7話
今回は長めになってしまいました……!
「ロゼ様、夕食をお持ち致しました。あのようなことのあとで喉を通るかはわかりませんが、少しでも召し上がっていただいたほうがよろしいかと」
感情の籠っていないような淡々とした声と共に現れた灰色の髪の使用人。
彼女はロゼの前までやってくると夕食の盆を差し出してきた。
「ええと、失礼ですが、貴女は?」
「申し遅れました。私はエッダ。ルードヴィヒ様の命でロゼ様の元へ遣わされた使用人でございます」
「ああ、貴女がエッダでしたか。ルードヴィヒからお話は聞いています」
聞き慣れない足音、聞き慣れない声の持ち主が何者かわかり、ロゼも一安心した様子だ。
しかしどういうわけかテオは胸騒ぎがしてどうも落ち着かない。
「それで、今日はどうして貴女が? ナタリアはどうしたのですか?」
ルードヴィヒという人物が何者なのかはさておき、テオも気になっていた疑問をロゼが問う。
何か月もこの離れに通ってきているテオだが、今までナタリア以外の使用人がやってきたことなど一度もない。
ルードヴィヒとやらの命令だと言っていたが、どういうことなのだろうか。
「先程申し上げました通り、ルードヴィヒ様のご指示です。ナタリアは別の業務を任されることになりました。本日からは私がこうしてお伺いすることとなりましたので、どうかご理解を」
「そうですか……わかりました。これからよろしくお願いしますね、エッダ」
エッダは小さく「はい」と呟くと、ロゼの夕食を置いて去って行った。
ロゼはナタリアに会う機会が減ることを予感したのか浮かない顔をしているようにも見える。
そのこともそうだがテオには他にも気がかりなことがいくつかあった。
あのエッダという使用人、俺を見てもまったく驚かなかったな。
まあ、もともと冷めた性格なんだろうが、ナタリアから仕事を引き継いだなら俺のことを聞いていてもおかしくはないか。
それにしても、アイツからした匂い……あれは何の匂いだ?
「あ、そういえば、エッダと会うのは初めてでしたよね、テオ? 私も話に聞いていただけで会うのは初めてだったのですが」
考えごとをしているテオの横でロゼが話しかけてくる。
それに気づいたテオは顔を彼女の方へ向けて耳を傾けた。
「彼女は半年ほど前から御父様の身の周りのお世話をしていた優秀な使用人なのですよ。ナタリアが私のお世話をしてくれていたように、彼女はいつも御父様のお側でお仕事をしていたと聞いています」
なるほど、優秀ねえ。
言い方は悪いが、親父が死んだから今度は娘の世話をすることになったと、そういうことなのだろうか。
ロゼは先程、家の血筋はもはや自分一人になってしまったと言っていた。
ならばこの家の当主の世話をしていた使用人がロゼの元で働くことになっても不思議ではない。
「さて、お夕飯にしましょう。エッダの言う通り、少しでも食べておいたほうがいいでしょうから」
手探りでスプーンを握ったロゼはすっかり慣れた手つきで皿の上の料理を掬おうとする。
ところがその瞬間、テオは何か尋常ではない違和感を感じ取った。
鼻の奥がスッと冷たくなるような異臭が、ロゼの目の前の料理から僅かに感じ取れたのだ。
嫌な予感がしたテオは咄嗟に鼻先で盆をひっくり返した。
銀食器が擦れる金属音が相変わらず不快だが、それを気にしている場合ではない。
「テオ!? 何をするのですか!?」
今の匂いは何だ……?
さっきの使用人からも同じ匂いがしていたな。
あれはどこかで嗅いだことがある気がする。
思い出せ、あれは何の匂いだ……!
必死に記憶を辿るが答えが見い出せず、もどかしさだけが募っていく。
懐に座るロゼの困惑にも気づかないほどにテオは深く深く考え込んでしまっていた。
*****
その晩、テオは森をひたすらに駆けていた。
エッダが持ってきた夕食からした匂い、そしてエッダ自身からも感じられたその匂いの正体を求めて。
思い出せ、あれは確か森の中で嗅いだことがある。
何の匂いだ、思い出せ……!
嗅覚に全神経を集中し、森中の空気を吟味する。
あれも違う。これでもない。
一晩中駆けまわり続け、テオがようやくその匂いの正体を見つけ出したとき、東の空には既に朝日が昇り始めていた。
*****
早朝、テオが中庭へやってくるとロゼはもうそこにいた。
昨日の件を彼女がどう思っているのかはわからないが、テオの足音を聞いて嬉しそうな顔を浮かべているあたり怒ってはいないようだ。
「おはようございます、テオ。……あら、今日は久し振りにお土産を持ってきてくれたのですね。それは何の匂いですか?」
ロゼの隣に腰を下ろしたテオは、森から咥えてきた木の実の枝を彼女の前で見せびらかす。
目が見えないロゼでもこうすれば匂いは感じ取れたようだ。
「……どうしたのですか、テオ? くれるわけではないのですか?」
一向に木の実を渡そうとしないテオの様子にロゼが首を傾げる。
するとちょうどそこへロゼの朝食を持ってきたエッダが現れた。
「おはようございます、ロゼ様。朝食をお持ち致しました。……おや、いけませんよ狼殿。この木の実は猛毒があることで有名です」
朝食の盆をロゼの前に置きながらエッダはテオを見てそう述べた。
彼女の話を聞いたロゼは不安そうな表情でエッダの方を向いている。
「そうなのですか? ごめんなさいね、エッダ。心配をかけてしまって」
「お気になさらず。ロゼ様が口にする前に気づくことができて幸いでした」
木の実を食べたりすることがないようロゼに忠告すると、エッダは再び仕事へと戻って行った。
森から持ってきた木の実の匂い。
そしてエッダのエプロンから微かに漂う匂い。
それらを比べてテオは一つの確信を得ていた。
やはりこの使用人、あの木の実と同じ匂いがぷんぷんする。
人間の鼻じゃわからなくても俺にはわかるぞ。
しかもそれだけじゃない。同じ匂いがロゼの食事からするということは……。
鼻を近づけて盆を嗅ぎ、同じ匂いがすることを確かめたテオは再び鼻先で朝食をひっくり返した。
音でそれに気づいたロゼもテオの奇行に動揺を隠せない様子だ。
「一体どうしたというのですか、テオ? 昨日から少し変ですよ?」
エッダをロゼに近づけてはならない。
アイツは何を企んでいる?
こんなときにナタリアは何をしているんだ……!
どれだけ念じてもテオの意図はロゼに伝わらない。
そんなやり切れない思いだけがテオの胸にじわじわと溜まっていくのだった。
*****
一時間ほどすると、食器を下げるために再びエッダが中庭に現れた。
ロゼの元へと歩み寄ってくるエッダに対し、テオは鼻にしわを寄せて唸り声をあげた。
「ちょっとテオ、やめてください! 本当にどうしてしまったのですか?」
ロゼに諫められてもなお明らかな敵意を向け続ける狼の姿にエッダがたじろぐ。
こっちへ来るな。
お前をロゼに近づけるわけにはいかない。
さっさとナタリアを連れて来い。
この使用人は明らかに何かを企んでいる。
ロゼの身は自分が守ると誓ったテオは、何が何でもエッダの企みを阻止しなければならないと強く感じていた。
「……すみません、エッダ。ナタリアを呼んできてはもらえませんか?」
普段と様子が違うテオのことを思ってか、ロゼは自分からエッダに提案していた。
「しかし、ナタリアには別のお勤めが──」
「そこをなんとかお願いします。どうやらテオは貴女が来ることにまだ慣れていないようなのです。顔見知りのナタリアなら、きっとテオも落ち着いてくれますから」
ロゼは威嚇し続けるテオを宥めるように身体をさすっている。
しばらく躊躇う素振りを見せたエッダだったが、真剣な声色のロゼの意思を汲んだのか大きな溜め息をついた。
「承知いたしました。では」
小さくそう呟くと、エッダはくるりと振り返って去って行った。
ロゼは心配そうな表情でテオの身体を撫で続けている。
彼女に要らぬ不安感を与えたくはないのだが、異物が入っているとわかっているものを食べさせるわけにもいかない。
胸中はロゼを守りたい意思と、ロゼに心配をかけている罪悪感の板挟みだが、今のテオはそれに耐えることしかできないのだ。
*****
「これから市場へ買い出しへ行くところだったのですが……。一体何があったのですか、ロゼ?」
数十分ほど経ったころ、散らばった食器類を片付けるためにナタリアが中庭へと姿を現した。
エッダがちゃんとナタリアを呼んできてくれたことに、テオはほっと胸を撫で下ろした。
「さあ……。事情はよくわからないのだけど、エッダが持ってきてくれた食事をテオが毎回ひっくり返してしまうの」
「ダメじゃない、テオ。ロゼが飢えてしまうわ」
ナタリアが語りかけるが、テオはそっぽを向いたままだった。
そんな説教を聞きたいんじゃない。
もっと重要なことに気づいてもらいたくて呼んだんだ。
「ねえナタリア、どうして急にエッダが私のお世話をすることになったの?」
最もな疑問をロゼが尋ねたものの、ナタリアもそのことについては首を傾げていた。
「それは私にもわかりません。ルードヴィヒ殿から、そうするようにとエッダに手紙が届いたそうなのですが、理由までは……」
「ルードヴィヒの指示なの?」
「はい、そのようです。ロゼの許嫁であるルードヴィヒ殿のご指示なら、私も従わなければいけませんし……」
そっぽを向いていながらも、テオは二人の会話にきちんと耳を傾けていた。
どうやらルードヴィヒという人物がロゼの許嫁で間違いないようだな。
ソイツの指示ということは、そのルードヴィヒとやらが事の元凶なのか?
それともエッダが独断でやっているのだろうか。
現段階ではまだわからないことのほうが多い。
ロゼに対して何かを企む者がいるのはわかっているものの、黒幕がはっきりしないのはどうにももどかしかった。
「……ん? これは?」
ナタリアはテオの前足付近に転がる木の実の存在に気づいた。
「"これ"って、もしかして木の実のこと? それは今朝テオが持ってきたの。エッダは毒があると言っていたけど……。食べられないなら一緒に片付けてもらえる?」
「かしこまりました」
ナタリアが木の実を摘み上げ、纏めた食器に乗せる様子をテオは黙して見つめていた。
食器を下げる前に、次にもふれるのはいつになるかわからないからとナタリアはテオの身体に抱き着いてきた。
便乗したロゼも一緒になって頬を擦りよせてくる。
こんなときにまったく呑気なものだと呆れそうになる反面、いつも通りの二人の様子に安心もするテオ。
気が済むまで毛並みを堪能したナタリアは、ロゼに小さく頭を下げると木の実を乗せた食器類を持って中庭を去って行った。
頼むナタリア、気づいてくれ。
ルードヴィヒが関わっているかどうかはともかく、あのエッダという女は──ロゼの命を狙っている。
その後ナタリアが中庭へ戻ってくることはなく、昼食も夕食もエッダがロゼの元へと運んできた。
エッダが現れるたびにテオは大きな唸り声をあげ、運ばれてきた食事を断固拒否し続けた。
さらにこの日、テオは森に帰らずにロゼを一晩中中庭に引き止め続けた。
自分がいない間、部屋へと戻ったロゼにエッダが行動を起こす可能性を考えるとロゼの側を離れるわけにはいかなかったからだ。
*****
中庭で夜を明かすと、この日の朝食もやはりエッダが運んできた。
本当にしつこい女だと苛立ちが募るテオは、何度でも彼女を追い返そうと威嚇し続ける。
「……テオ、大丈夫」
昨日まで慌ててテオを宥めようとしていたロゼの口調が、このときは何故かとても落ち着いていた。
雰囲気が変わったロゼの方へと、テオは視線だけを向けてエッダを警戒し続ける。
「無理にエッダを信じて欲しいとは言いませんから、"私を"信じてください」
優しく頷くロゼの姿を見て、テオは渋々引き下がることにした。
きっと彼女にも何か考えがあるのだと、ロゼの言葉からそう感じられたのだ。
テオに警戒されているとわかっているエッダは、ロゼを気遣ってか朝食を置いて速やかに立ち去って行った。
盆に乗せられた料理からはやはり例の匂いが微かに漂っている。
あの女、また懲りもせず……!
ロゼが食べようとしたならまたひっくり返してやろうと考えていたテオだったが、彼女はなぜか一向にスプーンを握ろうとはしなかった。
「……あなたが何を考えているのか、私にはわかりません」
膝に両手をのせて座ったまま、ロゼが囁くように口を開く。
テオはそんな彼女に顔を寄せ、その言葉に耳を傾けた。
「でも、あなたのしていることはきっと私のためを思ってのことなのでしょう? そう思うから私はあなたを信じます。だからあなたも私を信じてください」
そう言ってテオに優しく微笑みかけたロゼは手探りで盆の上のスプーンを握った。
一瞬慌てたテオだったが、ロゼの手に優しく鼻筋を撫でられて制止されてしまった。
テオの見つめる先、ロゼはスプーンで料理を皿の端に寄せると僅かな隙間を作った。
それが終わると、ロゼは再びテオを落ち着かせるように鼻筋を擦った。
*****
「おや、今日はお盆を返されていませんね。よかったです」
やがて食器を下げに来たエッダは安堵の息を漏らしていた。
「ええ、テオも少しずつ貴女に慣れてきてくれたようです」
本当はエッダに対する警戒心をまったく緩めていないテオだが、どうやらそんな彼を察してロゼは一芝居打ってくれるようだ。
ロゼを守るつもりが守られているような気がしてどこか落ち着かないが、彼女のそんな優しさは苛立つ心にじんわりと染み渡るような気がした。
「ですが、ごめんなさい。私、今はあまり食欲がなくて。三口ほど食べたのですけれど、もうお腹がいっぱいになってしまいました」
「どうかお気になさらないでください。少しでも召し上がっていただけたのなら十分です」
料理をスプーンで除けた空間を見つめながら、エッダが食器を片付け始めた。
本当は食べていないことにエッダは気づいていないようでテオは少し安心したのだった。
「早く調子が戻るよう、あとでお祈りをさせていただきますね」
「ありがとうございます、エッダ」
エッダが食事を下げて去って行ったあと、ロゼはもぞもぞとテオの顔あたりまでやってきた。
「これなら問題ありませんよね、テオ?」
ああ、すまないなロゼ。
本当は腹を空かせているだろうに。
ロゼの耳打ちを聞いてテオは安心したものの、同時に罪悪感も湧いてくる。
だが毒物が入ったものを食べさせるわけにもいかないため、どうにか手を打たねばならない。
そうだ、エッダがナタリアと同じ周期で食事を運んでくるのなら、昼食まではロゼの側を離れても平気なんじゃないか?
今のうちに森をひとっ走りして、何か食べるものをロゼに持ってきてやろう。
ロゼも俺の意図を察してくれているようだし、エッダが何か持ってきても不用意にそれを口にしたりはしないだろう。
そう考えたテオは、ロゼに言われた通り彼女を信じて中庭を離れ、森へ出ることを決めた。
ロゼも彼のことを信じているのか、彼女を一人残して去って行くテオを引き止めはしなかった。
*****
数時間後、昼食に間に合うように中庭に戻ったテオの口には果物の枝が咥えられていた。
小さくて量も少ないが、何も食べないよりはいいはずだ。
念のため渡り廊下の臭いを確かめながら戻ってきたが、幸いテオがいない間にエッダが来たような痕跡はなかった。
「わあ、野苺ですか?」
テオが戻るとロゼは彼にパッと輝くような笑顔を向けた。
この表情を見ると、自分のしていることは間違っていないと言われている気がして落ち着くから何とも好ましいものだった。
「懐かしいですね、前もこうしてテオが持ってきてくれたことがあったでしょう?」
そういえばそんなこともあったな。
本当に懐かしい。
ロゼが野苺を頬張る様子をじっと眺めるテオ。
こうして見ていると本当にただの無邪気な少女のようだ。
「ふふふ、今度のはちゃんと甘かったですよ、テオ」
それはよかった。
だが、抱き着くのはちゃんと口元を拭いてからにしてくれよ。
だらしなく口周りを赤く汚したロゼの顔を舐めてやる。
彼女の言う通り、今回の苺はみずみずしくてほのかに甘かった。
「…………テオ」
柔らかな毛並みを背もたれに座り込んだロゼが、ふと名前を呼んだ。
唐突だが何か大事な話をするつもりなのだろうと察したテオは、耳だけでなく顔までしっかりと彼女に向けて言葉の続きを待つ。
「私、決めました。ルードヴィヒが帰ってきたら、彼に私の思いをちゃんと告げようと思います」
その一言は、忘れかけていた切なさを再びテオの胸に呼び覚ますようだった。
そう、ロゼは許嫁であるルードヴィヒと結婚することが決まっているのだ。
しかしそれを黙って受け入れることは、テオにはもうできない。
まだそうだと決まったわけではないが、ルードヴィヒがロゼの命を狙っている可能性が少なからず残されているのだ。
だから待ってくれロゼ。
せめてルードヴィヒという男がお前の味方だとはっきりわかるまで……!
しかしその心の叫びがロゼに聞こえるはずはない。
自分の無力さを見せつけられているような気がして、テオの胸にはやるせなさが募っていく一方だった。
「心配しないでください。私も覚悟を決める時が来たのですよ」
小さな手が優しくテオの顔を撫でる。
その柔らかさが、温かさが、愛しさが、もうすぐ自分以外の者に向けられるのかと思うと胸がギュッと締め付けられるような思いがした。
「だって、私は唯一残された──」
何かを言いかけたロゼだったが、中庭の入口から吹いてきた風に言葉を遮られてしまった。
それと同時に人の気配を感じたテオは反射的に風上の方へ視線を向ける。
そこには純白のマントと装束に金色のボタンをいくつもつけた濃青色の髪の男が一人立っていた。
「ロゼはいるか! 僕の妃となる愛しいロゼ!」
中庭全体によく通る景気のよい声を聞いてテオは確信した。
この男こそが自分の愛する者の許嫁──ルードヴィヒに間違いない、と。




