災厄
遠方へと吹き飛んだ一体は、未だこちらに帰ってこない。依然一対一の状況が続き、止めを刺すなら今しかない。痛打に巨体を揺らすワイバーン、近距離ならば狙いを定めやすく、我王は即座に眼球周辺を氷結で固めることを選択する。これも視覚を頼るワイバーンの知識があってこそ。相手を知り、己を知れば、百戦危うからず。
視覚を奪われ混乱するワイバーンに、もはや我王の位置を探ることはできない。その間も急速に冷却される眼球は、次第に血液の流れを静止させる。血液の凍る温度は氷点下十八度といわれるが、もちろん生きている内は体温があり、マイナス十八度の温度の達しようが、体内の血液まで凍ることはありえない。
しかし、それはあくまで外気越しであるから。沸騰する熱湯に手を入れれば、皮膚は即座に火傷をする。だが同様の百度に達するサウナに対して、一瞬も耐えられないということはないはずだ。水と空気では、人に伝わる温度の速さはウン十倍も違う。つまり氷結した氷が直接触れれば、それが凄まじい速度で冷却されれば、そして熱伝導でさえも、早められてしまうとしたら――
ワイバーンの視力は、既に手遅れの領域まで凍りついていた。生きてはいるが止めと同じで、このワイバーンには最早、自然を生きる術は残されていない。
六帝我王、サードレベルの魔物を前に無傷で勝利を納める。スキルが強いからと言われれば、その答えは当然ノーだ。マルスのそれと違って、単一の能力で倒すことはできなかった。
俊敏では、退けることはできても倒すことはできないだろう。地表を這ってきたのなら、足で逃げるのが精一杯だ。ならば硬質化ではと、同じく地を這うワイバーンに倒される。自身へ向けた硬質化も、ワイバーンの凶牙の前にはいずれ間もなく砕かれる。それでも氷結があれば……いや、結果としては倒せない。眼球を狙うに確かな距離まで近づけず、おまけに俊敏がなければ冷やす速度は緩やかだ。その間ワイバーンの猛攻を受けきらねばならず、更に暴れるワイバーンをして、脆い氷などすぐに砕けてしまうだろう。
一見すれば無敵に思えるが、やはり我王の能力は一つ一つで見ればそれなりで、決してBからCランクを脱するものではない。だが連携すれば話は違う、力を組み合わせれば、圧倒的な勝利を生み出せる。我王の相手は残り一体、一方マルス達は――
戦況を振り向けば、どうやら一体仕留めたようだ。ただただ、じり貧のように叩き落とすことの繰り返し。しかし仮に重力が十倍だとすれば、たった一メートルから落下する衝撃でも、十メートルもの高さから落ちる衝撃と同じなのだ。その繰り返しのみでも、ワイバーンには相応のダメージが溜まり続ける。
次第に動きを鈍らせるワイバーンの群れを前に、重力のサイクルに余裕ができたと感じたマルスは、ここぞというタイミングで最大の重力波を叩き込む。今まで以上の衝撃に、怯みを見せたその隙に、すかさずシャルとバンデットが飛び込んで、頸部に致命打を与えたのだ。
視力を失くしたユリアだが、圧勝に見える戦いも、マルス側に一体、若しくは我王側に一体加われば、その戦況は大きく変わってしまっていただろう。故にマルスの選択は正しく、ユリアの犠牲無しには得られなかった勝利と言える。マルス側は間もなく勝利に至るだろう。重力波の周期も縮められ、最早ワイバーンにはそれを打ち破る体力も残っていない。そして我王の方は――
「遅い、確かに大きく退けたが、幾ら何でも遅すぎる」
俊敏の加速により、遥か後方まで吹き飛んだワイバーンだが、それがいつまで経っても戻ってこない。恐れをなして逃げ出したか、それであれば仕方がないだろう。ワイバーンも野生生物、生きることが目的で、命を賭してまで戦おうとは思わない。
しかし我王にはそう思えなかった。遠方に飛ばされるワイバーンに混乱の兆しは見えたものの、そのような恐れは未だ見えなかったように思える。怯えというのは瞳から光が消え失せ、闇夜に更に影の掛かった、闇深いものであるはずで。
それはまさに今、姿を現すワイバーンの瞳。遠方の森林にまで墜落し、そこから覗く首を捻じらす、淀んだワイバーンの瞳の様に。
「ギィィィアアアアアアァァァァァァ……」
けたたましい断末魔が山間に響き渡る。ちぎれんばかりに伸ばした首は、次第に項垂れ力を失くし、そして遂には動かなくなる。その半身を咥え、貪る一個の生命体。
「あ、あれは……まさか!」
ワイバーンを遥か上回るその巨体は、鋼のような鱗を持ち、稲妻の如き牙を剥く。禍々しく裂けた口端からは、高温のガスが立ち昇る。
「ば、馬鹿な……火龍だと!? ワイバーンが群れを成し、南方に逃げて来た理由ってぇのは――」
それは最強種の中でも別格とされる、火を吹く幻の怪物。それでいて数多の伝説に存在を仄めかされる、龍族の代表とされるもの。千年を生きると言われる火龍、その登場の瞬間だった。