったんだ」

 本当に嬉しそうに晴は笑った。


 そのとき、装束姿の宮司が顔を出した。

「ああ、莫奇さま、お目覚めになりましたか」

「うん、世話になってるな、じいちゃん」

「どうぞご遠慮なさらずに」

 宮司はにこにこと笑う。「おにぎりだけじゃ足りないでしょう、夕飯も早めにしましょうね」

「うんっ、頼むな!」

 晴もまた満面の笑みで応えた。


 宮司が着替えに行くのを見送りながら、玄也はため息をつく。

「晴くんってさ、遠慮ってモンは全く知らないワケね?」

「……悪ィとは思ってるよ」

 スネたように晴が口をとがらせる。


「なにを悪いと思ってんの?」

 玄也は片眉を上げる。「いきなりやってきて僕らを連行しようとしたこと? それとも獏のくせに大白狐さまの庇護下でぐーすか眠ってたってこと?」

「……全部だよ」

 口をとがらせて応えた晴は、椀を持ち上げて味噌汁を飲みきった。


 二人の間で、幸成はなんだかおろおろしてしまう。さっきまで二人一緒に台所に立って、和やかな雰囲気だったのに。

「でもお前らが危ないってのは事実だ」

 晴は両手を合わせてごちそうさまを言った。

「幸成だって早速昨日、狙われたじゃねえか。覚醒してねえ幸成じゃ、また朱狐に狙われても身を守ることもできねえ。この杜の中なら安全だっつっても、ずっとここに居続けるってワケにもいかねえだろうし」


「それってでも、幸成さんが仕事ほっぽりだして『お山』にこもるワケにはいかないってのと、同じだと思うけど?」

 また片眉を上げる玄也を、晴は口をぎゅっと結んで睨み返す。

「けど……『お山』に居れば、周りの人間が朱狐に襲われる可能性は減るぞ」

「周りの人間?」


 晴は唇を噛み、そしてうめくように言った。

「玄也、お前だって……もし、じいちゃんに朱狐が取り憑いて、お前を殺そうと襲ってきたらどうする?」

「なっ……!」

 玄也はぎょっと目を見張った。

「そんなこと……あるわけないじゃん!」


「ある!」

 晴が叫ぶように言った。「朱狐は、そういうことをするんだ! 幸成だって、昨日はたまたま知らない相手だったが、自分の大事な人に朱狐が取り憑いて襲ってきたらどうするんだ?」

 幸成も呆然と晴を見返した。

「大事な人に……? あの看護師みたいに……? いや、まさか、でもあれは……」

 ひどく青ざめたその顔の額に手を当て、幸成が考え込む。


 晴は言葉を続けた。

「朱狐は人に取り憑いて人を支配する。朱狐の中でも尾裂(おさき)は夢を見させるだけだが、本体は相手が誰であろうと取り憑いて、自由に操ることができちまうんだ」

「でも、まさかおじいちゃんに……」


「私は大丈夫だと思います」

 着替えてきた宮司が立っていた。

 三人はそろって振り返った。

「私は大白狐さまの護符(ごふ)を常に身に付けておりますのでね、恐らく朱狐も手を出せないはずです」


「そうか! その手があったか!」

 晴の顔がパッと輝いた。

「はい、私は只人(ただびと)ですのでね、逆に護符が使えるのですよ」

 うなずきながら、宮司も腰を下ろした。護符は神使や、まして他の神には使えない。


 しかし玄也は納得のいかない表情を浮かべている。

「大白狐さまの護符って……おじいちゃん、いつの間にそんなものを」

「昨日、ちらっと話しただろう。ほら、お前がまだ小さい頃、朱狐がこの杜にまで来たことがあると。あれ以来、気をつけるようにしていてね」

「そんな昔から……」

 玄也が絶句する。全く、知らなかったのだ。


「朱狐が、この杜にまで来たことがあるのか?」

 晴が身を乗り出した。

「はい、もう十五年も前になりますか……私自身は朱狐と接触があったわけではないのですが」

 うなずく宮司に晴は続けて問う。

「じゃあ、なんで朱狐だったってわかったんだ? じいちゃんは霊狐(れいこ)を見ることもできねえんだよな、確か」

「ええ、気配だけならある程度わかりますがね」

 宮司は再びうなずく。「あのときは、大白狐さまが夢枕に立たれたのです」


「えぇっ?」

 玄也が驚きの声を上げる。

 その玄也を見返し、宮司が言葉を続けた。

「あのときは眷属さんがひどく騒いでおられてね。私も妙な胸騒ぎがして……これは何かあったのだと思ったのだけれど……その日の晩、大白狐さまが私の夢枕に立たれたんだよ」

 宮司は思い出して眉を曇らせる。「夢の中で大白狐さまは朱狐を何度も踏みつけにし、最後にはその首に噛み付いて放り投げてしまわれた。本当に、私も震え上がってしまうほどお怒りでねえ……それで私もわかったんだよ、朱狐が玄也を襲いに来たのだと」


 玄也は呆然と宮司の話を聞いた。

 大白狐さまがおじいちゃんの夢枕に立たれるなんて……呆気にとられ、同時に、胸の奥がじわっと熱くなる。

「大白狐さまが私の夢枕に立たれたのは、後にも先にもあの一度きりだよ」

 付け加えられたその言葉がさらに玄也の胸を熱くし、同時に誇らしい気持ちにしてくれた。


「だからこの杜は、こんなに厳重な結界が張ってあるってワケか……」

 つぶやくように晴が言った。

 玄也が顔を上げた。

「結界って……この杜に結界が張ってあるの?」


「えっ?」

 晴が目を丸くする。「玄也、お前気がついてなかったのか? この杜だけじゃねえ、この辺り一帯、大白狐の領内は眷属の分も含めて、もうあっちこっちに朱狐用の結界が張り巡らされてるぞ?」

「ホントに?」

 今度は玄也が目を丸くした。


 晴は呆れたように言う。

「玄也、お前やっぱ狐に慣れすぎだ。もう感じなくなっちまってるんだな」

「そりゃ悪かったね」

 玄也は思わずムッと口をとがらせてしまった。


 けれど晴は構わず、今度は幸成に向かう。

「幸成、お前はどこで生まれ育ったんだ? この辺りで暮らして長いのか?」

「へっ?」

 突然話を振られて幸成がきょとんとする。「どこって……そう言われてみれば、俺もずっとこの辺りで暮らしてるな」


「えっ、そうなの?」

 玄也がまた目を丸くする。

「ああ……生まれた場所は覚えてないが、母と一緒だったときも、このすぐ近くのアパートで暮らしていたし……」

 幸成が思い出しながら話す。「母が亡くなってからは、川向こうの児童施設に引き取られて……高校に入ったときに独立してアパートを借りたんだが、ここから歩いて十五分くらいのところだ。そこにいまもずっと住んでいる」


「……呆れた」

 玄也が口を開けた。「ずっと、そんな近くにいたんだ……それなのに、いままで全く気がついてなかったなんて」

 その玄也に構わず晴はうなずく。

「やっぱりな、大白狐は玄也だけじゃなく、幸成のことも朱狐から守ってたんじゃねえかな。だからこんなに広範囲にまで結界を張り巡らして……」


 ぽかん、と本当に間が抜けたように玄也は晴を見返してしまった。

「なんで……大白狐さまが、幸成さんまで……? だいたい、覚醒もしてない狛犬さんの存在がわかるもんなの?」

「そりゃわかるだろ」

 晴は平然と言う。「自分の領内に神界のモノが居れば普通気がつくぞ? 例えそいつに自覚があろうがなかろうが、本質が霊獣なんだからな」


 言ってから、晴は首をかしげた。

 そしてじっと玄也を見つめる。

「もしかして……玄也、お前は完全には覚醒してねえのか? だから大白狐の結界にも気がつかねえし、こんなに近くに対の狛犬が居たのに全く気がつかなかった……」


 玄也は呆然と問い返してしまう。

「完全には、って……?」

「俺は『お山』を降りたのは初めてだが、降りてすぐわかったぞ? 自分の眷属がどこにいるかって。玄也だけじゃなく、覚醒してねえ幸成もな」

 晴はまたじっと玄也を見つめた。「なのに、対のお前が、これだけ近くに居た幸成に気がつかねえってのは……まだ完全にはスイッチが入り切ってねえんじゃねえか?」




 夕食になると、晴は旺盛な食欲をみせた。

 本当に、この小さくて細い身体の一体どこに入ってしまうんだろうと思ってしまうほど、もりもりと食べまくっている。

 宮司はにこにこと何度もおかわりをしてやっているのだが、その様子に玄也は憎まれ口のひとつも叩こうとしなかった。叩くことすら忘れて考え込んでいた。


 食事が終わると、晴はその玄也に再び問いかけた。

「玄也は、自分がいつ覚醒したとかって、自覚はあんのか?」

「さあ?」

 横目で視線を送って玄也は肩をすくめた。「多分、生まれたときから覚醒してたんだと思うよ。物心ついたときにはもう、自分の意志とは関係なく勝手に獅子に切り替わったりしてたから」


「そう言や、お前の親はどうなんだ? 親はなんて言ってる? それになにより、稲荷の宮司の血筋から獅子が出てくるとは思えねえんだが」

 無造作に尋ねる晴に、玄也はくっと口をゆがめた。

「親なんていないよ。僕はこの杜に捨てられてた捨て子だから」

 その言葉に、晴よりも幸成の目が見開いた。


 玄也はそのまま続ける。

「おじいちゃんに拾ってもらったとき、僕は二歳になったばかりだったらしいんだけど、すでに獅子が開いてたって」

「ああ、そうだったね」

 宮司が穏やかにうなずく。「私も正直びっくりしましたよ。幸い、当時は依坐だった姉がおりましたので、大白狐さまがこの子は黒獅子だと教えてくださって……でなければ私も、玄也がなにものなのか、わからないままだったでしょう」


「子供の頃は自分でも切り替えが上手くできなくて……ホント、苦労したよ」

 玄也はまた口をゆがめて笑った。

「でもいまは自分の意志で切り替えができるんだろ?」

 晴もまた無造作に訊く。「自分で切り替えがコントロールできるようになったのはいつだ? なんかきっかけがあったのか?」


 一瞬、冷めた視線を送った玄也が、また皮肉な笑いを浮かべる。

「中学んとき、校舎の四階の窓から突き落とされた瞬間に、コントロールのコツをつかんだ」

「四階の窓から突き落とされたって……」

 声をあげたのは幸成だった。


 玄也の口元には薄い笑いが貼りついている。

「僕、学校でいじめられててね。クラスの連中に、校舎の四階の窓から突き落とされたんだ」

 言ってから玄也はさらに笑った。「でも僕は全くの無傷でさ。おかげでそれ以降は誰も僕に手出ししなくなったよ。市師玄也は本物の化け猫だってウワサが広まってね」


 呆然と見つめていた幸成が視線を落とした。

 晴はそのままじっと玄也を見つめている。

 玄也も視線を外さずに晴を見返した。

 どうせこいつにはわかるまい。生まれてこのかたずっと、安全な『お山』で隔離されて育って、学校なんか行ったこともないだろうから。神様として(たてまつ)られ、いじめられたことも差別されたこともないだろうから。


「……晴くんの方はさ、アレってホントなの?」

 玄也は薄い笑いを浮かべたまま訊いた。

 晴は表情を変えない。

「アレって?」

「獏の封印が予定より早く解けちゃって、そのために覚醒しちゃったっていう話」


 じっと、晴は玄也の顔を見つめている。

 玄也も見つめ返した。

 ぎゅっと、唇を噛んだ晴が応えた。

「俺の、記憶を見せてやる」


 そう言って晴は、右手を自分の額に当てた。

 晴が指先で眉間から額へとなぞりあげると、あの病院で朱狐を食ったときと同じ……金色の獏の目が開いた。

 しかし今回は、そのなぞりあげた指先に、なにか白っぽいもの……気体とも液体ともつかない白っぽいものがくっついて出てきた。


 誰もが声もなく見つめている。

 晴は、本当に自分の頭のなかから自分の記憶をひっぱり出したのだ。

 それは、まるで空中に浮かんだスクリーンに映されているかのように、三人の目の前で再生され始めた。




 晴が見上げているのは、穏やかな顔をした男性だった。

 白装束に紫袴という姿で、晴は嬉しそうにその足元にまとわりついている。晴の視線がいまよりもさらに低い。大きな手に頭を撫でらている晴の、無邪気な喜びまでもが伝わってくる。

 暖かい季節なのだろう、どこかののどかな田舎道といった場所で、道端の茂みには可愛らしい花も咲いていた。


 ピリッと、空気に緊張が走った。

『逃げなさい、晴』

 男性がささやき、慌しく晴を自分の背後に回す。『振り向いちゃいけない。まっすぐ『お山』へ、伯母さまのところへ走るんだ』


『お父さん?』

 不安げに問い返そうとする息子を、父は激しく追い立てる。

『早く! 行きなさい!』

 息子を後ろ手にかばう父の身体の向こうに見えたのは、朱い狐の群だった。道端の茂みや林間に、ぽっぽっと火が灯ったかのように、いくつもの朱い影が現れたのだ。


『お父さん!』

『逃げろ、晴!』

 父は叫び、両手を組んでなにごとか唱える。そのとたん、飛びかってきた狐がギャッと悲鳴をあげて地面に転がった。


 晴は動かない。いや、動けないのだ。足がすくんで、身体が震えて。

 その間にも、狐は次々と襲いかかって来る。父は必死に息子をかばい、狐を祓い続ける。しかし狐の群は、二人を囲み徐々に追い詰めていく。


 そしてその中のひときわ大きな狐……九尾の朱狐が、ついに父に襲いかかった。

 父の身体がまっすぐに伸びきって硬直した。白目を剥き、口から泡をこぼしている。

『お父さん!』


 怯えた子どもの方へ、父はまるで糸で操られているかのようにぎこちなく動く。のしかかる父のその手が、息子の××××××××××た。

『お、父さ、ん……?』

 目の前に迫る父の形相。晴の意識が朦朧としてきた。視界が徐々に薄れていく。


『晴……』

 ぼた、ぼたっ……と、何かの雫が晴の顔に落ちてきた。

 同時に、××××××××××だ。激しく咳き込みブレる晴の視界に映ったのは、××××××××××××××××××××た父の姿だった。


 父は、渾身の力を振り絞り、××××××××××だ。

 息子の、絶叫があがった。

 赤く染まった視界が真っ白に輝き、そこで再生は終わった。


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