6話
それから数日の間、テオは森の奥でひっそりと過ごした。
何もする気が起きず、何も食べる気も起きず、ただただ森の木々の隙間から見える太陽が空を横切っていくのを眺めていた。
あれだけ近い関係になれたロゼですら自分を愛することはない。
その事実は狼の胸の奥の奥にある心まで深く抉り取るようだった。
俺は、一生醜い狼の姿のままなのだろうか。
もういっそそう割り切ってしまったほうが楽なのかもしれない。
しかしどうにも踏ん切りもつかない。
人間に戻れなかったことに対する未練もあるが、それ以上に別れ際のロゼの悲しげな表情が瞼の裏について離れないのだ。
思えば最後に会いに行ったときはずっと悲しそうな顔をしていた。
せめて最後くらいは彼女の笑った顔を拝んでおきたかったものだが――
……なんでロゼはあんなに憂鬱そうだったんだ……?
それは、ふとテオの胸に湧き上がった違和感だった。
許嫁から手紙が来たからだと言っていたが、それは妙じゃないか?
普通は愛しい者から帰ると連絡があれば喜ぶものではないのか?
ロゼはこんな醜い俺に会うことですら、満面の笑みであんなに喜んでくれるというのに……
確かにロゼは裕福な家のお嬢様なのだろうが、それとは違う意味で普通ではない気がした。
彼女の家にはまだ何かある。
そう予感したテオはもう一度ロゼの元へと向かう決意をした。
*****
数日ぶりに離れに足を踏み入れ、中庭の前までやってきたテオ。
恐る恐る覗き込むと、花畑の真ん中には小さく丸まった背中で座り込む桜髪の少女の姿があった。
普段ならまだ部屋で勉強しているはずの時間だが、そんなものは手につかないといった様子で俯く少女に罪悪感すら覚えた。
「…………テオ……?」
中庭に踏み込んだ一歩目でロゼは気づいた。
すると彼女は慌てて立ち上がり、おぼつかない足取りでテオめがけて一目散に駆け寄ってきた。
テオも彼女が転ぶ前に急いで駆け寄ると、ロゼは小さな身体で彼の顔に飛びついてきた。
「よかった……もう来てくれないかと……」
微かに震える肩、しゃっくり混じりの涙声。
それが自分のしたことの愚かさをテオに痛感させるようだった。
すまなかった、ロゼ……。
俺も冷静じゃなかった。
お前は許嫁のことで俺に聞いて欲しい話があったのだろう。
それなのに最後まで聞かずに去って行ってしまった俺を許してくれ。
「……私に許嫁がいるという話をしたのは覚えていますよね?」
花畑の真ん中へ移動し、テオの懐にロゼが収まると、彼女はゆっくりと語り始めた。
「目が見えなくて何の力もない私は、血筋以外に誇れるものなんてありません。私は家の血筋を絶えさせないための道具に過ぎないのだと、ずっとそう思っていました」
テオの身体を撫でながら話すロゼの声はやはりどこか悲しそうに聞こえる。
厄介者扱いを受けて隔離されるほどだ。
そう思い込んでも仕方ないことなのかもな。
ロゼの言葉を受け止めるように、一言一句聞き逃さぬように、テオは彼女の閉じた瞳を見つめ続ける。
「だから家に決められた結婚も、離れに追いやられた生活も黙って受け入れようと、そう思っていました。……でも、やっぱり一人は寂しいです。毎日お世話にやってくるナタリアだって、ずっと一緒にいられるわけではありませんから」
ナタリアはロゼの身の周りの面倒を見ているが、その他にも屋敷の本殿での仕事もある。
目が見えなくなってからというもの、ナタリアのいない時間をずっと一人中庭に座って過ごすだけの生活がどれだけ苦痛だったのかは想像もつかない。
それでもロゼは、そんな生活を続けてきたのだ。
血筋にしか価値のない自分は欲を言ってはいけないと。
道具に過ぎない自分はただ家の言いなりになって大人しくしているべきなのだと、そう思い込んで。
「でも、そんなとき私の前に現れたのがあなただったんです、テオ。初めて会った時のこと、覚えていますか? あなたは私に大きな唸り声をあげて、殺意をギラギラさせていたのを」
ああ、よく覚えている。
あの時の俺はなんて愚かだったんだろうと、今ではそう思うよ。
撫でるのをやめたロゼはテオの身体を背もたれに空を仰いでいる。
その青色がロゼの目に映ることはないというのに、彼女はそれでも天を覆う何かを見つめようとしているように見えた。
「実はあのとき、あなたに殺されるのならそれでもいいと思っていました。玩具箱の中の人形のようなこの命の終わりが来たのなら、やはり私は黙ってそれを受け入れようと」
そうだったのか。
だからお前は俺を恐れようとしなかったのだな。
ここで死ぬ運命だというのなら仕方ないと、そう思っていたんだな。
隔離にも、結婚にも、そして自分の死にすらも抗うことなく、すべてあっさりと受け入れてしまうロゼ。
こんな小さな身体にそれほどの苦悩が背負わされているのかと思うと、テオは懐に抱いた少女が殊更重たく感じられた。
「でもあなたはそうしませんでした。それどころか毎日会いに来てくれるようになりました。あなたのおかげで、花畑に一日中座っているだけの生活が一変したんです。血筋にしか価値のない私のために毎日通ってきてくれるあなたの優しさが、嬉しかったんです」
まとまらない思いを次々に吐き出すロゼ。
改めて彼女の思いを聞くと照れくささや羞恥心が込み上げてくる。
お前はずっとそんな風に思っていたのか。
あの時の俺は、呪いを解くためにお前の好意を利用しようとしていただけだったのに……。
「……だから変わろうと決めました。そうしないとあなたに失礼だと思ったから。もう家の言いなりにならなくていいように、私という生き方を求めて足掻こうと、そう決めたんです」
だから熱心に勉強を始めたのか。
血筋に翻弄されるだけの自分を捨て、本当の自分としての新しい在り方を探すきっかけとして。
ロゼの気高い覚悟に心を打たれたテオ。
その覚悟を決められたのはテオがいたからだと話すロゼの言葉がとても誇らしい。
だがな、ロゼ。
変わったのはお前だけじゃない。
俺もお前のおかげで変われたんだ。
生きるためと言い訳をして数々の悪事を働いてきたテオは、彼女から人と寄り添う生き方を学んだ。
今まで知らなかった、誰かを愛おしく思う感情を知った。
彼女自身に自覚はなくとも、テオはロゼのおかげで薄汚れた悪党以外の在り方を見つけ出したのだ。
だから"俺"は、お前の力になりたい。
家に勝手に決められた結婚とはいえ、許嫁がいるロゼがテオを愛することはない。
それはつまり彼女といても人間には戻れないということだ。
しかしたとえ一生醜い狼の姿のままだとしても、ロゼの側で生き、彼女を守り続けていこうと、テオはかつてないほどの強い意志を銀の瞳に宿したのだった。
*****
翌日、花畑の真ん中でいつものように寄り添う二人は暖かい午後の日差しにうとうとと頭を揺らしていた。
この時間が永遠に続くように思えたその瞬間、息を荒げたナタリアが中庭へと駆け込んでくる足音がした。
「ロゼ!! すぐ来てください、御父様が!!」
ナタリアの慌てようが尋常ではない。
彼女は状況が飲み込めていないロゼをテオの懐から立ち上がらせ、肩を支えながら足早に中庭を去って行った。
一体何があったというんだ……?
何か嫌な予感しかしない。
しかしテオにはロゼやナタリアが戻ってくるまでここで待っていることしかできなかった。
すっかり眠気も覚めてしまったテオは花畑で数時間待つこととなってしまった。
やがて陽が落ちて暗くなったころ、よろよろと力なく歩くロゼと、それを支えるナタリアが中庭へと戻ってきた。
「…………テオ……御父様が……」
テオの前までやってきたロゼはぺたんと脱力して座り込んでしまった。
ナタリアは重苦しい表情で俯いたまま何も言わない。
テオがロゼの近くまで顔を寄せると彼女の小さな手が鼻筋に触れ、それに感化されたように彼女の閉じた瞼の隙間から涙が溢れ出てきた。
「私……間に合いませんでした……」
そう呟いたロゼはテオの顔にしがみつくと大声を上げて泣き出した。
ナタリアも歯を食いしばったままで、エプロンを握る拳を震わせているのが見える。
彼女の父親の身に起きた悲劇を察したテオは、ロゼが泣き止むまでただじっと寄り添うことしかできなかった。
「……私の御父様は、数か月前から体調を崩されていて、特にここ数日は寝たきりだったそうです。そして、先程とうとう……」
やがて泣き止んだロゼはいつものようにテオの懐に身を委ねると、父親の事情について語り始めた。
ナタリアはロゼが落ち着いたのを見ると、葬儀の準備をすると言って屋敷へ戻って行ったため中庭には二人きりだ。
「私、目が見えなくて早く歩くことができないから、御父様を看取って差し上げることができませんでした……」
泣き止んだもののまだ鼻をすすっているロゼ。
何とか励ましてやりたいが、こういうときにどうすればいいかもわからない。
悔しいが、今の俺にできるのはロゼの話を聞いてやることだけ、か……。
テオは涙混じりに話すロゼの言葉に耳を傾け続ける。
聞き逃さないよういつものように。いつも以上に。
「私の御母様は、私が物心つく前に流行病で亡くなりました。御父様も亡くなってしまった今、一人娘である私は一族の唯一の血筋。……目の見えない欠陥品である私がお家の命運を握っているなんて、私は一族の恥ですね……」
……ロゼ、お前はそれを本気で言っているのか?
彼女の言葉を聞いて、テオの胸に何か熱く煮えたぎる感情が湧き上がるのがわかった。
それは久しく彼女に聞かせていなかった、低く大きな唸り声となって表れた。
「……テオ? 怒っているのですか?」
当たり前だ、お前が欠陥品だなんて誰が決めた?
お前はそういう考え方しかできない自分を変えたいと思っていたんじゃなかったのか。
なのにそうやって前の自分に戻るつもりか?
そんなことは、俺が絶対に許さない。
目尻を腫らしたロゼが首を傾げる。
しかしテオの喉から溢れ出てくるような唸り声は留まることをしない。
親父が死んでビビったのか何なのか知らないがな、お前にはまだ俺がいるだろう。
俺だけじゃない、ナタリアだっている。
お前を支えたいと思うヤツがまだ側にいるっていうのに、それを忘れたとは言わせないからな……!
通じるはずのない思いを込めてテオは睨み続ける。
見えていないはずの彼女の視線と目が合うと沈黙が流れ、僅かにロゼが微笑んだ気がした。
「……そうですね、私が間違っていました。ありがとうございます、テオ。なんだか、何も言わなくてもあなたの気持ちはわかってしまう気がしますね」
そう言ってロゼはテオの身体に抱き着くように顔を埋めた。
テオはそんな彼女の様子を黙って見つめ続ける。
「……私、頑張ります。だからテオ、どうかこんな私を支えてください」
毛皮に顔を埋めたままでロゼは呟く。
その言葉を確かに聞き届けたテオはもちろんだと改めて決意を胸に抱いた。
そのとき、廊下を歩いて中庭の方へと向かってくる足音をテオの耳が捉えた。
ナタリアじゃないな。誰だ……?
その者の姿が見えると、それはやはりナタリアではなかった。
聞き慣れない足音と共に中庭に現れたのは、ロゼの食事を乗せた盆を持ってやってきた灰色の髪の使用人だった。




