もっと、知りたい
「ごめん。今日、行けない」
『良いって、無理すんなよ? 終業式は来れそう?』
「たぶん、平気」
翌日の朝、俺はベッドに仰向けに寝転びながら野田と電話をしていた。額には、熱を冷ますための長方形のシートがぺたり。冷たくて、気持ち良い。
予想通り、熱が出たの。
微熱だけど、俺には辛い温度。
高校は土曜日と日曜日が休みなので、今日は野田と勉強会という名の遊びの約束をしていた。けれど、ふらふらする身体では外に出られない。
俺はそのことを何度も野田に詫びた。気にしていない、と笑う野田は何だか上機嫌な様子で俺に言う。
『本当は話したいことがあったんだけどな、今度で良いわ』
「え? 何? 電話では言えないこと?」
『そうじゃないけどさ』
「聞くくらいなら出来るから、言ってよ」
どうしようかなぁー、とじらしながら野田は弾む声で俺に言った。
『俺、彼女が出来ました!』
「……は!? マジ?」
『マジ!』
「嘘だー!! ……げほっ!」
咳き込みながら、俺は野田に問いただす。
「いったい、どこで出会いが!?」
『家の近くのコンビニ! 前からお喋りはしてたんだけど、付き合うとかは考えて無かった……』
野田は笑う。
『昨日、コンビニに行ったら、バイトで店に入るその子と時間が重なったんだよ。そしたらさ、その子……春ちゃんって言うんだけど、春ちゃんの私服姿がめちゃくちゃ可愛かったわけですよ!』
「お、おう」
『その姿を見た瞬間、俺は恋に落ちた! そして、店に入ろうとしていた春ちゃんを呼び止めて、告った!』
「え……は、早っ! なんだよお前、仕事人かよ!」
『狙った獲物は逃がさない! って、冗談はさておき。なんと、春ちゃんも前から俺のこと気になってたんだって! だから一発オーケー貰いました! 初彼女ゲット!』
「マジかー、おめでと! 青春しろよー!」
『それはお前もしろよ。ま、また春ちゃんの友達を紹介してもらえるか頼んでみるから安心したまえ』
「ははっ。ありがたき幸せ」
『苦しゅうないぞ』
それじゃ春ちゃんと電話でもするわ、と野田は電話を切った。俺はふう、と息を吐いてスマートフォンを枕元に置く。
彼女、か。
口の中でその言葉を転がす。
恋人は欲しい。けれど、実際に出来たらどんな感じに自分が変わってしまうのかは分からない。今の野田は、声だけでも幸せ全開の様子だった。自分にも恋人が出来たらあんな浮かれた感じになってしまうのかな。
……それはちょっと恥ずかしい。俺は頬を掻いた。
——暁君は、私の可愛い生徒ですから。
「……っ!?」
何故だか、昨夜の先生の言葉が頭の中に響いた。少し低くて落ち着いた、柔らかい声。
思えば、先生とはそんなに仲が良い関係では無い。けど、昨日の放課後は楽しかった。
普段、真面目で頭の中がカチカチみたいな先生が冗談を言うこと。文学について語り出したら空気が読めなくなること。そういったことを知っているのは、もしかしたら学校の中では俺だけかもしれない。
——もっと、知りたいな。
先生のことを考えると、胸の奥の方が熱くなる。
きっと大人の魔力に当てられているんだ。そう自分に言い聞かせて、俺は目を閉じた。
***
我が家は共働きのため、土曜日の昼間に両親は家に居ない。なので、昼食は自分で作らなければならない。
午後一時前に目を覚ました俺は、ふらふらと一階のキッチンに向かって、冷蔵庫の中から牛乳を取り出して中身をグラスに注いだ。それから、食パンでもあれば食べようと戸棚を漁る。残念なことに、すぐに食べられそうなものはそこには無かった。
「コンビニ、行こうかな」
念のために検温してみると、熱は朝より下がっていた。これなら少しくらい歩いても大丈夫だと思う。
俺は牛乳を飲み干してから、自室に一度戻って部屋着から出かけられるような服に着替え、財布と家の鍵、それからスマートフォンをトートバッグに放り込んで部屋を出た。
しっかりと家の施錠をしてから、熱い外の世界を歩く。
コンビニは家から十分ほど歩いたところにある……早く涼しい店内に入りたい。自然と俺の歩くスピードは速くなった。
そういえば、野田はコンビニで彼女をゲットしたと言っていたな。偶然出会った、私服姿の可愛い彼女。確かに、コンビニの制服じゃなくて私服を見たら、その人のセンスが分かるし普段目にしていない一面を見ることが出来て、ぐっと来るものがあるかもしれない。
ギャップ萌えってやつ?
そんな出会いがしてみたいなぁ、と考えながらコンビニに到着した俺は、その駐車場に見覚えのある軽自動車が停まっていたものだから心の底から驚いた。
——せ、先生!? いや、まさか……。
どきどきしながら店内に入ってきょろきょろと周りを見渡すと、ドリンクコーナーに先生の姿があった。俺は足音を消して先生に近付き、背後から「わ!」と声を掛けた。
先生はゆっくりと振り返る。
「わあ。びっくりした。暁君、奇遇ですね」
まったく驚きを見せない先生に「面白くないなぁ」と俺はくちびるを尖らせる。そして、先生の持っている買い物かごの中を覗いた。そこには、鮭の塩焼きの弁当と梅干しのおにぎりが入っている。
「先生、けっこう食べるんだね」
「え?」
「弁当とおにぎりって、カロリーあるでしょ?」
俺に指摘された白雪はくすっと笑う。
「おにぎりは夕食ですよ。お昼にこんなに食べられません」
「へぇ……え? 夕飯、おにぎりだけ?」
「ええ」
俺は驚いて声を上げる。
「駄目だよ! そんなんじゃ身体に悪いよ! もっとこう……肉! 肉を食べなきゃ!」
「若い頃は食べられたんですけどね。今は……」
「先生、いくつ?」
「今年で三十二歳です」
「まだ若いじゃん!」
俺の父さんでも焼き肉行ったら爆食いするよ! と、俺は駆け足で真空パックに入ったサラダ用の鶏むね肉の塊を取りに行き、先生の買い物かごの中に放り込んだ。
「これ、あっさりしてるから食べて!」
「おや、こんな大きなの無理ですよ」
「いっぺんに食べなくて良いの! 今日と明日で食べて!」
はいはい、と苦笑しながら先生はカフェオレの入ったペットボトルを商品棚から取った。俺は首を傾げる。
「米にカフェオレ?」
「ええ。変ですか?」
「別に、変じゃないけど……普通はお茶じゃない?」
「でも、しょっぱいものと甘い物を同時に取りたくなることありませんか?」
「あ、分かる! それにね、俺もそのカフェオレ好きだから学校で良く飲むよ!」
「ああ、購買にも自動販売機にも売っていますもんね」
そんな会話をしている中で、俺は先生がスーツを着ていないということに気が付いた。
いつもはかちっとスーツで教壇に立つ先生が、今はラフな黒いティーシャツと濃い緑色のパンツを身に着けている。靴も革靴ではなく、焦げ茶色のスニーカーだった。
——春ちゃんの私服姿がめちゃくちゃ可愛かったわけですよ!
野田の言葉を思い出す。
今の先生は、可愛いというよりも――。
「……格好良い」
「え? 何ですか?」
「あ、ううん! 何でも無いよ! って言うか、先生今日はラフだね!」
「ああ、今日はお休みですからね」
「そっか!」
思わず心の声を口に出してしまったことに赤面しながら、俺は「俺もお昼ご飯買う!」と言ってパンのコーナーに走った。
最後の一個の焼きそばパンを無事に手に取り、ドリンクコーナーに戻って先生が選んだのと同じカフェオレを掴む。冷えているはずのそれは、何故だかとても熱を持っているように感じた。
「暁君、もっと食べないんですか?」
いつもならもうちょっと食べられる。
けれど、いろいろな感情が渦巻いて、胸がいっぱいで食べられそうにない。俺は少し心配そうに自分を見つめる先生に、わざとおどけた表情で言った。
「ダイエット中なの! モテるためにね!」
「君はそんなことをしなくても細いでしょう?」
「複雑なお年頃なの!」
「もっと、その……お肉を摂取した方が……」
「それ、先生が言う?」
数秒の沈黙の後、同時に吹き出した。
どうしよう。先生と話すのがとても楽しい。
俺の心臓は昨日のようにどきどきと高鳴る。どうして、こんな――。
「では、お会計をしましょう。暁君の分もかごに入れて下さい。ご馳走しますよ」
「そんな、悪いよ」
「入部祝いです」
「んー……じゃ、お言葉に甘えて! ありがとうございます!」
先生に奢ってもらった焼きそばパンとカフェオレ。
自宅に持って帰った俺は、なんだかもったいなくて、それをしばらくの間食べずにただじっと見つめていた。
***
「なぁ、恋って落ちるもん?」
「……はぁ?」
月曜日。
終業式が終わってざわざわと騒がしい教室で、俺が急にそんなことを訊いてきたものだから野田は椅子から滑り落ちそうになっていた。
「どうしたんだよ? まだ熱があるのか?」
「違うって! これは……そう、恋愛マスターのお前にアドバイスを貰おうという迷える子羊の質問」
「ほほう。それなら相談にのってしんぜよう」
ふふんと鼻を鳴らす野田に、こいつ単純な奴だな、と密かに思った。けれど、恋愛の先輩にそんな失礼なことは言えないし、他に相談出来そうな友人は居ない。俺は声を潜めて野田に訊いた。
「そもそも、恋って何?」
「恋って、そりゃ誰かを好きになることだろ」
「好きって何? どんな感覚?」
「ええっ? 何かこう……その子のことを考えたらどきどきするって言うか……」
「憧れとの違いは? どきどきって心臓が一分に何回動く感じ?」
「そんな細かいこと知らないよ! 保健室のセンセーに訊けよ!」
「頼むよ! お前だけが頼りなんだ!」
野田の腕を掴んで必死に言う俺に、野田は「ははん」と笑った。
「お前、好きな奴出来たんだろ!?」
「ちょ、声が大きい!」
「どこの高校? 女子高? 言えって」
「ち、違うし!」
「吐いちまえよ。楽になるぜ?」
野田はつんつんと指で俯く俺のつむじをつつく。夏也は、小さな声で「同学年の子じゃなくって……」と口を開く。
「と、年上の人のことが……き、気になってしまって」
「と、年上だと!?」
今度は野田が声を潜める。
「年上、というと……?」
「ぐ、偶然に良く出会う……お、大人っぽい人」
「……女子大生か?」
相手は男でこのクラスの担任です、なんてことを正直に言う勇気なんて無い。俺は曖昧に笑って「たぶん、そう」と頷いた。
野田は「マジかー」と天を仰ぐ。
「年上好きだったのか……いや、好きになった人がたまたま年上だったのか……」
「ね、年齢のことは置いといてさ、どうなの? 電話で恋に落ちたって言ってたからさ。どんな感じで落ちたのか教えてよ」
「どんな感じって言われてもなー」
野田は顎に手を当てながら言う。
「好き! って衝撃が走った。それだけ」
「そ、それだけ?」
「うん。一分間に何回心臓が鳴ったかとかは知らんけど、めっちゃどきどきしたね。だからこれは恋だと確信した。だから、告った」
「そ、そう……」
「夏也はどうなん? どきどきした?」
「……した」
俺の言葉に、野田は「じゃあ、それは恋に違いない」と深く頷く。
「良く出会うなら、声掛けてみたら?」
「う、うん」
「頑張れよ! お姉様系と付き合った感想、楽しみにしてる!」
野田が高いテンションでそう言ったのと同時に、教室のドアが開いて先生が入って来た。俺の心臓が跳ねる。
「はい、皆さん。席に着いて下さい」
教室に良く通る、優しい声。
ああ、このクラスの人間の誰にも聞かせないで、独り占めしたい。
そんなことを考えてしまう自分は、恋に落ちてしまったのだと、俺はぼんやりと思った。
***
ホームルームが終わった後、職員室に呼び出された俺は平静を装って大人しく先生の席に向かった。本当は心臓のどきどきが耳に響いてうるさい。けれど、そのことを先生に悟られるのは恥ずかしい。だから、俺は出来るだけ先生から目を逸らすことに集中して視線をきょろきょろとさ迷わせていた。
「——で、今週の金曜日は……暁君、聞いていますか?」
「は、ハイ! 聞いてるってば!」
「何だか落ち着きが無いですね。もしかして、体調が悪いのでは……?」
「そんなこと無いから! で、金曜は夏休みだから活動は無いんでしょ?」
「いえ? ありますよ?」
「えっ?」
「え?」
驚く俺に、先生は「やっぱり聞いていない……」と溜息を吐く。
「他の部と同様に、我らが天体観測部も夏休みは活動します」
「え、ええっ!?」
先生に会えるのは嬉しい。けど、夏休みにわざわざ学校に足を運ぶのは面倒臭い。夏也は「そうだ!」と先生に提案した。
「先生の家から空の観察しようよ!」
「え? 僕の家からですか?」
「そう! ベランダあるでしょ? 一軒家? マンション?」
「マンションでベランダもありますが、却下です。試合や展覧会といった特別な場合を除いて、部活動は学校内で行わなければならないという決まりがあります」
「ええー? けち!」
「けちではありません」
先生は、背もたれに体重を掛けながら続ける。
「天候が悪い日は部活はお休みです。その時はちゃんと一時間前に連絡を入れますので安心して下さいね」
「……はぁい」
渋々頷く俺の肩を、誰かがぽんと叩いた。振り向くと、そこには数学を受け持っている田原が立っていた。田原は夏也に「返事は短く!」と注意する。それから、先生に向かってにやにやと笑みを浮かべながら口を開いた。
「白雪先生。今夜の飲み会、来てくれますよね?」
「田原先生、生徒の前で言う話題では無いですよ」
呆れたように言う先生に、田原は豪快に笑う。
「ははっ! 夏休み前で浮かれてしまって申し訳ない!」
「田原先生、お酒強いの?」
何気なしに俺は訊ねた。田原は「ふふん」と鼻を鳴らす。
「ああ、強いぞ! ビールなら無限に飲める!」
「ええ? おっさん臭いよ」
「好きに言え! けど、今日はそんなに飲まないぞ! 今日は飲み会という名のお食事会だからな!」
「……それって、合コン?」
「そうとも言う!」
ずきり。
俺の胸に痛みが走った。
——合コン、先生も参加するんだ……。
ぎゅっと胸を押さえる俺を見て、先生は慌てて立ち上がる。
「暁君、どうしました? 気分が悪いですか?」
「……別に、平気」
「顔色が悪いです。保健室に行きましょう。あと、田原先生、すみませんが今日は車で来てしまいましたので、飲み会は不参加ということで」
そんなぁ! と残念そうに声を上げる田原を職員室に残し、先生は俯く俺の手を引いて保健室に向かった。
保健室は鍵は開いていたが無人で、頼りになる養護教諭の姿は見当たらない。俺はふらふらと壁側の一番奥のベッドに横たわった。頻繁に保健室を利用する俺にとって、保健室が無人なのはよくあることで気にも留めないことなのだが、慣れていない先生は焦りを隠せない様子で、うろうろと室内を歩き回っている。
「今、内線で先生を呼びますから……」
「良いよ。保健室のセンセーっていつもここに居るわけじゃないから慣れてるし。俺、本当に平気……ちょっと怠くなっただけだから。ちょっと休んだら帰る」
「送ります」
「そんなことしなくても良いよ。先生、仕事あるでしょ? もう俺のことは良いから」
「良くありません! 暁君が良くなるまで傍に居ます!」
心配性だなぁ、と俺は苦笑しながら先生に言う。
「ね、先生。こっち来てよ」
「え?」
「ベッド、座ってよ。話しがしたい」
先生は黙って俺が寝転ぶベッドまで来て、空いているスペースに腰掛けた。
——こんなに、先生が近いや。
嬉しさで込みあがってくる笑みを隠しながら、俺は小さな声で先生に言う。
「俺ね、生まれた時にめっちゃ小さかったの。今もそんなにデカく無いけど、もっともっと小さかったんだって。それで、どこかに異常があるとかじゃないけどすぐに体調が悪くなっちゃう。お医者さんが言うには、生まれた時の影響がちょっと出てるのかもって」
「……暁君のお母さんから話は聞いています。この学校の大人は全員、君の体調の変化に気を付けるようにしているんですよ」
「そうなんだ……何か、照れるな」
俺は天井を見上げる。
胸の痛みはもう引いていた。
「先生は、お酒強い?」
「え? 僕ですか?」
急に話題を変えた俺に驚いた様子を見せながらも、先生はふっと笑って答えた。
「酔っても顔に出ないと言われますね」
「それって強いの? 弱いの? どっち?」
「さあ……好きなのは日本酒ですけれど」
「日本酒かー。辛いやつ?」
「そうです」
「辛いのが好きなのは酒飲みだって、おばあちゃんが言ってたよ」
俺はくすくすと笑う。先生は恥ずかしそうに頬を掻いた。
知らない先生の一面をどんどん知れて嬉しくなる。俺は手を伸ばして先生の背中を指でつついた。
「でも意外だなー。先生って合コンとか行くんだ?」
「……断れない時もあるんですよ。大人の付き合いというのは」
「どんな……どんな人がタイプなの?」
自分から訊ねておいて、やっぱり知りたくないと俺は耳を塞ぎたくなった。可愛い子、大人しい子、胸が大きい子……どんな人がタイプでも、そこに自分は入らない。自分は女では無いから、先生に意識なんてしてもらえない。
また胸が苦しくなって、俺はふう、と息を吐いた。
先生は「そうですねぇ……」としばらく考えた後で口を開く。
「明るい人が好きです」
「……え? 意外……」
「変ですか?」
「いや、変じゃないけど……先生はおしとやか系がタイプかと思ってた」
自分とは正反対のね。
その言葉は声に出さずに俺は飲み込んだ。
白雪はふふっと笑って言う。
「僕はそんなに喋る人間じゃ無いでしょう?」
「そうかな?」
「そうですよ。こう見えても人見知りなんです」
「そんな性格なのに、なんで教師になったの?」
「大学生の時に塾の先生のアルバイトを経験していたので、教師って良いなと思いまして」
「そうなんだ」
俺は大学時代の先生の姿を想像する。きっと文学の研究ばっかりしていたんだろうなと思った。けれど、何かに熱中する情熱を持つことは良いことなのだろうな、とも思う。自分はいったいどんな大学生になるのだろう……まずは、ちゃんと行きたい大学を考えないとな……と、進路のことが頭をよぎり俺は軽く頭痛を覚えた。
「あと、僕の趣味に共感してくれる人が良いです」
「趣味って、文学の?」
「そうですね。すべてを理解してくれとは言いません。ただ、前に痛い経験をしまして……」
「どんな!? 気になる!」
「……本ばかり読んでいて暗い、という理由でフラれました。読んでいたのはその年に文学賞を取った話題作だったんですがね。彼女にとって読書イコール暗いというイメージがあったんでしょう」
「ええっ!? 趣味が読書って格好良いじゃん!」
俺の言葉に、先生は目を丸くした。
その様子を見て俺は慌てる。軽々しく、格好良いなんて言葉を使ってしまった。変に思われたかもしれないと思い、小さな声で「知的に見えて……」と付け加えると、先生は嬉しそうに笑った。
「いつか暁君と文学について語り合いたいですね」
「な……!? 俺は本とか読まないし……」
「暁君は僕の話を聞いてくれるだけで良いんです。それで時々ツッコミを入れて下さい」
「何それ、漫才?」
「そうですね。僕がボケ担当です」
本当に先生は人見知りなのだろうか。
こんなに会話をしているのに。
まさか、相手が俺だから緊張していないのではないか。そう思うと心が躍る。
悪かった気分もすっかり良くなって、俺は勢い良くベッドから降りた。
「なんかもう治ったから帰る!」
「え?」
「金曜日、ちゃんと行くからね! 先生も遅刻したら駄目だよ!」
「ええ、それはもちろん……」
「それじゃ! ばいばい!」
「あ、暁君! 送りますから!」
「いらなーい!」
廊下は走らないで、と書かれたポスターを横目に、俺はスキップしながら昇降口に向かった。
自分でも単純だと思う。けれど、嬉しいものは嬉しいのだ。
同性で、年上で、担任の教師で……恋人になれる確率はゼロに近いが、今の自分は確実に先生の心に近付けている。
靴を履き替えて学校の外に出た俺の心は、とてもとても軽やかだった。




