2話
あらゆる部屋を調べ尽くし、ようやく最初の住人を見つけた狼。
まったく、手間をかけさせられたものだ。
花畑に覆われた中庭の真ん中に座り込んだ桜髪の少女はその場からまったく動こうとはしない。
少女は手探りで周囲の花を愛でている様子で、時折覗かせる横顔はずっと目を閉じたままどこか遠くを見ているようにも感じられた。
もしかしてこの小娘、目が見えないのか?
これは願ったり叶ったりだな。
自分の醜い姿が見えなければ手酷く拒絶されることはないかもしれない。
そんな考えを抱きながら狼はゆっくりと少女に忍び寄り始めた。
狼が花畑に一歩目を踏み入れた瞬間、ぴたりと動きを止めた少女は瞼を閉じたままの視線を狼に向けた。
なんだ、俺に気づいたのか?
そこまで大きな足音は立ててはいないはずだが……
狼と少女の間に妙な緊張感が走る。
黙ってこちらを向いた少女の姿に、狼も思わず動きを止めて様子を伺っていた。
「…………ナタリア?」
あ? ナタリア?
誰だ、そいつは。
「どうかしたの、ナタリア? お夕飯まではまだ時間があるでしょう?」
やはりこの少女は目が見えていないのだと狼は確信した。
どうやら彼のことを知り合いの誰かと勘違いしているようだ。
狼は中庭の花を踏みながらさらに少女へと近づいていく。
歩を進めるうちに少女の表情が段々硬くなっていくのがわかった。
「違う、ナタリアじゃない……どなたですか?」
足音でようやく人違いに気づいた様子の少女は両手を胸の前で握り締めたまま座り込んでいる。
やがて狼はそんな少女のすぐ目の前まで距離を詰めた。
おい小娘、目が見えていないお前なら俺の醜い姿も気にならんだろう。
俺を愛せ。
村人たちにしてきたように、狼は少女に低い唸り声を上げて愛を強要した。
しかし少女はきょとんとしたまま座り込んで動きを見せる様子はない。
「……おお、かみ……?」
そうだ、狼だ。
殺されたくなかったら俺を愛せ。
そうすれば俺は人間に戻れるんだ。
しかしいくら脅しても少女は大きな反応を見せず、閉じたままの視線を狼に向け続けた。
ちっ、お前もダメか。
今の俺は虫の居所が悪いんだ。
お前に恨みはないが、俺を愛する気がないならせめて憂さ晴らしに死んでもらおうか。
狼はさらに大きな唸り声で威嚇すると、少女を鼻先で乱暴に突き飛ばした。
「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げた少女は背中から花畑に倒れ込む。
狼は仰向けになった少女の顔を上から覗き込むようにしながらさらに威嚇を続けた。
どうだ、怖いか?
お前は今から俺に噛み殺されるんだ。
せいぜい自分の運の悪さを呪うことだな。
ところがこのとき狼は目の前の少女から何か違和感を感じた。
村人たちと違い、少女からは彼を恐れる様子がまったく感じられなかったのだ。
彼女はいくら脅されようとも突き飛ばされようとも、ただ黙して狼のされるがままきょとんとしていた。
なんだこいつ、俺が怖くないのか?
もっと泣けよ、喚けよ、震えろよ、助けを請えよ!!
そんな狼の苛立ちを他所に、盲目の少女はただじっとして彼の次の行動を待っているようだった。
……ちっ、なんだか興が覚めたな。
少女を殺すことを急に面白くないと感じた狼は、踵を返して中庭を立ち去った。
結局この後、狼は他に誰とも会う気分にはなれず、森の中で一人ひっそりと夜を明かしたのだった。
*****
翌日、狼は次の村を目指して歩き出そうとした。
しかしあの盲目の少女のことがどうしても気になってしまい、進む決心がつかずにいた。
あの小娘、なぜ俺を恐れなかった?
今まで俺を拒絶してきた村人たちと何が違うんだ?
……まあ、今となってはどうでもいいことだが。
しかし、どうでもいいと思っていながらも狼は再び少女のいた離れへとやってきた。
いや、勝手に足が向かってしまったと言うほうが正しいのかもしれない。
どうして来てしまったのだろうか。
もうあの小娘に用はないというのに。
本当はあの小娘のことが気になっているのか?
まさかそんなはずはないだろう、馬鹿馬鹿しい。
ぶつぶつと一人で考え事をしながら、狼は中庭を目指して離れの廊下を歩く。
やがて中庭に辿り着くと、花畑の真ん中にはやはり薄い桜色の髪をなびかせる少女が座っていた。
中庭に足を踏み入れると、少女はそれに気づいたのか狼の方を振り返った。
目を閉じたままこちらに顔を向ける少女には、やはり逃げる様子も怖がる様子も見られない。
「……また来たのですね」
明らかに彼に向かって発せられた少女の言葉を無視し、狼は彼女の隣でその巨体を休めた。
「……今日は何をしに来たのですか?」
なんだこいつは。
狼が人間の言葉を話せるわけがないだろう。
なぜ話しかけてくるんだ。
「昨日も不思議に思っていました。あなたは私の前に突然現れて、脅すだけ脅して何もせず去っていきました。私を食べようとしていたのではなかったのですか?」
別に、昨日も今日もほんの気まぐれだ。
お前が俺を恐れないのがどうにも引っかかってるだけさ。
……といってもお前には通じないのだろうが。
少女は隣にいる狼の気配を辿り、手探りで彼の方へ近づいてきた。
彼を恐れる様子を微塵も見せない少女は勇敢なのか、あるいは危機察知能力が低いだけなのか、狼には想像もつかない。
やがて周囲の状況把握のため伸ばされた少女の小さな手が、狼の肩のあたりに接触した。
おい、なに勝手に触ってるんだ。
苛立ちから唸り声を発する狼。
それを聞いた少女は即座に手を引き戻した。
「あっ、ごめんなさい……嫌がらせるつもりはなかったのですが……」
少女はもぞもぞと狼から離れたかと思うと、首を垂れてあからさまにしゅんとしてしまった。
なんだよ、そこまで落ち込むほどのことじゃないだろう。
まったく調子が狂って仕方ないな。
丸まった少女の後ろ姿を見ていられなくなった狼は、彼女の小さな背中を鼻先で小突いてみせた。
「ひゃっ!? びっくりしましたよ……」
狼は小さな悲鳴を上げる少女に近づき、寄り添うように再び巨体を横たえる。
ほらよ。
そんなに触りたければ好きにしろ。
「……え? いいの、ですか……?」
どうせ会話にならないんだからいちいち尋ねるな。
俺の気が変わらないうちにさっさとしろ。
彼の考えていることが通じたのか通じていないのか、少女はゆっくりと手を伸ばして狼の身体に触れた。
少女の手に伝わる柔らかな手触りと体温。
彼女は呼吸に合わせて膨らんだりしぼんだりする狼の身体をそっと撫で続ける。
小さな手のひらが毛並みに沿って滑ったかと思うと、今度は毛並みに逆らって滑りながら返ってくる。
その感触を確りと堪能するように少女はゆっくりと、優しく、狼の身体を撫で続けた。
「すごく温かいんですね、狼さんって」
まあ、一応毛皮だしな。
撫でることが嬉しいんなら、せいぜい好きなようにしていろ。
狼自身も少女の手のひらを感じながら中庭の外を眺めていた。
といってもそこには殺風景な廊下があるだけなのだが、今の彼は少女を直視するのが何となく決まりが悪いような気がしていた。
「……私、ロゼっていいます」
唐突に少女が口を開き、狼は視線だけを彼女に向けた。
それがお前の名前か?
別に尋ねた覚えはないんだがな。
「狼さんの名前は……なんて、聞いても仕方ないですよね」
当たり前だろ、変なことを言い出す小娘だな。
「そうだ、私が狼さんに名前をつけてもいいですか?」
あのな、さっきから何を言ってるんだお前は?
名前なんかつけても明日からは来ないぞ。
狼の考えは通じるはずもなく、盲目の少女──ロゼは顎に手を当てて考える素振りを見せ始めた。
先程からロゼの振る舞いに流されつつある狼の決まりの悪さは増す一方だった。
「"テオ"……そう、"テオ"がいいです! 響きが可愛らしいと思いませんか?」
はっきり言ってどうでもいい。
俺にはちゃんと名前があるのに、なぜお前に新しい名前をつけられなければならないんだ。
「うーん、なんだかさっきから反応が冷たいですよ、テオ?」
愛想など知るものか。
俺はお前のお友達になった覚えはない。
呆れてそっぽを向いた狼に手を伸ばしたロゼは、手が触れた彼の頬を優しく撫で始めた。
「ふふふ、よしよし、テオ」
俺なんかを撫でくりまわして一体何が楽しいんだ、まったく……
ああクソ、なんだか急に眠くなってきたな……
頬を撫でるロゼの手から流れ込んでくるような眠気。
それに抵抗する間すら与えられず、銀色の大狼──テオの意識は甘ったるい花の香りの中へと沈んでいった。
*****
重い瞼を持ち上げたテオは、今更になって眠ってしまっていたことに気づいた。
懐のあたりには彼を背もたれにして眠るロゼの姿がある。
どのくらい眠っていたのかはわからないが、テオは完全に雰囲気に流されてしまった自分に嫌悪感を抱いた。
俺としたことが、こんな小娘の前で無防備に寝てしまうとは……
そのとき、中庭を目指して廊下を歩く何者かの足音をテオの耳が捉えた。
中庭の入口を凝視していると、やがてそこには食事を運ぶ盆を両手に抱えた真紅の髪の若い使用人が現れた。
彼女はテオの姿に気づくと、ビクリと飛び上がるように盆を落としてしまった。
金属製の盆と食器が擦れる音が耳を劈く不快感にテオが顔を歪ませると、懐で眠るロゼが目覚めたのかもぞもぞと動き始めた。
「ろっ、ロゼ……? こ、これは……どうしてこんなところに、こんな大きな狼が……?」
「……ナタリア? いるの?」
震えながら後ずさる使用人が自分に向ける拒絶の意思にはやはり嫌悪感が湧いてくる。
テオはその苛立ちを唸り声と共に彼女に向け、鼻に皺を寄せた。
「だっ、大丈夫ですロゼ……今衛兵を呼んできますから、少しだけ待っていてください……!」
「ナタリア待って、違うの! 衛兵を呼んではだめ! テオも、怖がらせるようなことをしてはいけません!」
なにを偉そうに命令しているんだ。
俺はお前の飼犬じゃないんだぞ。
しかしこれで一つわかった。
ロゼが最初にテオのことを勘違いしていたナタリアというのは、どうやらこの使用人のことで間違いないらしい。
「どういうことですか、ロゼ……?」
「この狼さんはテオ。昨日突然現れて、今まで私の話し相手になってくれていたの」
ナタリアにテオのことを説明しながら、ロゼは彼を宥めるように身体を撫で続けていた。
「待ってロゼ、あなたが何を言っているのか本当にわかりません。そこにいては危険ですから、早くこちらへ……!」
「いいえ、危険じゃないわ。私たちは今まで一緒にお昼寝をしていたのよ。でしょう、テオ?」
不覚にも、な。
テオはうたた寝してしまったばかりに面倒事に巻き込まれてしまったような気がしてどこかやるせなさを感じていた。
「こっちに来て、ナタリア。テオが危険じゃないってことを教えてあげるから」
またお前は勝手なことを。
俺の意思確認はなしか。
「し、しかし……」
未だに脚が震えているナタリアは中庭に降りようとはしない。
というより、その状態では降りられないという方が適切であるように見えた。
「大丈夫、私を信じて」
ロゼが発したその言葉は、胸の奥へすとんと流れ落ちるようだった。
慈愛に満ちた微笑みからは、微かだが威厳のようなものを感じられる気もする。
たかだか齢十三か十四ほどの少女であるのに、思わずそれを疑ってしまいそうなほどだ。
ロゼの言葉に引き寄せられるように、ナタリアは恐る恐る中庭へ足を踏み入れ始めた。
血の気が引いた顔を引きつらせながら一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
しかし、明らかに自分を恐れている様子のナタリアに対して、テオが抱く苛立ちは簡単には消えなかった。
「こら、テオ?」
ちっ、わかったよ。
ナタリアに向けた攻撃的な振る舞いを諫められたテオは、彼女がゆっくりと近づいてくる様子を黙して見ていた。
せいぜい数十歩程度の距離に二分も三分もかけてようやくロゼのもとに辿り着いたナタリア。
そして震え続ける彼女の手が、ロゼがしているようにテオの身体にそっと触れた。
「わぁ……すごく柔らかい……」
ナタリアは自分の右手がテオの純白の毛皮に沈み込んでいくのを感じていた。
雲に手を触れることができたならこんな感触なのだろうかと思う半面、その温かさはやはり雲とは違うのだろうと一人問答。
テオがナタリアへと視線を向けると、青ざめていた彼女はいつの間にか子どものように目を輝かせていた。
まったく、どいつもこいつもこんなくだらないことで喜ぶなんてな。
「そうでしょう、そうでしょう? テオの毛並みはとっても気持ちがいいのよ!」
ナタリアの反応に満足したのか、ロゼは嬉しそうな声を上げてテオの身体に飛びかかるように抱きついた。
なッ!?
いきなり何をするんだ!?
突然のことに驚いたテオは慌てて首を起こし、ロゼを睨みつける。
しかし彼女は悪びれた様子もなく無邪気な笑い声を上げていた。
まったく、これだから子供は……
気がつくとロゼの真似をしてナタリアもテオの身体に抱きつき始めていた。
この緊張感のない空気に巻き込まれることに、テオも甚だ嫌気がさしていた。
「なんだか……幸せな気分になれますね……」
二人揃って俺の身体で何をしているんだ。
もう付き合っていられん。
全身で白銀の毛並みの感触を堪能するようにしがみつく二人の少女。
そんな二人はテオがのっそりと立ち上がると同時に花畑へと滑り落ちてしまった。
二度もこうして足を運んでおきながら、結局ロゼがテオを恐れようとしなかった理由はわからずじまい。
残念そうな顔を浮かべるロゼを後目に、テオはやるせなさと共に離れを出て森へと帰って行った。