第六十五話 「絶望の化身」
――夢を見ていた。
長くて短い、これまで過ごしてきた十四年間の記憶の、その断片的なものを。
今から十四年前――当時二十五歳だった黒霧由衣と、二十七歳だった黒霧真也との間に産まれた子に「智也」という名が付けられた。
智い。という言葉の通り、聡明で賢い子に育ってほしいとの願いが込められていたのだろう。
物事の是非を自分の頭で判断し、その目で見極められるようになってほしいと母親からよく聞かされていた。
大方、父の正義感の強さに惚れたその影響なのだろう。それを息子にまで強要されても、と智也は常日頃思っていたが。
ともあれ、鳶から鷹が産まれるわけもなく、平凡な親に育てられた智也は無事、平凡な子供へと育ったのだ。
裕福な暮らしではなかったが、とりわけ贅沢を望んでもいなかった。
平凡な日々こそが幸福だ、という言葉の意味が少しは分かっていたと自負している。
しかし、それは裕福な暮らしをその目で見ていないから言えたのかもしれない。
欲深い人間は満足という言葉を知らない。常に新しいものを、より良いものを得ようと欲望を剥き出しにしている生き物なのだ。
だからこそ、その『より良いもの』を知ってしまったら、きっと誰もがそれを渇望するに違いない。
――そう。小学生、中学生と上がった智也は、自分の平凡さを気にするようになったのだ。
年を重ねてもこれといった才能は開花せず、平凡で目立たない、どこにでもいるような少年だった。
だが周りはどうだ。日々成長を遂げ、どんどん智也を突き放して前へ前へと進んでいく。
身長が高い、顔が整っている、声が美しい、足が速い、頭が切れる、運動神経がいい。
字が綺麗でも、あやとりができるでも、歌が上手いでも記憶力が高いでも、何でもよかった。人より秀でた何かが智也にも欲しかったのだ。
そこで初めて智也は努力することを覚えた。
自分が羨ましいと思った周りの能力や特技は、みなそれぞれが努力して得たものなのだと気付いたからだ。
そうしてのめり込める何かを探し、母親に頼んでいくつか習い事に通ったものの、どれもしっくりこなかった。
ではスポーツが駄目ならばと、今度は勉学に励むことにした。
元々思考することが好きだった智也には、そちらの方が向いていたのかもしれない。
五教科全てを満足にこなすことはできなかったが、中でも国語だけは見る見るうちに成績が伸びていった。
自分の考えや知識を深められたり、言語や表現の仕方が学べる。それに、答えが一つじゃないというその特徴が、自分にしかないものを欲している智也に合っていたからなのかもしれない。
――そうして智也が中学二年に上がるころには、国語の成績だけは学年でトップになっていた。
何か一つでも他者より秀でたものがほしい。
その願いが叶ったことで、初めて智也は自分の存在意義を感じられたのだ。
達成感や幸福感だけでなく、努力することの楽しさを肌で感じた。
人はその気になれば何でもやれるんだと、そう思えた。
そんな智也の前に、突として現れた転校生。
見るからに聡明そうで、同い年とは思えない雰囲気を纏っていた。
眉目秀麗、文武両道、博学多才。
天は二物を与えないのではと訴えたくなるほどに、まさに完璧という文字が具現化したような男だった。
その転校生が来てから初めての中間テストで、智也は一位の座から引き摺り下ろされることになる。
それまで得意科目だけは他の誰にも負けていなかったのに、智也が唯一得られていた特有性だったのに、その転校生に呆気なく剥奪されたのだ。
しかし智也は諦めなかった。
次の機会、また次の機会にと一位の座を脱却すべく、今まで以上に努力に励むようになった。
結果、中学二年の学期末テストにて、智也は自己最高点を叩き出すことに成功した。
あの転校生の成績と見比べても、それを上回る点数だったのだ。
智也は、再び自分の存在意義を取り戻したと、そう確信した。
だがそんな智也の成長と比例するかのように、当然転校生も成長――いや、飛躍していた。
彼は九つある科目のその全てを満点で通過していたのだ。
まさに、天才のそれであった。
――あぁ、勝てるわけがないと、そのとき智也は思ってしまった。
自分がどれだけ努力を重ねても届かない存在がいるのだと、そう痛感させられたのだ。
たった一つのことを追及し、その一つに全てを費やしても敵わない。それなのに彼は、多岐にわたる分野でその能力を充分に発揮していた。
――次元が違い過ぎた。勝てるわけがなかったんだ。
そう思ってから、智也は努力することを諦め、勝負を捨てた。
もちろん負けたくないという気持ちもあったが、それ以上に頑張っても成果を出せない自分が惨めで、かっこ悪く思えたからだ。
だから匙を投げた。
勝てない相手にはどうやったって勝てないんだと。
それから智也は勉学に費やしていた時間を全てゲームに注ぎ込んだ。
意外と才能があったのか、そちらの世界で智也は再び花を咲かせることに成功した。
失っていた自分の存在意義を取り戻せたような気がして、毎日が楽しくて仕方なかった。
でもいずれ、ゲームの世界でも敵わない相手が現れていたに違いない。
――いや、もしかすると認めていなかっただけで、既にそういう存在はいたのだろう。
だからこそ少年は、つまらない毎日に嫌気が差していたのだ。
✱✱✱✱✱✱✱
朝。目覚めた瞬間から、智也は疲労感のようなものを覚えた。
それは長い夢を見ていたせいだろうか。
思いだす気のなかった、元の世界での記憶を。
「はぁ」
短くため息を溢して、身を起こそうと腹と背に力を入れる。
そのとき感じた痛みで、また智也の脳裏に嫌な光景が蘇った。この痛みが消えるまで、ずっと智也はソレに苦しめられるのだろう。
もはやトラウマと化したあの衝撃は、寝ても覚めても頭から離れてくれないようだ。
思考を切り替えるために、洗面所へ向かおうとベッドを下りる。
昨晩、枕に頭を預けた覚えはなかったが、無意識的に移動していたのだろうか。不思議と枕に高さがあったのも、無意識に患部を気にして動いていたと。
「……」
自分にそこまで余裕があったようには思えなかったが、特に気にすることでもないと思って智也は思考を止めた。
身支度を整え、習慣的に壁掛け時計へ目を向けると、時刻は七時を回っていた。
いつもなら六時半には宿屋を出て、朝練に精を出しているはずだったが。
「寝坊したか。もう遅い……いや、今からでも間に合う――」
独り言ちていた言葉が、不意に途切れた。
無意識に行っていた思考に、邪な考えが介入したからだ。
――今から行って、それでどうする?
模擬戦に負けた智也はクラス対抗戦には出場できない。
本来なら月末に向けて更に鍛錬を積んでいく段取りになるはずだが、その予定が、必要性がなくなったのだ。
今の智也に、鍛錬を積む価値は見出せなかった。
「そうか……別に早起きする必要もなくなったわけか」
そう呟いて、灰の眼の男が脳裏に浮んだ。
もしかしたら今も、智也が来るのを待ってくれているかもしれない。
「いや、まぁ……先生には悪いけど、もう意味がないし……」
智也が強くなりたいと口にしたから、先生は時間を作ってくれたのだ。
それに関して申し訳ないという気持ちはあったが、もはや強くなる意味もなければ、強くなりたいという気概もなかった。
「……上には上がいる。今からどれだけ頑張ろうとそいつらには勝てない。勝てないなら……努力する価値なんてない」
胸が締め付けられるような、目の前が真っ白になるような、あんな絶望感はもう二度と味わいたくなかった。
だから智也は、
「しょうがない、頑張っても無理だったんだ。そうだ、俺は頑張ってたはずだ。だからちょっとくらい……」
そう言って壁掛け時計から目を逸らした。
✱✱✱✱✱✱✱
「……」
備え付けの窓から、中央広場を行き交う街の人々を見下ろしていた。
その黒瞳には、まるで魂が抜け落ちたように生気が感じられなくて。
何をするでもなく、ぼーっと外の様子を眺めていた。
客を呼び込む商人の声や、広場で追いかけっこをしている小さな子供たち。噴水の縁に腰掛け、談笑しながら子供に目をやる親。その噴水の水飛沫と、流れる水の音。
静かに、ただ静かに傍観する智也の鼓膜を、それらの音が勝手に揺らしている。
そうして何をするでもなく、退屈で無駄な時間を過ごしていると、いつの間にか時計の針は九時を指していた。
「あぁ、もう二時間経ったのか」
わざとらしい発言だ。
昨日から着替えていないため一応制服は着用したままだが、しかし登校する準備をせずに、わざわざ朝からのんびりしていたのだから。
本来、八時には学園に着いていないといけないことを踏まえると、遅刻はもう免れない。
そして遅刻が確定しているのなら、一時間だろうが三時間だろうが大差はないだろう。
そうやって言い訳を作ることで、智也は休むつもりでいるのだ。
仕方ないと自分に言い聞かせ「一日くらいなら」と自分を甘やかそうとしているのだ。
そんな風に沼に足を踏み入れれば、そこから出ることは難しくなる。それを理解していながら、智也は部屋から出ようとはしなかった。
「――――」
静かな部屋に腹の虫の音色が響く。
思えば昨日の夜から、智也は何も口にしていない。
元の世界でも三度の飯を日々の楽しみにしていたくらいだ。そんな智也にとっては、一食抜けるだけでも死活問題であった。
といっても、そういう日が一度もなかったわけではない。この世界に来てからでも、疲れ果てて食べずに寝てしまったことはあったのだから。
――だが、これから先はどうなるのか。
ズボンのポケットに手を入れて、複数の硬い感触をそこに得る。
それらを腰掛けていた小さなテーブルの上に並べて「二、四……」と枚数を数えた。
卓上でキラリと光を放つ、赤色の硬貨。
銭入れを持っていないため仕方なくズボンのポケットに収納していたそれらは、計十九枚――日本円にしてざっと一万九千円といったところだ。
「十九枚……」
たったそれだけのお金で、この先どうやって生きていけばいいのか。
かなり甘くてしてもらっただろうとはいえ、一先ず今月の宿泊費は支払い済みだ。
問題は来月以降。稼ぎのない、稼ぎ方を知らない智也はどうすればいいのか、と考える。
朝と夜は今まで通り下宿屋で食事を頂くにしても、最悪昼を抜いて二食で堪える必要もあるだろう。
来月も同じ金額で泊めてもらうには、些か図々しくて智也にはできないので、有り金全部を渡して頭を下げるべきか。
きっと新井さんは優しくしてくれるだろうけど、その優しさにまで甘えてしまったら、いよいよ智也は人として超えてはいけない領域に踏み入ってしまう。
――今から二か月の間に、どうにか仕事を探さなければならない。
と、先ほど中央広場から聞こえた呼び込みの声を思い出した。
或いは八百屋や魚屋などが働き手を探していたら、そこでバイトをするのもありかもしれない。
当然、十四の智也にそういった経験はなかったが、頼れる人がいない以上、そうするしか道はない。
――わざわざ異世界に来て、八百屋で働くのか?
不意に、疑問の声が頭に響いた。
考えちゃいけないことだと分かっていながら、智也は無意識に口ずさんでしまったのだ。
声にしてしまった以上、その疑問が頭から離れなくなる。
「俺は、何のためにこの世界に来たんだ……?」
商売が好きで、人とのやり取りが楽しくて、客の笑顔を見るのが何よりの喜びで。そうしてその道に生き甲斐を感じている人と同じだけのものが、智也にはない。
他の誰もが望んでもできない、この世で一人しか味わえないだろう稀有な体験をしたのだ。
そんな特別な環境下にありながら、その経験を智也は何も活かせていない。
つまらない毎日に嫌気が差していたはずなのに、また同じことを繰り返そうとしているのだ。
「だからって、どうしたらいいんだよ。学園に行ったって惨めな思いをするだけだ。ここに居たくてもいずれお金は尽きてしまう。生活できるための資金を稼いだって、結局それで心が満たされるわけじゃない。俺は……俺はこんなことがしたかったんじゃないんだ!」
自問自答して、頭に血が上っていることに気付いた智也はそのままテーブルに突っ伏した。
並べてあった硬貨が肌に当たり、その冷ややかな感触に心が静まる。
「智也くん、部屋に居るのかい?」
今の声で気付かれたのだろうか。ドア越しに新井さんが話しかけてきた。
硬貨の冷たさ以上に突然かけられたその声で、智也の頭から一気に熱が引いていく。
「昨日、ご飯食べてないからお腹空いたでしょう? ここに置いとくから、良かったら食べてちょうだい。お皿は返しに来なくても、置いといてくれたらいいからねぇ」
新井さんはそれだけ言うと階段を下りていったようだ。
「――聞かれなかった」
昨晩、帰るや否やまともな会話もせずに部屋に直行した智也。そのまま着替えることなく朝を迎え、こうして無意味な時間を貪っていた。
風呂にも入らず汚い身体のままで、学園に行こうともせずこの体たらくだ。
そんな智也を、新井さんは責めるどころか事情を尋ねようともしなかった。あまつさえ、腹を空かしていると気遣ってご飯まで用意してくれたのだ。
恥ずかしくて、情けなくて、申し訳なくて、胸が締め付けられて、どうしたらいいか、分からなくて。
扉の前に置かれたお盆を手に取り、智也は静かに部屋に持ち帰った。
「……」
テーブルの上にお盆を乗せて、温かいスープを喉に流す。
まるで新井さんの優しさに身を包まれているような感触に、余計虚しさを覚えた。
そして、鼻腔をくすぐる香ばしい香りと焼き立てのパンのふんわりとした手触り。
本来なら五感全てで喜びを感じるところだが、今の智也は素直に美味しさを味わうこともできなかった。
「……ごちそうさまでした」
お盆を持ち上げ、部屋の外に出る。
食堂へ返しに行こうと歩を進めたが、階段の手前で新井さんの言葉を思い出し、持っていたそれを扉の前に置いて部屋へと引き返した。
今は誰とも会いたくない。
合わす顔がないのだ。
そうして再び部屋に閉じこもり、智也は虚無感に包まれた。
元の世界にいたときは嫌々ながらも学校に通っていたが、こうして放棄したのは初めてだった。それは智也の母親が学校だけは意地でも通わせると言って休ませてくれなかったからだ。
「将来の為」だの「あんたのことを思って言っている」だのとよく叱られていたが、今はそうやって咎めてくれる者もいない。
――そう、智也は自由の身なのだ。
「自由、か」
なんと甘美な響きだろうか。
何をしても怒られることはなく、こうして惰眠を貪っていても咎められることはない。
自分の歩む道は自分で決められるし、時間の使い方だって自分次第なのだ。
それなのに、こんなにも自由だというのに、どうして智也の心は満たされないのだろうか。
「母さん……」
ベッドに寝転がりながら、無意識に智也はそう呟いていた。
寝るか食うかしかやることがなく、自分が物凄く無駄な時間の使い方をしていると、智也も自覚している。
いつもならあっという間に一日が過ぎていくのに、時間が足りないくらいだったというのに、今はこんなにも一分一秒が長い。
「――――」
無限のように時を感じながら、いつしか智也は疲れて寝入ってしまった。
肉体的な疲労は一切ないが、ズタボロになった心を修復するために脳がそう処理したのだろう。
眠りに落ちる寸前、天井を見つめていた智也は、朧気な意識でそこに母の姿を幻視した。
薄れゆく意識、漆黒に染まる世界。
そこに突然現れた茶髪の男が、黄土色の瞳をギラギラと輝かせながらこちらを見据えている。
「終わりだ、雑魚ランク。テメェと俺とじゃ格が違うんだよ。天賦の才――その絶対的な力の差ってヤツを、その身に刻んでやる」
聞き覚えのある言葉を放つその男を見て、智也は思わず後退りした。
しかし、何故か意識に反して自分の右手が正面に向けられ、そこに魔力が集められていく。
「やめろ、駄目だ、それじゃ勝てないんだ! 一旦逃げて体勢を立て直さないと……」
止めようとしても体は言うことを聞かず、智也の右手から勝手に魔法が放たれる。
――相縁気炎。
凄まじい熱気が放出され、背を向けた男を焼き焦がす、はずだったのに。
突然現れた大きな腕によって、智也の魔法は搔き消されてしまう。
体育館の床に描かれた魔法陣。そこから生える巨大な腕は、天井近くまで伸びていた。
いつの間に魔法陣なんて描いていたのか、と再度現実逃避してみれば、今になって答えが見えてきた。
おそらくあの男は智也が刃を構えて高速移動している間に、身を躱しつつ足から魔力を流すことでソレを完遂させていたのだろう。
「そういうことだったのか……」
気付いたところでどうにかできたわけでもないが。
そして、横薙ぎに振るわれた巨大な腕に、智也の体がぶっ飛ばされる。
――あぁ、終わった。
「こんなの、勝てるわけがない」
勝負を捨てた智也の視界にとどめの一撃が迫ってきて――――、
その視界が圧し潰された。




