10 一件落着
薬の効果が切れて元通りになった明良は女子高に転入し、爽馬は近くの共学校へ編入した。
屋敷に戻って来た爽馬は早速当主の大森の研究室を訪ねる。
「旦那様。あの時私が薬を飲んでいたら、私の体は女性化したんでしょうか」
「明良と離れたくないと願ったんならそうじゃないかな」
「……今度は時間を巻き戻す薬を作りませんか?」
「僕は人が幸せになる薬しか作らないと決めているんだよ。残念だね」
爽馬と言う名前に似つかわしくない邪な考えに、この青年は間違いなく恋をしていると大森は目を細める。
真田の人間は大森家にとってなくてはならない存在だが、その関係は陰と陽だ。
表立って家を切り盛りする当主の足元に纏わり着く私利私欲に捕らわれたうじ虫たちを、そうと気付かれないように駆除するのが真田の主な役目だ。
利害関係のある輩を、持ちつ持たれつなんてかわいい言葉で想像してもらっては困る。人は曖昧な関係にどんどん鈍感になっていく。最初は些細な頼みごとでもひとつ叶えられると、次も、と期待してしまう。対等な関係は崩れ去り馴れ合い、寄り掛かり、終いにはドロドロに腐敗していく。程よい距離感が必要なのだ。
そんな負の部分を請け負っているのが真田家の人間だ。大森はそんな関係を好まず、当主に相応しくない態度を取りつづけている。
明良は聡明で正義感が強く、母親の影響を強く受け継いだ純血種だ。
けれど年若く、世の中の負の部分を理解するには純粋過ぎる。
明良には何時までも世の中の綺麗な世界で生きて欲しいと願う大森もやはり人の親なのだ。
守るべきものを持ってしまった弱みをこの青年に託すしか選択はない。
「まったくあの腹黒の龍馬の子だけはあるよね」
「旦那様だって、爪を隠してアホウの振りをしているじゃありませんか」
「愛する者を守るのに地位や名誉ほど邪魔なものはないよ。明良だって爽馬があんまり出来るから恋愛対象外にしてたでしょう? 男だって少しは女性に隙を見せてあげた方が良いんだよ」
「お嬢さまに無様な姿は見せられません。私の美学です」
「一丁前に格好付けて恋する青年は青臭いね。だけどどうするの? 龍馬は簡単に君たちの仲を認めてはくれないと思うよ」
「そこは旦那さまが頑張ってくださいますよね」
「僕は龍馬に嫌われているからな~。無理だろうね」
龍馬は大森家に忠義を誓ったガチガチの堅物男だ。仕える主の娘に手を出すなど、夢にも思わないだろう。たとえそれが明良の望む事だとしても、はいそうですかと簡単には納得しないはずだ。下手をすれば「それならお前はお嬢様の慰み者になって差し上げろ」と言い出しかねない。
でもまあ、今でも充分明良の尻に敷かれている感は否めない。
これも惚れた方の弱味だろうか。
「まあ期待はしないでも待っていなさい。その内龍馬の心を溶かす薬を完成させるから」
「私の理性が焼き切れるまでにお願いします」
「……お前を抹殺した方が早いかもね」
ふたりの間に不穏な空気が流れる中、軽やかな足音が研究室に近付いて来る。扉の向こうから現れるであろう人物をふたりは秋晴れの清々しい気持ちで待った。
「やっぱり此処にいたのね」
すっかり元に戻った明良の少し掠れた声に振り向くと、少女らしいワンピースを身に纏い笑顔を向ける姿に見入ってしまう。短くした髪が耳元を隠しきれずに、小ぶりのイヤリングを際立たせている。爽馬がプレゼントしたそのイヤリングを身に付けて笑う明良が愛しくて仕方ない。
「「明良」さん」
ふたりの男から同時に呼ばれて頬を染める明良に目を奪われる。何よりも大切な日常が戻って来た。何だかんだ言っても明良自身この研究室が好きなのだ。
「また良からぬ実験に爽馬を巻き込まないで下さいね」
「大丈夫だよ。爽馬は自ら進んで実験体になりたがっているんだから」
「旦那様」
「お客様に差し入れを頂いたの。お母さんがお茶の用意をして待っているから皆で頂きましょう。」
「そうか。それじゃ行こうか」
寮の3人は元に戻った明良の姿に魂を抜かれた様に驚いていた。双子の兄妹が存在すると疑って長い事信じてはもらえなかった。
研究の成果を証明出来れば世紀の大発明だとひとり興奮する新太郎を大人の遊びだと言って大森は取り合わなかった。
これからもこの研究室にふたりの男は身を寄せては愛しい女の話で盛り上がり、馬鹿な実験を繰り返すのだろう。
守られるのと同時に捕らわれて、やがて選択はひとつに絞られても爽馬の毒は明良の全身を覆い真実を包み隠す。
明良は一生解けない魔法に掛けられた事に気付かない。
大森の力を持っても爽馬の毒を溶かすことは困難だ。
明良の中で爽馬の毒は化学反応を起こし進化してしまった。
信頼に愛情と言う秘薬が融合したのだ。
「僕は選択を間違えたかな~」
少し先を歩く若いふたりの後を追い掛けて大森は静かに扉を閉めた。