食後の行動
朝食を終えた赤松家の人々は、それぞれの部屋に戻った。
弘は自分の居間を兼ねる仏間の真ん中に書見台を置いて、なにやら古い書物を乗せ、開いた。
その頁の先頭の文字に、弘は目を落とした。視線が文字列に沿って下に動き、最下部に達すると目玉が頁の一番上に上昇して行く。
本来ならば次の行に目を移す筈だ。
だが弘の目はその頁の先頭の文字の上に戻っていた。
視線は文字列に沿って動き、最下部に達すると一番上へ跳ね返る。
そしてまた頁の一行目の一文字目に戻って下降して行き、最下層から最上部へ弾かれるように戻る。
赤松弘は書物を読んでいるのではない。文字を追っているのですらない。
紙の上で視線が上下にするする辷っている。
弘の脳内には何もない。
考えることを放棄している。今は何をしても仕方が無いのだ。
ただ時間は潰さなければならぬ。
藩庁からの使者はいつ来るかわからない。
『昨日、内々に届けを出した故、早ければ今日。遅ければ数日後』
使者が来るまで粛々と待つより他ない。
だが妻は心安くいられるだろうか。
権太やお直は不安なく過ごせるだろうか。
弘には、そちらの方が刑罰の軽重よりも心配だった。
家人の――『客』である芦田清次郎にも――心に落ち着きを持たせるため、弘は赤松家の主人として冷静沈着泰然自若春風駘蕩であらなければならない。
『平らに、平らに』
弘は自分の心に言い聞かせた。
その結果が先の奇行だ。
きぬは縫い物をしている。無言だった。針が晒し布の中に糸を運んで行く幽かな音が、彼女の手元から聞こえてくる。
きぬが縫っているのは、夫に着せる襦袢だ。
藩庁からの使者を迎えるに当たり、せめて肌着だけでも新の物を付けさせたい。
『ああ、鷹はなぜ家を出て行ってしまったのだろう。
なぜ私を置いて行ってしまったのだろう。
善斎殿が家督出来ない事になって、芦田様の柔太郎殿へ嫁ぐ話が立ち消えたとはいうものの、代わりに清次郎殿というよい婿殿が来てくれることが決まったというのに』
何の不服があるのだろう。晩婚になってしまったのは可哀想であるが、鷹女への土産に刀を選ぶほど、彼女の嗜好に理解がある人物が婿に来てくれるというのだ。
『そもそも嫁に行くにしても婿を取るにしても、女には相手の選り好みなどできないものなのに。
少しでも自分のことに理解があって、少しでも好みに近いところがある殿方と縁組みできれば、万々歳でありましょうに』
きぬは左の人差指の先に、チクリ、と小さな痛みを覚えた。
荒れた指の腹から、じわりと赤い色が染み出てくる。
『この血は、あの娘の身体にも流れているのだわ』
きぬは指先を咥えた。ぼやっとした鉄の味がする。
鉄の味がしなくなってから、きぬはまた針を進め始めた。
洟をすする。目が赤かった。
権太は薪割をし始めた。
普段なら斧でも鉈でも軽々と振り、松でも椚でもポンポンと割る元気な老僕の権太が、今日に限ってはことごとくうまく事を運べない。
斧はふらふらと揺れて落ちて、丸太に噛みつかれて抜けなくなる。
鉈はひょろひょろと震えて落ち、太枝の側面を削って薪割台にめり込む。
柴をまとめようとすれば、細引縄が弾き飛ぶ。
権太は溜息を吐いて薪割台に座り込んだ。
『昨日走り回ったから疲れているんだ。少しばかり休めば……』
そう思いはするが、本当に休もうという気にはならない。
身体を動かしていないと、胸が詰まってしまいそうだ。
事実、今こうやってほんの僅か座っているだけで、苛々してくる。
動けない、休めない。
権太は立ったり座ったり、斧を握ったり鉈に持ち替えたり、細引を巻き止めたり解いたりし続けた。




