初めての部活動
「ああ、もう七時を回りましたね」
「……」
俺の頭は熱で爆発しそうだった。対する先生は、疲れた様子を見せない。
宿題の内容はプリント一枚。夏目漱石の小説に関する問題だった。
先生の担当は現代文。だから、解説はとっても分かりやすかったし、宿題もすぐに終わらせることが出来た。
けど……。
余った時間に、先生が夏目漱石やその時代に活躍した文豪たちについて熱く語り出したから、俺は頭痛を抱える羽目になったのだ。
先生って、もしかして文学オタクなんじゃ……?
そう疑問に思ったけど、そのことを訊いて「そうなんですよ!」なんて返されたら余計に話が長くなる。なので、俺は喉まで出ていた言葉を飲み込んで、ふうとため息をひとつこぼした。
最終下校時刻は七時半だ。
今から活動していたら、その時間を過ぎてしまうんじゃないかって思って、俺は先生に訊いた。先生は涼しい顔をして答える。
「ちゃんと許可を取ってあります。我々、天体観測部の人間は、午後八時半までの活動が許されます」
そんな時間まで拘束されるなんてゴメンだ。俺は先生のシャツを引っ張って抗議する。
「そんなに遅くなったら、親が心配するよ」
「問題ありません。君のお母さんに電話でお伝えしました。毎週金曜日は部活で遅くなると」
「……え?」
徹底した根回し。俺は言葉を失った。
「いつも帰りは遅いのですね。お母さんは心配いらないから、たくさん部活をさせてほしいとおっしゃってましたよ」
「……母さん」
「ああ、でも君は身体のことがありますからね。その時は僕がお家にちゃんと送り届けると約束をしました」
「嫌だよ。先生が家に来るのは家庭訪問だけで十分!」
俺の言葉に、先生はふふっと笑う。
「今日は元気そうで安心しました」
「べ、別に俺は毎日元気だし!」
「はいはい。では、そろそろ屋上に行きましょう」
立ち上がって、ノートとボールペンを手に職員室から出て行く先生の背中を、俺は慌てて追いかけた。
***
「……」
「……」
「星、見えないね」
「……ええ」
俺たちは屋上に上がり、星が輝いていない空を眺めている。
七月の夜は薄っすらと灰色だ。今日は朝から曇っていたし、星の観察には向いていない空模様みたい。
「あーあ。天の川が見れると思ったのに」
「七夕はもう終わりましたよ」
「あれって、七夕の日しか見れないの?」
「いえ、そんなことは……ただ、織姫と彦星が会うことが叶うのが、その日だけというだけで」
「ふーん」
織姫と彦星。
俺の頭の中に『銀河の中で』が浮かんだ。織姫と彦星から着想を得ているなら、きっと切ない話なのだろう。そう勝手に想像した。
一年に一度しか会えない、悲しい恋人たちの物語。
俺は、そんな恋愛は嫌だな、と思う。
好きな人とは、もっと頻繁に会いたい。けれど、あまりべたべたするのは好きじゃないかも……今まで、恋人なんか出来たこと無いけどね。けど、程良い距離で恋愛したいな。
……そういえば、先生って浮いた話を聞かないな。
小さな興味から、俺は先生に訊いた。
「先生って、彼女居るの?」
「なんですか、藪から棒に」
「だって『銀河の中で』みたいな恋愛小説が好きなんでしょ? さぞかしロマンチックな恋をしているのかな、って」
「あのですね……『銀河の中で』はただの恋愛小説ではありませんよ? 星をいくつも受賞していて、かの気難しいと有名な文学評論家も太鼓判を押すほどの高度な技術が盛り込まれた……」
「ああもう! そういうのはいいから! 彼女が居るのかどうかだけ教えて!」
俺が話の腰を折ったのが不満なのか、先生は俺から視線を逸らす。そして、低い声でぼそぼそと話し出した。
「……実は私、バツイチなんです」
「へー、そうなんだ。え? ば、バツイチ!?」
「ええ。子供が三人居て、親権は元妻。私は毎月、多額の養育費を払っていてカツカツの人生です。新しい恋人を作る余裕などありません」
「う、嘘……!?」
「ええ、嘘ですよ」
「……は?」
きっぱりそう言う先生を、俺は信じられないという表情で見つめた。その様子を見て、先生はくすくすと笑う。
「ふふ。暁君は、素直な心の持ち主なんですね」
「す、素直!?」
「でも、心配ですね。社会に出たら、悪い大人に簡単に騙されてしまいそうで」
「酷いや先生! 生徒を騙し笑うなんて!」
「すみません……暁君とこうやって話す機会はあまり無いですからね、楽しくなってしまって」
「もう! 先生のばーか! 白雪姫!」
「すみません」
俺はぷいっと先生から視線を外す。先生は「まあまあ」となだめるような声を出した。
「特別に、自動販売機でジュースをご馳走しましょう」
「いらないよ! 嘘吐き教師……あ!」
俺の視線の先に、薄く浮かぶ月が見えた。ぼんやりと浮かぶそれは、弱々しい光を放っている。
「先生! 月だよ!」
「ええ、見られてラッキーですね」
先生と肩を並べて月を見上げる。
俺は写真を撮ろうよ、って先生に言おうとした。けど——。
「っ……」
先生は、目を細めて月を見ていた。まるで、美しい絵画に見惚れているかのような表情で……弱々しい月を、ただ眺めていた。
それだけ、たったそれだけの横顔なのに、俺の心臓はどきりと高鳴った。
——先生、大人っぽいな。って、大人だけど。
ムキムキの筋肉の大男じゃない。けど、先生には俺には無い「何か」がある。上手く説明が出来ないけど……大人の、何か。
先生を見ていると、頭がふわふわする。
なんで……?
相手は、俺と同じ男なのに。
俺は、ほんの少し戸惑った。
「……さて、日誌をつけましょうか」
「あ……」
「暁君? ぼうっとして、どうかしましたか……もしかして、また体調が……」
「いや、元気! さあて、日誌を書くぞ!」
スマートフォンのライトを頼りに、俺は先生から受け取った日誌のページをめくった。日誌といっても、それは小学生が理科の授業や宿題で使う、観察日記のノートだ。
俺は先生のボールペンを使って、精一杯の画力で、ノートに雲で隠れた月の絵を描いた。そしてそこに、「曇っていて、良く見えなかった」と付け足す。
——いったいどんな顔をして、こんな小学生向けのノートを買ったんだろう。
そう考えると、俺の頬は緩んだ。無表情で買ったのかな。それとも、少し照れながら買ったのかな。後者だと、少し面白い。
にやにやしながらノートを書き上げ、俺は日誌を先生に渡した。
「はい! 活動終了! では、俺は帰らせてもらいます!」
「あ、駄目ですよ。高校生が出歩くには遅すぎる時間です」
先生は腕時計を見つめながら言う。
「僕が車で送ります」
「……え? 車?」
「はい」
先生の表情は真剣だ。俺は素直にその言葉に頷いた。
***
「ちょ、挨拶なんて良いから!」
「そういうわけには行きません」
俺は先生のシャツを引っ張る。けど、先生は俺を無視して、俺の家の呼び鈴を鳴らした。奥の方から「はーい!」と母さんの声がする。咄嗟に俺は、先生の背中に身を隠した。
「はいはい! どちら様……って、先生!」
「こんばんは。突然お邪魔してすみません」
ドアを開けて出て来たのは、赤いエプロンを身に付けた母さんだった。
ぺこりとお辞儀をする先生を見て、母さんは慌てて頭を下げ返す。そして、先生に隠れる俺を見て声を荒げた。
「夏也! 何をこそこそしてるの! まさか、何か問題を……」
「いえ、暁君をお送りしただけですよ」
先生は微笑む。
「天体観測部の活動をしていたら、すっかり遅くなりましたので……」
「まぁ先生! うちの馬鹿はもっと遅い時間に帰ってくる時もあるからお気になさらないで下さいね! わざわざありがとうございます!」
「もっと遅い時間……それは心配ですね。暁君は、私の可愛い生徒ですから」
可愛い。
その言葉を訊いて、俺の心臓は跳ねた。
——いや、生徒って意味で可愛いってことだから!
屋上から、心臓の様子がおかしい。
明日は熱が出てしまうかもしれないや……。
体調が悪いから出る熱じゃない。これは、たぶん……。
「では、私はこれで失礼します」
「先生! お気を付けて! 夏也! あんたもお礼を言いなさい!」
「……先生、ばいばい」
「ええ、さようなら」
そう言って先生は、黒い軽自動車に乗り込んで、暗い住宅街をすいすいと進んで行った。車が見えなくなったのを見計らって、母さんが俺の肩を叩く。
「油断していたわ! お母さん、すっぴんなのよ!? ああ、あんなイケメンに素顔を晒すなんて、もうお嫁に行けない……」
「父さん居るじゃん」
呆れる俺に、母さんは「だってぇ……」ともじもじし出す。ちょっと怖い。
母さんを無視して、俺は靴を脱いで自室に入った。そして、学校指定の制服から部屋着に着替える。
なんだか、濃い一日だったと思う。
初めての部活動に、先生に対する初めての感情。
きっと、俺は疲れているんだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はまだ、どきどき鳴る心臓のままでベッドに仰向けで寝転んだ。