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幻想の晶  作者: 詩乃なかば
一章
31/31

相克 2

 

 ジュラ連合国 ー ビシュ参道



 ルイスとミハイルは日が落ちた少し後にビシュ参道へ到着した。

 参道を離れて一か月も経っていないのに、初めてここを訪れた時にはなかった石造りの建物が建てられていることに驚く。元気な子供たちの声と女性の声が聞こえたので恐らくテレジアからの難民だろう。連合軍の軍事拠点となっているベリゴールではなくより治安の良い場所を求めて来たに違いない。

 しかしながら、一見安全性が高く見える参道は、あくまでもビシュ院へ向かう者のための宿場とも言える小さな集落であり、城壁もなければ軍隊も保有していない。ビシュ院は私兵を有してはいるが、魔物や害獣の退治、揉め事の仲裁程度の経験しかないため対人戦となれば手も足も出ない可能性が高い。それがあの獣との戦いになればさらに対応は困難を極めるだろう。参道もビシュ院も、王国軍に攻め込まれるようなことがあればひとたまりもない。ビシュ院の住人らが得意とするのは人を癒すことであり、戦うことではないのだ。

 彼らは、自らが治療した誰かを斬らねばならないと知った時、果たしてその剣を握り続けられるのだろうか…。


「これは…見事な魔力だ。許諾したのも頷ける」

 ミハイルは手をかざして空を見上げた。

 暗いようで明るい空からは絶え間なく雨が降り注ぎ、霧のように立ち込めている。

 降り続く雨にもかかわらず大地には水が溢れず草木が腐りもしないのは、膨大な自然魔力が水と言う形になっただけに過ぎないからだ。

 ミハイルは雨粒を右手ですくうように受け止めて握りしめた。雨粒は手の隙間から溢れるように飛散して消える。

 この地において、血中魔力を保有する人は無力だ。ミハイルが自身にかけている防御魔晶も一瞬でかき消されてしまった。

 どれだけ豊富な血中魔力があろうと、優れた魔晶の知識を持とうと、このたった一粒の自然魔力を手にすることさえ人には不可能なのだ。

 それ故に、ヒイラギは自治区を占領しようとも、ビシュ院のオリクトを手に入れようともしなかった。

 自然魔力が豊富にあったところで使えなければ意味はないし、己が扱えないものは他の誰にも扱えないのだから警戒する必要もないと言うわけだ。苦労して手に入れる必要はないと判断した結果、オリクトの保有と自治権を許諾した。

 しかし、今は状況が少し変わって来た。

 この無意味で必要がないと判断されたものに、無限の可能性を生み出すことが出来るかもしれない。

 この自然魔力を人が扱うことが出来るようになった時、それは、この世界に混沌をもたらしすべてを消滅させてしまうのか、はたまた誰も知り得ない新たな歴史を作り出すことになるのか。

 あらゆる可能性を計算し幾通りもの道筋を描いても、この先に待つ結末を予想することが出来ない。不思議なことに、全く分からないのだ。

「……」

 ミハイルは参道の様子を眺めて何か考え事をしているルイスに視線を送った。



「?どうかなさいましたか?」

 ルイスは、ミハイルが自分を見て微笑んでいるのに気づいて顔を向ける。


「とても、不思議だな、と思ってね」

 ミハイルは目を細めて微笑んだ。

 実際に見て肌で感じる感動は、遠い地で知略を巡らしているだけでは決して得られなかったものだ。仮説が確証に変わる瞬間と言うのは何物にも代え難い。

 目の前でそんな出来事が紡がれていくとしたら、どれほど高名な観劇を観るよりも、どんな数奇な物語を読むよりも、はるかに想像を超えた感動と喜びをもたらしてくれるに違いない。

 そう思うと、心が弾まずにはいられなかった。

 ミハイルにとって、予想の出来ない不明瞭なものだけが、己の好奇心を満たしてくれる唯一なのだ。


「あぁ、雨のことですね?確かに当たっているのに濡れていないなんて本当に不思議です」

 ルイスは右手を空に差し出して雨を受ける。雨粒はきらきらと輝いたままルイスの手に残っていた。




 マルシュとレーゲンは共にベリゴールに滞在中で対面は叶わなかった。

 この戦況下だ、重傷を負っていてもテレジアの代表であるマルシュがいつまでも伏せっているわけにはいかないのだろう。兵士たちの士気を鼓舞する意味でも、マルシュの生存は広く知らしめなければならない。それによって、テレジアを取り戻そうと言う意思が強固に結束されていくのだ。


 ルイスらが戻ってきた時のためにとレーゲンが事前に取り計らってくれていたので医院の担当とは一言二言のやり取りですぐにラージャを医務室へと入れさせてもらえた。

 馬車の移動ではあったが長時間に渡り魔晶を行使し続けたミハイルの疲労も大きく、ラージャの治療についてやもろもろの話は明日に改めて行うことになった。

 幸い、参道の自然魔力のおかげでラージャの腐食魔晶はかなり抑えられている。心なしか呼吸音もはっきりとしているようにも感じる。僅かであろうとも猶予が出来たことは明らかだった。


 食事は移動中に済ませていたので適当に体を拭いてミハイルは早々に眠りについてしまった。

 ルイスは戻って来ないユーリの状況が気になり休める気分ではなかったので寝台に腰かけて外の雨を眺めていた。

 ”休める時に休まないと肝心な時に動けなくなるぞ”

 ふと、誰かに声を掛けられた気がして窓の方に視線を向ける。

 書斎でずっと本を読んでいるルイスに義兄ヴィルヘルムが窓の向こうからよくかけてきた言葉だ。訓練後の汗と砂埃で汚れた顔を拭いながら、ティータイムにしよう!と言って無理矢理外に連れ出された。


 ヴィルヘルムはどうしているだろうか?

 急遽エノテイアを離れることになってしまったあの日、ヴィルヘルムは身元が割り出されない馬車を調達するために首都を離れていた。直後にキャトラ邸に呼び戻されているとは思うが、エリオスを含めてどうのような処遇が下されたのか、自分のせいで何かひどい仕打ちを受けてはいないか、とても気がかりだ。

 ルイスは、考えだすとふつふつと湧き上がってくる不安に蓋をするようにベッドに横になった。

「……」

 しとしと。

 心地の良い雨音が眠気を誘う。

 あれこれと考え事をしていたはずなのに、いつの間にか眠りに落ちていった。



 ・・・


 翌日、すっきりと目覚めたルイスは大きく背伸びをした。参道にいると体の調子が良い気がする。幼い子供のような、途切れることなく体の奥底から元気が溢れてくるようだ。


 ミハイルと朝食を取りながら、このあとの行動について話し合う。

「ラージャさんはこのまま参道で治療をされるのですか?」


「いや、一見持ち直しているように見えるけれど自然魔力が腐食を阻害しているだけでここでは時間稼ぎにしかならない。本格的な治療を行うにはビシュ院に向かう必要がある」

 ミハイルはベリゴール産の緑茶を一口飲んで上を指さした。


「ビシュ院ですか…。そう言えば、イツキ君も魔力不全を治すためにしばらく院に滞在していました」


「聞きそびれていたが君たちがたまに話しているイツキと言うのは?」

 ミハイルは首を傾げて茶器を置いた。


「ああ、すみません!まだ詳細をお話ししていませんでしたね」




 朝食後、二人はすぐにビシュ院へ向かった。

 参道を登る道すがら、ルイスはこれまで出会った人々、ジュラでの出来事、何故ガーランドへ潜入したのかまでをミハイルに順を追って説明した。


「『(そう)』の所有者の姉弟か…」

 ミハイルは、なるほど、と視線を滑らせた。

『争』についてはエノテイアで『(しん)』を継承した時点で存在を認知していた。

 相反する二つのオリクトが同じ地にあってどちらにも所有者がいると言うことは、戦が始まるのも必然だったのだろうとも考えていた。牢獄としての機能が完全に失われたこの後、あの国がどうなるかもある程度は予想している。

 しかし、そこに人の心情と(えにし)がもつれ絡まれば刻まれる歴史は如何様にも変化していく。己が望む道筋を辿るには、すべてを見て聞いて得て、読み解いていかなければならない。


 山頂に近付く。徐々に自然魔力が晴れると、ミハイルはすぐにその気配を感知して顔をあげた。

「ああ、ちょうどいい。『争』は院にいるようだ」

 更にもう一つ、『争』とは別の気配。どちらのオリクトも実際に対面するのは初めてだ。

 どんな時であっても、自分の頭の中でしか知らない存在と対峙する瞬間と言うのは胸が高鳴る。


「イツキ君たちがこちらにいらっしゃるのですか?良かった」

 参道にはいないと聞いて心配していたが、ルイスはほっと胸をなでおろした。

 ルイスとユーリは便宜上イツキたちの護衛と言う扱いにしてもらっていたにも関わらず、断りもなくジュラを離れてしまったことがずっと引っかかっていた。正式にジュラに所属する前にイツキたちには経緯を含めて話をしておきたかったのだ。

 「?兄上、何か問題が起きていますか?」

ふと、ミハイルを見ると少し険しい表情をしているように見えた。髪の先が静電気を帯びたような気がしたせいだろうか。


「あぁ…少し、警戒をね。向こうはただの興味本位だろうけれど」

 ミハイルは、ミハイルの魔晶を何かしら感じ取っている様子のルイスの肩に手を置いた。


「?それは『争』のこと…、ですよね?」

 どうにも話が噛み合っていないような気がして、ルイスは首を傾げる。


「すぐに分かるよ。きちんと自己紹介をしてもらうとしよう」



 ビシュ院の門には、初めてここを訪れた時のように出迎えの侍女が待っていた。隣には幼い少女が共に立っていて、ルイスとミハイルを確認するとかわいらしくお辞儀をする。


「突然の来訪を容赦願う。こちらの主と話がしたい」

 ルイスが言葉を発するよりも先に、ミハイルが幼い少女の方に声をかけた。


「……」

 少女が微笑んで頷く。

「”ようこそお越しくださいました。私はネイヒ・オルタンシア。あいにく私は耳が聞こえず言葉を発することが出来ません。ご不快に思われるかもしれませんがこちらの侍女が代弁者として発言致しますことをお許し頂きたく存じます”」

 横の侍女が頭を下げたまま代わりに応える。


「…構いません、お気になさらず」

 ルイスはネイヒと視線を合わせて頷く。

 オルタンシア、と名乗った?…それは、もしや…。



「”ご配慮に感謝を。どうぞお入りくださいませ。『争』の御方もいらっしゃっておりますので後ほどご案内いたします”」

 侍女はネイヒの代わりに言葉を発してから門を開いた。

 ネイヒが先導して歩き出す。二人は後をついて院内へ入った。


 以前も通った廊下だ。突き当りを前とは逆の左へ曲がると広い池のある縁側へ出た。

 長い縁側を奥まで進むと浅黄色の扉の前でネイヒが足を止める。扉の横についている鈴の紐を引くと扉は中から開かれた。

 院の庭中に咲いている花と同じ匂いの香が室内から漂ってくる。どうぞ、とネイヒに手招きをされ二人は部屋の中へと足を踏み入れた。


「こんにちは。そこに座って」

 小さな子供が一人、中央に置かれた長椅子に腰かけていた。青灰色の長い髪を後ろで編んだ、ネイヒとよく似た可愛らしい顔の少年だ。ぼんやりとした黒い瞳はこちらを見ているようでどこも見ていない。目が見えないのだと認識するのに時間はかからなかった。

 少年の横にネイヒが腰かける。


「ありがと、ネイヒ」

 言われて、うん、と答えるようにネイヒが微笑む。


「失礼します」

 ルイスは二人の前に腰かけた。ミハイルもその横に座る。


「随分と無礼な真似をするのでどんな横柄な院主が出てくるのかと思えば、子供だったとはね。納得したよ」

 先にミハイルが言葉を発した。ふう、と息を吐いて足を組む。


「あ、兄上…!」

 ルイスは驚いて声を上げた。

 珍しく機嫌が悪い。初対面の、ましてや幼い子供相手にこんな態度をとる姿は初めて見た。無礼なのはどちらかと思わず言いそうになる。


「あはは!ごめん。ミハイルのことがずっと気になってて、さっき守りが消えたから知りたくなっちゃっんだ。悪いのはぼくの方だからルイスも気にしないで」


「??え、えぇ…。え?」

 ルイスは困惑して子供を凝視した。まだ名乗ってもいないのに、何故名前を?ルイスの名は知っていたとしても、何故ミハイルの名前まで…?


「それが無礼だって言われたこと」

 少年が無邪気に笑う。


「???」


「ルイスが困っている。改めて自己紹介からどうぞ」

 ミハイルはルイスの様子を見て笑いながら促した。


「はーい。ぼくはノネ・オルタンシア、ビシュ院自治区の院主だよ。目は見えないけど人の気配や魔力を音で聴いて感じてる。ルイスたちのことは前に転移で来たときから知ってたよ。二人が山頂についた時にミハイルの防御がなかったから気になっちゃってぼくから手を出したの。すぐに守られて分かったのは名前だけだったけど」

 ノネは子供らしく口に手を当てて笑いながら話した。

 両耳で揺れる耳飾りが淡い水色の光をたたえて輝く。それがオリクトだと言うことは直感で分かった。

 何より、オリクトの所有者であるミハイルに手を出したとあっけらかんと話している時点でオリクトの所有者なのだろうと言うことは容易に連想することが出来た。


「あの子が所有しているのは『(きょう)』のオリクトと言う。この所有者とは私も初めて対面する。そちらの妹は…印ではなさそうだが…」

 ミハイルは穏やかな表情のまま、鋭い視線でノネとネイヒを順に見た。


「ぼくらも他の所有者と会うのは初めてなんだ!ここに来てくれるのをすごく楽しみにしてたんだよ」

 ノネは嬉しそうに声を弾ませた。野山で遊ぶ子供のように無邪気に表情をほころばせる。


「『響』ですか…」

 ルイスはビシュ院がオリクトを保有している事実に困惑していた。

 オリクトに関する書物でビシュ院の名前は一度も見たことがない。ミハイルが把握しているのだからもちろんエノテイアもそのことを知っているのだろう。認知しながら敢えて手を出さずにいるのには何かしらの理由があるとは思うが、それをわざわざ秘匿してるのもそのあたりが関係しているのだろうか。


「参道の自然魔力が障害となり他の所有者に感知されないのと、ジュラ連合と隣接していることから他国に侵略される可能性が低いのでエノテイアは自治権及び所有を許諾している。自治区側に他意がないことが大前提なので所有者の対応次第では警戒へ引き上げる必要はあるかもしれないけれどね」

 ルイスの疑問を晴らすようにミハイルが答えた。


「あはは!ミハイルおもしろい」


「今回、所有者と対峙して私自身の目で現状を確認するためにもここを訪れたのだけれど、力の程度はそれほどでもないようなので許諾は継続になりそうかな」

 そう言ってミハイルはふっと息を吐いた。


「それほどでもない?ひどいなー。がんばったらもっと色々できるのに?」

 ノネは馬鹿にされたような気になって口をむっとさせる。


「色々、とは?何のために?所有者は不必要に力を誇示するべきではない。君たちはオリクトと対価を正しく理解しているのか?それでもと言うのならば相手をするが、私は子供と戯れていられるほど暇ではないので相応の対処の仕方にはなるとだけ忠告しておくよ」


「……」

 ミハイルの突き刺すような鋭い言葉にノネは眉をひそめて黙った。

 キーン、と空気が凍り付くような感覚が空間を覆う。耳元のオリクトがふわりと揺れた。


「っ!!」

 ネイヒが頭を横に振りながらノネの袖を引っ張った。


 すぐに状況を理解したノネは息を吐いて瞳を閉じた。

「あっ、待って!分かった、やめる。そんなに怒ると思わなかった…」


「怒ってはいない。自分の行いを理解していないようなので同じことをしただけだ」

 ミハイルは冷静に答えてノネを見据えた。


「けほっ…ごほっ…」

 ネイヒが息苦しそうに咳き込む。

「ごめん、ネイヒ」

 申し訳なさそうな表情でノネはネイヒの背中をさすった。いたずら心の報いを妹が代わりに受けたことにノネは心底後悔をしていた。


「いま…何かありましたか?」

 ルイスは一瞬、耳の奥に違和感を覚えて耳元に軽く触れた。痛いような痒いような、耳鳴りに近いものだった。でも、今はもうしない。気のせいだろうか。


「いや、何もないよ。虫が飛んでいたのかもしれないね」


 そう言ってノネをじっと見据えているミハイルはやはり機嫌が悪そうだ。

 ルイスの視界の隅に『深』のオリクトが微かに輝いているように見えた。


「また虫が飛んで来るようなら次は…」


「もうしないよ。ごめんなさい」

 ノネは今にも泣きそうな表情でミハイルから視線を逸らして謝った。


「分かってもらえたなら何より」

 ミハイルは目を細めて軽く頷いた。


 山頂に着いた直後、先に手を出してきたのはノネだ。悪戯心や好奇心、世間知らず故の無知な行動だったのだろう。子供にはよくあることだ。

 ミハイルは大人として、やって良いことといけないことを教え、導いてあげるのが年長者の役目だと寛容に対応した。ノネのオリクトを介した強引な探りは、真横で突然大声を出されたような感覚に近く不愉快ではあったが、幼子のしたことだからと目を瞑った。

 それにも関わらず、またしてもノネから手を出してきた。しかも今度はミハイルではなく、ルイスに。

 魔力の振動による音の針のようなものを、それを感知して身を守ることも出来ない無防備なルイスに向けて放ったのだ。一瞬だったのでミハイルも気付くのが遅れたが、防御が間に合わなければ耳に深刻な損害を負ってもおかしくはないものだった。

 子供だからと言ってもさすがに限度がある。

 その行為がどれほど卑怯かつ、非人道的であるかを教えるために、ミハイルは同じようなことをネイヒに行った。血中魔力の流れを止め、一時的に呼吸をできなくさせた。

 ノネとネイヒはオリクトの所有者でありながら、双子と言う意味でも心と体に深い繋がりがある。ネイヒの苦しみはノネにも伝わる。

 そうすることで、ノネは理解し学んだはずだ。自分の行った行為の卑劣さと、オリクトの所有者は悪戯心で簡単に人を苦しめたり殺めたりしてしまうと言うことを。そしてそれはいつか自分に返ってくると言うことを。


「…本題に入っても良いかな?私たちは君たちと遊びに来たのではなく、頼みがあって来た」

 反省してすっかり気落ちしてしまっているノネにミハイルは話題を変えて話し始めた。


「頼み?」

 ノネは目をぱちくりとさせた。ネイヒと顔を見合わせて首を傾げる。

 エノテイアのオリクトを携えた者がわざわざ出向いてきたとあらば、てっきり『響』をよこせと言うのか、エノテイアの傘下に入れとでも言うかと思っていたからだ。”頼み”とは随分と下手ではないか。


「院で最も優秀な治療士の手を借りたい」


「それが、頼み?ここは治療する所だもん、わざわざ頼まなくてもここの治療士はみんな手を貸してくれるよ。症状は?」

 ノネは、なんだそんなことか、とでも言いたげに息を吐いてソファーの背もたれに体を預けた。

 大陸一の強国に所属する所有者が小さな自治区に出向いてまで頼むこととはどんなすごい事なのだろうかと期待したのに肩透かしを食らってしまった気分だ。


 気を持ち直した様子のノネを見て、ネイヒはひと心地ついたように立ち上がってお茶の用意を始める。


「腐食魔晶の斬撃による全身への汚染症状。私の知る限りではあるがすでに三日以上経過している」


「三日?えっと、それってまだ…」

 ノネは驚いて目を見開いた。

 ”生きているのか”と言いかけた言葉を飲み込む。


「一応ね。血中魔力の流れを緩くさせ、微量な魔力を流し込んでどうにか生命維持をしている状態ではあるけれど」


「ふうんー」

 ノネは血中魔力の流れを操作したミハイルの能力に興味を惹かれた。

 魔晶汚染による対処法として血中魔力の流れを滞らせるのは最も適切な処置だ。しかしながら血中魔力に影響を及ぼす治療は非常に繊細で、それなりに場数を踏んだ治療士でも尻込みする治療法でもある。見様見真似でやろうものなら循環不全で死なせてしまう恐れがあるからだ。

 それに加えて三日経過しているとなれば、当に死んでいるであろう状態まで進行しているはず。院の治療士がいかに優秀であろうともそこから治すというのは不可能に近い。


 ノネはうーんと唸った。

「ネイヒ、どう思う?」


「……」

 お茶の用意を持って戻って来たネイヒはノネを見て頷く。

 急須から茶を注いで、ミハイルとルイスの前に湯呑を差し出した。


「えー?そうかなぁ?」

 ノネは不満そうに答えながら頬を膨らませた。

「でも!」

「…んー、それはそうだけど…」

 ノネはネイヒに向かって一人で話を続ける。


「…あの二人の間では会話が出来ているのですね…」

 ルイスは透き通った緑色の茶を啜りながら不思議そうに二人の様子を眺めた。


「完全に一致する血中魔力を持つ者同士は魔力を介して会話を成立させることが出来るよ。この双子は所有者と言う点でも特殊ではあるけれど…分かりやすく例えるのなら、エノテイアにも似たようなのがいるね」

 ミハイルは小声で答えた。


「それは…」

 ヒイラギとアトラ、セレオのことだ。

 彼らの関係性について触れることは禁忌とされているが、親子でなければオリクトの力でヒイラギが自分自身を切り離した分身ではないかと噂されている。

 ヒイラギと一度だけ対峙して分かったのは、彼らは同じ気配をしていながら全くの別人だと言うことだった。

 ルイスが受けた印象や感覚ではあるが、親子や兄弟ではないと言うことだけははっきりと感じられた。どちらかと言われれば今目の前にいるノネとネイヒのように、双子や三つ子だと思う方がしっくりくるかもしれない。そうでなければ、やはり自分自身を切り離したか…。


「分かったよぉ。聞いてみてからね」

 ノネがしかめっ面のまま大きなため息をついた。


「それで?」

 ミハイルは茶を一口飲んで湯呑を置く。


「えっとね、そこまで進んでるとぼくらしか治せそうにないんだけど、ぼくらは勝手に院から出られないんだ。それからつよい魔晶を使わないといけないと思うんだけど、その魔晶も使えないから聞いてみないといけない」


「どういうことですか?」


「ぼくたちはおとうさんが良いよって言った時だけ魔晶が使えるの。そう言う約束をしてるから」


「あぁ、”制約”か…なるほど」

 ミハイルはふむ、と腕を組んだ。


 制約とは、オリクトの所有者が魔力量や魔晶の使用に制限をかける手法だ。

 オリクトの所有者と言うのは、年齢や性別、健康状態を含め、自分の意志とは関係なくたまたま所有してしまう場合が半数を占める。そのような”たまたま”になってしまった時、誤った使い方や事故を防ぐために所有者の同意の上で他者を媒介に制限をかけるのだ。媒介となる他者が使用の許可をしなければ制約を掛けた魔晶は一切使用できないのでオリクトの暴走や事故を未然に防ぐことが出来る。

 方法は二つあり、先述した他者を媒介にしたものと、自らで枷をかけるもの。

 自らかける制約は、平時から使用制限をかけておくことで魔力を蓄積させ、緊急時に瞬発的に効果や威力を向上させることを目的としていることが多い。しかし、対価を得られていないオリクトが使用時に大きな要求をすることがあり得るのと、所有者同士の殺し合いでもない限り威力を高める必要性がほぼないためにわざわざ対価の危険を冒して自ら制約を行う所有者は少ない。高い効果を発揮したとしても、対価が足りなければ自身の血中魔力、更に足りなければ生命力を失う危険を伴うからだ。

 ミハイルの見立てでは、ユーリはこの後者の制約をかけていると予想している。ユーリに関しては個性的な魔力の扱い方を編み出した能力やそれを可能にしている特殊な体質も関係しているが、明らかに少ない魔力で転移が行えるのはこの制約をかけているからで間違いない。

 そしてこの双子は、言動からして親子間での制約となり前者に当てはまるだろう。


「一応聞いておくが、治療はオリクトを使用せずとも可能なのかな?」


「うん。一人だけだし、生きてるならたぶん大丈夫。魔力の浄化は一番得意だから!」

 ノネはネイヒが持ってきた茶菓子を受け取って口にぽいと放り込んで得意げに答えた。


「ノネ君、お二人のお父さんと言うのは、もしやレーゲンさんのことですか?」

 そう、確か彼もオルタンシアと名乗っていた。


「うん、そうだよ。ベリゴールにしばらくいるって言ってたけど…。いつこっちに来るか聞いてみるね」


「聞く?転声魔晶は使えるのか?」

 ミハイルは眉をひそめた。転声魔晶は上位魔晶だ。制約をかけているのであれば使用はできないはず。

 同一血中魔力と言う特殊な関係性であれば魔晶を使用せずとも会話を行えるのは言うまでもないが、それは親や兄弟では不可能だ。どれだけ近い血縁であろうとも、血中魔力が同じになることは決してあり得ないのだから。


「そんなの使わないよー。同じだもん」


「……」

 ミハイルはさらに眉をひそめた。

 父親なのに同じとはどういう意味だ?まさか参道の代表がヒイラギと同じことをしているとでも?

 長く放置されてきた自治区のオリクトをめぐる背景に何か不穏なものを感じずにはいられない。少し探る必要がありそうだ。


 ノネとネイヒは瞳を閉じて何かに集中している。

 同時に、三人で会話をしているのだろうか…。特に魔晶を使っている様子はない。

 ミハイルは険しい表情で二人をじっと見据えた。



「…お待たせ。ちょうどこっちに帰ってるとこだって。ルイスと、あとミハイルが話があるって言ったらすごい声で馬を急がせるって言ってたよ」

 ノネとネイヒはびっくりしたね、と顔を見合わせて無邪気に笑った。


「それは…さぞ驚いていることでしょうね…」

 二人がどう説明したのかは不明だが、レーゲンの驚きようからすると、そのままエノテイアの偉い人が来ているとでも伝えたのだろう。この無邪気な子供たちの様子から考えても、レーゲンはさぞ肝を冷やしているに違いない。親としても代表としても気が気ではない状態で馬を走らせている姿が想像できる。



「君たちが院を出るのに許可がいるのであれば、父親の到着を待ってから参道へ降りて治療を始めていては時間がかかりすぎる…。患者を同時にこちらへ運び込むことは可能かな?」


「うん、良いよ。お願いしておく。おとうさんが登ってくる時に一緒に連れてきてもらうね」


「よろしく頼む」


「じゃあ、ぼくたちも準備しないと。おとうさんが来るまで部屋を用意するからそっちで待ってて」


「分かりました。ありがとうございます」

 ルイスとミハイルは立ち上がり、ノネの部屋を後にした。



 長い縁側の回廊を突き当りまで戻ると、ネイヒの代弁をしていた侍女が待っていた。治療を行っている東の宮へと案内される。

 いくつかの部屋が並んだ回廊で侍女が立ち止まり扉を開いた。

 中へ入るとすでに茶と菓子が用意されていて、侍女は後ほどイツキもこちらへ来ると告げて部屋を後にした。


 先ほどまでの緊張感漂う空気から開放されて、ルイスはソファーに腰をおろしてほっと一息ついた。

 ミハイルはざっと部屋の様子を確認してルイスの前に腰かける。


 ルイスはちらりとミハイルに視線を送ると、意を決して口を開いた。

「あの兄上、もしお疲れでなければメトラでの父上の現状を教えて頂けないでしょうか?」


「ああ、エリオス卿に心配はないよ。『(しょう)』は最高国家機密、ルイスはユーリ君に誘拐されたと言うことになっているから卿が何らかの罪に問われるとしても、せいぜい騎士でありながら違法者を取り逃がしたぐらいのものだ。ルイスが逃亡している限りキャトラ家の純血統は卿のみだからアトラとセレオも血統の保持を優先する。騎士公務は無期限休養処置がとられて状況的には以前よりも安全と言えるかもしれない」


 ルイスはぐっと唇をかみしめた。

「ですが、父上は『()』の印なのですよね?ヒイラギ様はどのようにお考えなのでしょうか…。父上に一言命じれば私を捕らえることはそれほど難しいことではなかったはずなのに…」


「…そうだね、エリオス卿を矢面に立たせていれば事は簡単に収束していただろう。しかし、私はそうなっては困る。だから私自身が駒として動くことでその手段を取らせないようにした。どちらにせよこの戦に手を出すつもりではあったから、アトラたちを納得させる名目としても都合が良かったのもあるけれどね」

 ミハイルは足を組んで不敵に微笑んだ。


「兄上が困ると言うのは、私がエノテイアに戻ることですか?それとも父上が捜索に派遣されることですか?」


「どちらも。私とヒイラギの根底は似てはいるが道筋と結果にはそれなりの差異がある。私にすべてを一任させる材料としてルイスが欠けてもエリオス卿が欠けてもいけない」


「この戦に父上も関係するかもしれないと?」


「しないとは言いきれない。物事はあらゆる繋がりによって連鎖し、絶えず変化していくものだ。一見、関係がないような事柄や些細な出来事であっても、様々な意味と理由を持って巡り一つの流れへと至る。その因果を紐解き、己の盤上で扱う駒の一つとして数手先を見通さなければ大成を成すことは出来ないからね」


「それも可能性の一つ、と言うことなのですね…」

 ルイスはミハイルが見ているであろういくつもの道程の一つにある、エリオスと対峙する未来を考えてしまい顔を曇らせた。

 考えなかったわけではない。自分がヒイラギの立場であったら何を使うかと考えればすぐに浮かぶことだった。もしエリオスが出兵すればルイスは否応なしに国へ帰る選択をしただろう。

 しかし、ヒイラギはそれをしなかった。そうならずに済んだのは、ミハイルが考える道程と少し違ったからと言うだけだ。今は違えど、いつかどこかで、そうなる可能性はゼロではない。どこかで起きた何かによって、ミハイルがその選択を取る時は来るかもしれない。

 ミハイルは敵ではないだけであって、ルイスの味方でもないことを思い知らされたようだった。そのこともよく考えていかなければならない。


「ふふ、そう構えることはないよ。一つ、ルイスの悩みを軽くする情報をあげよう。君の義兄の、ヴィルヘルムを新たに捜索隊に加入させた。セレオの従者としてグランシュ入りする手筈になっている」


「えっ?ヴィルが?!でもヴィルは印の因子がないから…まさか強制的に印にされたのですか?」

 ルイスは驚いて目を見開いた。

 ヴィルヘルムはエリオスが養子として引き取った他国の出身者。『環』の因子を持っていないので印にするにはヒイラギが直々にオリクトを行使しなければならない。印にしていないのであればルイスを捕らえる命令にヴィルヘルムが従うはずもなく、捜索隊に加入させるのは意味がないように思える。


「それはない。彼は『晶』を所持していた(えん)があるから印にすることは不可能だ。だからアトラがエリオス卿の傍に置いておくのを嫌がった。あれは自分が(ぎょ)せないものは徹底的に排除したいタイプだからね。さっさと国外に出してルイスを釣る餌にでもなれば良いぐらいにしか考えていなかったから利用させてもらったよ」


「それを聞いてしまっては私はアトラ様の思惑通りに釣られるしかありませんよ」

 ルイスは息を吐いて苦笑いを浮かべた。

 目に見えている罠だとしてもヴィルヘルムがガーランドへ来るのならば何とかして接触したい。可能ならそのまま傍で手助けをしてもらえたらどんなに心強い事か。

 ヴィルヘルムは『晶』を長期間所持していた経緯から他のオリクトの影響を受け辛く、血中魔力を大きく損なっていることから魔晶への耐性も高い。そのせいで魔晶を扱えないと言う欠点はあるが、それを差し引いても余りあるエリオス仕込みの剣の腕は確かだし、何よりもルイスにとっては家族としてエリオスと同じぐらい信頼できる存在でもある。


「そんな罠とも呼べない粗末なものにかかる必要はないよ。私が何のためにこちらにいると?機会は用意してあげるから見逃さないようにね」

 ミハイルは瞳を閉じて湯呑に口を付ける。

 ルイスが自分の駒を増やすと言うことはミハイルにとっても重要な事柄の一つだった。その駒をルイスがどう扱うのか、それによってどんな変化が生まれるのか、その結果、何が生まれるのか…。それはミハイルに大きな刺激をもたらす。それが楽しみで仕方がないのだ。


「力添えしてくださるのですか?ありがとうございます…!」

 ルイスは嬉しそうに顔をほころばせた。

 ヴィルヘルムが傍で力を貸してくれるようになれば、戦闘面でも生活面でもユーリに頼りきりの状況を少し改善することが出来る。

 ルイスの身を守りながらあれこれと考えて行動しなければならないユーリの負担を軽くすることが出来れば、ユーリに余裕と自由をあげられるかもしれないと考えたら心が軽くなるようだった。




 ・・・



 それから半刻ほどすると、侍女に連れられてイツキが部屋を訪れた。

 気付いたルイスは立ち上がって再会の喜びと共にイツキを出迎える。

「イツキ君!きちんと挨拶も出来ずに傍を離れてしまってすみませんでした。あぁ、すっかり顔色も良くなりましたね、安心しました」


「ひさしぶり。二人がガーランドへ行ったって聞いた時はびっくりしたけど無事に戻って来られて良かった」

 イツキはほっとしたように微笑んでルイスの手を握り返す。

「…?ユーリさんは一緒じゃないの?…えっと…」

 イツキは室内を見渡して、ルイスの背後のソファーに座っているミハイルに視線を送った。


「ユーリは用があって今は出ています。こちらは…私の兄でミハイルと言います。ジュラの状況を聞いて駆けつけてくださったのでしばらく一緒に行動することになります」

 ルイスはすらすらと当たり障りのないそれらしい説明をつける。


「初めまして、君がイツキ君か。私はミハイル。ルイスが随分と世話になったと聞いている。兄として感謝を」

 ミハイルはさらさらと金に輝く髪をなびかせてすっと立ち上がると、イツキの前まで来て右手を差し出した。


「は、初めまして…。そんな、お世話になったのは僕らの方で、感謝なんて…」

 イツキはたじろぎながら目を見開いた。

 ルイスに初めて会った時にも驚いたものだが、何とも言えない圧力のようなものを感じて急に動悸が激しくなる。

 二人が並んで立つと、まるで以前ブライズ王家の別荘で見かけた神々しい絵画に描かれた空想の人物たちのようではないか。装飾品のような煌びやかな髪、晶石とも思える瞳の色の美しさは本当に自分と同じ生き物なのかと疑わずにはいられない。造形美と言う言葉はこの人たちのためにあるんだろうな、と思ってしまう。


「怖がらせてしまったかな?」

 呆然としているイツキを見て、ミハイルが小さく笑う。

 ルイスが不思議そうに首をかしげると、イツキは、はっと我に返ってミハイルの手を取った。


「?!っ!!」

 ミハイルの手に触れると、イツキはびくりと体を震わせた。

 静電気のような針で刺されるような、痛みとも言い難い妙な感覚に驚いて手を振り払う。

 何が起きたのかと右手を眺めてみるが特に変わった様子はない。


「はは」

 同じく衝撃を感じたミハイルが笑いながら少し痺れた右手を振る。


「??どうかされましたか?」


「『争』に…、拒絶されたようだ。ここにいるはずがないと驚いたのだろうね」

 ミハイルは右手をさすりながらイツキの持つ『争』のオリクトを見つめて目を細めた。


「…?…」

「それは、どう言う…」

 ルイスとイツキは顔を見合わせて目を瞬かせた。


「端的に、私のことがあまり好きではないのだろう」

 ミハイルはしびれる右手をさすってソファーに座り直した。


「えっ?オリクトが??好きか嫌いかって、そんな感情みたいなものがあるんですか?」

 イツキは首から下げているオリクトの装飾品を握り締めて眉をひそめた。


「ふふ、そうだな、どう表現したものか…。ひとまず座ろうか」

 ミハイルは呆然と立ち尽くしている二人を見てくすりと微笑んだ。


 二人は困惑した表情のままソファーに並んで腰かけた。

 ルイスは少し冷めてしまった自分とミハイルの湯呑のお茶を淹れ直し、イツキの前にも一つ差し出す。


「………」

 ミハイルは、ふと鋭い視線でどこか遠くの方に目線を凝らした。そうして、何かを察した様にふっと口元の端をあげた。

「ふむ?この気配は…。ルイス、もう一つお茶を用意してもらえる?」


「え?分かりました」

 ルイスは不思議に思いながらも、ミハイルが意味のないことを言うわけがないので素直に備え付けの湯呑を一つ取った。


 トポトポと茶を注いでると、扉が叩かれる。

 お連れ様をお通しいたします、と侍女の声がして扉が開かれると、借り物の布で頭を拭きながらユーリが部屋へ入ってきた。

「お邪魔しまーす」


「…!あぁ、ユーリでしたか!!よくご無事で!」

 ルイスは急須を置くとすぐに駆け寄った。

「どこか怪我はしていませんか?体調が優れないことはありませんか?」

 ルイスはユーリの両腕を掴んで、どこも怪我をしていないかと、体をぐるりと見渡して確認する。


「あはは!迷子の子供ですか、私は」

 ユーリは髪を濡れている髪を拭きながら顔をほころばせて笑った。


「すみません、心配だったものですから」

 ルイスは、はっと恥ずかしそうに手を離した。


「寄り道をしていたら少し時間がかかってしまっただけですよ。大丈夫、何ともありません」


「では、サーシャさんとは…?」


「ルイス、ユーリ君、二人で盛り上がっているところ悪いのだけれど、座って四人で話をしないかい?」

 ミハイルがくすくすと笑いながら二人に声をかける。


「そうですね。ああ、イツキ君もご一緒でしたか、ご無沙汰しております」

 ユーリはソファーの二人に視線を滑らせて、イツキにどうも、と右手を挙げた。


「どこかで雨に降られたのですか?どうぞ。淹れたてですので体が温まると思います」

 ルイスはソファーに腰かけながら先ほどミハイルに言われて淹れたお茶をユーリの前に差し出す。


「んー…まあ、そんな所です」

 ユーリは歯切れの悪い返事をして上着を脱ぐと適当に椅子に置いた。


「君がそこまで消耗していると言うことはあまりいい結果ではなかったようだね」

 ミハイルは湯呑に口を付けながらユーリを一瞥する。


「…そう言うことになりますかね…」

 ユーリは湯呑を手に取ると一口で飲み切った。

「お三方は何か話を始めていたところですか?」


「いえ、今しがたイツキ君と再会したばかりで、兄上を紹介しただけですので話は何も…。あ、ラージャさんの治療については目途が立ちまして、そのために人を待っている状況です」


「なるほど、じゃあ、先に私から良いですか?サーシャとの件をお話しする前にイツキ君に確認しておきたいことがあります」

 ユーリはミハイルとイツキに視線を投げかける。


「え?僕?」

 イツキは目をぱちくりとさせた。


「私が聞きたいことと同じ答えになるだろうから構わないよ」

 ミハイルは静かに頷いて返す。


「私は所用でテレジア近郊へ立ち寄ってたんですけど、そこでガーランド側の人間と行動を共にしているアヤさんに会いました。イツキ君はそれを理解していて、その上でそれぞれの道を選んだんですか?」


「アヤに会ったんですか?!」

 イツキがびくりと肩を震わせる。湯呑を両手で持ったままみるみる表情が強張っていく。


「アヤさんが…?」

 ルイスは驚いて目を見開いた。

 今、ユーリの言ったガーランド側の人間とはサーシャのことだ。

 あまりいい結果ではなかったようだ、とミハイルが声をかけていたのと関係があるのだろう。


「えっと…」

 イツキはちらりとミハイルを見て、そしてルイスに視線を送る。


「ああ、言葉を選んでいるのならば気にしなくて良い、君たちのことも含めて事情はすべて把握している。こちらに滞在している間は手を貸すことも可能ではあるから今後のためにも教えてもらえると助かるね」


「私よりもずっと豊富な知識と見識をお持ちの方です。初対面で信用するのは難しいとは思いますが、兄上の頭脳は絶対にジュラのためになるとお約束します」

 ルイスは不安そうなイツキの左手にそっと右手を添えた。


「うん…分かった。ルイスがそう言うなら大丈夫なんだろうなって思える」

 じんわりと温かい、日差しのような何とも言えない感覚。それはどこか懐かしさと安心感を与えてくれる。


「アヤがガーランド側の人と一緒にいることは僕も知ってます。何故そうなったかなんだけど、ルイスたちがガーランドへ行くことになったって知らせを聞いた少し後、男の人が参道に来たんです。その人は、トールって名乗ってて、たぶん…、マルシュさんの叔父さんで、僕の実のお父さんなんだと思うんだけど…」

 顔を知らないから、と、イツキは困ったように頬を掻いた。


「イツキ君の父親とは…、トール・アイゼンさんですよね?彼は十五年前の事変で亡くなったはずでは…?」

 ルイスは眉をひそめた。


「僕もそう聞いてる。マルシュさんもフリンさんもいなかったから確認のしようもなかった。でも、僕とアヤは、すぐにそうだって思った。オリクトがそう教えてくれてるような感覚があって、あの人もそれに気付いたみたいで、自分は『争』の前の所有者だからオリクトが覚えてるんだって言ってた」


「なるほど、アヤさんと一緒にいた男がオリクトに近い気配がしてたんですけど、あれがトールさんだったわけか。『争』の前の所有者ねぇ…」

 ユーリは髪をかき上げて男の顔を思い出そうと頭をひねる。


「その、トール…さんは『争』のオリクトの対価、それから、その所有者の末路を教えてくれました。対価のことも、いずれどうなるかも漠然とだけど僕らは感じてたからアヤもそれに悩んでて、トールさんの話を聞いてアヤは何か希望を見出したんだと思う。正直なことを言うと、今の僕らは行き場を失ってそうするしかなかったからここにいるだけで、元の生活に戻れるなら何がどうなっても良いと思ってるんです…、でも、ただ、何て言うか…僕はトールさんの話は何か違うなって感じて…。アヤがトールさんに付いて行くって決めたことは理解してます。だから止めなかった。アヤも、僕の考えを尊重して無理強いはしなかった。こうなってしまったことはお互い納得してます。道が別々になっただけで目指してるものは同じだと思うから…」

 イツキは湯呑の中の水紋を眺めながら苦悶の表情を浮かべた。


「そのオリクトについては私も軽く聞きました。『争』は対価のせいでどちらかが死ぬ運命にあるんだそうですね」


「どういうことですか?イツキ君も知っているのですか?」

 ルイスは眉をひそめてユーリを見てからイツキに問う。


「うん。『争』の対価は、人から向けられる悪意だから。オリクトが何かしらの諍いが生まれるように仕向けていくんだ。テレジア事変もそうして起きたんだって。どこへ行ってもそこでも同じようなことが起きて、いずれはどちらかが死ぬってトールさんは言ってた。だから印が身代わりを…うんん、身代わりはどっちもだ、僕かアヤ、どちらかが死んで残った方が次の所有者になるだけ。だからこのオリクトは、必ず絆の深い二人を選ぶんだってさ。僕らの前はトールさんと、それから僕のお母さんのセレアノって人が二人で所有してたみたい」

 イツキはぎゅっと手を握り締めた。


「対価の悪意を得るために戦を引き寄せていると言うことですか…」

 ルイスはきゅっと唇を嚙み締めた。

 また、対価だ。恐ろしいと言う言葉が陳腐にさえ思える。まるで、所有者を苦しめる呪いのようだ。


「トール・アイゼン、セレアノ・フィブリオ…」

 ミハイルは静かに話を聞いていて、ふむ、と顎に手を当てた。

「関係性の深い二人を選ぶ…それは恐らく近い状況、近い環境、互いを思う者同士であるほど向けられる悪意に差異が出にくく効率が良い…。悪意が増長して殺意となった所で、印が死ぬことはあっても所有者が死ぬことはあり得ない…。トール・アイゼンは所有者とならずに、生きているのは何故だ…?そこで一度繋がりを切ったのだとすれば筋は通るが、今また繋がりが生まれていると言うことは…」

 ミハイルは眉をひそめてながら自分の考えを整理するように独り言を呟いていく。


「ど、どう言うこと?」

 イツキは目をぱちくりとさせてルイスに視線を送った。

 ルイスは私にも分からないと小さく首を横に振り返す。


「確かにねぇ…。トールさん、テレジア事変もそうして起きたって言ってたんですよね?生き残ったはずのトールさんはどうして『争』を所有してなかったんでしょ?今のイツキ君たちと同じように二人で所有して、それでトールさんが生き残ったのならそのまま所有者になってるはずでしょう?二人とも死んでたならまだ分かりますけど、トールさんが生きてるのにすっ飛ばしてイツキ君の手に渡ってるのは妙ですよ」

 ユーリも神妙な顔つきで空を仰いだ。


「…二人とも死んで…。…ああ、そうか…なるほど、そう言う事であれば…。そこから正せば可能か…」

 ミハイルが何かに納得したように、くくっと低い声で笑った。


「一人で気持ちよく納得してないで何か分かったんならさっさと話してくださいよ」

 ユーリは呆れ顔でミハイルを睨む。


「まず、そうだな、私たちは『争』についてそれほど詳しくない。『争』が所有者と身代わりの二人を選ぶことも、所有者の意思とは別に印が力を扱えていることも、元所有者が生きていると言うことも、君たちから聞いた情報だけでしかない。その情報を元に幾通りもの可能性と照らし合わせたところで全く辻褄が合わなかったのだけれど、根本から考え直してみたらそもそも前提から間違っていたのだと気付いたわけだ」


「前提から間違っていた?」

 ルイスは首を傾げた。


「『争』は縁の深い者同士を選ぶ、それはその通りなのだろう。しかし、我々は聞いた情報から無意識に二人と言う言葉に引っ張られていた。二人とは、オリクトが決めてそう伝えて来たわけではないはずだ。重要なのは似た状況、似た環境、関係性の深さであって、それは三人でも四人でも同じ事だとは思えない?絆とは、(えにし)であり繋がりであり、重ねて派生し続けていくものだからね」


「そ、そう言えば、二人でなければならない理由はないですね。一つからの繋がりであれば、何人であっても…。では、トールさんもアヤさん同様に印と言うことになるのでしょうか?イツキ君にとっては実の父親ですし…」


「そこは本人を見てみなければ正確なことは言えないけれど、私からすれば、そもそもイツキ君も所有者と言えるのか怪しい所ではあるよ」

 ミハイルは目を細めてイツキを見つめた。

 経験値の差はあれども、ノネと比べてもイツキの魔力は圧倒的に低かった。先ほど見えない部分で探りを入れてみたら拒絶を示したのはオリクトで、イツキはよく分かっていない反応をしていた。所有者であればある程度の知識とそれなりの力を得ているはずなのに、まったくの無防備で反射反応さえもなかった。ルイスやユーリのような特殊な体質であれば魔力が低いのも納得できるが、どこをどう見てもミハイルの目にはイツキは印にしか見えないのだ。


「え…でも、僕がオリクト持ってるのに…?」

 イツキは自分の胸元にあるオリクトを握り締めた。

 確かに自分のではない強大な魔力の鼓動を感じるのに、これが偽物なはずはない。


「君はあくまでも現物を持っている”所持者”と言えるだろう。印とは所有者の従僕であり、所有者と違う考えを持ち、違う行動を取ると言うことは絶対にあり得ない。君が姉君と別れたと言う時点で君たちの関係性は所有者と印ではない。逆も然り。そして君たち姉弟が別離している所を見ると、トール・アイゼンもそれに当てはまる。つまり…」


「三人とも印と言うことですか?!あり得るのですか?所有者もなしに…?」

 ルイスは驚愕に目を見開いた。


「それが『争』の特性かもしれない。対価、死ぬ運命、と聞いて私の頭に浮かんだのは、所有者がそれで死ぬことはあり得ないのではないか?と言う疑問だ。最も強い悪意とは直接的な攻撃になるのだろうけれど、そんなものでオリクトの所有者は殺せない。一個小隊ぐらい簡単に吹き飛ばせるだけの力を持つ所有者を死に追いやるには同じ所有者か、中隊か大隊でもなければ不可能で、それを対価にするにはあまりにも効率が悪い。私がもし『争』であったならば、人の悪意を受けやすい所有者を装わせて、最大限対価を得られる印にしておくのが最適だと考える。対価を得た結果、印の誰かが死んだとしても、残った者を所有者にすることで今度はその者から派生する絆を辿って新たな印を得ることも出来るからね」


「と言うことは…、イツキ君のご両親は二人とも印で、テレジア事変でトール・アイゼンさんが生き残り、所有者となった?しかし、次の絆であるイツキ君とアヤさんが存在したことで再び印となっている?うん??」

 ユーリは、はて?と首を傾げた。まだ何か納得できる答えに行きついていない気がする。


「その線も可能性としてはあるが…、私はイツキ君は胎児の時すでに印だったのだろうと予想している。母親のセレアノ嬢は出産と同時に亡くなり、トール・アイゼンも恐らく戦火の中で瀕死だったはず。生まれたイツキ君は生き残った印として一度、所有者となった。そうして今度はイツキ君から派生した絆を辿り、親であるトール・アイゼンは再び印となって瀕死の状態から生き永らえたと考えれば、所有者とならずに生きていると言う疑問も解消される。ガーランドに突如『争』が現れたのも、元々イツキ君が所有していたのだと考えると違和感はない。赤子の所有者では対価など得られるはずもないからオリクトは一度眠りにつき、成長と共に姉との間にも絆が形成されて彼女と共に再び印になったと考えると収まりが良い」


「なるほど、その説が一番しっくりきますね。サーシャと対峙した時にアヤさんからオリクトの力を感じるのにイツキ君が一緒にいないのはおかしいと思っていたんですが、お互いに印だと考えれば納得できます」


「ユーリ君、そのトール・アイゼンと魔女は結託しているのではなく共同戦線と見て良いのかな?それで君もひとまず泳がせることにしたと?」


「ええ。それぞれの目的のために互いを利用するだけの希薄な関係でしょう。あと、ガーランドの少将さんが見聞役として同席してたんですけど、あちらも同じくサーシャを従えているわけでも、サーシャに従われているわけでもなさそうでした。お察しの通り、その辺も含めて裏がありそうなので一度保留にしたんですよ」

 それでこの様です、とユーリは両手をあげて見せた。雨に濡れている=魔力を使い果たした=その結果、までもミハイルにはお見通しだ。


「ふむ…」

 ミハイルは腕を組んで眉をひそめた。

 ことの始まりから考えてみても、やはりヒイラギが警戒しているような面倒な相手が裏で関係しているのは間違いない。

 面倒ではあるが、それはそれで実に面白いことになるのだろうな、と想像してにやりと微笑む。


「イツキ君、トールさんはお二人に何と言って引き入れようとしてきたんです?アヤさんがジュラと敵対することを選択するほど重大な話をしてきたんですよね?」


「えっと、僕らが誰も死なずすむ方法を見つけたって言ってました。でもそれにはガーランドの『(つるぎ)』が必要だから、戦に負けて『剣』がエノテイアに回収されると困るんだって。だから、ジュラでただ死を招き入れるよりガーランドで抗ってみないか?って言われました。その方が確実だって…」


「死なずに済む方法ですか…。それでなんで『剣』が必要なのか聞きました?」


「外すには絆とかその辺の繋がり?を断たないといけなくて、『剣』の力を借りないといけないみたいなことを言ってたかな…?」

 イツキは、正確に思う出そうと、うーんと唸る。


「オリクトに対抗できるのはオリクトではありますけど…。それって『剣』じゃなきゃならないんですかね?例えば…」

 ユーリはミハイルに視線を送った。


「関係性も含めて少し調べてみないと分からないけれど、ユーリ君ならば所有者の命を絶つと言う意味で外すことは可能かもしれないね?」

 ミハイルはそう笑いながら答えた。


「その冗談、笑えないんですけど」

 ユーリは居心地悪そうに顔をしかめる。


「アヤさんとトールさんの目的がオリクトを外すことなのでしたら、そこと手を組んだサーシャさんの狙いはやはり『争』のオリクトになるのでしょうか?」

 ルイスは神妙な表情で考え込んだ。


「トールさんに手を貸してるってことは外れた後でそれを貰おうってことなんだとは思いますよ。ただ、あれは相当な強欲ですから。私と接触すれば殺される可能性が高いと分かっているにも関わらず、それを差し引いても自ら舞台に立つ方を選んだってことは、もっと多くの利を得る計画があるんでしょう。『剣』は管理しきれないので手放すと思いますけど」

 ユーリは心底うんざりした様子で息を吐いた。


「ふむ…。『争』をくれてやるのは構わないけれど、他のオリクトも狙っているとなると対処の仕方を変えなければならないから少し手間だな」

 ミハイルはやれやれ、と鼻から息を吐いた。


「他のと言うことは…」


「あーーー!!そうだそうだ!」

 ルイスが何か言うのを遮るかのように、突然ユーリが声を上げて立ち上がった。

「イツキ君はここで魔力不全の調整を行ってましたよね?どちらで出来ます?私も少し整えておきたいので案内して頂けませんか?」

 ユーリは少し強引にイツキを手を引っ張って立ち上がらせる。


「え?う、うん。精製された温泉があって…」

 イツキは慌てて茶碗を置いた。


「いやぁ急かしてすみませんね。この後はラージャさんのこともありますし、今のうちにやってきます」

 そう言ってルイスとミハイルに手を振ると、ユーリはイツキを連れて部屋を出て行ってしまった。


「あ、はい、いってらっしゃいませ…」


 ルイスが突然のことに目をぱちくりさせていると、ミハイルがふふっと笑う。

「こう言う所は実に有能ではあるけれど、有能すぎるが故に扱いづらい駒でもあるのが難点か」


「??」


「印と言うのは、ある程度の練度があればお互いの状況の共有が出来る。以前も印であったトール・アイゼンならばイツキ君から何らかの情報を得るかもしれない。私とユーリ君はそれを念頭に入れて内容を選びながら会話が出来るけれど、それを知らないルイスは困ったことを口にしてしまうかもしれなくてね。ユーリ君は、私が君にその説明するために一度イツキ君を連れ出してくれたと言うわけだ」


「!なるほど、びっくりしました。…では、イツキ君が重要な話し合いなどに出てしまうのもあまり良くないのでしょうか?そうなるとイツキ君にも教えた方が良いのでは?」


「そこまで正確に情報を得られるわけではないからこのままでいい。知らないままでいると言うことは逆手に取ることも出来るから一つの材料として取っておいた方が後に役に立つ。それに、何人もの諜報員に潜入されている筒抜けのジュラがどのような策を練った所で悪手でしかないだろうし、むしろ知られている前提でいた方が私は動きやすい」

 ミハイルはあっけらかんと言い切った。

「知られないようにする必要があるのは、ユーリ君とイツキ君以外のオリクト。つまり私とルイス、先ほど会ったノネ君に関することだ。特に『響』は表立った情報がほぼ出回っていないから強い切り札になる。与える情報は出来る限り最小限にしなければいけないよ。戦略は情報がすべてだから」


「ノネ君のオリクトは強いものなのですね」


「医者も治療士も匙を投げ、私でさえあの子供に頼る以外の方法を導き出せなかった魔晶汚染の治療をオリクト無しで行えると言うことは、この戦において最も重要な鍵となると思わない?」


「あ!それは、獣の、印化の解除のことですね?!」

 ルイスはそう言えば、と驚いて声を上げた。


「そう。私の調べでは、あの印化はオリクトによる魔力汚染のようなもの。まだ仮説の段階ではあるけれど、血中魔力の治療が行えるこの院の治療士であれば取り除けるだろうと踏んでいる。あの双子にどの程度の力があってそれをどれぐらいの規模で行えるのかを確かめる必要はあるから、ラージャ卿の治療は印化解除の先駆けでもある」


「成功すれば大きな進展となります!ジュラの代表方は獣の対応にかなり頭を悩ませていましたから」


「ふむ?ジュラは獣の扱い方に手をこまねいていたの?わざわざ大将をテレジアから引き離して取り戻す絶好の機会を用意してあげたのに何故いつまでも話し合い続けているのかと思えば、大方弱腰の代表が過半数を占めたのだろうね。これではジュラに優秀な参謀がいないと公言しているようなものだ」

 ミハイルは、ははっと少し嘲笑して見せた。


「…戦を行うには、あまりにも優しすぎるのだと思います。ジュラは民のほとんどは争いを避け、今ある平穏が守られれば何もしたくないと言う傾向にありますから、常に後手になってしまうのも致し方ない事かもしれません」


「気持ちは分かるがそれは平和な国でこそまかり通る考え方。今はその考え方を改めなければならない事態に直面しているわけだけれど、果たした何人の代表が考えを変えられるのやら、楽しみだね」

 ミハイルはソファーの背を預け、楽しそうに微笑んだ。


「……」

 ルイスは湯呑に残ったお茶をゆっくりと飲み込む。

 戦争に勝てるか分からないと言う心配はない。ミハイルならば不可能を可能に変えてしまえるだけの力があると知っている。

 しかし、ミハイルと言う人間を知っているからこそ、ルイスの胸中には言い知れない不安が湧き上がっていた。

 ミハイルは温厚で、いついかなる時も冷静沈着。風のない湖面のように感情の揺れ幅も非常に緩やかだ。生粋のエノテイア貴族でありながら他人と言う存在を拒絶せずにきちんと理解し受け入れる度量の広さもある。

 しかし、時と場合によっては途端に非情な一面を見せることがあった。

 個人的な感情や感覚で物事を推し量らないと言うことは宰相の立場に就く者として当然のことなのかもしれないが、その人の背景、環境と言ったあらゆる付随要素をすべて抜きにして”人”はすべて平等で同じ価値と言う考え方をしているのだ。自分であれ、家族であれ、ヒイラギであれ、他人であれ、子供であれ、大人であれ、起きた出来事やこれから起こる出来事に対して、必要な者なのか必要ない者なのかで判断している節がある。他人を蔑視しているわけではなく、あくまで俯瞰した視点で”人”を言うものを見極めているのだ。

 アサンテをあっさりと切り捨てたことからも、ジュラ連合をどのような価値で見ているのか読めないことが不安の一因かもしれない。

 勝利の暁に、ジュラは不要と判断されれば、そのままエノテイア領として吸収する可能性があることを考えると…。


 トントン、と優しく扉が叩かれ、ルイスは、はっと顔を上げた。


「はい。どうぞ」

 ミハイルが微笑みながら返事をする。


「御休み中の所、失礼いたします。院主さまより治療院へお連れするようご用命を承りましたのでお部屋へご案内させて頂きたくお声掛けさせて頂きました」

 扉の向こうからする声は侍女だ。


「代表が到着したのかな。分かった、すぐ出る」

 ミハイルはすっと立ち上がる。


「あ、では私も…」

 立ち上がろうとソファーに手をかけたルイスに、ミハイルは左手を上げて静止した。


「悪いが、ルイスはここでユーリ君たちと待っていてもらえる?子の父親に少し立ち入った話をすることになるから。私は聞かれても構わないが、彼らはそうではない可能性が高い。あの親子を困らせることになるのは望まないだろう?」


「それは、もちろん…。分かりました。私に出来ることはありませんのでお待ちしています。ラージャさんのことお願いします」

 ルイスは小さく頷いた。

 何を話すのかもちろん気にはなるが、エノテイア側の人間でもなければ他人のルイスはそれを知る立場にはない。大人しく休憩していようと椅子に座り直した。


「出来るだけすぐ戻るよ」

 そう言ってミハイルは部屋を後にした。




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