前世の記憶は落馬と共に
菜箸で頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されているようだ。
何故って、今までの記憶がどーっと音を立てて一斉に再現されては駆け抜けていき、叩きつけられ、終わりなく巡っているから。
併せて、頭の中心から涌き出る頭痛と、いくら必死に飲み下そうとしても誤魔化しきれない吐き気に襲われていた。
もしかして死ぬのではなかろうか。
本能的な死の恐怖に全身が冷え、それを増長させるように身体が落下していくような錯覚を覚えた。
冗談じゃない、せっかくまた生まれたというのに。
ふと、そんな悔しい気持ちが強く表出して、ただ翻弄されているだけだった自分の思考を、僅かに取り戻した。
そうするとそんな自身を、妙に冷めた目で俯瞰する自分の存在も認識出来た。
意識が急浮上する。
「やっちまった……」
無意識に口から漏れた呟きに、返事をする者はなく。
しかし周囲に満ちた静寂は、落ち着いた声によって破られた。
「お目覚めですか、殿下」
決して遠くはない場所から掛けられた声は、戸口に控えていた侍女からのものだった。
不用意に口にした言葉は聞き取られなかったのか、突っ込んで訊いてくる様子もない。
「お加減はいかがですか?どこか痛む所は?」
「大事ない。少し頭が痛む程度だ」
「すぐに人を呼んで参ります。お水は飲まれますか?」
「ああ、頼む」
ベッドの傍らに近づいてきて、ワゴン車の上の水差しからコップに水を注ぎながら、彼女は淡々と確認してくる。
それに当然のように受け答えしながら、私は頭の中を整理した。
不思議と吐き気は治まり、後頭部と背中が痛むだけだった。先ほどのような我慢しようのない常識はずれな痛みではなく、日常の中でならよくある範囲内の、打撲時の痛みのようだった。
どこかに強く打ち付けたのかもしれない。
そういえば婚約者と共に、乗馬の途中だったはずだと思い至る。
いや、乗馬とは言えない。馬に乗ろうとしてすぐ振り落とされたのだ。
どうやら落馬したようだ。
コップを受け取り口をつけたが、侍女はすぐには立ち去らず傍らに佇んだままだった。人を呼びに行くと言っていたのに、どうしたことか。
見上げた顔は訝しげで、僅かに眉間に皺が寄っていた。
年の頃は四〇代、どちらかと言えば端正な顔立ちだが、目は細く、癖のない栗色の髪は頭部の後ろで一つにまとめられている。見慣れたお仕着せを着た彼女は、柔らかさよりも出来る女特有の硬質な雰囲気を纏いながらも、わずかに困惑を滲ませ口を開いた。
「殿下、やはり打ち所が悪かったのですか?いつものように騒がれませんね」
「なにがだ?」
「失礼ながら殿下は、ちょっと転んでも痛い痛いと泣きわめき、転んだ原因になった石に全力で八つ当たりされ、排除されるような方だったと思うのですが。今回はまた、随分と大人しくしていらっしゃるのですね」
通常なら侍女がこんな口をきいてきたら、不敬罪で処罰されてもおかしくはない。
しかし、彼女は生まれた時から仕えてくれ、国王陛下直々に命を受け王太子付きになった、後ろ楯のしっかりした侍女なのだ。名前をマリーナ・コンチェッタ・ヨーデベルグ・サナーリエという。サナーリエ伯爵家、前伯爵の長女にして、王家に忠誠を誓い独身を貫き、後宮に長年仕え続けた実績もある。
なんなら国王陛下に対しても物申せる、稀有な存在だった。
王太子とは私、クライエス・フィストア・バハラマ・ノースアークのことだ。御歳8歳。
ノースアーク国国王ジギダリエス・フィストア・トリューシュ・ノースアークと王妃サリーメニイ・バハラマ・ヤナーシエ・ノースアークとの間に生まれた第一子にして、唯一の子。
生まれながらに王位を継ぐことが定められた、失敗の許されない存在。それが私。
ただし、その失敗という概念は、見る人によって様々だ。
私はある方向から見れば、失敗したと判断されたのだろう。
だから今、ベッド上に居るわけだ。
そして私自身も、その失敗を痛いほど実感している。
「マリーナ、私はどれほど寝ていた」
「殿下は3日意識が戻りませんでした」
「なに、3日も?ではカザランドはどうした?まさか、処罰されていないだろうな?」
真っ先に気になったのは私付きの護衛だった、カザランド・ドリューシ・タインス・トワイルズという、トワイルズ伯爵家次男にして、近衛隊所属王太子付きとなっていた男。
二十代半ばで剣の実力者。快括な笑顔を浮かべ、どこへでも私に付き従うが、彼を撒いて逃げ隠れすると、困ったように両眉尻を下げ、いつも必死になって探してくれる。
悪い人間ではない。思ったことがすぐ顔に出る、貴族に属するのが向かない人種ではあるが、誠実で、目の前の侍女のマリーナの次に信用できる人物だ。
今回の落馬で、誰よりも近くに居て私を護衛していた彼が、何の咎も受けていないとは思えない。
「カザランド様は現在謹慎となっておられます。沙汰は殿下のご容態次第で、追って下されるとのことでしたが。殿下の護衛は他の近衛が引き継いでおります」
訝しげにしながらも、マリーナは淡々と求める情報を答えてくれた。
それもそうだ。意識を失う前の私はいつも、おいとかお前とか、彼女に対して失礼な呼び方しかしていない。
おそらく私が、周りの人間の名前を把握しているとは思っていなかったはずだ。
「どこの家の者だ?」
「新たに護衛に任命されたのは、スピラー侯爵家の三男、ラトアット様にございます」
スピラー侯爵家の所属派閥を思い浮かべ、ひとまず警戒するような相手ではないと判断した。
良かった、中立派だ。しかしトワイルズ伯爵家と同じ中立派がくるとは。まだ警告で済んでいると見るべきか、そもそも、今回のことは強権派の派閥の総意ではないということなのか。
寝起きの頭ではまだ判断しかねる。
それに、余計なことまで思い出してしまった。
そのことも合わせて、今後の身の振り方を考えなくては。
「……わかった。もう下がって良い。引き留めて悪かったな」
「殿下、本当にどうされたのですか?」
「どう、とは?」
「いつもの殿下らしくありませんね」
当然の反応だった。
思い返してみても、今までの自分は癇癪持ちで、嫌なことからは全力で逃げ、周りを困らせては現状の不満に対する溜飲を下げる、全く困ったガキでしかなかった。
王太子という肩書きがなければ、今頃誰にも構われず、嫌われ、避けられ、孤立していたことだろう。
今、表立って孤立という立場にないのは、一重に唯一の王子であり、将来を約束された王太子であり、王位に就いた後は傀儡となることを期待されているからだった。
つまるところ、1人の人間としての自分は、完全に孤立していた。
政治腐敗の蔓延る王朝に、ただこれ以上の混乱をもたらさない為だけに、たった一人だけ設けられた王位継承者。
その絶妙に詰んだ状態の王子こそが、私だった。
落馬の衝撃で前世のことを思い出すまでは、私は冷静に現状や国の敷いている政治の在り方を、認識することは出来なかった。しかし、ろくに教育を受けない8歳児だけの知識では気付けなかったことも、今ならわかる。
前世で社会人として生きた経験を思い出し、今世で自分の見聞きしてきたことをその知識に擦り合わせると、客観的に状況が飲み込めた。
自分はたった一人の王子だから生かされてはいるが、上手く綱渡りをしなければ、いつでも殺されてしまう立場なのだと。そして今のまま成長しては、確実に傀儡の王となり、国が傾く。そうせず優秀であろうとしても、思い通りに動かせない王は要らないとばかりに、成人前に殺されるか、良くて結婚して子供が出来るまで生かされた後、病気か不慮の事故に見舞われることになるだろう、と。
自然と気分が落ち込み、体が強ばった。
「……ああ、まだ頭が痛くてな。背中も痛いし、あまり大きな声は出したくない。実は喋るのも辛いんだ」
少し大袈裟に痛みを伝え、本来相手が聞きたかったであろうことから斜め上の回答をする。
雰囲気が変わったとか、話し方が違うとか、そういうことを指摘したいのだろう。
怪しまれないためには日頃と同じように振る舞うべきだが、命の危機と、それとは別の事案に頭を悩ませることになった今は、以前のような癇癪や無駄に偉そうな態度を披露出来る余裕はない。
精々病み上がりで弱ってることにして、もう少しベッドの中でゆっくりと、今後の方針を考えよう。
コップを手渡し、シーツの中に潜り込むと、出来る侍女はそれ以上の追及は止め、綺麗なお辞儀をした。
「失礼致しました。医術師と陛下にお伝えして参ります」
遠ざかる足音とドアが閉まる音を確認し、知らず詰めていた息を吐き出した。
どうしてよりにもよって、と思う。
平和な日本に比べると、あまりにも物騒で穏やかではない世界。魔物が跋扈し、剣と魔法のファンタジー世界ではあるが、しかし、どうしてよりにもよって、ただの異世界転生ではないのか。
聞き覚えのある国名。
聞き覚えのある自分の名前。
そして、婚約者の存在。
この世界は、自分が前世でプレイしていた乙女ゲーム『救国の聖女と愛の奇跡』の設定と全く同じだ。
舞台は王立魔術アカデミー。
下位貴族で、ほぼ平民と扱いの変わらない準男爵家出身のヒロインは、聖魔力(普通の魔力より魔物を滅ぼすのに有効な魔力)の持ち主と判明したことから、アカデミーに編入させられる。
そこで出会った、顔は良くても何かしら問題を抱えたダメ男達を、持ち前のひた向きさと、根気強さ、思い遣りで、真人間に矯正し、その過程で恋に落ちていくという。攻略対象をヒロインの働きかけで成長させていくタイプの、恋愛シュミレーションゲームだった。
ヒロインの選択により、攻略対象の抱える問題を解決出来たり、悪化させたりし、ミニゲームでパラメーターを上げ、選択肢を上手く選んで好感度を上昇させ、イベントを起こす。そしてバッドエンド、ノーマルエンド、ハッピーエンドを目指す。頭が痛いことに、確か逆ハーエンドもあったはずだ。
軽薄で女たらし、遊び好きな、外務大臣子息。
引きこもりでコミュ障の研究バカ、魔術省長官子息。
腕っぷしに自信があり、短気ですぐ手が出るDV男、騎士団長子息。
バカは嫌いを明言し、平民や下位貴族を見下す、自分自慢男な、宰相の孫。
大人の色気を振り撒きつつも、甘えたがりのマザコン男な保健医。
そして問題は、私クライエス・フィストア・バハラマ・ノースアークの担当するダメ男だが。ワガママでプライドが高く、勉強嫌いなダメ王太子という、あのまま育てば間違いなく到達したであろう設定の、メイン攻略対象だった。
溜め息しか出ない。
自分自身の未来にもガッカリだが、この国の未来にもガッカリだ。
あんな攻略対象達が蔓延るアカデミー。しかも軒並み、顔と家柄だけはハイスペック。性格に難ありまくりの不良物件達。
先行きが不安でしかない。
ヒロインはそんな周りの不安を解消した猛者。愛により、国を担っていく未来ある若者達を矯正したことで、ハッピーエンド後には救国の聖女と呼ばれる。
バッドエンドを迎えた際には、なんと男性陣の方に問題が起こる。
他国からの侵略を受け、戦争に突入するとか。
知らない内に敵国に侵入され、提示された書類により正当にその国の属国となり、支配下に置かれたり。
国王が暗殺され、王太子行方不明により内乱勃発とか。
国内で魔物が大発生し、天災により多くの犠牲者が出るとか。
ともかく、ダメ男を放っておいたらろくな事にはならないのだ。
しかもその末路は、エンディングでサラッと流れる為、どうしてそうなったかは過程が謎だった。
この国の前途は暗い。
あんなのが国の行く末を担っていくとは、この国の腐敗具合も末期と言えるし、そいつらを矯正しないと国まで悪影響が出るなんて、恐ろし過ぎた。
前世はアラサー喪女OLだった私は、「あー、あるある。こんなダメ男よく聞くけど、引くわー」と、ネタとして爆笑しながらプレイしていた。バッドエンドを迎えても、「だろうね、お前らに国は任せらんねぇとは思ってた!」と、妙にスッキリと納得できていた。
他人事であったからネタに出来たのだ。他人事だからあっさりバッドエンドも流せたのだ。
まさか自分の身に降りかかるとは。
そして自分が当事者とは。
「どうせならセオリー通り、悪役令嬢転生とかしたかった」
別に、前世女だったから今世も女が良かったとか、そういう理由ではない。
男として生を受け、8年間男としての生活をしてきた実績もあるので、自分が男以外の何者でもないと実感もある。
前世の記憶が戻ったからといって、今更女としての意識が芽生えたりはしない。前世の自分の記憶こそ、他人事にしか見れないのだ。
私が今嘆いているのは、このゲームにおいてまともなのが、悪役令嬢たる、オリシスティス・ノーティリア・ダカール・メンディエンズ公爵令嬢しかいなかったので、せめてまともな人間に生まれたかったと思っただけだ。
そして、わかりやすく破滅フラグ回避に専念したかった。
こんな泥舟みたいな国の王太子なんか、なりたくなかった。ゲームとか恋愛とか言っている場合じゃない状況に、目眩がする。
そうすれば私がオリシスティスに一目惚れして、無理やり婚約を結んでしまう事態にはならずに済んだはずだ。
いやしかし、知らなかったこととはいえ、私はオリシスティスを好きになってしまったわけだし、私がオリシスティスだったとしても、バカ王太子はやっぱりオリシスティスに一目惚れをする可能性があるわけで……。
わけが解らなくなってきた、話を戻そう。
ゲームでのオリシスティスは例に漏れず、公開婚約破棄からの断罪イベントの末、家は没落、本人は国外追放か戒律の厳しい修道院行き、酷いと処刑となる。
本人は「婚約者の居る男性にむやみやたらと近付かないように」とか、「アカデミーに在学する者として相応しい、淑女の振る舞いを身につけるように」「はしたない、みすぼらしい装いはしないように」等、ヒロインの行動に苦言をていしているだけで、凛とした淑女の手本のような麗しい美少女だった。
そもそも、オリシスティスを婚約者に指名したのはワガママ王子の方で、あまりの美しさに一目惚れし、公衆の面前でいきなり婚約者になるよう指名し、無理やり婚約。贈り物をしまくって気を引こうとするも、かえって王太子の在り方を説かれたりし、愛情が芽生える所か、辛辣に王位を継ぐ者として心構えが足りないと指導される始末。
次第に王子はオリシスティスから足が遠のき、可愛く優しいヒロインに心奪われ、ヒロインの協力で変わっていくのだ。
そして、ヒロインと両思いになると、積年の恨み(こじらせた初恋と、長い片想い期間の鬱憤)を晴らすように、罪状に対して過剰過ぎる処罰を下すわけだ。
おい、それでいいのか、本当に。
ゲームをしていた時は、オリシスティス悪くないじゃん、あり得ないわー。と展開にドン引きしていたが、ゲームで見ていたのとは違い、現実として王宮で過ごしてきた今ならわかる。
あの過剰な処罰は、王子の難癖に乗って対抗派閥への打撃を与え、対抗派閥の筆頭たる貴族を失脚させる為の策だったのだと。
でなければ、たかだか学生同士の小競り合いが、そんな大事になるはずはないし、一方的な婚約破棄は寧ろ王子の方に否があるのに、何のお咎めもなくエンディングでニコニコと、ヒロインと挙式なんか挙げられるわけがないのだ。
全ては腐敗した政治のせい。実権を握れていない、王の存在のせいである。
「最悪だ」
自分で婚約者に指名しておきながら、最後は一族郎党破滅させるとか、酷すぎる。
そんな奴が次代の王とか、この国終わったな、としか思えない。
そもそも、バッドエンドもガチで終わっている。
変えなければならない、未来を。
婚約者はもう、指名してしまった。一目惚れだった。
輝く金髪と印象的な翡翠の目。女神のごとき神々しい美しさ、洗練された淑女としての所作。言葉を一つも交わさない内から目を奪われ、心も一瞬にして奪われた。
こんな理不尽な未来が待っていると判っていれば、婚約者として指名などせず、自分の恋心に蓋をし、泣く泣く諦めたものを。
いや、諦められずとも、きっと我慢して、彼女を破滅フラグに巻き込まないように配慮した。
これから、婚約解消に持っていくかどうかは、メンディエンズ公爵と話し合いを持ちたいと思う。
婚約話を纏めたのはなんだかんだお祖父様だったので、実は公爵とは一度も会っていない。
お祖父様に行かなくて良いと言われているから、婚約の挨拶にも行っていない。前は「そうなのか」と気にならなかったが、人としてどうなのかと今なら思う。なんの根回しもなく勝手に私が決めて、相手に予定のない縁談を持ちかけたのだから。
印象は最悪だろう。
望みは低いが、出来れば彼女に認めてもらえるようになり、関係を良好に保ち、婚約も継続させてもらいたい。
本当に彼女に一目惚れしてしまったのは事実なのだ。それに生き残るためにも、メンディエンズ公爵の後ろ楯が欲しい。
そして、この国の貴族達のパワーバランスを変え、国政をまともにしなければならない。バッドエンドの1つである内乱は、貴族の派閥争いの悪化や、政治腐敗のせいでしわ寄せを受けた平民によるものだろう。避けられるのなら、是非とも避けたい。
王にも威厳を取り戻してもらい、実権を全て掌握してもらうようにすれば、他国のつけ入る隙を無くして、戦争回避出来るはずだ。
やることは沢山ある。
しかしまず最優先させるべきは、私が成人まで無事生き残ること。
命あっての物種だ。
ともかくゲーム到達前にうっかり暗殺されないよう、細心の注意を払って行動の選択をする。
「私は絶対、王道に乗ったりしない。ヒロインからの救済など待たず、自力でなんとかしてみせる。心変わりもしないし、ゲーム後までだって生き残ってみせる。平和な国で、オリシスティスと安穏とした老後を過ごすんだ」