解けない式
昨日とは打って変わり、今日の煙草屋は騒がしかった。
「──でさ、零くん、紫呉が猫抱っこしたら引っ掻かれそうになって。」
声は軽く、しかし店内に響き、猫の毛の匂いや夜の冷気と混ざる。
「紫呉の顔が気に要らなかったんだろうな」
嘲笑気味に返す神崎は、帳簿に目を落とし、数字を追う。
「えー?こんなに良い顔面なのに?」
「自分で言うなよ(雪都と零くんは普通に会話しているのに、お互いに踏み込もうとしない。…ずっと踏み切りの前に立っているみたいだ)」
言葉の裏に微妙な距離感があり、目線や間合いが会話のテンポを支配していた。
三剣は間を見計らい、「じゃ、俺行くね」とだけ言って煙草屋を後にする。
君下は店内に残る。椅子に腰掛け、カウンター越しに神崎を観察する。神崎は帳簿をつけており、表情はほとんど変わらない。手は黙々と動き、作業に没頭している。
君下は心の中で、小さな指示を与えるような感覚で声をかける。
「隼人、黙々とやるのもいいけど、ちゃんと俺の話を聞いてる?」
「聞かなくても分かるだろ」
「まあ、そういうところ、嫌いじゃないけどね」君下はそのまま観察を続ける。「触れられるのに、触れないのって……不思議だよね」
神崎は短く「守ってるだけだ」と言った。言葉に指示や強制はなく、承認を求めるような口調が混じる。
全てを把握している自分にとって、三剣と七条の関係は完全に言語化できる対象だった。しかし神崎だけは違った。感情があっても行動に出ず、嘘をついていないのに本心が読めない。
君下の中に、初めてノイズが生まれた。
「……雪都、まだ居るのか?」
神崎の問いに君下は答えない。観察することで得られる情報が、自分にとっての安全圏だった。踏み込めば壊れるものもある。踏み込まずに残せば、理解できないものを手元に置ける。
君下は心の中で分析する。三剣は完全に支配せず、七条は壊さないために縛らない。この二人の関係を、すべて理解できる。
しかし理解できるものほど、本質ではない。その直後に神崎を見つめる。理解できない。定義も言語化もできない異物が、そこにいる。
(……分からないものを、排除すべきか)思案するように、君下はつぶやく。「それとも——残すべきか」
初めて、自分の中で選択が生まれた。理解できない存在を手元に残すかどうか。
けれど、それを選んだ後の自分を——まだ定義できない。




