見える目、見ない目
息をつめて大勢が見守る中で、ソフィアは自分の仕事に集中していた。彼女の指先には、あの青い光が宿っていた。それが優しくマルトゥラターレの瞼の上をなぞり続けていた。
どれほどの時間が経ったことか。ようやく、指先の光が消えると、その場の張りつめていた空気も、一気に弛緩した。
「どう?」
フシャーナが遠慮がちに尋ねると、ソフィアは自信ありげな笑みを浮かべた。
マルトゥラターレは、目を瞬いていた。何度も、何度も。それから、両の掌を自分に向け、呆然としたような表情を浮かべていた。それから彼女は立ち上がり、まるで二人を取り囲むように壁際に座る人々を見渡した。そう、明らかにそれは、見渡そうとする仕草だった。
どうしてそんなに張りつめた表情をしているのか。喜びより、感謝より、戸惑いが勝っている。遅れて思考が追いついてきた。
「おめでとう」
だから、俺は静かに言った。
「僕の顔を見るのは、これが初めてになるんだろうけど」
「ファル、ス?」
「そう、ファルス」
すると、彼女はやっと感情を溢れさせた。けれども、それは実に複雑だった。喜ぶというより、傍から見ると悲しんでいるように見えただろう。こうして世界を視覚で認識するのも、およそ百年ぶりなのだから、頭の中の情報処理が追いつかないのかもしれない。
「めでたいな」
カディムが短く言った。マルトゥラターレは、そんな声にいちいち反応した。
「カディム?」
「そうだ」
聞こえるということと、見えるということが一致していく。顔の表情より、体の方が雄弁だった。腕も肩も、震え続けている。
「落ち着いてください」
「ソフィア?」
「ええ、そうです。呼吸を静めてください。気持ちはわかりますが、そう、一度、息を止めて」
優しく背中に手を添えて、ソフィアはそっと座らせた。
「いいわ。実にいいわね」
フシャーナが、喜びを抑えきれない様子で言った。
「半年後には、大森林に向けて出発しなくちゃ」
「あの、教授」
「なに?」
「マルトゥラターレのために行くんであって、教授のためでは……」
すると彼女は椅子の上でふんぞり返った。
「いいじゃない、楽しみにしたって! 学園長の強権を振るって好き勝手できる最後の機会なんだから、楽しみにしたっていいでしょ!」
「露骨すぎます、言葉を選んでください」
「ふーんだ」
子供か、と呆れて軽く溜息をついた。
ソフィアがマルトゥラターレに注意した。
「まだ油断しないでください。また見え方がおかしいとか、何かあったら早めに教えてください。それと、見えるからといって、くれぐれも無茶をしないでください。帝都は馬車もたくさん走っていますし、事故になっても不思議はないので、まだ一人で外出するのは控えてください」
「わかった」
ともあれ、長年の課題が一つ、片付きそうというのは、俺としても喜ばしい。どうやらルーの種族との約束を果たせそうだ。
「それで、誰を連れていくか、候補は考えてあるのかしら?」
「あ、はい。身の回りの人ばかりにはなってしまうんですが、ルークとかニドとか、その辺をと」
「ニド君は前に聞いたから覚えてるけど、ルークって誰だったっけ? えっと、確か」
「真なる騎士の証を預かっている若者ですよ。まだ騎士として認められてはいないんですが、世の中のためになる仕事なら、喜んで引き受けると思いますし」
あとは誰がいいだろう? ギルなんかも行きたがるかもしれない。でも、連れて行っていいんだろうか。大森林を通り抜けるには、相当な困難がある。俺も当時とは違うし、今回はルーの種族の側から迎えもくるだろうから、単純に同じような旅になるとは思えないが。
シャルトゥノーマが勢いよく立ち上がった。
「なんにせよ、これで遠征は確定だな。であれば、ストゥルンには私から手紙を書いておく」
「確かに、準備は早い方がいい」
「じゃあ、今日は解散だな」
それで俺も帰ろうと立ち上がると、ディエドラが意味ありげな笑みを向けてきた。
「今日もあちらに帰るのか」
「それがどうかしたのか」
「お前も大変だニャア」
それを言われると、なかなかに堪える。
「せっかく別宅があるなら、そっちで過ごしてもいいんだろうに」
「ディエドラ、いいか? 人間の社会には銀行というものがあるんだ」
俺のたとえ話を、さも面白そうだと言わんばかりに、彼女は前のめりになって聞いた。
「銀行ではお金を借りることができる。だけど、借りたお金をそのまま返せばいいわけじゃない。返済を先延ばしにした分だけ、利子がつくんだ」
「それはそうだニャア。じゃなきゃ貸してやった分、自由に金を使えないだけ、貸した方が損をする」
「つまり、目先の困難を避けようとして安易に借りると」
「逃げたら逃げただけ、敵が手強くなるか!」
ハァ、と溜息をついて、俺は俯いた。そんな俺を見ながら、ディエドラはおかしくてならないというように笑った。
近頃、ヒジリとは特に気まずい。だからといって、あからさまに避けようものなら、きっともっと不機嫌になる。逃げ場などないのだ。
「最近、元気なさそうだと思ったら、家庭の事情、か」
フシャーナが妙に冷めた声でそう言った。
「家庭ってなんですか」
「ま、いいわ。明日は卒業式だから、遅れずに来るようにね」
学園の正門から一歩出ると、そこにはヒメノが待っていた。
「お疲れ様です」
「あっ、待ってなくていいって言ったのに」
まだまだ冬場、空気も冷たいし、治療が長引けば時間もかかるので、先に帰っていていいと言っておいたのだが、彼女はずっとここで立っていたらしい。
「待ってなくていいってことは、待っていてもいいということですよ?」
そういうと、彼女は手袋をしたまま、俺の手を取った。
これは参った。さすがに二年も付き合えばわかる。彼女は、俺に気を遣ってくれている。先に領地に帰って以来、微妙に元気がないらしいと気付かれてしまった。
「あと一年になってしまいましたね」
「えっ、あ、ああ」
なぜ俺が思い悩んでいるのか、その理由をヒメノには告げていない。伝えた分だけ、彼女の安全が損なわれる可能性もあるし、それに相談したところで、解決方法など思いつくはずもないから。ただ、そのせいで余計に気を遣わせてしまっている。奥ゆかしい彼女は、俺が自分から言い出すまで、悩みの原因を引っ張り出そうとはしない。どうして言ってくれないの、などと迫れば、相手をうんざりさせかねないから。
つまり、ヒメノはあてずっぽうで俺の悩みに肉薄するゲームに挑んでいる。あと一年。自由で気楽な暮らしがもうすぐ終わる。それが俺の悩みの原因なのかもしれない。
「寂しいものですよ。見知った顔がもうすぐ帝都を去っていくんですから」
「まぁ、ね」
ここでは気兼ねなく話せた相手でも、急に遠い人になってしまう。帝都は特別な場所だから。学園の中であれば、一国の王子にも気軽に話しかけられる。だが、そのような機会は、もしかすると、その後は二度と巡ってこないのかもしれない。
俺の態度から、また狙いを外したと察したのだろう。ヒメノは先を急がなかった。
大通りに出たところで、冬の日の静けさを乱すものを見つけてしまった。
「強い帝都! 美しい帝都! 一千年の歴史に輝く帝都! これを保ってきたのは、いったいなんだったのか、私達の何が特別だったのか、ということなのであります!」
小さなお立ち台の上で、髪の毛が薄くなりかけた中年男が、声を張り上げていた。まだ本番はずっと先だが、数ヶ月後には総選挙が実施される見込みとなっている。今のうちに有権者に顔を覚えてもらいたいのだろう。
「ファルスさんは」
「なに?」
「もし、もしですよ? 帝都で市民として暮らすとしたら」
まさしく、もしものお話だ。そんな可能性は、ほとんどない。
まず、領地を引き渡せる状態にしたら、俺は爵位も返上して、貴族の地位を捨てる可能性が高い。そうせざるを得ない。使徒が相変わらず俺に注目していると分かった以上、モゥハの管理下に留まるのが最善ということになる。無論、すぐさまヌニュメ島に監禁されるべきとまではいかないかもしれないが、多少の猶予が与えられるにせよ、そう長い間、フラフラしているなんて、できない相談だ。
また、仮にそのような未来を選ばないとしたら、今度は俺を貴族の責務が縛る。王国に仕え、人々の生活のために働かなくてはならない。少なくとも、ティンティナブリアの領主である限り、特段の事情もないのに、これ以上あの地をほったらかしにしておくなんて、許されないだろう。
帝都で市井の人として暮らすなんて、夢のまた夢だ。
「どこを支持します? 正義党? それとも立国党です?」
「えぇ……選挙、行かないかも」
「そんな、もったいないですよ」
「だって、どっちも……逆に、どっちだったら投票したい?」
ヒメノも、そう尋ねられると、答えなんか持ち合わせていなかったらしい。
「そ、その時々で、よさそうな方にします!」
「はは、それがいい」
帝都で暮らすというのは、半ば旅行者のような、この留学生の身分であれば快適なだけだが、実際に他に行く場所のない市民となってみれば、それなりに窮屈なものになりそうな気がする。どの政治家も真っ白でも真っ黒でもない。灰色だ。どれもこれも似たり寄ったりの中から、自分の答えを探す毎日。大陸の人間からすると、なんともスッキリしないものではなかろうか。
「あの」
「うん?」
「ヒジリ様も、その」
「うん」
言い澱んでから、それでも彼女は続きを口にした。
「気持ちに余裕がないんだと思います。うまく言えないんですが。だから、その……少しだけでいいので、気遣ってあげてください」
俺は頷いた。
そして、どうやってヒジリを労わろうかと考えながら旧公館の正面玄関をくぐると、そこにはマツツァが待っていた。
「お帰りなさいませ」
「あ」
「お寒い中、お疲れなのは承知しておりますが、ヒジリ様が是非にと」
何を言われるんだろうか、と身構える思いはあったが、どちらにせよ、どうにかできるものでもない。
「わかった」
部屋に戻って制服を脱ぐ間もなく、そのまま彼に先導されて、一階の居室に案内された。そこにはもう、火鉢が持ち込まれ、俺が飲むためのお茶まで用意してあった。
「旦那様、お呼び立てして申し訳ございません」
「いや、何か急ぐことでも」
「少々困ったことが、いえ、今に始まったことではないのですが」
それで俺は、向かいに座った。どうも、見る限りヒジリは本当に疲労感を滲ませていた。普段は凛としていて、弱さを見せない彼女なのに、これはどうしたことだろう。
「結論から申し上げますと」
「うん」
「一度、ヌニュメ島に行かねばなりません」
ちょうどそのことが近頃の悩みでもあり、俺は即答した。
「わかった」
「はい?」
「もともと、モゥハが猶予を与えたがゆえに俗世にいただけのこと、命じられれば今すぐにでも」
俺の返答に、ヒジリは目を丸くして、慌てて言い足した。
「済みません、言葉足らずでした」
「えっ」
「行くのは私だけです。旦那様には学業がおありでしょう」
「どういう、こと?」
俺が改めて問うと、彼女は深い溜息をついた。
「率直に申し上げますと、突き上げを食らっています」
「突き上げ?」
「オオキミの廷臣達が日々、不満を訴えているそうです。貴重な姫巫女候補を割り当てたが、いまだに正式に結婚するでもなし、こまごました問題は日々起きる、これは役目と人選が合っていないのではないかと」
「そんな無茶な」
ヒジリが適任だったかどうかはわからない。もっとうまくやれるのがいたかも判断できないが、ただ、俺の傍にいる限り、やはりそれなりのリスクというものがある。危険に対応できるか、死んでもいい覚悟があるか、いずれかでないと、彼女が今、引き受けている役割をこなすことはできない。
「中には、その」
「うん」
「もう留学なんてやめさせて、さっさとヌニュメ島に連れてくるべきと主張するのもおりまして」
「間違っているとは思わないが」
「間違いです。大問題です。タンディラール王からティンティナブリアを託された領主を、どうして勝手に東の果てに連れ込めるというのですか」
それはそうだが、しかし、俺という人間が抱える問題は、一国の一地方の統治という程度では済まないほどのものだ。
「早い話が、彼らは旦那様を信用していないのです」
「まぁ、それは別に納得できないことではないような」
「納得できません。文句があるのなら、帝都まで来て旦那様の傍で務めを果たせばいいはずです。それもせず、何も見えていないくせに、何も見ようともせず、ただ遠くからあれこれ文句をつけるばかりとあっては」
現場を知らない連中が、ここで使命を果たそうとしている彼女に口出しだけする、と。確かに苛立つのはわかる。
「不本意ですが、彼らを黙らせに行かねばならなくなってしまい、その」
苛立ちを滲ませながら、彼女は言った。
「少しだけ……いいえ、二、三ヶ月ほど、あちらに行って、すぐ戻るつもりでおります」
「そう、か」
「ご心配はいりません。ですが、旦那様におかれましては、私が不在の間、くれぐれも身を持ち崩さないよう、気をつけてお過ごしくださいませ」
俺が身を持ち崩す? 女遊びでもするのか? まさか。
いや、ヒジリの立場を考えれば、おかしな警告ではない。こうしてヌニュメ島まで行って、口うるさい上層部を黙らせなくてはいけなくなった背景には、俺自身の問題も含まれているのかもしれない。例えば、アナクの件にしたところで、俺は詳細を伝えていない。その曖昧さにはヒジリも納得はしていないはずだ。にも拘らず、彼女はその件でも、本土の連中を言いくるめなくてはいけない。
「もちろん。せいぜいおとなしく過ごすとするよ」
可能な限り穏やかな微笑を浮かべて、俺はそう言った。




