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第六十四話 「長い夜の始まり」



 ――息が苦しい。何も見えない。


 意識の覚醒と共に、智也は暗い海の底に横たわっているような感覚を覚えた。

 呼吸が出来ず、今にも溺れてしまいそうな息苦しさがある。


 ――体が重い。


 次いで感じるのは、全身を襲う倦怠感だ。

 まるで魂を吸われているかのような気怠さと、無力感に苛まれる。


 動こうにも動けず、横たわった状態のままに辺りを見渡してみるが、そこに広がるのは黒一辺倒の景色だけ。

 そこで、何故自分はこんなところにいるのだろうかと記憶を思い起こすと、あの絶望の化身のような巨大な腕が脳裏に浮かんだ。


 ああ、きっとまた気絶して、妙な夢でも見ているのだろう。そう智也は思った。

 それにしても、夢にしてはやけに身体が重い。身を起こすどころか、指一本動かすことも叶わないほどだ。


 灯り一つない暗闇に支配されたこの世界は、まるで智也の心情を表すかの如く、絶望に満ちている。

 或いはさっきの試合こそが夢の中の出来事だったならば、この絶望から抜け出すことは可能なのだろうか。

 智也の身に纏わり付く倦怠感や虚無感は、先の階段での転倒の影響であり、今もなお智也は保健室で眠っている状態だと。

 そう仮定して、夢から覚めたとして、智也はもう一度アレに立ち向かうことができるのか。


 ――勝てない。勝てるわけがない。


 絶対的な力の差を目にした智也に、闘争心や向上心と言った感情は、もう欠片も残っていなかった。


 ――最初から無理だったんだ。


 期待と夢を抱いて前を向いてきたが、足元を見ればそこが沼の道だということは一目瞭然だった。

 だけどなるべく下を向かないよう面を上げ、ひたむきに足を進めてきた。

 他の者が舗装された道を歩く横で、智也は沼の道を歩いて――いや、沈んでいたのだ。


 分かりきっていたことだった。

 最初から自分の征く道が、他の者と違うことなど。


 住む世界が異なるのだ。

 それが藤間の言っていた『格の違い』なのかもしれない。

 夢は大きい方がいい、なんて聞いたこともあるが、智也のそれは貪欲すぎたのだ。

 何の苦労も努力もせずに惰眠を貪っていた智也が突然夢のような世界に転移して、そこで甘い思いができるなんてこと――あるわけがなかった。何もかもが、上手くいくはずがなかった。


 智也は、少し調子に乗っていたのかもしれない。


 初めは魔法を具現化させることすらままならなかったが、即席で組まされたメンバーと連携を取り、チーム戦にて勝利を収めることに成功した。

 そのあとの決勝戦でも、あの久世のチームと戦って、勝利まであと一歩のところに迫ったのだ。

 その際に考えた智也の戦略が、見事だったと先生にも褒められた。


 闘技場にて『地獄鬼』をしたときもそうだ。

 あのときは特に、周りからの賞賛が大きかったというのもある。

 なにせ久世や七霧たちが早々に脱落する中、智也のチームだけは全員生存した上に、見事先生から逃げ切ったのだから。


 そうした経験を積み重ねて、智也は自分に自信が持てるようになっていた。

 今回の模擬戦が一対一の勝負で、その相手が藤間と知ったとき、自分の策があれば通用するだろうと過信してしまったのだ。

 周りから評価された自分の戦術ならば、なんとかなるだろうと驕り高ぶっていたのだ。


 元より智也は、天才でもなければ鬼才でもなく、秀才でも奇才でもない、ただの凡人だというのに。


 ――いや、凡人以下か。


 なんて鼻で笑って自嘲して、未だに自由の効かない体に、ため息を溢す。


 いっそこのまま海の藻屑となって消えた方が楽だろうか。

 何もかもかなぐり捨てて、こうして闇の中で眠り続けられたならそれで俺は――と智也が考えたとき、暗闇しかなかった世界の天面に光が現れた。


「――本当にそれでよろしいんですか?」


「……なに?」


 声を発する奇妙な光に、智也は訝しむより先に問を発していた。


「――今までのことを全部忘れ、何もかもを投げ出して、それで本当に貴方は満足できるのですか?」


「できなくても、そう思うしかないだろ。人にはそれぞれ限度が、限界がある。だから身の丈に合わない夢なんて元より叶いやしなかったんだ。高みを望むなら……それこそ来世にでも期待するしかない」


「――でも、それで仮に生まれ変わったとして、貴方の胸が晴れることはありませんよ。きっとまた、同じことを繰り返すだけです」


「……ッ! そんなの、分からないだろ……」


 どこか思い当たる節があり、智也は苦虫を嚙み潰したような表情になる。そんな智也に対し、光はきっぱり「分かりますよ」と言い切ってきた。

 自分の何を知って我が物顔で語っているのか、そもそも光が何なのか、ここはどこなのかと、智也は苛立ちと不満を募らせる。


「――魂に刻まれた惰性や志は、たとえ器が変わっても消えることはありません。ですが貴方が変わろうと思えば、自ずと途は拓けますよ。黒霧智也様」


「なんだよ、それ。一体誰なんだよお前は――」


 問い質そうとしたところへ光が急接近してきて、視界一面に広がる目映さに、思わず智也は目を瞑った。


「眩し――!」


 光を遮ろうと手を翳し、瞼を開けた智也の視界に鮮やかな色が戻ってくる。

 細くも太くもない自分の腕と、大きくも小さくもない普通の手のひら。その先に見える、白い天井。

 首を傾ければ桃色のカーテンがあり、どう考えても先程までいた黒一辺倒の世界が異質だったということが分かる。


「夢か……?」


 色の戻った視界に映る、見覚えのある――というよりは、先ほど見たばかりの馴染みの景色。

 気絶して運ばれたと推測するのが妥当だが、或いは本当に長い夢でも見ていたとすれば、


「いや、有り得ないな」


 と、智也は自分で立てた憶測を、すぐに頭を振って払い除けた。

 さっきは感じた頭の裏の冷たい感触が今はない。それよりも何よりも、二度も戦いたくないという思いが、自分の中で色濃く主張していたからだ。


 ――魔法陣から現れた巨大な腕が智也の全力を握り潰し、そして智也の体を薙ぎ払った。


 頭に焼き付いて離れない光景。

 たとえ瞼を閉じたとしても、それが消えることはない。

 惨めで、情けなくて、無力で非力な唾棄すべき自分の姿が、永遠と映し出されるのだ。


「くそっ……消えろ……!」


「智也くん! 大丈夫ですか!?」


 身を起こし、頭を押さえる智也。

 その声に気付いた新井先生がすぐに駆けつけてくれて、間仕切り用のカーテンが開けられた。


「大丈夫ですよ、先生がついてます」


 そう言って抱き寄せられて、智也の身が甘い香りと優しい声色に包まれる。


 荒れていた呼吸が次第に落ち着いていき、目に焼き付いて消えなかった光景が剥がれ落ちていく。

 透徹した黒瞳に映ったのは、栗色の髪の下で智也を見つめる穏やかな眼差しと、太陽のように暖かな微笑みだった。


「落ち着きましたか?」


「……はい、ありがとうございます」


 少しばかりの恥じらいを感じつつ感謝を述べると、新井さんはもう一度その顔に微笑みを湛えてくれた。

 その笑顔があまりに眩しくて、目映くて、智也は直視できなかった。


「――後頭部の方は、大丈夫ですか?」


「あぁ、はい。お陰様でもうなんともないです」


「良かった。念のために全身診ましたが、両腕と背中は軽い打撲程度だったので頬の腫れと合わせて治癒魔法をかけておきました。ほとんど痛みも残っていないと思います」


「治癒魔法……」


 それもゲームでは馴染み深い単語だが、改めて聞かされると現実離れした世界を実感する。

 なにせ体力ゲージを回復させるだけで、一瞬で体の傷や疲れが癒えるのだ。まさかそこまで便利なものだとは思えないが、もしも治癒魔法一つでどんな怪我も病気も治せるのだとすればそれはもう、医療の革命――まさしく神技である。


 なんて思考しながら軽く腕を動かしてみると、確かに痛みも腫れも感じなかった。

 藤間に殴られた頬も、壁に打ち付けた背中も、何事もなかったかのように元通りとなっている。

 そうして智也が手で触れたり身を捻ったりして確認していると、新井先生は少し表情を曇らせて「ただ……」と言葉を続けた。同時に、少しだけ脇腹の上辺りに痛みが走る。


「――。ただ?」


「肋骨の方にヒビが入っているようです……。腫れや痛みに関しては先述したとおり緩和させましたが、骨折に関してはもうしばらく治療に時間が掛かります」


「骨折……」


 呟きながら患部に手を当てて、服の下に巻かれた硬い帯のような感触を手触りで得る。

 思い当たる節は、一つしかなかった。


「ですので、一週間から二週間ほどは安静にしていてください」


「そんな短期間で治るもんなんですか?」


 智也自身、その手の知識は有していなかったが、折れた骨の癒合にはそれなりの時間を要するのではないかという、漠然とした認識があった。

 そう目を見張る智也に、新井先生が誇らしげな表情で胸を張る。


「それが私の仕事ですから。……でも、本当はこの場で完治させてあげたかったんですけどね」


「いや充分ですよ。ありがとうございました」


「もし痛みが強くなるようでしたら今晩の入浴は控え、汗を流す程度にしてください。その場合、就寝時には固定帯を外して頂いても構いませんよ」


「分かりました。……でもまさか、一日の間に二度もお世話になるなんて」


「大丈夫ですよ。いつでも気楽にいらしてください」


 苦笑する智也に新井先生が優しく微笑みかけてくれて、智也は再度お辞儀して保健室を後にした。


「……」


 横開きのドアを閉め、広い廊下に智也の足音だけが響く。

 と、角を曲がったところで渡り廊下の方から影が伸びてきて、聞き慣れた声が鼓膜を打った。


「――黒霧。もう大丈夫なのか?」


「……」


 落としていた視線を上げると、スーツに身を包んだ男の顔があり、智也は無意識にそこから視線を外した。

 少しの沈黙のあと、視線を合わせないまま言葉を返す。


「……はい、お陰様で」


「そうか、良かったよ」


 そう言って安心したように顔を綻ばせたのが、視界の端に見えた。

 その声色や表情から、自分の身を案じてくれていたことが察せられるが、今はその言葉や視線が智也には心苦しかった。


「あの、授業ってまだやってるんですか」


「ん……あぁ、いま反省会が終わったとこだよ。後は少し自由時間を設けて、今日は終いだ」


「……そうですか」


 自分の来た道を親指で指すその人に、智也は短く返答。

 安静にしなきゃいけない手前、どのみち智也は授業に戻ることはできないのだが、建前と本音は別個である。


「じゃあ今日はこの辺で失礼します……」


「そうか、また明日な。気を付けて帰れよー」


 そう言って手を挙げるその人に軽く会釈して、智也は逃げるように学園の外に出た。


「……」


 校庭の石畳の上を、果てしなく長い階段を、木骨造りの街並み、その隙間の路地、中央広場と、智也は黙々と歩いて帰路に就く。

『おとまり』と書かれた看板。その建物の扉に手をかけて、いつもよりドアノブが重く感じた気がした。


「あら、おかえりなさい」


「……ただいま、です」


 気まずくて家主の顔もまともに見れず、挨拶もほどほどに自室へ直行した。


「……」


 誰にも邪魔されることのない一人の空間に来て、そこでようやく智也は一息ついた。

 それまでずっと息を止めていたような重苦しさがあり、胸のつかえと共に全て吐き出そうと試みるが、そのわだかまりが消える気配はない。

 それどころか、深呼吸をしたことで逆に患部に痛みが走り、智也はそれに耐えながら弱弱しく悪態をついた。


「くそっ……」


 部屋の扉に凭れながら、ずるずると腰を落として床に尻を付ける。

 以前もこうして項垂れていたことがあったが、そのときから智也の悩みは変わっていないし、何一つ解決していない。


 今日の模擬戦で、智也は藤間に負けた。惨敗したのだ。

 月末のクラス対抗戦に出て賞金を手にすることが第一目標だったのに、これでは選抜入りすら不可能である。

 万が一、億が一の可能性で選ばれたとして、非力な自分がそこで戦力となるのかどうかを考えれば、足手まといになる未来しか見えない。

 きっと選ばれるであろう久世たちに、ただ頼ることしかできないのではないかと、そう思えてしまった。


「自分の問題なのに、どこか他力本願で考えてたってわけか」


 嫌悪感が胸の中に渦巻いて、心が掻き毟られた。


「結局、自分の力じゃ何もできない……できていない。無力で非力で無価値な俺のままなんだ」


 そんな自分が嫌で、でも変わりたくて。逸らしていた目を前に向けてもう一度頑張ってみようと思ったけど、何も変わりはしなかった。


 ――魂に刻まれた惰性や志は、例え器が変わっても消えることはありません。ですが貴方が変わろうと思えば、自ずと途は拓けますよ。


 夢の中で光に言われた言葉が脳裏に蘇る。

 ――馬鹿馬鹿しい、そんなの真っ赤な嘘だ。


「俺は変わろうとしたけどそれでも駄目だった。途なんて拓けなかったし、苦い思いをするばかりだった。結局人はそう簡単には変われないんだよ。――だから」


 だから俺は諦めたんだ、と続く言葉を内に隠す。その行動が、その心様こそが弱者たらしめているのだと、智也は気付けない。



 ✱✱✱✱✱✱✱



 いつまで項垂れていたのだろうか。

 腕の中に埋めていた顔を上げれば、部屋の中に差し込んでいた陽光が、いつの間にか消えてなくなっていた。


 窓の外に視線をやれば夜の帳は既に下りており、世界が絶望の色に染まったことが確認できる。

 黒一辺倒の空に浮かぶ満月は、どこかあの『光』のようにも見えて。

 殺風景な夜空を、懸命に照らしているようだった。


 その光景はまるで、無駄な努力をしていた自分のようだと智也は思った。

 光がどれだけ強く輝いても、広大過ぎる夜空の全てを照らすことはできない。

 そんなこと、やる前から無謀だと分かっていたはずなのに。


 ――無意味だった。無価値だった。


 後悔するくらいならば、初めから努力なんてしない方が良かった。

 変に期待や夢を抱くから余計辛い思いをすることになるのだ。

 人にはそれぞれ限界があるが、その限界は超えるためにあるんじゃない。境界線を知ることで、自分の実力を測るために存在するのである。


 智也は藤間には勝てない。それが自明であり、真理なのだ。

 そして、越えられない壁にぶち当たると分かっているその道を、智也に渡る気はない。

 負けず嫌いだから、勝てない土俵では戦わないのだ。


「――――」


 誰かが嘴を容れてきた気がするが、智也は五感を閉ざし、瞼の裏の深い闇へと意識を逸らした。











 崩れていく、崩れていく、積み上げてきた何かが崩れていく。

 失われていく、失われていく、世界から色が失われていく。


 ひび割れて、欠損して、崩れ落ちて泥になり、空いた穴から大事なものが抜け落ちた。



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