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第六十一話 「真剣勝負」



「一本先取の勝負を、どうか受けて頂きたい」


 それまでどこか上辺を取り繕っているように見えた久世が、纏っていた鎧を外し、清々しい表情を見せた。

 そんな久世の申し出に先生は不敵な笑みを浮かべ、二人の戦いは仕切り直しされることに。


「――【火弾】」


 たったそれだけの言霊で、久世の両手に特大の火球が具現化する。

 その一瞬一秒には複数の高度な技術が含まれており、それは決して他の追従を許さない、圧倒的な力の象徴でもあった。


「やっぱ久世さんと言ったらあれっスよね~」


「そうだね。さっきの戦いも十分凄かったけど……でも先生が本気を出したら、どうなっちゃうんだろう?」


「見てみたいっス。先生の本気」


 国枝と七霧が話を弾ませる最中、智也は静かに一点を見つめていた。

 視線の先、久世に対抗すべく魔法を先生が唱えている。


「Reve11【火弾/白亀(はっき)】」


「あれは……」


 小指の先ほどしかない、極めて小さな火球。

 以前に一度だけ目にしたことのある、先生の『改造魔法』だ。

 智也の記憶が正しければ、中級魔法との比較をする際に授業で用いたもので、


「確かその結果は――」


 智也が記憶を掘り起こしたのと同刻、毛色の違う二つの火球が交わり、激しく燃え上がった。


 ――相打ち。


 速度を捨てて火力に特化した『改造魔法』は、あのとき四十五番の中級魔法をも相殺していた。

 それを見せることによって、先生は魔法のレベルに拘らずとも、工夫すれば初級魔法でも対抗し得ることを証明してくれたのだ。


 その『改造魔法』と今まさに相打ちになった久世の火球は、裏を返せば中級魔法と同程度の火力を持ち合わせていたことになる。

 隣で騒いでいる二人はおそらく気付いていない。理解に至った智也だけがその事実に驚愕し、声を失っていた。


「『強度』を極限まで上げた魔法ですか。厄介ですが、万能ではないはず」


「どうだろうな」


「【火弾】」


 再び久世の両手に炎が顕現して、先生も同じように具現化させた火球を指で弾き飛ばす。


 迫る特大の火球へと、弾かれた推進力だけで飛ぶ小さな魔法。

 飛んでいる――と形容するにはあまりに遅く、その名を冠する通りの、亀の歩みそのものである。


 そんな中級魔法と比べても遜色ない火力を秘めた魔法が互いに打ち消しあって――左手の火球を残していた久世が、間髪入れずにそれを撃ち込んだ。


 すかさず右に飛んでやり過ごす先生。その背後で壁に衝突した火球が赤々と燃えたが、すぐに消えてなくなった。


 と、構えを解かないまま久世が三度特大の火球を撃ち放つ。


「おかしい。質の高い魔法を、あれだけの早さで連発できるはずがない」


「たしかに……よほど魔力操作が上手いのかな?」


「だとしたらあいつは化け物か?」


 膨大な魔力を有する上に、中級レベルの魔法を瞬く間に具現化させているのだ。

 そんな久世のことを智也はわりと本気で人じゃないと疑っていたが、国枝はそれに「まさか」と言って苦笑している。


 そして、矢継ぎ早に飛ばされる特大の火球に、先生の対処が間に合わない。

 具現化さえできれば相殺し得るほどの力があるが、速度を犠牲にした魔法では、久世の常軌を逸した早さについていけないのだ。


「さすがに早いな」


 得意の足捌きで火球を躱し、そう口の端を吊り上げて。

 先生の指先から赤い弾丸が飛び出した。


「【火弾/月兎(つきうさぎ)】」


「……!」


 それは一見して同じ小さな火球だったが、遅い球を見慣れた久世の目には、まさに弾丸のごとく映っただろう。

 目を剥いて咄嗟に身を捻った久世の、その手のひらに具現化していた特大の火球に弾丸がぶっ刺さる。


 奇しくも直撃を免れたが、誘爆した自分の魔法によって後方へと吹き飛ばされてしまう久世。

 それでも隙を生まぬようにと残っていた片方の火球を前方に飛ばし、爆煙の向こうで、右方に走ってゆく先生の姿があった。


 走っていた先生が床を滑りながら、身を屈めて静止する。

 吹き飛ばされて床を転がった久世は、灰の眼に捉えられるとすぐさま身を起こし、床に手を付けた。

 前回の地獄鬼を彷彿とさせる動きに、自然と体が反応したのだろう。失敗を糧とした久世に先生が不敵に笑って、


「【半月切り】」


「【隔壁】――なに!?」


 振り払われた左腕から、半月型の斬撃が飛来した。

 読み誤った久世が瑠璃色の瞳を見開いて、その顔を隠すように岩壁が迫り上がる。

 そうして真っ二つになって崩れ落ちる壁の裏で、久世が身を裂かれていた。


 ――正確には、その身を包んでいた水の膜を裂いたようだった。


「ほう、防いだか。読んでいたのか?」


「まさか。見当違いですよ」


「まぁそうだろうな」


「……意地が悪い」


 分かりきった問いを投げかけて、その反応を見て楽しんでいるらしい。

 悪い笑みを浮かべる先生に、久世が不服そうに呟く。


「さぁ、次はどうくる?」


「その余裕、打ち崩してみせる」


 精悍な顔つきに変わった久世が勇み立ち、重ねた手のひらを先生に向けて構えた。


「Reve12【水風船/芍薬】」


 先の火球と同程度の大きさの水泡が、次々と具現化(かいか)して久世の周囲を浮遊する。

 単純に物量からしても前者より多くの魔力を要しているはずだが、それでも久世は平然としていた。

 そんな力業に対して、先生は更なる脅威を以て対抗するつもりのようだ。


「Espoir3【強歩】」


 迫力満点な久世の魔法と反して見て呉の変化こそないが、油断して瞬きでもしようものなら次の瞬間には終わっている。

 そんな畏怖さえ感じさせられるほどの威圧感に、寸前まで涼しい顔をしていた久世の額から汗が滲み出た。


 額から頬へ、頬から顎へとゆっくり汗が伝い、雫となって床へ落ちる。

 ――次の瞬間、二人が同時に動き出した。


「【芍薬】!」


 久世の声に呼応して、二十に及ぶ水泡が一斉に解き放たれる。

 その弾雨たるや砲弾の如し。ひとたび当たれば凄まじい衝撃を受け、その者の意識もろとも吹き飛ばされるであろう。

 そう察せられるほどの猛威の中を、灰の眼の男が掻い潜っていく。


 砲弾の嵐よりも素早く、左へ、右へと風のように移ろいで。着実と距離を詰めてくるそんな先生に、久世の表情は苦虫を噛み潰したソレとなる。

 そして十、十五、二十、と水泡を躱して、とうとう目と鼻の先まで接近を許した。


「く……【隔壁】!」


 忽然と、久世の足元が盛り上がり、そこから飛び出た岩壁が彼の体を上へと押し上げた。

 そしてバランスを取りつつ更にその壁を蹴って、体育館の天井に迫る勢いで飛び立つ。


 ――その久世の動きに沿うように、翼の生えた火球が急上昇する。


「Reve11【火弾/紅鶴(べにづる)】」


「Reve45【紅蓮弾】!!」


 さながら鳥のような羽ばたきを見せるソレを、紅蓮の火球が上から容赦なく叩き落とす。

 それどころか、頭上を見上げて立ち尽くしていた先生もろとも、地上を業火が焼き尽くした。


 ヒートアップする二人の戦いに、二つの意味で館内は熱気に包まれる。


「すごすぎる……ほんとにおれらと同級生なの?」


「あんなの喰らったら一溜まりもないっスね」


 智也は、まるで体育館の床が地獄と化したように感じていた。

 その黒瞳が見据える先、業火の中で人影が揺れ動く。


「【風牙】」


 一言、そう声が聞こえたと思えば、落下体制に入っていた久世の背後で灰の眼が光っていた。


 顕現した風の刃が、ちょうど目の前を過ぎた久世の首を狙う。

 が、既のところでその刃の軌道が止まった。『魔法服』に施された結界に弾かれたわけではない。何らかの強制力が働いて、その動きが止められたのだ。


「Espoir19【縛り火(しばりび)】……」


 よく見れば、天井から伸びた炎が鎖のように先生の両手に絡み付いている。

 どうやら先の爆撃は、この為の布石だったようだ。

 あそこまでの攻撃を仕掛けても、先生なら間違いなく凌いでくると予見していたのだろう。


 その油断のない二段構えの策によって動きを封じられ、今や先生は宙吊り状態となった。

 またとない好機。それを逃さぬよう久世が仕掛ける。


「【半月切り】!」


 仰向けに落下しながらも、正確に狙いを定めて飛ばされた斬撃。両の手の自由を奪われている上に、空中では得意の足捌きも使えない。

 そんな絶体絶命の危機に瀕し、何故か先生は揺り籠のように体を揺らして――、


 捕らえられた両手を軸に体をしならせ、後方へ回転することでその身を上に押し上げた。

 その際に標的を見失った斬撃が綺麗に鎖だけを切り裂いて、見事に先生の拘束が解かれてしまう。

 もはや曲芸と言わざるを得ない離れ業に、久世も開いた口が塞がらないか。


「Reve20【水鞠】……!」


 すぐに意識を切り替えた久世が右手を下に向け、放出された弾力のある水球で落下の衝撃を和らげようと試みた。

 しかし久世の体を受け止めた水球は一瞬で弾けて霧散してしまい、藍色の髪が床に乱れる。

 そして、久世が顔をしかめたのも束の間、天井から鋭利な刃が降ってきた。


「くっ!」


 投擲された風の刃を横に転んで躱し、身を起こそうするも、今度は先生がそこに飛び降りてくる。

 その手を天高く掲げ、上段の構えを取りながら。


「Reve48【天瀾兜割り】」


 ただの手刀――と思いきや、右手に纏わり付いた魔力が膨れ上がって刀剣を象っている。

 そして仰向けのままの久世を断ち切らんと容赦なく腕が振り下ろされ、風切り音が鳴り響いた。


「Reve51【真一文字斬り】……!」


 あわや頭から真っ二つになるところで、横薙ぎに払われた斬撃が振り下ろされた刃を向け止めていたのだ。

 縦横に閃く二つの斬撃が、甲高い音を立てながら鎬を削る。


 両者譲らぬせめぎ合いの果て、削り合った二つの魔法が共に霧散して消え失せた。

 その反動で後ろに飛んで着地する先生と、素早く身を起こした久世が、じっと目を合わせる。

 二人の間に言葉はなかったが「次の一合で勝負が決まる」と、見ていた智也は直感した。


「Reve45――――」


「【無上迅速】」


 いったい何が起きたのか、傍で見ていた智也にもまるで理解できなかった。


 一瞬。そう言い表すのも遅いとさえ感じてしまうほどの刹那の時の中で、銀の光が閃いたと思ったら――――両の手を構えていたはずの久世が、壁に叩きつけられて目を剥いていた。


「あれが、先生の本気……」


 たった一振り。そこにほんの少し力を加えただけで、あの久世が成す術なく敗北した。

 今まで先生はその力の片鱗さえのぞかせていなかったのだと知って、藤間以外の生徒が揃って驚愕の表情を浮かべている。


「悪いな、俺の勝ちだ」


「……。参りました」


 膝から崩れ落ちそうになる久世のその肩を、一瞬で近付いた先生が支えながらそう呟く。

 久世は、受けた衝撃が強すぎて歩けないのだ。そこまで打ちのめされてなお、その表情には笑みすら浮かんでいる。


「大人げないと思ったか?」


「いいえ、感服致しました。あれほどまでに鍛え上げられた魔法を、この身で受けれたことに感動すら覚えるほどに。そして僕の申し入れに、文字通り全力で応えてくれたことへの感謝を」


 自信と力に満ち溢れていた久世には、言葉の端々からも感じ取れるように一際高いプライドがあったはずだ。既に『訓練校』の頃から優秀な成績を残していたという話もある。

 それだけ、周りからの期待も大きかったに違いない。それでも上には上がいるという現実を、今、先生に叩きつけられた。

 その現実を見た上で、しかし真正面から受け止めた久世に、智也は瞠目していた。


「俺は、受け入れることなんてできない――できなかった」


 まるで在りし日の記憶を思い返すかのように呟いて、現実を拒むように黒瞳が閉ざされる。

 力で敵わないだけでなく、あの男には内面さえも劣っているのかと。


 またしても劣等感に苛まれ、あまつさえ暗い海に沈めていたはずの嫌な記憶まで掘り起こされる。

 そうして黒瞳を閉ざせば過去が、瞼を開ければ現実が、智也の首を絞めつけてきた。


「……捥ぎ取ってみせる。いつか必ず、貴方から一本を。他の誰でもない、最初にその壁を乗り越えるのはこの僕だ」


「ふっ、楽しみにしてるよ」


 身体はズタボロでも、強い意志を孕んだ声と眼差しで、彼はそう決意表明してみせた。

 その諦めない姿勢が智也の肺腑を鋭く突き刺し、また抉る。


 ――空気が重い。息が苦しい。鼓動がやけに早い。


 胸を押さえ、忘れたはずの痛みに苦しむ智也。

 仕方がなかった。勝てない相手には敵わない、それがこの世の摂理なのだから。


「智也くん?」


 気分が悪くなり、ギャラリーから離れようとする智也に声がかけられるが、智也は視線を合わさずそのまま舞台裏へと足を早めた。


「勝てなきゃ意味がない。負けを認めたら、それまでの努力が無駄になるだろ……」


 心のどこかで、久世なら先生から一本くらい取れるのではないかと期待をしていた。

 自分には到底無理だか、あの久世ならばと。


 思えば、最初の魔力測定の時からだったのかもしれない。

 はじめは己の不運に嘆き、半場八つ当たりのような感覚で疎んでいたが、どこかで智也は久世に憧れの念を抱いていたのだ。

 魔法という概念が存在するこの世界は、智也にとってまさしく夢のようで。そんな夢のような世界でありとあらゆる魔法に適性を持つ久世の存在は、智也の目に虹色に輝いて見えたから。


 けれどそんな久世を以てしても越えられない壁は存在した。相手が相手なのだから、負けても仕方はなかった。

 智也と他の生徒とで積み上げてきた時間が違うように、久世と先生とでも、その重みはまるで違うのだ。


 それなのに、諦めようとしない久世の意思が理解できない。

 どう頑張ったって敵わない相手だと、心底から痛感したはずなのに。


 劣等感。敗北感。嫌悪感。自責の念。


 色んな不快な感情が込み上げてくるのを押し殺し、智也は自分を正当化させることに躍起になった。


「できないものは出来ない。どれだけ頑張ったって、成果を出せなけりゃ惨めなだけだ。だから俺は諦めた。間違っていない……間違っていないはずだ」


「――大丈夫?」


 薄暗い中、階段に座り、項垂れていた智也の背に誰かが声を掛けた。

 先と同じ声色からして、おそらく紫月のものだろう。

 その後ろで、いつもの二人が話している声も聞こえてくる。


「雪宮さんの試合までは何ともなかったっスよね」


「うん……」


 また二人に無駄な心配をかけてしまったと、智也は心の中で反省する。

 変に気を遣わせないよう、少し体調が悪かったと伝えるべきかと考えて、


「悪い、ちょっと気分悪くて休んでた」


「……」


「大丈夫っスか?」


 下手くそな笑みを顔に張り付けて、二人に振り返る。

 近くまで降りてきていた紫月の横を通り、ゆっくり一段ずつ階段を上がり――、


「黒霧くん、なんかあったの?」


「いや……別に何も」


 深碧色の瞳が、智也を射貫いた。

 その鋭さは智也の嘘なんて容易に見抜いているかのようで。

 思わず目を反らしそうになったのを堪え、変わりに苦笑いを顔に張り付ける。


「だって最近様子おかしいよ」


「それは……」


「なんかあるなら話してよ。おれたちに協力できることならするからさ」


「……」


 国枝たちは、智也が異世界から来たことを知らない。

 未知の世界でたった一人きり、金も、頼る宛もなく、心細い思いをしていたことを知る由もない。


 しかし心優しい彼らなら、事情を話せば智也の為にと動いてくれるはずだ。

 お金がない智也の代わりに、二人で食事代を出し合ってくれるかもしれない。

 寝床がなければ、家に呼んで泊めてくれるかもしれない。


 だがそれでは、根本的な問題の解決には至らない。

 食事代を奢ってもらうにしろ、寝泊りさせてもらうにしろ、結局彼らだけでなくその両親や家族にまで迷惑をかけることになるのだ。

 それでは肩身の狭い思いをしている今と何ら変わりはない。


 始めは息子の友達として快く迎えてくれたとしても、他人の世話などそう長くはやっていられないはずだ。

 そうなるとやはり、自分の世話は自分でやるしか道はなかった。


 なんて格好をつけていられるのは、下宿屋の家主に優しくしてもらっているおかげであり、射的屋の店主によくしてもらったおかげだ。それがなければ、きっと智也は二人に寄りすがっていただろう。

 だからこそ、そうならなくて良かったと智也は思っている。

 大事な友達だからこそ、余計な迷惑なんてかけたくないのだ。だから智也は――、


「話して、くれないんだね」


「……」


「いいよ。黒霧くんにとっておれらは、その程度の存在ってことなんでしょ」


「国枝さん?」


 どこか物悲しげな目で一瞥して、その視界から智也が消える。

 瞬時に、何か選択を誤ったのだと悟った。

 黒瞳に映る背中が遠ざかっていく。そんな気がして、智也は咄嗟に一歩を踏み出した。


「まっ……違うんだ国枝、俺は二人に迷惑を――」


「いいよもう! 黒霧くんならきっと一人で解決できるんでしょ」


 こちらを見ないまま、肩を掴もうとした智也の手が振り払われる。

 そのとき僅かに国枝の横顔が視界に入り、今まで見たことのない辛そうな表情に、智也の思考が止まった。


 国枝が離れていく。

 手を伸ばしても届かず、まるで二人の心の距離を現しているかのようだった。


「黒霧さん!」

「智也くん!」


 と、何故か七霧と紫月が声を上げており、そこで初めて智也は自分の体が浮いていることに気が付いた。

 国枝が智也から離れていったのではなく、腕を振り払われた際にバランスを崩し、自分が階段から落ちたのだと。


 直後、鈍い音が頭に響き、智也の体が二度、三度階段を転がった。

 踊り場で仰向けに倒れる智也。その名前をまた誰かが呼んでいる。

 頭が割れたような痛みに苛まれる中、その声が頭蓋に響いてズキズキと刺すようだった。


 強い衝撃に意識が朦朧とし、対抗できずに掻っ攫われていく。

 そんな曖昧な世界で微かに分かったのは、どうやら手すりに頭をぶつけたらしいことと、最後に見た国枝の、困惑したような表情だった。


 そして、智也の意識は完全に途絶えた。



 ✱✱✱✱✱✱✱



「痛っ……」


 次に智也が目を覚ましたとき、身覚えがあるような、ないような、そんな白い天井が視界に入った。

 意識の覚醒と共に感じる痛み。そこへ手を伸ばそうとして、頭の裏に冷たい感触を覚える。


「氷枕……?」


 そこで、自分が階段から落ちて倒れたことを思い出した。

 国枝の、寂しそうなあの表情も。


「そうだ、国枝……」


「智也くん、起きたの? まだ無茶しちゃダメですよ」


 と、体を起こそうとした智也の横で、間仕切り用のカーテンが開かれる。

 視界の隅に映る白衣。そこから上へと視線をずらせば、微笑みをたたえる栗色の髪の女性の姿があった。


「私のこと分かりますか?」


「……? はい」


「吐き気とか、痛みとか、体の痺れはありませんか?」


「痛みは……まだほんの少しだけありますが、それ意外は特に」


 寝転びながら、両手を開閉させてみせる智也。もちろん足の方も支障はない。

 その様子に白衣の女性は柔らかな笑みを浮かべると、智也の頭をそっと優しく撫でた。


 美人で、優しくて、おとっりしていて癒される。そんな女性に微笑まれ、あまつさえ頭を撫でられて胸躍らせない年頃の少年がいるだろうか。

 胸がときめく――とまではいかずとも、さすがの智也も恥ずかしさは覚えた。


 鼓動が早まり、思考が乱れ、視線が定まらなくなる。

 いつまでそうしているつもりなのかと照れくささで逃げたくなる半面、その心地よさに逃げられない自分もいた。


 いつの間にか痛みのことなど忘れており、手のひらから伝わる温かさに気を取られて、いつしか智也はその心地良さに身を委ねていた。

 そんな緩やかな時が流れる空間へと、誰かが踏み入る音がして、


「黒霧、起きたか? ……っと、邪魔したみてーだな」


 保健室の入口で足を止めた灰の眼の男が、頭を撫でられて心地よさそうにしている智也の姿に、気を遣って引き返そうと身を翻す。


「なっ……違うんすよ先生!」


「智也くん、安静にしてなきゃダメですよ。もうっ、恭吾くんが余計なこというから」


 聞き覚えのある声に我に返り、入口の方に目を向けた智也は焦って飛び起きようとした。

 しかし白衣の女性にそれを止められ、再び天井とのご対面。寝転ぶ智也の顔を覗きに来た灰の眼の男が、薄い笑みを浮かべている。


「元気そうで何よりだ」


「……。先生、授業って」


「気にしなくても、あのあと休憩を挟むつもりだった。今頃みんな、飯食ってるところだろう」


 智也が皆まで言わずとも、まるで心を読んだかのような言葉が返ってくる。

 さすがの察しの良さに舌を巻きつつ、模擬戦が中止にならなかったことに智也は安堵した。


「それで、どうだった?」


 あまりに抽象的で、含みのある話し方に質問の意図が読めない。

 それで返答に困った智也が問いを投げかけようとして、灰の眼が別の方向を見ていることに気付き、問われているのが後ろにいる女性なのだと察した。


「そうですね……少し腫れていますが、内出血や骨の損傷はなし。記憶障害や嘔吐、痙攣などの症状も見られないので、一応は心配いらないと思います」


「そうか……よかった」


 顎に手を当てながら、何かの報告をする白衣の美女。

 彼女がこの学園の医療スタッフであり、この場が保健室であるということを勘案すれば、自分の置かれている状況から自然と会話の意味は見えてくる。

 おそらくは智也をここまで運んできてくれたのが降魔先生で、気絶している間にその女性が――、


「あの、ありがとうございました。えーっと……」


「そういえばまだ私の自己紹介がまだでしたね。新井春香です」


「新井……?」


「智也くん、あまり無理はしないようにね」


 そう言って優しく微笑みかけてくれた新井先生が、寝ている間に智也のことを診てくれていたのだろう。

 一応智也は二人に対して言葉を投げたのだが、担任の方は無反応だった。


「まぁそういうわけだ、今日は一日大人しくしといた方がいいんじゃないか?」


「いや、でも」


 咄嗟に、否定の言葉が口を衝いて出た。

 頭の痛みはほぼ完全に引いており、体を動かすのに支障もない。

 この日の為に、努力を積み重ねてきたのだ。ここで休むという選択肢は智也にはなかった。

 それだけ躍起になっていて、冷静な判断ができなかったとも言えよう。


「まさか智也くん、午後からの授業に出るつもりじゃないですよね?」


「……模擬戦に出させてください」


 新井先生のなじるような視線から逃げるように、身を起こした智也は反対側に立つ男へと顔を向ける。

 そして望みの薄い願いだと分かりながら、縋る思いで頼み込んだ。


 いま無理をしなくとも、智也の試合だけ後日に回してもらえれば済む話だ。

 しかしそんなことにも気付かないくらい、とにかく勝って、選抜入りがしたいという思いが強かった。

 でなければ智也はまた――、


「いいだろう。自分のことだ、自分で決めればいい」


「ちょっと恭吾くん!?」


 意外にも智也の意見を尊重しようとしてくれた先生に、しかしながら主治医の声は厳しいものだ。


「症状がないからって甘く見ないでください。万が一に備えて二十四時間――最低でも六時間は安静にしてないと、遅発性の出血が起きる可能性もあるんですよ。運動なんて以ての外です」


「でも、お前は問題ないと判断したんだろ?」


「一応は、ですよ。都合のいい解釈はしないでください。また生徒に何かあったらどうするんですか?」


 智也の考えを尊重してくれる降魔先生と、智也の身を案じてくれている新井先生。

 自分の我儘のせいで剣呑な空気になってしまい、智也は気まずい思いを感じ始めた。

 互いに主張が強く、どちらも身を引くつもりはないように見える。


「――けど、黒霧は戦いたいと言っている。仮にもし俺が同じ立場なら、何を言われても聞かないと思うぞ」


「そうだよ! 昔から恭吾くんは頑固で、我儘で、私がどれだけ心配したって聞いてくれないんだもん。五歳児と一緒だよ!」


「お、おう……」


「そんな無鉄砲なところ、智也くんは真似しなくていいんです!」


「は、はい……」


 何か琴線に触れたのだろうか、怒りを声に乗せる新井先生に気圧されて、二人の男は二の句が継げない。

 それでも、怒っているというよりは、拗ねていると言った方が正しいかもしれない。

 年上なのに可愛らしいとさえ思えてしまう怒り方に、智也がいらぬ思考を巡らせていると、何かを決断したように腰に手を当て、新井先生が世話の焼ける二人の男に向けて言い放った。


「わかりました。私もその授業に行きます」


「お前も戦うのか?」


「馬鹿言わないでください! バカ! 危なかったら私が試合を止めます。いいですね」


「おい、お前いまバカって……」


「いいですね!?」


 そんなこんなで紆余曲折あったものの、智也は無事に模擬戦に出ることが可能となった。



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