水音 終
その夜は眠れなかった。
まだ、体中が痒い。
泣き腫らした目を擦ると、再び嘔吐感が襲ってくる気がする。
明日は会社には行けそうにない。
それどころか、もう如何していいのかすらも解らない。
あの浄水器が、普通の経緯の物では無い事は間違いない。警察に話すべきかもしれない。しかし、今日のうちに実行できるほど、私の精神状態に余裕は無かった。
あの後、必死でシャワーを浴びた。カルキ臭いと思っていた水道水でも、体を洗い流さずには居られなかった。私は台所で汲んだ水を溜めて湯船に浸かり、髪や体を洗っていた。
体中にアレが染み込んで行ったのだと思うと、全身を掻きむしりたくなる。
素肌が赤くなるほどに念入りに洗ってもまだ気持ちが悪い。布団に潜って居るのは満足したからではなく、疲れたからだ。もうこのまま眠ってしまいたい。起きたら全て夢であった、と信じたい。しかし、あのさらさらとした水の感触が、今も私の肌に記憶されている。
水道料の明細を思い出す。
水を使っていなかった事を示すあの数字。無くなっていた風呂桶の水。寒気が襲う。きっとこの寒さは気温のせいじゃない。何に浸かったのか、何を呑み込んだのか。考えたくもない。できるだけ頭を真っ暗にする。目の前の暗闇のように、頭の中を何もない状態にする。
――――ぽと。
静かな部屋の中に音が響いた。何かが落ちる音。今となっては聞き慣れてしまった。
「……水漏れは直したんじゃなかったの?」
もう悩まされることは無いと思っていた。しかし、確かに鳴った。液体が滴る音だ。今度こそ蛇口の締め忘れと思いたい。けれど、今の私にはそんな逃避すら許されなかった。
――――びちゃっ。
大きな音に体が跳ねる。もはや控えめでは無い、コップをひっくり返したような音。私は布団を跳ねのけて、部屋の電気をつける。
ゴミ袋を手にすると台所へ向かう。放り出したままの浄水器と、その中身があった。
「何なの……何なのよっ!」
泣き顔になりながら、袋でそれを乱暴に掴んだ。ぐるぐると丸め込むと窓を開ける。もう冷静では無かった。
私はそれを力いっぱい、外へと放り出した。あんな気色の悪い物があるからいけないんだ。怯える気持ちは怒りにすり代わって居た。
私はへなへな、とその場に座り込んだ。
この歳になって幽霊なんて信じたくもない。けれどあんな物があるから気がおかしくなる。
――――びちゃっ。
空耳であってほしいと思った。
まだ音がする。あの忌まわしい肉片はもう無いのに。おそるおそる、台所の蛇口へ目を向ける。水が滴っている。
「なんで……もうアレはつけてないのに」
蛇口をきつくしめるが、水は止まらない。ひたひたとシンクを叩き、音を立てる。
意識したらいけない。
そういえば、結城さんからそんな話を聞いた。水音に不気味さを感じるにつれて、その音は大きくなっていた気がする。なら、今は……。
心の中から恐怖を消そうとする。意識しない。
気にとめない。そういう風に努めようとしても無理だ。だって、目の前で起こっていることがあまりに強烈すぎる。
びちゃっ。
音が響くたびに心臓が跳ねる。必死に蛇口の栓を締める。ぎゅっと力を込めると手が痛くなるが、痛くても力が入る。
「止まって……止まって!」
怒鳴った所で意味がない。台所にあったスポンジで蛇口をふさごうとするが、勿論無駄だった。尻込みしてシンクから離れると、気づいた。
蛇口に髪の毛が絡みついている。
首を絞められたような声をあげて飛び退いた。足がもつれて転びそうになる。
びちゃびちゃっ。
気味の悪い音がステレオで響く。両耳が音をとらえた。なんとか体を支えて立った足の先が冷たい。床を水滴が濡らしている。半狂乱になって部屋に戻り、ドアをきつく締める。
浴室の前が濡れていた。台所だけでは無かったのか。思えば浴槽にはあの水を貯めたのだ。もう水場には近づけない。
失敗したと思ったのは直ぐだった。どうせなら外に出ればよかった。
部屋から出るには廊下とつながった台所に出なければならない。今さら出ていけもせず、ゴムひもを探し出すとドアのレバーにぐるぐると巻きつける。毛布を引っ張り出して、ドア下の隙間に敷き詰める。ガムテープを乱暴にちぎって、べたべたと隙間をふさぎ続ける。それでもドアの向こうで水が滴る音が、はっきりと聞き取れた。
「……お母さん、助けてえ……」
子供みたいに泣きじゃくる。
耳をふさいでうずくまり、自分の声で音を消そうとする。それでも水の音が鳴りやまない。部屋の灯りはついていても、不気味な空気が張り詰めている。
早く逃げ出したい。
けれど玄関へと足が向かわない。
窓から逃げるにはこの部屋は高い。それに、外には私が投げ捨てた、アレがあるんだ。
ふと、目の前に携帯電話があるのに気付いた。
そうだ、これなら外と繋がれる。震える手を伸ばして電話を取ると、カチカチとボタンを操作する。
リダイヤルを表示すると、一番上に実家の番号があった。警察よりも真っ先に聞きたいのは、安心できる声だった。
電話からコール音が響いている。夜も遅いからきっと寝ているのだろう。早く起きて、電話に出て。祈るような気持ちで携帯電話を握りしめる。
「……もしもし」
コール音が止んで返事が返ってきた。私の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていただろう。温かみのある声に、胸がすっと楽になる。
「お母さんっ……お母さん、おかあさん!」
何を言いたいのか定まらない。電話の向こうでお母さんは、眠そうな声で困惑しているのだと思う。
「どうしたの、こんな時間に」
機嫌が悪そうな声。子供のころ叱られた時の事を思いだす。
けれどその声は、心配そうにしているようにも聞こえた。私は助けを求めたかったが、なんて言っていいのか解らない。ただ、水が、水がと繰り返す。落ち着かないといけないのに、安心感のせいで逆に気持ちが騒いでいる。
「もしもし、もしもし?」
言っていることが分からないのだろう。何度か聞き返される。私は必死に整理しようと、大きく深呼吸をした。
――――びちゃっ。
また水音がする。その音が私を必要以上に急かす。落ち着かなきゃ、助けてもらわなきゃ。ふうふうと荒い息が漏れて、言葉にならない。
びちゃっ。
やけに音が近い。今までよりずっと近い。まるで耳元で囁かれているかのようで、体中に鳥肌が立つ。
程なくして、おかしいと思った。
水音が聞こえてくる。
ドア一枚隔てた向こうからではない。
きゅっとお腹に力が入る。
電話の向こうのお母さんを呼ぶ。
お母さんは私に返事を返してくれる。
「どうしたの、もしもし?」
「…………お母さん……だよね?」
びちゃっ。
受話器の向こうから、水音がする。
携帯電話を放り投げた。
耳の後ろを掻きむしりながら布団に籠った。
お母さんじゃない。あれはお母さんじゃない!
びちゃっ、びちゃっ。
ぎゅっときつく布団を握って体中を包む。少しでも肌が外に出たら、何かに見つかるような気がした。
あの音が部屋の向こうから聞こえてくるのか、受話器から聞こえてくるのか、もう解らない。もしかしたら部屋の中で鳴っているのかもしれない。
ばん、と両耳を叩くと耳鳴りがする。痛くてくらくらするけれど、一瞬だけ音が消える。他に聞こえるのは心臓の音と、自分の嗚咽だ。体中汗まみれになって気持ちが悪いが、自分の体から出た液体ならマシだ。
水音は次第に激しさを増している気がする。
続けて音が鳴るうちに、それが滴るというより、引きずるように聞こえてきた。嫌な想像ばかりが働いて眼を固く閉じる。それでも音は消えていかない。
すばやく手を伸ばすと、枕元にあったリモコンのボタンを押した。テレビがつき、深夜特有の牧歌的な番組が始まる。別のリモコンはオーディオを起動させた。流行のラブソングが流れ始める。
なんでもいいから音を出して、あの水音をかき消してしまいたい。
「藻琴川のせせらぎは、冬になると情緒を増し……」
ナレーターの声が遠くなる。テレビには田舎の山中の風景が映っている。
流れるせせらぎの水音が気持ち悪い。
チャンネルを変えると砂嵐になった。
デジタルの時代に砂嵐なんか放送されるわけ無いと、気づいた時にはテレビを止めて居た。
「もうやだ、助けて、誰か……」
オーディオから聞こえて居た歌声が消えた。きゅるきゅると機械が動く。それをかき消すように、大きな水音がびちゃり、と響いた。
――――とても正気ではなくなっていた。
私は鋏を手に持った。
柄を握る手に力が籠り、ぶるぶると震えている。
それを耳の穴に押し当てると、思い切り中を突く。
「ああああああああああああああ!」
自分でも驚くほどの悲鳴を上げた。激痛が走り、涙がぼろぼろと落ちる。
それでも飽き足らず、私は自分で耳をばんばんと叩く。
掌に血の感触が触れる。もう片方の耳も叩く。ぱん、と乾いた手ごたえがあったか定かではないが、頭がぎんぎんと痺れる。
あー、あー、と声を上げる。ざあざあと雨が降るようなノイズだけが響く。
もう、何も聞こえない。
私は、にへら、と笑った。これで大丈夫。聞こえなければ大丈夫だと、もはや訳が分からなくなっていた。
涙で視界がぼやける。部屋の中は明るくて、家電の発する光などがゆらゆらと涙に溶けて、滲む。
それでも怖くない筈なんか無いのに、私は油断してしまった。
――――床に水たまりがある。
さっきまでは無かった、と思う。
だって、今目の前で現れたのだ。
二つ目の水たまりが、続いて少し離れた場所に現れる。空中から水が漏れだすようにして、またひとつ。
ぺた、ぺた、とにじり寄るように、またひとつ。
足跡。
きっとそうだと思った時、反射的に私は聞こえない筈の両耳をふさいだ。
水たまりは少しずつ、こちらに近づいてくる。
敗れた鼓膜を掌で押さえても、視線がそれを捉えている。
後ずさって、背中に壁がぶつかった。
ベッドの上に水のシミが出来ると、瞼をきつく閉じて丸くなる。目よりも必死に、耳をふさぐ。聞こえない筈の耳を閉じたまま、私は、頭蓋の奥で振動を感じた。
水音が聞こえる。
<了>