第九十一話 「遠い空の星と月」
複数ある窓からうらうらと日が差し込み、木製の床に四角い日だまりを作っている。
眠気を誘う暖かな陽光にうとうとしている者や、それを何度も起こしている教師の声が遠巻きに聞こえた。
ふと隣を見やれば、同じように眠そうにしている童顔の少年が。思わず「ふっ」と笑みをこぼしつつ正面に向き直る。
穏やかな時の流れを感じる午後のひととき、その一角だけは張り詰めた空気が漂っていた。
――日だまりの中、動いた影が二つ。
左手を突きだした淡い人影に、浮かび上がった一際大きな球体。
短い詠唱で具現化したソレが、微動だにしない別の影に向かって猛進する。
「……」
ゆるりと顔を上げた先、煉瓦色の瞳に映るは赤々とした炎。
初歩中の初歩にして、中位の魔法に引けをとらないほどの改良が施されたそれは、生半可な魔力では凌げない破壊力を持っている。
その離れ技に対し、無口な少年が一言発する。
「――獅子神楽」
迫る炎がわずかに揺らめいたかと思えば、途端に進路を変えて横に逸れていく。
そのまま右方の壁に衝突して轟音を立てると、うたた寝していた生徒が慌てて飛び起きた。
「うわ! あれ……いつの間に雪宮さんたちやってたんスか……?」
「ちょうど今始まったとこだよ」
寝ぼけ眼を擦っている七霧に顔は向けず、呟いた智也の視線は目の前の戦闘に釘付けだ。
両の手に魔力を集めた久世が、今度は大量の雨粒を以て対象を撃ち抜かんとする。
先の一手とは打って変わり物量を意識したその戦法に、対する雪宮は右手を翳すとまた小さな声で呟いた。
「Espoir30【逆風】」
風を切るように飛来した幾つもの雨粒が、突如吹き荒れた強風にさらわれて飛び散ってゆく。
顔の前に腕をやりながらその様を見やった久世は、一瞬何かを悟ったような面になったがすぐに意識を切り替えて、
「Reve30【突兀】!」
触れた右手から流れる魔力が、床を伝って対象の足元に到達する。一瞬の間をおき、勢いよく突き出てきた尖った大岩を、雪宮は咄嗟に後ろに飛んで躱した。
――その大岩を陰に詰め寄った久世が、雪宮の更に頭上を飛び越える。
空中で身を回し、振るった左腕がガラ空きの背中を捉えた。
風切り音を鳴らしながら飛んでくる半月型の斬撃。激しい動きによって揺れ動く前髪の隙間、煉瓦色の瞳が大きく見開かれる。
と、右腿の辺りを軽く払った雪宮の、その周囲に巻き起こった風が迫る斬撃を防ぐ。
先に地に足をつけた雪宮はすぐさま後ろに向き直ると、目を丸くさせる久世へと反撃に転じた。
「……26【散らし風】」
とぐろを巻くように進行する風が、逃げ場のない久世の身に襲い掛かる。しかし彼は瞬く間に水の膜を展開するとその分厚い層を以て旋風を受けきり、緩やかに降り立った。
目まぐるしく変わる一進一退の攻防に、見ているこちらの息が詰まりそうになる。
それぞれの個性を活かした二人のそんな戦いに、智也は何度も固唾を呑んでいた。
ちょうど、最初の立ち位置を反転させた位置取りになった二人。
しばし静寂の中に身を置いたあと、どちらからともなく動き出した。
「Reve26【散らし風/灰龍】」
「Reve29【相縁気炎/獅子頭】」
龍を模した旋風と獅子を象った炎がぶつかり合う。
属性の相性では後者に分があるが、それを物ともしない魔力量で吹き荒び、風が咆哮する。
風巻く躯幹が対峙する炎の壁を大きく揺るがし、龍の顎がまさに獅子の頭に喰らい付こうとしたとき、八つの火玉が炎をすり抜け四散、そして相対する久世の視界を横切った。
――来る対抗戦に備え、智也が提案した練習メニュー。
それは従来ならほとんどの者があまりしてこなかった、背後を取るという意識。『魔法紙』の破壊が勝利条件の一つとしてある以上、それの対策及び訓練は必須だった。
そして、こと裏取りに関して雪宮の右に出る者はいない。
相手と対峙したまま繰り出した魔法を自在に操れるその優位性は、無限の可能性を秘めているからだ。
「そうくると思ったよ……!」
と、背後を取られた久世は後ろを見向きもせず、無防備な背中を晒したまま雪宮に向かって駆けだした。
そうして右手を翳し、唱えた言霊に呼応して射出される群雨。にわか雨の如く散発したその魔法に、今度は雪宮は守りに入らない。
床を蹴り、乱れ撃たれる雨粒を走って躱しながら、右手で操った火玉が加速。逆に久世を追い詰める。
久世はすぐさま空いている利き手を後ろに振ったが、放たれた斬撃が鳥のように自在に飛翔するそれらを引き裂くには至らず。たまらず足を止めて水の膜で守りを固めた。
畳み掛けるように降りかかった火玉が次々と下火になって消えゆく中、ぐっと距離を縮めた雪宮が、隙を見せた久世の背中に手を伸ばす――。
「Espoir35――」
「ぅ、ぉぉぉぉおおおお!!」
その瞬間、どこからともなく飛んできた神童が久世にぶつかり、二人まとめて端の方まで吹き飛んでいった。
寸前、波紋を生んでいた水の膜はしかし外部からの衝撃に歪んで崩壊。飛沫を上げて霧散する。
「……あれ、神童くん!?」
「っ、いったい何が……」
コートの反対側から紫月の驚いたような声が聞こえ、頭を押さえながら身を起こした久世が、形のいい眉をひそめた。
おそらく真っ先に視界に入ったであろう男の面を見て、その柳眉が一層険しくなる。
「あーっと……ご機嫌麗しゅう? なんつって」
「心底、不愉快だよ」
苦笑いを浮かべながら手を差し伸べた神童に、自力で立ち上がった久世は襟を正すと身体についた埃を払うような仕草をする。
そうしていけ好かない銀髪には目もくれずに横を過ぎ去ると、困惑したように固まったままの雪宮に頭を垂れた。
「すまない、邪魔が入った」
「……ょうぶ」
「さて、続きをやる……といった空気でもないか。少し休憩を挟むかい?」
その問いかけに雪宮がおもむろに首肯する。それを受けた久世は小さく嘆息して、二人は小休止することに。
白熱した戦いだったというのに、とんだ興ざめである。それをやった本人は暫くの間、久世に対して謝り倒していた。
✱✱✱✱✱✱✱
選抜された五人が各々案を出し、対抗戦に備えた練習を行っていた一方で――残りの生徒もまた担任からの指示を受け、自主練習にあたっていた。
二人一組のペアを組み、互いにいま自分に足りないものが何なのかを思案し追及するといった方針であったが、しかし一部では険悪な空気が生まれていた。
「さっきから何しけたツラしてんだよ」
「……別に、普通だよ」
「普通じゃねぇから言ってんだろうが」
「それを言ったら、藤間くんだって同じでしょ」
「なんだと……?」
らしくない物言いで楯突く国枝と、それに眉を吊り上げる藤間。両者とも自らの意思でペアを組んだはずであるが、何故か早々に溝が生じている様子。
「どうしたんだろう? あの二人」
「さぁ。巻き込まれないように離れとこ」
そんな二人に怪訝そうな目を向ける者もいれば、煙たく思う者もいるようで。自然と他の生徒は距離を取っていた。
制服の襟を掴みにかかった藤間に、深碧色の瞳が呆れとも嫌厭ともつかない感情を浮かべている。
「そうやってすぐに手を出そうとするの、藤間くんの悪いところだよ」
「テメェ何様のつもりだ……?」
「ほら。そんな風に他人を見下しているから……だから負けたんでしょ、彼に」
ブチッと、何かが切れるような音がして。
目を血走らせた藤間が、握り拳を振りかぶった。
「――そこまでだ。いい加減にしろ二人とも」
今まさに振るおうとしたしていた拳を後ろから掴み、仲裁に入った男が灰の眼を鋭くさせる。
それに舌打ちを飛ばした藤間は捕まれた腕を強引に振りほどくと、壁に怒りをぶつけてそのまま体育館の外へと出ていった。
見えなくなった藤間の後ろ姿から目の前の生徒に視線を移し、暫しじっと見つめたあと、男は声にならないため息を溢して頭を掻く。
「……すみません、おれが言い過ぎました」
潔く自分の非を認める国枝に、無言の眼差しが注がれる。
その灰の眼は何を見据えているのか。舞台側の方に顔を向けた彼は、そちらを向いたまま一つ問いを投げてきた。
「――国枝、俺のこと恨んでるか?」
「……何がですが?」
「いや、悪い、今のは忘れてくれ」
突拍子もない問いに国枝が疑問を口にするも、返ってくるのは苦い顔と歯切れの悪い物言いで。聞いておいて忘れろなんて勝手にもほどがあるが、その横顔は質問を受け付けてはくれなさそうだ。
――微かに聞こえる周りの生徒の話し声と、前方で床を蹴って走り回っている者の足音。それらを耳にしながら、隣で棒立ちのままでいる男の顔を国枝が再度見やる。
その灰の眼には覇気があらず、ただぼんやりと遠くを眺めていた。
「面倒見のいい奴、真面目な奴、正義感が強い奴……みんなそれぞれ、何かしらの長所を持っているもんだ。自分では気付いていなくてもな」
おもむろに、ぽつぽつと言葉を紡いでいく男に、自然と国枝の目線が下がってゆく。
それはなにかを怖れているようでもあり、なにかを思案しているようでもあった。
「人は皆、自分にないものを求めようとする。その結果周りの美点と己の欠点とを無意識に比較して、自己嫌悪に陥るんだ。自分の中にも光るものがあるはずなのに……それを見落としてしまうのは何故だと思う?」
「……分かりません」
「自分の能力は、それが出来て当たり前だと認識しているからだよ。――つまりお前が何の変哲もないと感じている要素こそ、周りから見たお前の美点ってわけだ」
下を向いていた深碧色の瞳が忙しなく左右に揺れ動く。
それを目の端に捉えた男は、ポンと優しく頭に手を置いた。
「あまり悲観的になるなよ。自分で自分を否定してたら、身がいくつあっても持たねーぞ」
そう言って向けられた眼差しにはどこか温かみが感じられて。しかしそれで国枝の表情が完全に晴れるには至らなかった。そこはかとなく男の面も、陰ったように見えた。
「……先生は、人より劣っていると感じたことはありますか」
「あぁ、死ぬほどあるよ」
意外にも会話の続行を選んだ国枝に男は間髪入れずに答えた。それは冗談でも慰めからの言葉でもなく、事実そうであったと真剣な眼が語っている。
それに「そうなんですね」と国枝は弱々しく言葉を返して、
「みんな凄いですよね。まだ一月も経っていないのに、どんどん成長して前に進んでいく。初めは隣に並んでたと思っていたのに、いつの間にかおれだけが取り残されちゃった」
「特段、お前が後れを取っているとは思っていないぞ」
「本当にそうですかね。おれには、遠い空にいるみたいですよ」
白髪の少女と戦っている少年の姿を映したその瞳は、どこか物悲しそうな色をしていた。
手を伸ばせば届く距離のはずなのに、そこには見えない壁があるかのように隔たっているみたいで。
暗澹とした生徒のそんな表情を、男はただ静かに見つめていた。
✱✱✱✱✱✱✱
「せんせい、また明日」
「おっつ~」
そう言って帰路に就く生徒に軽く手を挙げて応じ、全員帰ったことを確認した男は体育館の扉を閉めると、同じように渡り廊下を通って本校舎の方へ足を進めた。
タイル張りの床を踏みしめ、一瞬右方に視線をやったがしかし小さく首を横に振ると、頭を掻きながら左手――正面玄関へと回り込む。
楽しそうな生徒の話し声を背に、上階へと続く赤絨毯の敷かれた大階段を上る。そうして職員室のある二階へと辿り着いた男はそこを素通りし、今度は反対側にある長めの折り返し階段を上り始めた。
上へ上へと進んだ先、別棟へと繋がる細い通路を渡れば、やがて目的の場所が見えてくる。
元は望楼だったのか見晴らしのいいその建物は、学園の周囲一体を眺望することが可能となっていた。
四方に壁はなく、柱だけで屋根を支えているその形状は四阿に近いだろうか。
そんな人気のない静かな場所に、男は先客を見つけた。
夕暮れ時の、ほんのり赤みがかった空の下。西空よりも鮮やかな赤い髪を風になびかせながら、一人の女性が柵に寄り掛かって遠くを見つめている。
「――桐明、帰ってたのか。何してんだこんなところで」
「あ? 恭吾か。お前の方こそ珍しいじゃないか、こんなところにさ」
灰の眼を丸くさせる男に、女性は含みのある笑みを浮かべる。それに対し「あぁ……そういやお前のサボりスポットだったか」と苦笑をこぼして、男は柵に肘をつくようにしてもたれかかった。
「――懐かしいな」
「そうか? 私は記憶に新しいぞ。あの日のお前の面は、今でも鮮明に覚えている」
指で自分の頭をトントンと叩きながら意地の悪い笑みを浮かべるその姿を横目に、男は「ふっ」と鼻を鳴らす。
「まさか、今日も任務をすっぽかしてたわけじゃねーよな?」
「それが叶うならそうしたかったよ。ったくあのクソジジイ、ちょっと親切にしたらすぐに調子付きやがって、用もねぇのに呼び出しやがんだよ。私は便利屋じゃねぇっつの!」
「……はっ。災難だな」
「あ? てめー恭吾、他人事だと思いやがって」
口から炎が出そうなほど怒りをあらわにする女性に、男の表情がわずかに緩む。それに女性が更に眉を吊り上げて、
「お陰さまでこっちはろくに授業もできやしねぇ」
「なんだ、負けたときの言い訳か?」
「まさか。あの子たちは柔じゃない。私が憂えているのは、娘たちと過ごすための時間が不足していることだよ」
まるで我が子を溺愛する母のような口ぶりだ。それに対し男は、片眉を上げて小さく肩を竦めた。
――冷たい風が頬を撫でる。
眼下を見れば、ぽつぽつと街に明かりが灯っていく様が窺え、その一体を取り囲む高い城壁の向こう側、どこまでも続く緑の大地が茜色に染まっていた。
「なぁ、俺たちがやっていることは果たして正しいのか?」
「あ?」
突飛な発言をする男に女性が顔をしかめ、隣に目をやれば、ここではないどこかを見つめるようなそんな眼差しがあった。
「萌え出たばかりの若葉は空の青さを知らない。大人が無闇矢鱈と手を加えるより……ありのままの姿に育つのが一番美しいんじゃないのか?」
「らしくないな、今日のお前はいつにも増して顔が死んでやがる。――生まれたての雛は自力では歩けない。この世知辛い世の中で生きていくためには、なおさら大人の手助けが必要だろ」
「その結果外の世界を知り、危険な目にあったとしてもか」
「はっ、お前も子を持ってみればわかるさ。見守ることも大事な勤めだってな」
懐疑心を孕んだ灰の眼に、女性は自嘲めいた笑みを浮かべる。それからつり上がった眉を更に険しいものへと変えて、
「遅かれ早かれ巣立つときは来る。私たちだって、いつまでも傍にいてあげられるわけじゃない。だからこそお前も、身を守るための術を教えてきたんじゃないのか」
「それは……」
核心を突かれたように渋面を作る男に、女性は言葉を続けた。
「亡くなった子供たちのことは悔やんでも悔やみ切れない。だがいま芽生えている若葉を守るためにも、変わらず全身全霊を注がなければならない」
いつか訪れるであろう平穏を手にするまでな。と難しい顔をしながらそう付け加えると、黒いジャケットのポケットを探り、小さな何かを放り投げた。
「牧場の子供から貰った飴玉だ。くれてやる」
投げ渡されたそれを覇気のない目で見つめる男に女性は愉快げに鼻を鳴らし、ポケットに両手を突っ込みながら本校舎の方へと去っていく。
それに一瞥くれてから再び手元に視線を落とした男は、包み紙をほどくと、一風変わったしずく型の飴玉を口に含んだ。
「あっま……」
静かな望楼にそんな一言を残し、肌寒くなった体を擦りながら男もその場を立ち去る。
茜色に染まった空は緩やかに光を失っていき、やがて完全なる漆黒に呑み込まれていく。
それはまるで、死にゆく人間の事様を写し取ったかのようだった。




