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千一夜の薔薇  作者: 冬野 暉
第五夜 砂の花
14/14

01

 風が哭いている。

 砂の雨――強風に乗って吹きつける砂塵が天幕を叩く音がひどく煩わしい。

 きつく焚き染められた香木ラージデートの匂いが胸を塞ぎ、ラガートはため息を落とした。揺らぐ火明かりが彼と向き合う花嫁の仏頂面を遠慮がちに照らしている。

 金銀の刺繍が見事な瑠璃色の紗を被り、子どもっぽさが残る面に化粧を施した少女の目には、初夜に望む新妻らしい恥じらいなど一切ない。紅を差したくちびるは硬く引き結ばれ、今にも花婿の喉笛を食いちぎってやろうというような殺意を湛えてラガートを睨みつけていた。

 だらしなく礼装の胸元をくつろげたラガートは、あぐらをかいた膝に頬杖をついた。少女のまなざしが深紅の劫火ならば、彼の漆黒と灰鉄はいがねの眸は凍てつく砂原の夜空と地平だった。

「……心配しなくても、俺はおまえに夫として触れるつもりはさらさらない」

 少女の頬がぴくりと震える。

「いらぬ不穏の火種になられては困るんだ。すでに〈白蠍〉は亡いのだと生き残った連中に教えてやらなければならない。俺とおまえの『婚姻』は、そのための芝居だ」

「――皆には手を出すな」  

 少女に不釣り合いな烈しさを秘めた声が低く唸る。彼女が男子として生まれていたら、さぞや戦場で手こずらされていたに違いない。

 あるいは――〈白蠍〉の部族は、わずかでも長らえていたかもしれない。

 ラガートは薄く口端を吊り上げた。

「ならば、おとなしくしておくことだ。俺とて、仮初めとはいえ妻に迎えた女を手にかけたくなどないからな」

「貴様が夫だなんて、虫酸が走る」

 細やかな金鎖で飾られた青の花嫁衣裳の膝に皺が寄る。

 宿敵の色に身を染め、名ばかりとはいえ仇の許へ嫁ぐなど恥辱の限りだろう。披露目の席では、声を押し殺してすすり泣く〈白蠍〉の民の姿が見受けられた。彼らの嘆きを塗り潰すように浮かれ騒ぐ〈青鷹〉の人々をひたと見据え、少女はけして俯いたりなどしなかった。

(かわいそうな娘だ)

 まだ十五にもならぬというのに、恋も知らぬまま『戦利品』にされて。不憫に思いつつ、族長の血筋に生まれついたからに当然だとも考える。今や彼女は、その肩に同胞の行く末を負った身なのだから。

 ここは戦陣だ。刃は交えずとも、熱砂に灼かれる誇りと生をかけて躍るいくさ場だ。

 ならば、容赦は不要。

 己もまた、目の前の戦士の命を刈り取る覚悟を持って臨むことこそ礼儀である。

 ラガートが身を起こすと、少女はあからさまに肩を揺らした。

リューダ・・・・

 細い喉が大きく唾を飲み下す。ラガートは少女の髪を覆う紗を取り払うと、心がけて酷薄に微笑んだ。

「今日は疲れただろう。俺の隣で、ゆっくり休むといい」

「……ッ」

 少女――リューダは口元を強張らせ、眦を怒りに染めた。

 男が女の被りものを剥ぐという行為は、その身を征服し所有するという意思表示に他ならない。何より、姫という敬称をつけずに家族でもない男に名を呼ばれるなど、経験したこともない屈辱だろう。

 火の粉が散るような視線に両目を眇め、ラガートは掌中の紗を握り潰した。

(一族を守るためなら、なんだってする。ああ、でも……予想以上に、つらいな)

 風の慟哭と砂の雨音に、女の歌声がまぎれたような気がした。切れ切れに、氷雪のように青白い旋律が――

 獣脂の焦げつく音がした。

 瞼裏にちらつく菫色の潤んだ眸を振り払い、ラガートははじめて『妻』以外の女の前で頭布を外した。

 苦く凍えた夜を沈みこめるように、砂の雨は朝まで降り止まなかった。




 青く乾燥した空に、あかがね色の大地が燃えている。

 うねりながら連なる砂丘の向こうを睨み、ラガートはしっかりと口元を布で覆った。

 このところ、砂海を渡る風の精は気性が荒々しい。今日もごうごうと吠え立てるような唸りを巻き、赤い陽炎をちらちらと浮かび上がらせている。

(いやな風だ。砂嵐を呼ばなければいいが……)

「小兄上!」

 砂丘の頂きに立つラガートを目指し、砂避けの外套を纏ったルーファが駆け上がってくる。ラガートがサッと片手を差しのべると、弟は息を弾ませて兄の手を取って傍らに着地した。

「大丈夫か」

 ルーファはこくこくと頷くと、外れかけた口元の覆いをつけ直した。長兄譲りの琥珀色の瞳は、少年らしさを残しつつも数年前の次兄によく似た精悍さを帯びるようになった。

「やっぱり、ずいぶん地形が変わってるよ。最近のおかしな風のせいだ。……このあたりの遊牧民はまだいいとして、『外』からやって来る隊商カーフィラは迷うかもしれない」

「痛いな。〈白蠍〉から奪った戦利品を売りさばく絶好の機会だってのに」

 砂漠の北にある沃地から訪れる隊商は、遊牧民にとって貴重な通商の手段だ。勝ちいくさの直後ともなれば、略奪したあらゆるものを――それこそであろうと――商品として売買できる。砂漠にはいくつかの定期交易路が存在するが、それとて常に安全というわけではない。

 時季によって閉ざされる交易路や、大規模な砂嵐に潰されてしまう交易路もある。部族で最長老の婆様が子どもの頃には、砂中に潜む長蟲ワームが隊商を丸呑みにすることなど珍しくなかったらしい。

 やり手の長が率いる一団ならば案内人として風読かざよみの巫者を用立てできるだろうが、たいていの隊商には難しい。風の精の機嫌が直るまでの間、商売の好機は待たねばなるまい。

 ため息を噛み殺したとき、ふとルーファが「あれ?」と声を上げた。

「どうした」

「ほら、あそこ――」

 ルーファが指差す先に目を凝らすと、揺らめく地平にぽつりと染みのような影が浮いていた。影はふらふらと右に左に漂いながら少しずつ大きくなって……こちらに近づいてくる。

 ラガートは流れるような動作でルーファを背に庇い、腰に佩いた長剣に手をかけた。

「小兄上……」

「まだ、動くなよ。俺が『行け』と言ったら全力で居留地まで走れ。できるな?」

 ルーファが息を呑んでラガートの外套を掴んだ。

 ピリッと強烈な香辛料の匂いを嗅いだような刺激が眼を突く。ラガートは徐々に輪郭があらわとなっていく影を見据え、産毛を逆立てた。

(――鳥?)

 それ・・は、兄弟がよく見慣れた鷹を連想させた。広がった長い翼、小さなかんむりと裳裾のごとく広がる尾羽。しかし、白い体は薄っぺらく、羽ばたく様はあまりにも頼りない。

 乾いた、羊皮紙をこすり合わせるような音が降ってきた。

 ラガートは瞬いた。

(紙の鳥?)

「なんだ、あれ……」

 ルーファが代弁するかのごとく呟いた。

 ふたりの目の前に現れたのは、ぱさぱさと紙の翼でなんとか低空飛行する『鳥』だった。何枚かの紙片を継ぎ合わせ、いささか不格好な鷹に仕上がっている。

 不意に『鳥』は体勢を崩した。パッと弾けた紙片がラガートの足元に散らばる。

 ラガートが剣を抜くよりも早く、紙片に火が点いて薄紫の煙が広がった。

「小兄上!」

 ルーファの悲鳴には応えず、ラガートは弱々しく燃えていく紙片を睨んだ。

『――この『手紙』が届いた先に、唯一の希望を託す――』

 紙の爆ぜる音に混じって掠れた男の声が響く。魔法使いサーヒラ、とルーファが震えながら言った。

 魔法使い。遥か大陸の東方では、妖精術師とも呼ばれる人ならざるひとびと。太古の時代に生きた妖精族の裔であり、その秘技を血脈とともに伝える奇蹟の繰り手。リュトリザを含む大陸の西方では数少なく、それこそヨルンの民のようにおいそれとめぐり会えない相手である。

 幸運をもたらす語り部と異なるのは、善良なる白の魔法使いと悪しき黒の魔法使いに分かたれるということ。

 ゆえに魔法使いは畏怖され、同時に忌避されるのだ。

『私は妖精術師のイーフェニキータ。この声を聞くひとよ、どうか私たちを助けてほしい――』

 切実な男の声が窮状を訴える。

 イーフェニキータとやらは、ある隊商の一員だということ。方角を見失い、砂漠の只中で動けなくなってしまったこと。水が底を尽き、このままでは仲間から死者が出るかもしれないこと。『手紙』にはまじないを施しており、もしも居留地への空間転移を許してもらえるのであれば紙片が燃え尽きる前に火を消し、「開門シァンク」と唱えてほしいということ。

 紙片はじわじわと黒く萎み、塵になると風に吹かれて散っていく。最後の一枚から煙が上がった刹那、ラガートは靴底で火を揉み消した。

 ルーファは信じられないとばかりに気色ばんだ。

「何するんだ、小兄上!」

「……真実であれは、見過ごすわけにはいかないだろう。天上のミアは略奪と流血をお許しくださったと同時に、砂の海でもがく旅人があれば慈悲の手を差しのべよと俺たちに示された。この魔法使い殿が白か黒かは、俺とおまえでは決められない」

 苦い口調で答えると、弟はぎゅうと眉根を寄せた。

 過酷な環境で生きる砂漠の遊牧民は、慈しみ深く厳格な太母神への信仰心が極めて強い。生きるために他者の血を流すのならば、善行を以て罪の緋を雪げ――裁きの司たる女神の教えは、年若い兄弟にすら根深く染みついている。

 ラガートは懐から手拭いを取り出し、端の焦げた紙片を慎重に包んで拾い上げた。

「戻ろう、ルーファ。急いで兄上に報告しなければ」

「……うん」

 不安を覗かせるルーファの頭を軽く撫で、ラガートは踵を返した。ごう、と耳の奥で風の音が渦巻く。

 まるで幼子に返ったような足取りで、兄と弟は砂丘を駆け下りていった。

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