第八十二話 「負けられない戦い」
「おはよ~! 栖戸っち」
「おはようです」
「ゆきみーもおっは~!」
「よ……ぁ」
続々と第一体育館に集まりだしたクラスメイトの姿に、もうそんな時間かと智也は独りごちた。
妙な息切れはもちろん、狂っていた平衡感覚も既に治っており、体に異常は感じられない。
本当に一時的なものだったのだと思いながら、智也はあの不可思議な空間でのことを今一度思い返した。
――影の世界。
そして智也の世界でもあると少女は言った。それは単に、所有物であるという意味なのだろうか。
直前の先生の話から、智也の影が『魔武器』として変異しているのはまず確定だ。誰も彼もが影の中に入れるとも思えないし。
「まぁ、それを体の一部として判定していいのかどうか、些か疑問ではあるが……」
それよりも何よりも、いつどこで変異したのかまるで身に覚えがないことが不可解である。
あるとすれば智也の知らぬ間に仕込まれていた可能性か。
結局、何故あの少女が影の中にいたのかも判然としないままで。
思い返せばいつも肝心な部分を隠されているような気がしたが、自分の『魔武器』が見つかったことで満足している智也の方こそ、実は懐柔するに容易いのかもしれない。
「あ、先生来たよ~秋希ちゃん」
「う、うん」
「全員揃ってるなー」
「待ってましたっス!」
担任の顔を見るや否や、場が騒然とし始める。
何故なら、今日この時を待ち望んでいた者が多数いたからだろう。
その中の一人であった智也も、今や蚊帳の外ではあるものの、少なからず胸は弾んでいた。
早く発表してくれと言わんばかりに押し寄せる生徒に、先生は目を丸くさせて、次第に口の端を吊り上げる。
「んじゃ、今からクラス対抗戦の選抜メンバーを発表する」
「うおー! 緊張してきたー!」
「きたきたー!」
何をどう間違えれば緊張することがあるのか、七霧と一緒になって神童がはしゃいでいる。どこまでも前向きでいられる彼の原動力は、一体どこから来ているのやら。
「――厳正な審査をもって選ばせてもらった。先にそれだけ理解しといてくれ」
と、前置きをした先生が改めて十五人の顔を見回した。
瞑目している者。期待を寄せてそわそわしている者。静かに灰の眼を見つめ返す者。そして、自信に満ち溢れた表情をしている者の顔が、そこにある。
「始めるぞ」
次に先生が口を開けば、選抜メンバーのそれが明らかになる。
そう思うと無性に喉が渇き、短いようで長かったこれまでの記憶が、自然と智也の脳裏を過った。
「一人目、久世聖」
「はい」
まず初めに名前を呼ばれたのは、やはり久世だった。彼には満場一致で頷いてしまうだけの資質が、残してきた数々の成果がある。
模擬戦では先生が相手ということで勝つことこそできなかったものの、その実力は他のクラスをも圧倒するほどだった。
クラス対抗と銘打った戦いの場で、彼を選抜しない手はまずあり得ないだろう。
そう考えているのが智也だけじゃないというのは、周りの反応から易々と理解できた。
「二人目、水世怜」
「はい」
続けて、水世の名が上がった。
優れた技量を持つ故に選ばれるのは予想の範囲内だったが、才華爛発な者ほど選抜されやすいのだろうか――という疑問が同時に湧いてくる。
才能があればそれだけ好成績を残しやすいのは道理だが、では元より資質に恵まれなかった者に希望はないのかと、そう思いたくもなる。
やはり選抜入りを狙うのであれば、なにがなんでも模擬戦で勝利をもぎ取らなければならなかったのだ。
「三人目、七霧零」
「はいっス!」
「やったね、七霧くん」
そして、資質でいえばあの久世と負けず劣らずな七霧が三人目に選ばれる。
隣で嬉しそうな顔を見せるそんな友人に、智也は羨望の眼差しを向けていた。
――負けたものは仕方ない。
短い期間だったが必死に周りに追い付こうと励み、文字通りの全力を出して戦ったのだ。それで敵わなかったのなら、素直に相手を称えるべきである。
そう思って、智也は力強く拳を握りしめた。
「四人目――」
智也たちの緊張を煽っているのかなんなのか、それまで流暢に語っていた先生の言葉がそこで途切れた。
何をもったいぶっているのかと言いたくもなるが、考えてみれば選抜入りの枠は残すところ二つだけである。
模擬戦の勝者はまだ五人もいて、先の三人以外にもポテンシャルの高い者は存在する。果たして、残る二人に誰が選ばれるのか――――、
「雪宮蛍」
「……!」
「スゴいじゃんゆきみー!」
「おめでとう、雪宮くん」
声こそ出ていなかったものの、長い前髪に隠れた煉瓦色の瞳が大きく見開かれていたのを智也は目にした。
よほど嬉しかったのか、口元を綻ばせていたのも意外である。
言わずもがな、彼も突出した才能の持ち主だ。
模擬戦にてたった二回の魔法で勝利を収めたその手腕は、見る者を震えさせた。本番での活躍が最も期待されるのは、彼といっても過言ではないだろう。
――そして、ついに残す枠は一つとなった。
今か今かと待ちわびるように目をギラつかせ、灰の眼を見つめる――いや、睨んでいる者がいる。
その刺すような視線を感じてか、先生はそちらを一瞥したあと正面に向き直り、おもむろに口を開いた。
「最後だ。五人目――黒霧智也」
「――え?」
「やったっスね、黒霧さん!」
何か聞き間違えたのだろうか。呼ばれるはずのない自分の名前を耳に拾った智也は、欲望が強すぎたがために幻聴でも聞いたのかと困惑した。
だが、それでは隣で喜んでくれている七霧の説明がつかない。
もしも、或いは、万が一それが幻聴ではないのだとすれば――、
「ふざけんじゃねぇ!!」
ちょうどいま危惧していたことが目の前で起こった。
目を血走らせ、歯を剥き出しにし、怒りをあらわにした藤間が大口を開けて吼える。
「テメェ俺のこと舐めてんのか!? 一度だけならまだしも、今回は絶対に認めねぇぞ!」
「前もって伝えたはずだ、厳正な審査によって選んだと」
「どこが厳正な審査だ。テメェで選り好みしてるだけだろうが!」
選り好みしているだけ。確かにそう言われても仕方がないと、智也自信もそう思う。
選抜入りを目指して励んでいた身だ。こうなることを夢に見ていたはずだが、こればかりは智也も素直には喜べない。
一縷の望みも抱いていなかったといえば嘘になる。心の奥底では、もしかしたらと願う気持ちがあったのだ。
しかし選ばれるとしても、自分に勝った藤間を差し置いてとまでは智也も考えていなかった。
「こんなクソみてぇな人選、納得できるわけがねぇ。それもよりによってなんでアイツなんだよ。――答えろよ!」
「お前に欠けているものが黒霧には備わっている。ただそれだけの違いだ」
「俺が劣ってるって言いたいのか!?」
「あぁ、そうだ」
「――ッ!!」
ぶちっと、血管が切れたような音を錯聴したようだった。
ついに怒りを抑えきれなくなった藤間が先生に詰め寄り、その胸ぐらを掴み掛かる。
対して先生は伏せていたその目を藤間に向けると、いつになく力強い瞳で見つめ返した。
「次戦えば、間違いなくお前は黒霧に負ける」
「なんだと……? 人をコケにするのも大概にしやがれ!!」
「俺は至って真面目だぞ。今のお前じゃ……もうあいつには勝てない」
何を根拠にそんなことを言っているのかと、そう思ったのはむしろ智也の方だった。
藤間に負けて以降塞ぎ込んでいた智也は学園にもいかず、ただただ自堕落な生活を送っていた。
それから心身ともに復調したのは、まさに昨日の今日のこと。確かに多少は実るものがあったものの、まだまだ何もかもが鍛錬不足なのだ。
あれほどまでに実力差のあった藤間に対し、たったそれだけのことで張り合えるとは、とても思えなかった。
「だったら……もう一度捻り潰して証明してやるよ。俺が勝ったら、テメェはここで土下座しやがれ!」
「いいだろう。お前がもし勝てれば土下座して、選抜メンバーに加えてやる」
「待ってください、なんで先生がそこまでしなくちゃいけないんですか! それに、負けた自分に選ばれる権利があるのなら、他の人だってそれを望んでるはずですよ」
模擬戦に勝っていた人なら、なおのことだろう。
五人目が発表されて智也が困惑している間、一方で酷く落ち込んでいたクラスメイトもいたのだ。
今もなお友人に宥められているその者を横目に見て、智也は先生に問い掛ける。
「どうして自分なんですか……?」
「話せば長くなる。逆に聞くが黒霧、お前は対抗戦に出たくないのか?」
「そりゃ出たいですよ。でも……」
「ハッ、どうせ負けるのが怖くてビビってんだろ。その程度の雑魚なんだよそいつは!」
「――お前は黙ってろ、藤間」
強圧的なその声に、場が静まり返る。
藤間は衝撃を受けたような表情をしたあと、舌打ちを飛ばしつつ、顔を歪めていた。
「どうする、黒霧。再戦の切符を手にするかどうかは……お前次第だ」
そう先生から告げられて、万感の思いが込み上げてくる。
何よりも憧れの男に期待され、戦うか否かを問われて、それで尻尾を巻いて逃げるなどという選択肢が生まれるはずがない。
それに、ここでリベンジを果たすことができたなら、変に負い目を感じる必要もなくなるのだ。
――いや、他の生徒がどう思っているかなんてこの際どうだっていい。
その権利一つ手にするために、智也がこれまでどれほどの思いを抱いてきたか。
全力を尽くし、それでも敵わなかったあの男にどれだけ悔しい思いをさせられたか。
例えそれが先生からの温情だったとしても、せっかく手に入れた再戦のチャンスを、智也が見す見す逃すわけがなかった。
――勝ちたい。勝ちたい。今度こそ。
智也の心はいま、その一色に染まっていた。
「……やります。戦わせてください!」
「わかった。試合は念のため午後から行う。それまでにお互い頭を冷やしとけ。いいな?」
「…………」
これまで以上に殺意のこもった目で睨んでから、藤間が体育館を去ってゆく。
午前の授業はまだ終わっていなかったが、先生もそれくらいは目をつぶったようだ。
そうして残る時間、昨日に引き続き『魔武器』の命名が執り行われることになり、智也はその中で一人、必死に必死に作戦を練っていた。
✱✱✱✱✱✱✱
「……これか、攻撃魔法四十七番」
――攻撃魔法四十七番、【大佗羅】。
――召喚陣を用いて巨椀を顕現させる魔法。
――その膂力は人間のソレを遥かに上回り、
――その膚はどんな刃も通さない。
「俗に言う召喚魔法ってやつか」
藤間との再戦に備え、まず初めに智也が考えたのは、あのトラウマとも呼ぶべき絶望の化身への対策だった。
それで『魔導書』を引っ張りだして読んでみれば、大方想像通りのものがそこに書き記されていた。
智也の知識で言えば召喚魔法というのは段取りや準備に手間がかかる分、強力な助っ人を呼び寄せることが可能になるというイメージがある。
まさにその印象通り、アレはただの腕一本と侮っていいような代物ではなかった。
一応対抗策として考えられるのは、召喚のために必要な陣をそもそも完成させないことと、出来上がった魔法陣を掻き消すことか。
智也の攻撃を躱しながらいつの間にか描き上げていたことを考えると、前者は難しいかもしれない。
そして後者も、確実にできるという保証はない。
おそらくあれは、藤間にとっての切り札のはずだ。それをどうにかしない限り、智也に勝機はないだろう。
加えて、その切り札が一つじゃないという可能性も考慮しなければならない。
それに付随して次に考えるべきは、藤間の適性についてだ。
彼が主に用いるのは火と土属性の魔法であり、他の属性については蔑ろにするような態度が授業でも散見されている。だからこそあのとき、智也は水属性の魔法が展開されるとは思いもしなかったのだ。
ともあれそのことを顧みると、知識としてだけでも中級魔法の全容を今一度頭に入れておくべきだろう。例えそれらの対策を、急ごしらえで用意できなくてもだ。
「あと問題なのは、どうやって有効打を取るか、か……」
どういう経由であれ、水属性の防御魔法を――それも詠唱破棄で扱えるまでに修練していたらしい。もはや並みの火属性魔法では太刀打ちできないだろう。
場合によってはその相性を覆すことも可能だが、智也の魔力量ではそのための余力がない。
いっそのこと火属性を捨て、水と風の魔法に絞って策を練るべきか――と考えたところで、模擬戦の最中に抱いていた疑念がここで浮上した。
「そういや結局、俺の魔力量は増えてるのか……? だとしたら、作戦の幅は広がるが……」
或いはそれが、最優先で確認すべき事柄かもしれない。そこを明確にしておかないと、立てる戦略も立てられまい。
最悪、策を煮詰めることなら昼休憩の間でも行えるだろうし。
ただ、悠長に検証していられる時間がないのも事実である。試行するにしても、要点を絞る必要があるだろう。
――あのとき智也が使用したのは、七種類の初級魔法だ。
そのうち未検証のものは、あの時点では使えなかった十三番と十八番と二十九番の攻撃魔法――そして、前日の授業で足の筋肉を痛めて使用できなかった【強歩】である。
二十九番を具現化させるのに他よりやや多めに魔力を要することから、それに異常があったとは考えにくい。厳密には、二十番台の魔法全般がそうなっているのだろうが。
「となると、試すべきは【風牙】と【火蜂】と【強歩】か……?」
その三つの共通点を挙げるとするならば、どれも智也が苦戦に苦戦していた、装備型の魔法に分類されることか。
もしかしたらそれが――――、
「とりあえず、後で先生に『イベリス』を借りよう」
検証すべき対象は絞れた。対策すべき魔法も見えた。
あとはいかにして、勝ちにいくかである。
今から万全の態勢を整えるには、正直言って時間が足りない。
であれば、いま智也にできる最善で藤間に打ち勝つ方法を模索しなければならない。
ただでさえ周りに遅れを取っている身。今になって思えば、無為に過ごしたあの五日間が悔やまれた。
「こんなチャンスが巡ってくるなんて思わなかったんだ。悔やんでる暇があったら、少しでも良い手を考えろ……!」
「智也くん……」
自分の世界に入り、一心不乱になっている少年を心配そうに見つめる者がいる。
授業そっちのけで物思わしげな表情を浮かべており、何度も声をかけようとしては、その度に躊躇っているようだった。
「声かけるか迷ってんの??」
「あ、東道さん……」
「メッチャ集中してんもんね~」
「……うん。応援はしたいんやけど、邪魔にはなりたくないから」
思い煩っていたところに現れた東道の顔を見て、紫月はなんとも言えぬ表情を浮かべた。
少し前に同じ相手と戦い、そして敗北した際の少年の酷く落ち込んだ顔を目にしたとき、もう二度と会えないんじゃないかという胸騒ぎがしたのだ。
そしてその嫌な予感は的中し、次の日から少年の姿を学園で見ることはなくなった。
不安になった紫月は唯一の男友達に相談を持ちかけたが、「そのうち帰ってくるから大丈夫だぜ!」と根拠のない励ましをもらい、余計に頭を悩ませる羽目に。
結果的に彼の言っていた通りにはなったが、もし万が一また同じことが起きればと思うと、いたたまれない気持ちで胸がいっぱいになるのだ。
「ダメやんな、私。応援しとるはずやのに、負けたときのことなんか考えたら」
「それくらいの強敵なんだから仕方ないっしょ。てか紫月さんはさ、黒霧くんに勝ってほしいわけ??」
「勝って……ほしい。智也くん、いっぱい練習して頑張っとるから、勝ってほしい!」
「だったら、ここで黙って見守ってあげなよ。ほら、見守ることも愛だーとかって言うじゃん??」
「あ、愛って……そんな大仰なんとちゃうよ」
「まぁまぁ。紫月さんがどー思ってるかは分かんないけどさ、もし助けを求められることがあれば、そんときに駆け付けてあげればいいんじゃん??」
その助言を聞いたとき、紫月はスーッと胸が軽くなるような感覚を覚えた。
「そっか、そうやんな」
「お、解決した感じ??」
「うん、ありがとう東道さん。なんかちょっとスッキリしたかもしれへん」
歯を見せて笑ってくれた東道に、紫月は満面の笑みを返して。
そうして、今もなお書物とにらみ合いを続けている少年の背に、心の中で応援の言葉を送るのだった。




