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第一話・「彼女」を失った貴方

平日の朝投稿をするつもりです。宜しければ通学通勤のお供に。

 ノートの上、不自然なまでに綺麗に漂白されたその空間に、私が操るシャーペンが走る。清音が響くとも無く鳴る。


 机の冷たさ、静寂な空気。物音を必要以外ではたててはいけない。必要であったとしても、可能な限り小さな音に抑える。私を含めた全ての利用者がルールである以前の共通認識として理解し、その下地の元出来上がる本と人の部屋。


 思えば私は図書館が嫌いじゃない。


 嫌いじゃない。けれど好きとも言っていない。でも、日本語を操る人であれば誰しも理解出来るように、その名前を思い浮かべた時に好きじゃない、と思う対象と嫌いじゃない、と思う対象は、後者のそれの方が遥かに好感を得ている。実際に文字だけ追えば同じだけの思い入れであって構わない筈なのに。


 小学校は嫌いだった。中学校も嫌いだった。高校も二年生の終わり頃までは嫌いだったし、今、私が通っている大学も、当然嫌い。


 平均点の低いテストの答案のように、私は目に映るあらゆるものについて赤点をつけて来た。百点満点で言えば図書館の点数は何点だろうか? 多分、五十点には届かない。四十点も怪しい、三十点台後半、多分そんなところだろう。学校のテストの赤点も確かその辺りだった。私が幼稚園の頃から、所は変われど足繁く通って来た図書館、或は図書室と呼ばれる空間。それらに対して赤点をつけるというのも流石に可哀想な気がするので赤点が三十九点なら四十点をあげることにしよう。

 今私がいるのは、大学の図書館。高校までの学校生活における図書館というのは、あくまで一部屋の図書室であって、図書館というのは一つの建物の全て、ないしは最低限過半を占めていなければ認められないものだけれど、そういう意味でも紛れもなくここは図書館と言える。


 浪人する事もなく留年する事も無く今年大学二年生になった私が大学進学の際に考慮した幾つかの条件のうちの一つ。図書館の充実。これは私にとって小さくない問題だった。何しろ私は体育館も教室も音楽室も保健室も廊下も職員室も嫌いな生徒だったから。図書室が少しでも悪くないものであって欲しいとは常に思っていて、中学受験の時には既に学校見学で図書室を最も重要視する子供だった。最初の受験、小学校受験の際には流石に幼すぎて自分の意思が介入する余地はなかった。


 そんな私の審査に合格して、この大学は晴れて私の母校になった。上から目線の物言いになってしまうのは申し訳ないけれど、進学=受験、という生き方をし続けて来た私は今まで受験をして落ちた事が無い。検定、というものでも一度も無い。なので私の受験の感覚とは、審査を通る為のものではなく私の力を分かりやすく示してあげるもの。


 けれど、実のところ私が見た大学の図書館の中で、この図書館は三番目の出来だった。どうして一番、ないしは二番の図書室があるところへ進学しなかったのかというと家との距離という問題があったから。自宅から通うとすれば遠過ぎるので一人暮らしをするのは仕方が無い。けれどこのくらいの距離ならば何か問題があったとしても自分達がすぐ助けに行けるだろう。と親が勘違い出来る距離。私が沢山ある嫌いなものたちのなかで、出来る限り低い点を、いっそのことマイナスの点数をつけたいと思っている建造物である実家から離れて生活をするために、最高の立地にあったのだ。


 私が実家を、家族のことを嫌いな理由、帰りたくない理由、そんなことなど今はどうでも良い。私はそんなことを考えたくないからこそ、高校を卒業して更に勉学の道に進んだのだから。四年間かけて単位を取得し、それから院へ進む。院で勉強したいことも、実のところ大学そのもので勉強したいことも私には無いのだけれど、それでも成績を高水準で取っている間は何かをしなさいと他人に言われる事は無い。


 一応、卒業後の事も考えてはいる。司書課程の授業を履修し司書資格を取り、大学卒業と同時に司書になる。地元か、縁のある土地の方が図書館員にはなりやすいと聞いているので、ここに六年間住んだ後、近場の図書館に採用試験を受けに行く。


 後は司書になりたい理由を考えるだけ、その辺りの理論武装には自信がある。後最低でも二年半、ほぼ確実に四年半の時間があるのだから細かい部分もしっかり詰められる。司書課程は二年あれば履修出来るので、本当ならば資格を取った時点で大学を辞めても構わないのだけれど、それが許されない事は分かっている。そんな事を言ってしまえば家に連れ戻される可能性すらある。この大学は、割と嫌い。私の学校全体に対しての評価としては人生でかなりの高得点を挙げている場所であり、長い時間居てそこまでの苦痛にはならなかった場所でもある。半年前までは大学に来るのが楽しみに思えていた時期があった事を思えば著しい減点ではあるけれど。


 ノートに走らせる手を止めた。区切りが良いところだった訳でも、集中力が切れた訳でもなく、私が勉強を始めてからきっちり二時間が経過したという理由による。


 私は基本的に、限界までとかこの範囲までとかで物事を行った事が無い。しっかり範囲を決めてやった方が良いという意見もあるけれど、学校も授業も試験も、まず時間を区切られた中で行うものなのだから、こちらの方が理にかなっていると私は思っている。二時間でやろうと考えていた範囲の勉強が二時間で終わらせられなかったのなら、それが私の学力の程度であるというだけのこと。


 音も無く震える事で私に時間を知らせてくれたスマートフォンを止め、ゆっくりと立ち上がった。豪奢すぎず、派手でもなく、それでいて座る相手を落ち着かせてくれる柔らかなクッションの椅子を下げ、戻す。背もたれにかけていたコートを着込めば残りの荷物は鞄一つだけ。すぐに纏めて忘れ物の確認。


 壁際に並べられている席は自由席ではなく、予めの予約か、係の人への受付が必要な席なので、使用許可と共に手渡される木の札を手に取って受付まで進んだ。ふと、そこに一つ身知った顔があった。


 成績を見てであったり、会話をしながらであったり、何かの遊戯や勝負をしている時であったり、大概の場面場所で賢い、という評価を受けて来た私(私に言わせればそれは賢い賢くないではなく、要領の善し悪しでしか無いのだけれど)が苦手とするのが人の顔を覚える事。一度、テストで満点を取った時、私の事を褒める相手が誰なのか、一体どの教科に対しての満点を褒めているのか分からず、適当な相槌を打ってやり過ごすしかなかったことがあった。後で驚いたのだけれど、それは担任の教師で、私の国語力は自分が伸ばしたのだと豪語している人だった。その逸話は自分でも酷いとは思ったのだけれど、総じて言える事として、私は余り人に興味が無い。そしてそんな私でも一目見た時に見知った顔だと分かる顔とはつまり、好ましいと思える数少ない相手の顔。


 私は、極力この静謐な場の空気を裂く事を好まない。出来る事ならば自分が移動する事で生まれる空気の流れも無くしてしまいたいくらいなので、その顔を見て何か話しかける事は無かったけれど、通路脇の席に座って本を読んでいた彼は、私の顔を見て少しだけ微笑んだ。頷いて、ゆっくりとその前を通過する。


 「ありがとうございました」


 ここばかりは口を開かないではいられないので、ガラス越しに現れた四十過ぎの少し恰幅が良過ぎる女性に木の札を手渡し、小さく頭を下げた。そしてそのまま私が出来る限り一番静かな歩調で出口へと向かう。


 「邪魔、したかな?」


 私に付き従って後ろを歩いて来た彼、高ノ宮君が、図書館を出るなりそう聞いて来た。見ないでも申し訳なさそうにしていると分かる表情を想像しながら首を横に振る。


 「少し外の空気を吸っておこうと思っていたところ。これから食事だし、ちょうど良かったわ」


 半分は嘘だったけれど、もう半分は本当。誰もいない空き部屋に籠って一人きりの昼食を摂る筈だった。


 「それに、高ノ宮君がわざわざ来る程の事なのだから、ちゃんとした用事があるのでしょう?」


 内容の大体は分かっていた。けれどそれは何かをしながらではなく、しっかりと話を聞くという状況を作ってから聞きたかったので、テラスへ向かう事にした。


 玄関を出て、外の空気を浴びる。すぐに体の表面が冷気によって冷やされ、私は緩めていたマフラーをしっかりと首筋に巻き付け、コートのボタンも全て閉めた。


 私はお弁当を、彼はコンビニで買って来たパンを食べるので途中の買い物はせずテラスに到着した。私は知らないけれど私の事を知っているらしい人達が横目で私の顔を確認し、そして離れていく。テラスは嫌い。正確に言えばテラスも嫌い。だけれどこれにはちゃんとした理由がある。


 「こんな場所に二人でいたら花ちゃんに怒られてしまうわね」


 この場所にいると、例え回りが静かだったとしても遠慮のない視線に多く晒されてしまうから。一人でいれば誰かに声をかけられるし、二人以上でいると、回りに何を聞かれているのか分かったものではない。私はどうやら、意図せず回りからの視線や注目を集めてしまうらしいので、余計に。


 『それは単に綺麗だから気になっちゃうってだけじゃないかな?』


 昔、そんな風に言われた事がある。どの辺りが? と聞いたら髪は綺麗だし肌も綺麗だし、鼻筋は通ってるし、細身で健康的だし、服も似合っているし、と言われた。何だか模範的な答え過ぎてありがたみがないわね。と私は問いつめて、そのまま長い時間どうしてそう言えるのか、という話をさせた。あれからもう随分時間が経つ。


 「花子は初瀬倉さんの事大好きだから変な噂がたったって気にしないよ」


 いつの間にか回想に耽っていた私。知らず知らずのうちに緩んでいた頬を引き締め、高ノ宮君との会話へ戻った。


 初瀬倉さん、そう、それが私の名前、下の名前は陽子。特に好きとも嫌いとも思った事がない、私という存在を現す記号くらいに感じている漢字だと五文字ひらがなにすると七文字の羅列。はせくらようこ。


 「そうね、私もそう思うわ」


 花ちゃんというのは、高ノ宮君の彼女で私の友達。友達かどうかと聞かれて、勿論と答えられる相手は沢山いるけれど、本当に勿論そうだと思える数少ない女の子。そして数少ない男の子が、彼。


 「ター君は信頼があるものね」

 可愛らしいニックネームで呼んでみると、高ノ宮君はそうだな、と言いながら少し照れた表情をした。


 「そう言えばター君はいまだに私の事を初瀬倉さんと呼ぶのね」

 「努力してはいるんだけど、なかなか」

 「『花ちゃん』とは呼んであげているの?」

 「それは、まあ時々」

 「沢山呼んであげると良いわ。彼女、高ノ宮君からそう呼んで貰えるのが一番嬉しいのだから」


 ようはこんなのノリなのよ、と教えてあげると、初瀬倉さんの口からノリって言葉が出るのが面白いと笑われた。微笑みつつ、鞄からポットを取り出す。中身は暖かいミルクティー。外側の濃い藍色の蓋と、その内側の白いカップに七割ずつミルクティーを注ぎ、大きな方を彼へ。


 「ありがとう」


 高ノ宮君はそれを受け取って、羽織っているコートのポケットからくしゃくしゃになったおにぎりを三つ取り出し、食べ始めた。それで話をするのは食後となる事が暗黙のうちに決定して、私達は暫く黙々と食事をする。女子にしては身長が平均よりやや高い方である私に対して、高ノ宮君は男子として身長が平均よりやや高い。怪我で辞めてしまったけれど小学生の頃から高校まで野球をやっていたので体付きはしっかりしていて腕も脚も長くスタイルが良い。ただGパンにパーカーを羽織っただけでサマになると、悔しがっている人がいた。


 「ごちそうさまでした」


 高ノ宮君が三分程で、私はその五倍程の時間をかけて食事を終わらせた。これでも急いだ方だけれど、彼はこのテラスにも何人かいる顔なじみの友人と話をしたり、ひっきりなしに着信するラインだかメールだかに返事をしたりと忙しそうだったので待たせてしまったという感じではない。


 「お待たせしました」

 それでも礼儀としてお詫びをする。俺が呼び出したんだから、とのお返事を頂く。


 「ユーダイが、明日来るって」

 表情は、変えなかった。飲もうとしていたミルクティーも、こぼす事無く、舌を火傷する事無く飲めた。味は分からなくなってしまったけれど。


 「そう……思ったより早かったわね」

 「無理する奴だから」


 半年、と、高ノ宮君は呟いた。もうそんなに経つのね、まだそれしか経っていないのね、どちらも思った。


 「初瀬倉さんは、あれから一度も?」

 「会っていないわね、一度だけ見かけたけれど、私には何も出来ない事が分かり切ってしまう顔をしていたから。出来る限りそっとしておく事にしたわ。自分で立ち上がれるようになるまではね」


 あの時程、自分の無力を感じた瞬間は無かった。けれど落ち込んでもいない。落ち込んでも仕方が無い事というのは多くあって、あの場合もそうだったから。私だけがどうしようも出来ないのではなく、あの時何とか出来る人はどこにもいなかった。


 「花子は毎日様子見に行ってたけどな。俺は辞めた方が良いって言ったんだけど」

 「花ちゃんの良いところだから、それはそれで構わないと思うわ」


 そっか、と高ノ宮君が呟いて、それから少しの沈黙。抑揚のない、ドライな口調に呆れられたのかもしれないし、見損なわれたのかもしれない。暖かい飲み物で内側から温められると、冬の空気も冷たいではなく、涼しく感じられる。少し残っていたミルクティーを飲み干して、ごちそうさまと言いながら立ち上がった彼が最後に一言。


 「俺は何とかあいつの助けになってやりたいと思ってる。勿論花も。初瀬倉さんも助けになってやってくれよ」

 「そうね、そのつもり」


 最後の言葉は、目を見ずに言った。高ノ宮君はありがとうと一言残して去って行った。


 「ようやくね……」

 大嫌いな家庭から逃げて、嫌いな学校へ向かい、好きではない勉強を嫌いじゃない図書館で行う。そんなルーチンワークを続けて来た。ここ半年間ずっと。


 「まず、会うところからね」


 嘘を吐いた事を、告白しなければならない。生意気な言葉を繰り返したことも、謝らなければならない。自分の成績の良さや、異性にモテることなどを嫌味にアピールし、世界を斜に構えて孤独を気取るような、生意気で、自分が賢いと勘違いをしているバカ女。そんな風に思われたのではないかと思う。実際にその通り、私は、あれだけの照れ隠しの言葉を言い訳として繰り返さなければ、自分の本心を吐露することも出来ないみっともなく頭の悪い女だ。


私がこの大学に来た理由。図書館の事も、距離の事も間違いではなかったのだけれど、それは全体としては無視したとしても何も変わらない程極わずかの比率でしかなく、例えばこの大学の図書館が今私の住んでいるアパートよりも狭かったとしても、この大学と自宅との距離が徒歩で五分程度だったとしても、私はこの大学の進学を希望した。


 その理由はとても単純で、本来ならば中学や高校の受験での理由としてする人が多いのかもしれない。多分、それは志望動機として公式の場で語られる事は無い。けれど多くの受験生が毎年心の中に秘めているであろう、幼く、単純で、愚鈍でありながらも強固な理由。


「ドキドキするわね」


 たった一人の、それも恋人が居た男性。彼の存在が、私が今この大学に所属している理由の全て。高ノ宮君と中学生以来の親友で、花ちゃんとは小学生の頃からの長い付き合いの彼が。

 世界で一番好きな人が、世界で一番好きな人を永遠に失ってから半年。これは私の、初瀬倉陽子の陳腐で独りよがりで、失笑を買うくらいに必死な恋愛事情の物語。


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