月が綺麗だね
「……うっ。何だよう。何でこんなにすれ違うんだよう……」
「ちょっと夏也! 今日は部活でしょ! そろそろ準備して行きなさい!」
リビングのソファーで俺は自分で購入した『銀河の中で』を泣きながら読んでいた。普段は教科書しか読まない俺にとって、文字の細かい小説はハードルが高いと感じた。けど、ページを一枚、また一枚と捲っている間にどんどん小説の世界に引き込まれて、ペースは遅いものの、数日で分厚い文庫本の三分の一を読破してしまった。
ティッシュペーパーで目と鼻を拭う俺のことを、まるで奇妙な生物を見ているかのような視線を送っていた母さんだが、俺の手の中の『銀河の中で』を視界に入れた途端「ひゃあ!」と声を上げた。
「あんた、そんな小説読むキャラ?」
「うるさいな! 放っておいてよ!」
「それ、買ったの? お姉ちゃんに借りれば良かったのに」
「嫌だよ! 姉ちゃん怖いし、ちゃんと自分のが欲しかったの!」
ソファーから立ち上がって、俺は自室に向かって制服に着替えた。そして、ぺたんこの通学鞄にスマートフォンと筆箱、そして、今まで読んでいた『銀河の中で』を入れた。
これで、先生と共通の話題を持つことが出来る。そう思うと、自然と頬が緩んだ。
「先生、びっくりするかな?」
暁君が読書を!? と、驚く先生を想像して俺は思わず噴き出す。そうだよ、先生。俺、先生と文学について語り合いたくて読書を始めたんだよ。そう心の中で呟いて、俺はカバンを肩に掛けて自室を飛び出し家を出た。もう夕方なので遊びから帰る小学生たちとすれ違いながら、俺は足取り軽く学校に向かった。
***
「失礼しまーす……っと」
職員室のドアをノックしてから、俺は先生の席に向かおうとした。けど、先生は英語担当の真木と何やら話し込んでいる。咄嗟に俺はふたりの死角に隠れて、その会話を盗み聞いた。
「この英文の訳なんですけど、日本語的に正しいですか?」
「ええ、意味は通じますね。けれど、ここをこう直した方がもっと伝わりやすくなりますよ」
「ああ! 本当だ! 白雪先生、凄い!」
「別に、凄くなんてありませんよ」
「あの……また、お手伝いお願いできますか? 私、訳すの苦手で……」
「ええ。僕でお役に立つのであれば」
「ありがとうございますぅ! ……あの、先生。夜って空いてますか? 良かったらご飯でも……」
「姫ちゃーん!!」
職員室に響き渡る大声で、俺は先生に向かって叫びながら先生の席に向かって歩く。
「俺、ちゃんと来たよ! 早く部活やろうよ!」
「ああ、暁君。こんにちは」
俺を視界に入れた先生はふっと優しく微笑んだ。それから、真木に向き直り口を開く。
「今日は部活動がありますので、夜は空いていません」
「あ、ああ……そうですか。なら、いつなら……」
「姫ちゃん! 俺、夏休みの宿題で分かんないところがあるんだ! 教えてよ!」
「ああ、それはいけませんね。では、ワークを開いて……」
「ワーク忘れたから、姫ちゃんのやつで解説して!」
「……まったく、仕方がありませんね」
真木は何かを言いた気にしばらくその場に立ち尽くしていた。けど、やがて自分の席に戻った。俺はふう、と息を吐く。そして、宿題のワークを熱心に解説する先生の顔をちらりと盗み見た。
——あんなに分かりやすいアプローチを受けてたくせに、何も思ってないの?
真木は美人だ。あんな女性に食事に誘われたら、誰だって自分に気があるのではないかと舞い上がってしまうと思う。
それなのに、先生はそんな素振りをまったく見せない。ただの同僚と会話をした、という程度にしか思っていないのかな。それとも、恐ろしく恋愛のことについて鈍いのかな……。
——俺、読書を頑張ったくらいじゃ意識も何もされないかもしれない……!
焦りを覚えた俺の頭に、先生の解説はほとんど入ってこなかった。
なんとか先生の言葉に相槌を打ちながら、俺はタイミングを見計らって「ありがとう! めっちゃ分かった!」と声を出した。先生はそこで解説を止めて腕の時計を見る。時刻は午後八時を過ぎようとしていた。
「ああ、いけません! 部活をしないと!」
「うん。今日は星、見れるかな?」
俺と先生は屋上に向かった。分厚い鉄の扉を開けた途端、むわっとした夏の夜の空気が肌に張り付く。不快に思いながらも、俺は屋上に出て、落下防止の鉄網に凭れた。
「熱いよう。先生、冷たい物が飲みたい」
「飲むのは観察が終わってからですよ。ほら、見てください! 今日は晴れているので良く見えます!」
俺は夜空を見上げる。
視線の先には、前回は薄っすらとしか見えなかった月が鮮やかな黄色い光を放っていた。
「うーん。満月じゃ無いんだ」
月は少し欠けていた。子供の頃は、月にウサギが住んでいるのだと誰かに言われ、それを本当に信じていた時期があったことを思い出す。三日月の時はウサギさんはどうなっちゃうの!? と、泣いたのは誰にもバレたくない秘密だ。
「満月じゃなくても、美しいです」
先生はじっと月を見ている。その横顔をちらりと見ながら、ああ、やっぱり格好良いなと思った。
……俺は、教科書に載っていた文豪が「愛している」というのを「月が綺麗ですね」と言い換えたという話を思い出した。
——言ってみようかな……。
文学好きの先生になら、もしかしたら伝わるかもしれない……。
俺は、勇気を奮い立たせて力強く言った。
「月が、綺麗だね」
先生が、俺を見る。
ふたつの瞳に、俺の姿が映っている。
数秒してから、先生はまた月の方に目を向けて柔らかい声で言った。
「ええ、本当に綺麗ですね。見られて良かったです」
「……うん」
特に何も思っていない様子の先生に、やっぱり鈍いのかなと思いつつ、俺は日誌のページを開き、今日の日付を書いた。それから、ほんの少し欠けた月の絵も。その下には「月がとても綺麗だった」と書いた。
日誌を覗き込みながら先生が言う。
「おや? 今日は星も綺麗に見れますから、星の絵も描いてみてはどうですか?」
「星の絵って……点をいっぱい描けば良いの? 難しいよ」
「でも、星座を結ぶように描けば上手くいくかもしれません」
「じゃあ、教えてよ先生。あれは何座?」
俺は適当に夜空に浮かぶ星を指差した。けど、先生は何も答えない。それどころか、妙な汗を掻いて固まっている。
「先生?」
「ぼ、僕は文系の人間でして……」
「理科、分かんないんだ?」
「勉強は! 勉強はして来たんですよ? 星の図鑑を買って、毎晩のように読んでいるのですが……難しいものですね」
先生にも分からないことがあるんだ。そう思うと、何だか可愛いと思えた。ぷっと吹き出した俺に、先生は「笑わないで下さい」と頬を赤らめる。
「星座は好きなんですよ? それぞれの星に物語があって素敵ですし……」
「はいはい。あ、そういえば俺ね、今、これ読んでるんだ!」
俺はカバンから『銀河の中で』を取り出して先生に見せた。先生は目を丸くしてそれを指差す。
「か、買ったんですか?」
「うん。駅前の小さな本屋さんに寄ってみたんだ。そしたら、目立つところにどどんと積んであった! だからスムーズに買えたよっ!」
「ど、どこまで読みました!? 海! 海に行くシーンは!?」
「ああ! 待って! それネタバレ! えっとね……交差点ですれ違うんだけどお互い気が付かないで信号が変わっちゃうところまで読んだ!」
「なるほど! そこ、泣けますよね!」
「うん。俺、めっちゃ泣いちゃった」
それから俺たちは夜空の観察そっちのけで、小説の話に花を咲かせた。
先生はネタバレに注意しながら、俺が読んだ部分までのところの話を丁寧に説明する。その表情はとても楽しそうで……聞いている俺まで自然と笑顔になった。
——この時間が、ずっと続けば良いのに。
もっと早く、天体観測部に入っていれば良かったな、と俺はずっと帰宅部を通していた自分のことを呪った。
こんなに楽しくて幸せなら、毎日だって部活でも良い。そう思ってしまうほどに、俺の心は先生でいっぱいだった。
——たくさんいろんな本を読めば、先生にもっと近付けるかな。
どきどきとそう考えていると、俺のスマートフォンが震えた。メッセージアプリの受信の音だ。画面を確認すると、それは父さんからのメッセージで……俺は息を吐く。
先生が俺に訊いてきた。
「もしかして、親御さんですか?」
「うん、父さん。仕事が終わったから拾って帰ってやるって」
「それは良かったですね。安心です」
「……うん」
本当は、今日も先生が車で送ってくれることを期待していていたので、俺は心の底から残念に思った。一分一秒でも一緒に居たくなる。恋というものは恐ろしい。彼女が出来た野田も、同じような気持ちになっているのかな……俺は日誌を閉じながらそんなことを考えた。
「それじゃ、先生今日はお疲れ様。勉強も教えてくれてありがとう」
「……」
「先生?」
手を顎に置いて動かない先生を不思議に思い、俺は先生に近付いた。すると先生は「暁君」と改まったような声を出す。
「君はさっき、職員室で僕のことを姫ちゃんと呼びましたね?」
「あ、ああ……うん」
これはお説教のパターンかな、と思った俺は身構えた。けど、先生から出てきた言葉は予想をしていないものだった。
「でも、屋上に上がってから、一度も姫ちゃんと言いませんね」
「……え?」
「どう使い分けているんですか? 興味があります」
「使い分けているのかって訊かれても……」
ただ本人に直接渾名で呼びかけるのは気が引けるからだよ、と説明すれば、先生はますます不思議そうな顔をする。
「本人に直接言うのが気が引けるのなら、どうして職員室では姫ちゃんと呼んだんですか? 矛盾しています」
「そ、それは……」
真木が居たから。
真木が絶対に呼べないような渾名で先生のことを呼んで、優越感を得たかったから。
先生の気を、引きたかったから。
なんてことは、恥ずかしくて口が裂けても言えない。俺は曖昧に笑って「自分でも良く覚えてないや」と誤魔化した。そんな俺に、先生は優しく穏やかな声で言う。
「部活の最中も、先生では無くて姫ちゃんと呼んでも構わないですよ」
「え? 何で? 嫌じゃないの?」
「嫌じゃないですよ。むしろ親しみを感じて嬉しいです」
嬉しい。そう言われて俺は自分の顔に熱が集中するのを感じた。呼んでも良いと本人が言うのなら——。
「……姫ちゃん、あのね」
「はい、何ですか?」
「これからは部活が無い日も、職員室に行っても良い? 宿題、教えて欲しくて……姫ちゃんの解説、凄い分かりやすいんだ。それに『銀河の中で』の話もしたいし」
「もちろん構いませんよ。ただ、僕は毎日学校に居るわけではありませんから、前日の夜か当日の朝に連絡を入れてくれると助かります」
「う、うん! 分かった! 楽しみにしてる!」
「ふふ。僕も暁君に会えるのを楽しみにしていますよ」
——っ!
心臓のどきどきが速くなる。
俺は日誌を先生に押し付けて「早くここを出よう!」と促した。
昇降口まで送ると言う先生の言葉を丁寧に断って、職員室の前で俺たちは別れた。人の気配を感じて夏也は廊下で振り向く。そこには、日誌を手に持ったままの先生が立っていて、手を俺に向かってひらひらと振っていた。
俺はそれに右手で応え、昇降口に通じる階段を駆け足で降りた。
靴を履き替えて校門を出ると、そこには父さんの車がすでに停まっていた。俺は急いで後部座席のドアを開けて中に乗り込む。それを見た父さんは、けらけらと笑った。
「冷たい奴だな。助手席が空いているのに」
「助手席には……恋人とのドライブで座るの!」
「何だぁ? 彼女に運転させる気か? ちゃっかりしてるなぁ」
笑いながら父さんは車を発進させた。
俺はぎゅっと鞄を抱きしめる。
先生の車で家まで送ってもらった時、自分は助手席に居た。今思えば夢のような時間だった。その時の記憶を噛みしめるように、俺はそっと目を閉じて運転していた時の先生の姿を思い出していたのだった。