第三十六話 想い
大きな果物を一生懸命に運びながら、境内に現れた白蛇の姿が浮かぶ。
――わ! その果物……もしかして、恩返しのつもりかい?
――いい子だね、おまえ。神主さまの言う通り、神の化身なのかもしれないね
――そうだ。名前をつけてあげよう。おまえにぴったりの名前を思いついたんだ
――ましろ。……どうだい? なかなか、いい名前だと思わないか?
――持ってきてくれた果物は、二人で分けようね。……さぁ早うお食べ! おまえも腹が減っているんだろ?
ましろと名をつけた日から、白蛇は幾度も社に現れ、次第に「神の化身」として村人達にも愛されるようになった。
――ましろ。良いものをあげよう。村の人達が綺麗な組紐をくれたからね。神主さんに鈴をつけてもらって、お守りにしたんだ。これをつけていたら、おまえがどこにいるのかすぐにわかるよ。またタヌキに襲われたって、助けてあげられる
――何だいましろ、嬉しそうに頭をこすりつけてきて……。ああ……もう。お前は、本当に可愛いね
しばらくは、幸せな日々が続いた。……けれど、歪みが見えていなかったわけじゃない。
増え続ける税。忙しなく山道を駆けていく検非違使たちの姿。長く続いた日照り。それによる不作……不穏は積み重なり、神主様が疫病にて亡くなったことが、ついに村人たちの心を壊した。
――人柱だ
――人柱を立てねばならぬ!
人柱として白羽の矢が立ったのは、もう、どこにも身寄りのない朱乃だった。
土に埋められる間際。一匹の白蛇が、必死に穴を滑り降りて、私の元に向かってくるのが見えた。
ましろの、頭の近くに結わえられた鈴が、ちりんと音を立てる。その音が、必死に私を呼んでいるようにも聞こえた。
――おお! 蛇神さまだ! 蛇神さまが贄を迎えに来てくださった!
――蛇神さま、どうか村を救ってください!
……村人の解釈は、都合の良いように歪んでいたのだろう。
ましろは必死に私を縛る縄に食いついて、逃がそうとしているように見えた。
――ましろ。良いから、早くお逃げ。お前まで埋められてしまうよ
人柱として埋められる寸前だというのに、不思議と、私の心は凪いでいた。
――昔は……みんな、いい人達だったんだ。災禍が、みんなの心を歪めてしまった。……だから、あたしはみんなを恨まない
朱いつぶらな瞳が、じっと私を見つめる。
……その瞳が、まるで、涙に濡れているようにさえ見えた。
――ましろ、お願い
ましろの姿が、ふわりと宙に浮く。
細い胴体に、先を輪にした縄が引っかかっている。村人たちが「蛇神」のみを穴から出すために投げ入れたのだと、すぐに分かった。
――この村を、守って
呪いにも似た、「契り」の言葉が、穴の中に反響する。
――みんなが心穏やかでいられたら……笑って過ごせたなら……もう、人柱なんて要らないんだ……
ましろは最初、大きく暴れていたけれど……私の願いが届いたのか、それとも抵抗を諦めたのか――やがて大人しくなり、穴の外へと連れられていった。
最期に見た空は、朱く色付いていた。
……ましろの瞳のように、美しい色だった――
***
「……ましろ」
白昼夢から目覚める間際。思わず、その名を呼んでいた。
私の腕の中で、蛇神――いや、ましろは一瞬ぽかんと目を見開き、ぽろぽろと大粒の涙を零した。
「……ようやく……ようやく、その名を……憶い出してくださったのじゃな……」
しゃくり上げながら笑顔を見せ、ましろは私の肩口に顔を埋める。
私はその頭を抱き寄せ、もう一度強く口付けた。
「ごめん……遅くなって。でも、もう大丈夫。今度こそ、ずっと一緒にいるから」
「……お前さま……! お前さまぁ……っ!」
涙と口付けが幾度も交わり、互いの体温を確かめ合う。人間よりも体温の低いひんやりとした身体が、何よりも心地よかった。
そっと彼女を布団の上へと導く。
畳に擦れる衣の音が、黄昏の静寂に響いた。
青白い肩を抱き寄せると、ましろは小さく身を震わせ、おそるおそるといった様子で私の背に腕を回す。豊かな胸が私の胸に押し付けられ、激しい脈動が伝わってくる。
「……お前さま……」
「大丈夫。怖くないよ。……もう、離れない」
私に縋るよう頬に添えられた手は、震えていた。
張り詰めた不安ごと抱きしめるように、再び唇を重ねる。
幾度も重ねるうち、口付けは次第に深くなり、身体の境界が溶けていくようで――私と、ましろが、一つになっていく。
そういえば、最初の「巡り」で私が眷属になった時も、こんなふうに口付けたような気がする。
ずっと一人きりで眷属を産んできたましろの「初めて」をもらった、あの日――
「……今度は、忘れさせないでね」
「む、無論じゃ! ……もう、そのような力もない」
「もう……力があるとかないとかじゃなくて。憶えておきたいの。ましろの可愛いとこ、全部」
「……っ、適わぬな……」
照れたように顔を隠そうとするから、そっと腕に触れ、「もっと見せて?」と頼む。
ましろは耳まで赤くしながらも、静かに頷き、私の手に身体を委ねた。
「朱乃……」
「秤、だよ。今の私は、『秤』。……もちろん、朱乃の心もあるけど……『今の私』を、ちゃんと見て……?」
「……はか、り……。……はかり……!」
「そう、そうだよ。可愛いね、ましろ……」
溢れ出る吐息の合間に、ましろは幾度となく私の名を呼ぶ。
切なげな声に応えるように、私も、何度もましろの名を呼んだ。
日は静かに暮れていく。
夜の訪れとともに、ようやく、私たちの想いがひとつに重なった。




