1話
本作品は向日葵先生主催の「世界に向かってもふもふ愛を叫ぶ」、通称「もふ愛」企画参加作品です。
生きるために他者の愛情が必要かと言われれば、それは否だ。
ほどほど腹を満たせる衛生的な食事と安全な寝床さえあれば、大抵はそれだけで生きていけるものだ。
それなのに誰かを愛したい、愛されたいと望むことは、罪深いほどに強欲だと俺は考えている。
そんなものなどなくとも、俺は今日までこうして生きてこれた。
幼いころに両親に捨てられた俺は、愛情の何たるかを知らない。
そんな俺が他者に向けられる感情といえば、嫌悪や怒りといった醜いものばかりだ。
かく言う俺自身が気高い生き方をしているかと言われればそれも否だ。
俺ほど醜い生き方をしている人間もそういないだろう。
何を隠そう、俺は生きるために数えきれないほど騙し、盗み、傷つけることを繰り返してきた。
たった二人だが人も殺した。
まあヤツらだって俺の命を狙っていたんだから、逆に殺されても文句は言えないさ。
もうわかっただろう。
俺ほどどす黒く汚れた悪党でもこうして生きていくことはできる。
だから生きるために他者の愛情が必要かと言われれば、それは議論の余地すらなく否なのだ。
*****
「待ちやがれ!! この盗人めが!!」
雨上がりの午後、軽やかな逃げ足に踏み付けられた泥水が飛沫を上げる。
靴が汚れようと露も気にする素振りを見せないその悪党は、無駄に声の通る店主の怒鳴り声を背に受けながらひたすら走っていた。
高々パン切れ一つくらいで騒ぎ過ぎだ。
貧しい俺のために慈善事業をしたとは思えないのだろうか。
そのくらいの心の広さがあれば、少しは仲良くなれたかもしれないものを。
王都郊外の小さな村。
伸び放題でぼさぼさの黒髪を揺らす目つきの悪いこの男は、この村で知らぬ者はいない大悪党だ。
彼は今日も空腹を満たすために村の店から食べ物をくすねて逃げ回っていた。
ちっ、この店主意外と足が速いな。
追いつかれる気はまったくしないが、しつこくつけまわされても面倒だ。
ここは村はずれの森に逃げ込んで身を隠すのが得策だろう。
村を抜けた悪党は道の脇に飛び込み、太い木々が生い茂る森の中を駆けた。
通るのに難儀するような獣道を敢えて選びながら森を奥へ奥へと進む。
やがて追手を撒くことができたのか、悪党を探す店主の怒鳴り声はちっとも聞こえなくなった。
やれやれ、ようやく落ち着いて食事にありつける。
悪党はくすねたパン切れを古着のポケットから取り出すと、森を歩きながらそれに齧りついた。
味はまあ、特別美味くはないな。
これなら向かいの八百屋で果物をくすねたほうがよかったか。
妙に粉っぽいパンのせいで喉が渇いてきた。
森の中に川でも流れていないだろうかと、悪党はさらに森の奥へと足を進めた。
しかし、こんなに奥まで逃げ込んできたのは初めてだな。
追手を撒くために森に逃げ込むことは今までにも多々あった。
しかし今日の追手は特にしつこく、悪党は自分でも帰り道がわからなくなるほど森の奥まで入り込んでしまっていた。
ん?
なんだあれは?
悪党が目にしたのは、森の中にできた開けた空間。
その真ん中には綺麗に切り揃えられた石が積み上げられ、一つの祭壇が出来上がっていた。
薄暗い森の中で、その祭壇にだけ注ぎ込む陽の光が非常に神々しい雰囲気を醸し出している。
しかしこれは、信仰心など微塵も持たない悪党にとっては何の価値もないものだ。
《其方は何奴か》
祭壇の横を突っ切って進もうとした悪党は、誰かに呼ばれた気がして振り返った。
しかしそこには誰の姿もない。
太い木々が生い茂った薄暗い森の光景が広がっているだけだ。
……気のせいか。
再び歩き出そうとした悪党だったが、目の前の祭壇が淡い輝きを放っていることに気づいて立ち止まった。
祭壇から生まれた光の粒は重力に逆らうようにゆっくりと舞い上がり、悪党の周囲に広がっていく。
なんだなんだ、何が起きている!?
《其方は何奴か》
再び悪党の中に木霊する、誰のものともわからぬ声。
一言一言を噛み締めるようにゆっくりと呟くそれは、どこか老獪な雰囲気を持つ低い女の声であるような気がした。
というのも、この声は悪党の耳が捉えたものというより、悪党の第六感に直接響いてくるように感じられたのであった。
「……なんだ、俺に何か用か」
舞い上がる光の粒を眺めながら、悪党は恐る恐る口を開いた。
《此処は穢れ無き聖人のみが立ち入る事を赦される聖域 気高き魂を授かりし預言者が唯一神の祝福を賜る場》
なんだ、何を言っているのかさっぱりわからん。
少なくとも俺にとっては神だの信仰だのの話はどうでもいい。
面倒なことに巻き込まれる前に立ち去ってしまったほうがよさそうだ。
《其方は穢れきっている 不可侵であるべきこの聖域を邪な魂で犯した過ちを悔いるがいい》
その瞬間、祭壇は眩い閃光に覆われた。
思わず目を塞いだ悪党はその光に身体が飲み込まれるのを感じ、そのまま意識を失った。
*****
どのくらい眠っていたのだろうか、目を覚ますと悪党は祭壇の真ん中に転がっていた。
そこから見える空には星々が輝いているため夜なのだろうとわかる。
しかし夜中であるにしては妙に周囲が明るい。
灯りのない森の中でこんなに視界が良好であるはずはないのだが。
起き上がろうとした悪党は身体の違和感に首を傾げた。
何かがおかしい。
腕や脚の関節が普段と違う方向に曲がり、普段と違う動き方をしている。
悪党は自分の身体の状態を確かめようと、ゆっくりと首を持ち上げた。
……嘘、だろう……?
悪党の視界に映ったのは、自分の首から下に繋がる肢体。
それは白銀の体毛に覆われた獣のような形をしていた。
さらに言えば大きさが尋常ではない。
体長が倍近く膨れ上がっているように感じられるそれは、間違えようもなく"大狼"の姿だった。
《其方の罪を悔いるがいい その呪詛は其方の魂への懲罰である》
またあの声を感じ取った悪党は、湧き上がる苛立ちをぶつけようとした。
ふざけるな!
俺の身体に一体何をした!?
しかし叫ぼうとしたそれは言葉にならず、低い唸り声となって暗い森の中に轟いた。
《其方の罪を悔い改めよ 他者の寵愛を賜るがいい さすれば其方の魂は呪詛より解き放たれることだろう》
何を言っているんだ、冗談じゃない!
今すぐ元の身体に戻せ!!
しかしそれ以降、夜明けまで喚き散らそうとも祭壇の声が再び狼に呼びかけてくることはなかった。
*****
祭壇にいても無駄だと判断した狼は、夜明けとともに行動を開始した。
こんな化け物の姿で生きるなんて御免だ。
何としても呪いを解いて元の姿に戻ってやる。
祭壇の声は呪いを解く方法を最後に示して消えていった。
自身の罪を悔い改め、他者に愛される存在になれば元の姿に戻れると、そう言っていた。
ならばやることは簡単だ。
村人たちに近づいて、俺を愛するように脅せばいいのさ。
帰り道がわからないほど森の奥まで入り込んだ狼だったが、幸いこの身体は暗がりでもよく見えるし鼻も効く。
夜明けの薄暗い森から村へと戻るのは思いの外容易だった。
村へ入ると働き者の若い娘が井戸から水を汲んで帰ってくるのが見えた。
よし、アイツでいいだろう。
狼は胸の内でそう呟くとゆっくりと娘へと近づいていった。
娘が狼の巨体に気づくまでにはそれほど時間はかからなかった。
しかし娘は狼の姿を見ると、水桶をひっくり返して悲鳴を上げながら逃げていった。
おい、ちょっと待て!
逃げるんじゃない、クソっ!
やはり一筋縄ではいかない。
狼の醜い姿では、村人に近づくだけでも一苦労だ。
気を取り直して今度は畑を耕している老父に近づいてみた。
老父は耳が遠いのか、狼がすぐ横に近づいてもまったく気づく様子はなかった。
おい老いぼれ、俺を愛せ。
知っているぞ、お前は孫娘をいつも猫可愛がりしているだろう。
あんな感じでいいから、俺を愛せ。
しかし狼の喉は人間の言葉を話せるようにはできていない。
声をかけようとしても、それは脅そうとする意思が込められた低い唸り声となるだけだった。
「……ん? うわぁっ! なんじゃこの化け物はっ!?」
ようやく狼の存在に気づいた老父が鍬を振り上げて威嚇してきた。
追い払おうとして鍬を振り回す老父の姿に、狼は立ち去るしかなかった。
さすがに怪我をさせられては元も子もない。
コイツもだめか。
もたもたしてはいられない、次だ。
それからというもの、狼は見つけた村人たちに片っ端から近づいては脅しまわった。
おい小娘、俺を愛せ。
「きゃあああっ! 狼よ!!」
おい坊主、俺を愛せ!
「うわああっ! こっちに来るなぁ!!」
おいそこのお前、俺を愛せ!!
「早く武器を! 男どもはありったけの武器を持ってこい!」
まったく、どいつもこいつも使えない……!
誰でもいい! 俺を愛せ!!
その叫びは大きな遠吠えとなって村全体に木霊した。
やがて村の男たちが鞭やら猟銃やらを持って集まってきたため、狼は再び森の中へと身を隠す羽目になってしまったのだった。
*****
もうあの村には戻れないな。
あれだけ警戒されてしまっては望みは薄い。
狼は森を歩いて隣の村を目指すことにした。
確かに醜い姿だが、そこまで邪険にすることはないだろうに。
狼の中では人々に向けられる嫌悪に対して苛立ちが募っていた。
ああ、胸糞悪い。
次から俺を拒絶したヤツは一人ずつ嚙み殺していくことにしよう。
そうすれば俺も少しはスッキリするだろうし、命惜しさに俺を愛してくれるヤツもそのうち現れるはずさ。
そんな甘い考えを巡らせながら歩いていると、狼は森を抜けて小綺麗な建物がある敷地内に出た。
目の前の建物はどうやら金持ちの屋敷の離れのようで、その奥には本殿と思しき立派な建物が見える。
なんだ、ここは?
誰か住んでいるのか?
まあ誰でもいい、今度こそ人間に戻ってやる。
見張りもいない離れの中へと足を踏み入れる狼。
中は埃を被った高級そうな家財が溢れているが生活感はなく、人っ子一人見当たらない。
さらに言えば、離れであるというのにかなり広い。
大きな入口のロビー、食堂と思われる広間、何十もの個室が並ぶ廊下……
離れがこの広さなら、その奥の本殿は一体どれほどのものなのか気にならないとも言えない。
しかし今の狼には何よりも優先すべきことがある。
まずはこの離れに人がいないかどうか調べてみることから始めた。
見事なまでに無人だな。
もしかして廃墟なのか?
あらゆる部屋を歩き回ったが、住人に遭遇する気配がまったくない。
掃除も行き届いていないこんな場所に期待した自分が馬鹿らしくなってきた狼は、離れの奥の本殿へ足を進めようとした。
そのとき、廊下の先から差し込む陽の光と共に甘い香りが漂ってくるのを狼の鼻が捉えた。
この先に、誰かいるな。
そう確信した狼は香りを辿って足を進める。
するとそこには、廃墟同然の離れには似つかわしくないほどの美しい光景──色鮮やかな花畑に覆われた中庭が広がっていた。
暖かい日差しと花の香りに誘われて中庭を覗き込むと、狼の目に小さな人影が映った。
花畑の真ん中には薄い桜色の髪をなびかせる少女が、こちらに背を向けて座り込んでいた。




