1-1 日輪の子、背負わされた光
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
目が、眩しかった。
――太陽が、僕の胸の中に入ってきた。
そんな、あまりにも熱くて鮮烈な夢を見て目覚めた瞬間、僕の意識は冷たいアスファルトの上に投げ出されていた。
視界の端で、スマートフォンの画面が虚しく赤い通知を点滅させている。雨の匂いと、焦げたタイヤの臭い。遠くで誰かが叫んでいる。痛みは、不思議となかった。ただ、自分の輪郭が霧のように溶けていくような、奇妙な浮遊感だけがあった。
(ああ、僕は……ここで終わるんだな)
薄れゆく意識の淵で、僕は自分の人生を振り返ろうとした。けれど、流れ込んできたのは僕の記憶だけじゃなかった。見たこともない荒野、泥にまみれた旗指物、そして、耳を突き刺すような鬨の声。僕の知る現代の風景と、血生臭い「過去」の断片が、濁流となって脳内をかき乱す。
その渦の中心で、夢で見たあの太陽が、消えそうな僕の意識を繋ぎ止めるように、熱く、熱く拍動していた。
次に意識が浮上したとき、僕は暗闇の中にいた。鼻を突くのは、土と藁、そして囲炉裏から立ち上る煙の匂い。ひどく体が重い。いや、違う。僕の手足は、驚くほど小さく、頼りなくなっていた。
「……おや、日吉が泣き止みましたよ」
穏やかで、けれどどこか疲れの混じった女性の声が聞こえた。僕は、大きな、節くれだった温かな手に抱き上げられる。視界はまだ霞んでいるけれど、そこが現代日本ではないことだけは、肌に触れる空気の冷たさで理解できた。
「見てくだされ、筑阿弥殿。この子、あんなに弱々しかったのに、急に目に力が宿りました。まるで……日輪の夢が誠であったかのように」
「ふんっ。夢だの吉兆だのと、腹が膨れるわけでもなかろうに。ただでさえ食い詰めているというのに、厄介なことだ」
『筑阿弥』、『なか』、そして『日吉』。その名を聞いた瞬間、僕の脳裏に歴史の教科書の一ページが、静かに、けれど決定的な重みを持って開かれた。尾張国愛智郡中村。戦国時代。
(嘘だろ……。僕が、あの豊臣秀吉になるっていうのか……?)
全身の血が逆流するような衝撃が走った。後の天下人。下剋上の覇者。黄金の出世頭。
けれど、今僕の目の前にある現実は、そんな輝かしい言葉とは無縁の、泥にまみれた貧窮だった。隙間風が吹き抜ける粗末な家屋。明日をも知れぬ百姓の暮らし。天下を獲る? そんな大それた野心なんて、一瞬で吹き飛んだ。この時代、この体で、明日を生き延びることさえ、どれほどの奇跡が必要か。現代に生きていた僕には、それが痛いほどよくわかった。
「……あ、あ……」
声を出そうとしても、赤ん坊の喉は未発達で、意味をなさない音しか漏れない。けれど、僕の胸の奥には、あの日輪の夢の残熱が、確かな重りとして居座っていた。それは「選ばれた者の誇り」なんて高尚なものじゃない。もっと切実な、生きるための「火」のようだった。
――数年の時が過ぎた。
僕は、この「日吉丸」という小さな器の中で、必死にこの尾張国愛智郡中村の地で時代の空気を吸い込んできた。
歴史知識があるからといって、無敵になれるわけじゃない。むしろ、未来を知っていることは、僕を臆病にさせた。これからこの国を襲う戦火の激しさ、裏切り、飢餓。それらを予見してしまう僕は、ただただ、この小さくて脆い命を守り抜くことに必死だった。
ある日、育ての父である筑阿弥が、近所の者と酒を酌み交わしながら僕を指差した。
「おい、日吉。お前、たまに化け物のような顔をして空を見ているな。何が見えるんだ?」
筑阿弥は、僕を疎んでいるようでいて、どこか恐れているようでもあった。
「……何も。ただ、雲が速いな、って」
僕は子供らしい声を装って答える。僕が本当に見ているのは、雲の向こうにあるはずの「安寧」だ。けれど、そんな言葉を口にすれば、狂人扱いされるか、あるいは何かの火種になる。
かつて、この体には「背中に覚えあり」……つまり、生まれながらに運命を背負った徴があるなどと噂されたこともあったらしい。けれど、僕が感じているのは、背中の痣のような物理的なものじゃない。
それは、目に見えない「熱」だ。僕が何かを成そうとするたび、あるいは誰かのために動こうとするたび、胸の奥の太陽がじりじりと熱を帯びる。それはまるで、「お前はここに留まる存在ではない」と、絶えず突きつけられているような心地良さと、恐ろしさが同居した感覚だった。
「日吉、お前は名字も持たぬ、ただの百姓の子だ。だがな……」
筑阿弥が、酔った勢いで僕の小さな肩を掴んだ。
「お前のその目は、時折、この村の誰よりも鋭く光る。育ての親が変われば、人の運命などいくらでも動くものだが……お前の内側にある『何か』だけは、誰にも変えられん気がするよ」
その言葉は、僕の胸の熱に、小さな薪をくべたようだった。天下を獲りたいなんて、今は思えない。ただ、この家族を、この自分を、この時代からこぼれ落ちさせたくない。生き残りたい。死ぬのが怖くて、温かいご飯が食べたくて、誰も泣かない場所へ行きたい。
そのささやかで、けれどこの時代で最も困難な願いを叶えるために、僕は僕の中に眠る「日輪」を使う決意をした。
夜、僕は一人、縁側に座って星を見ていた。現代の夜空では決して見ることのできなかった、吸い込まれるような星空。
「豊臣秀吉」という男が辿った道は、孤独で、血塗られていて、けれど誰よりも眩しいものだ。僕がその道を行くのか、あるいは全く別の場所へ辿り着くのかはわからない。けれど、確かなことが一つだけある。
(僕が現代で死に、ここで目覚めたことには、きっと意味がある)
あの夢で、太陽が僕の胸に入ったのは、僕を英雄にするためじゃない。この真っ暗な戦国という夜の中で、自分自身を見失わないための「灯火」として、それは与えられたのだ。
(まずは……生き延びよう)
僕は自分の小さな掌を見つめた。まだ何の色もついていない、泥だらけの手。
知恵を絞り、縁を繋ぎ、時を待つ。現代で学んだこと、そしてこの時代で感じる熱、そのすべてを糧にして、僕は一歩ずつ歩き出す。それが結果として、いつかこの国を包み込む大きな光になるのだとしても。今の僕はただ、明日もこの温かな日の光を浴びるために、泥の中を這いつくばってでも生きていく。
東の空が、ゆっくりと白んでくる。冷たい朝の空気が肺を満たし、胸の奥の太陽が、優しく僕の体を温めた。日吉丸としての僕の物語は、まだ、始まったばかりだ。
【太閤記 小瀬甫菴道喜輯録 近藤出版部 大正8年】
秀吉公素生一
爰に後陽成院の御宇に当て、太政大臣豊臣秀吉公と云人有、自㆓微小㆒起り、古今に秀テヽ寔に離倫絶類の大器たり、其始を考るに、父は尾張国愛智郡中村の住人、筑阿弥とそ申しける、或時母懐中に日輪入給ふと夢み、已にして懐姙し、誕生しけるにより、童名を日吉丸と云しなり、
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
久しぶりに王道の戦国なろう転生物を投稿させて頂きます。最近の退屈な純歴史物にも根気よくお付き合い頂けた愛読者に「これだよ、これ。」と楽しんで頂けるような、スカッとするテンプレ作品に仕上げていきたいと思います。




