始まり2
晶陽歴540年。
ヴィルヘルムがキャトラ邸にやってきてから七年の月日が流れた。
オリクトは相変わらず彼の手にあるまま、何の変化もない。
もういっそ本当にただの装飾品になってしまったのではないかとさえ思えてくる。
その日は前日から降りしきる雪に、ヴィルヘルムは退屈そうに文句を言っていた。
と言うのも先週、いよいよ屋外での実戦的な稽古をつける約束をしていたからだ。
「この雪では仕方ない。私は事務仕事を終わらせるからヴィルヘルムも今日は大人しく読書をしていなさい」
「ちぇー。じゃあ、次の休みはお願いしますよ」
ヴィルヘルムは口を尖らせながら息を吐いた。
最近では徐々に子供っぽさが抜けて大人びて来たかと思っていたが、まだまだ子供のあどけなさが残る。
「わかった、約束しよう」
ヴィルヘルムはよしっ、と嬉しそうに右手を握りしめた。
「父上、お仕事が終わりましたら私にタクス・ボードを教えてくださいませんか?」
その横で、ルイスがタクス・ボードの指南本を片手に私を見上げていた。
ルイスは仕事の邪魔はしないようにいつも私に気を遣ってくれる。
本当に良い子に育った。きちんと相手の状況を見て弁えられ、成長が嬉しいような子供にそんな気を遣わせて申し訳ないような、何とも言えない気持ちだ。
「ああ、もちろん。では急いで終わらせるとしよう」
ルイスの頭を優しく撫でると、ルイスは嬉しそうに笑った。
私に似ていると言われるルイスだが、こうして微笑むと母親に良く似ていると思う。彼女も大きな水晶のように煌めく瞳を細めて笑ったものだ。
ルイスは今年で十歳、彼女と別れて十年…。
長いようにも思えるし、あっという間だったようにも思う。
数年前、母国ガーランドの国王である父の崩御の凶報が届いたが、私はその報せを無視した。
外交を担当する政庁のトップであるアシュフォード宰相には散々嫌味を言われたが仕方がない。国も国民も何もかもを捨ててエノテイアに逃げ込んだ私は彼らにその存在を思い出されてはいけないのだ。葬儀に出席することはもちろん、新国王の即位に出席することもしてはならない。
私はそうあるべきだし、そう誓いを立てた。いかなる理由を持ってしても決して二度とガーランドの地は踏まないと…。
私は書斎の椅子に腰かけて、鍵のかかった引き出しからガーランド王国ブライズ王家の紋章が押された書簡を取り出して眺めた。
ガーランド王国との外交はアシュフォード宰相かヒイラギ様の代理としてアイネル卿が務めており私に来る書簡はさほど重要なものではない。だからこそ、未だに届いた文を一通も読まずにいる。
ガーランド王国と縁を断ったことを誇示し続けなければ、いつか訪れるかもしれない継承争いからルイスを守ることは出来ない。
私は決意をより一層強くするように深呼吸をすると、引き出しを閉めて再び鍵をかけた。
思考を入れ替える為、冷めかけた紅茶を一口含んだ。ルイスとの約束を守るために早々に仕事を終わらせなければ。
分類ごとに並べられた書類に一枚ずつ目を通し、手際よくサインを記載、捺印をしていく。
その中でひときわ分厚い、紐でくくられた数十枚の書類で手が止まった。
魔晶庁の印だ。しかもアイネル卿のサイン入りと言うことは、オリクトのことだろう。
「…っ?!」
私は一枚目を開いて驚愕に目を見開いた。
”ルイス・キャトラについての調査報告”
「ルイス?何故?!」
思わず声に出してしまった。
ルイスを?一体何の調査だ?そもそも調査を行うと言う話も聞いていない。
いつの間に?どうやって?ルイスが自ら外出することは稀で、一人で魔晶庁に行ったことはもちろん、大聖堂へも私が伴って数回入ったぐらいだ。
私は驚きで震える指で数枚、紙をめくる。
魔晶に関する専門用語がつらつらと続いて、最後にこう書かれていた。
”結果:対象の魔晶の才能は数値不能。体内に魔力自体が存在しない可能性があると仮定。断定には長期による調査が必要とされる。”
「…どういう、ことだ?魔力が存在しない可能性…?」
私は書かれている文字の意味が理解できず、呆然とした。
この世界において魔力は空気のように当然存在するもので、私たち人間は血液の中に溶け込んでいる魔力、あるいは自然の中にある魔力を、晶石を介して抽出し魔晶を行使する。
体内の魔力には血と同じように純度や濃度があり、その濃さと晶石との相性の良し悪しによって才能の有無が決まるが、魔力は誰もが持っており基本的には誰でも扱える。魔力が薄かろうが少なかろうが、正しい知識さえあれば子供でも扱える。それぐらい普通のことだ。
それなのに、魔力自体が存在しない可能性とは?どういう事だ?
私は得も言われぬ恐怖に体を震わせながら再び紙をめくった。
書かれている文章に目を通し、頭を抱える。
「なんてことだ…」
大きなため息が漏れる。
”魔力が存在しないと仮定した場合、魔力による還元や循環、ひいては体外的な影響の一切が無効となる。”
無効?ルイスは魔晶を扱えないだけではなく、その恩恵さえ受けることが出来ないと言うことか?つまり、いかなる魔晶もルイスには効果を成さないと?
近年の魔晶は医療でも大いに役立っており、そのおかげで治る傷や治る病も多数存在する。その恩恵が受けられないと言うことは…。
”本件にはこれまで前例がなく、類似する症例もないことから魔晶庁での対応も協議の上で行われるものとする。対策を講じる必要があるため、今後対象には魔晶庁の保護下において調査の協力を請うものとする。”
「ふざけている!」
私は思いきり机を叩いた。
ガシャン、と紅茶のカップが音を立てて倒れる。
協力を請う?知らない間に勝手に調査してこんな膨大な資料を寄こして、ルイスを保護するだと?研究対象にしたいだけではないか。
私は恐怖ではなく、怒りに震えた。
魔晶庁が非人道的な研究を行っていると言う噂は大聖堂務めであれば誰でも知っている。
そんなところへルイスを行かせられるはずがない!
コンコン。
「父上?」
ふいに扉が叩かれ、私は、はっと顔を挙げた。
「…!…ルイス?どうしたんだ?」
慌てて書類をかき集め髪を整える。
扉が開かれルイスが顔を出した。
「すみません、通りがかったらカップの割れるような音がしたもので…」
ルイスは心配そうにじっと私を見つめていた。
「いや、大丈夫、ちょっと肘が当たって倒れてしまっただけだよ」
私はふっと微笑んで倒れたカップを戻す。
「新しいのをご用意しましょうか?」
「そうだね、お願いしようかな。ついでにヴィルヘルムも呼んでおいで、ルイスの淹れたてを皆で頂くとしよう」
「はい!」
ルイスはやった、と嬉しそうに頷いて廊下を駆けて行った。
給仕長から紅茶の淹れ方を習ってからと言うものすっかりはまってしまったらしく、私に振る舞うのを楽しみにしてくれている。
「……」
私は魔晶庁からの書類に視線を送った。
アイネル卿のサインまで入った正式な調書を見なかったことにはできない。
魔晶学を勉強しているルイスもいずれ己に魔力がないことを知るだろう。
何か不測の事態には魔晶庁を頼るしかないが、かと言って研究対象にされるのは了承できない。
どう返事をしたらよいものか…。
「父上、どうぞ。お疲れですね」
ルイスから紅茶のカップを差し出され、私はびくりとして顔を挙げた。
訝しげにルイスが目を瞬かせている。
すっかり上の空だったらしい。
「いや、ちょっと考え事をね。すまない、頂くよ」
私は考えるのをやめて紅茶を手に取った。
心身の硬直を和らげてくれると言うベンダーティーだ。蜂蜜の甘い香りに癒される。
「ヴィルは蜂蜜二杯で良い?」
「ん」
口に放り込んだ焼き菓子をもぐもぐさせながらヴィルヘルムが頷く。
「どうぞ」
ルイスは横のヴィルヘルムにカップを差し出す。
「ありがとー」
言いながら右手でカップを取ろうと…。
カシャン!
袖の中からするりと落ちてきたオリクトがカップに当たって止まる。勢いで紅茶の中身がはねてこぼれた。
「あぁ、もう…。ごめん、ルイス」
ヴィルヘルムは煩わしそうにオリクトを左手で抑えて零れた紅茶を布巾で拭き取る。
「大丈夫、気にしないで。火傷していない?」
「俺は平気」
「いつも邪魔そうにしているね。外してしまえば?」
ルイスがそう言うと、ヴィルヘルムはきょとんとした顔でオリクトを指差した。
「でもこれ外れないんだぞ?」
「そうなの?きつそうに見えないけれど」
不思議そうにルイスは首を傾げてヴィルヘルムのオリクトに触れる。
「ルイス、それはね…」
ルイスにはまだきちんと説明していなかったと思い出し、私が説明しようと口を開くと…、
「ほら、外れたよ」
そう言ってルイスが笑った。
その手にオリクトを持って。
「え…?」
「あれぇ!?」
私は絶句した。
外れた?!オリクトが?!
アイネル卿ですら外せなかったオリクトが?そんなことあり得るのか?
「おっかしいなぁ?ほんと、ついさっきまで絶対取れなかったんだぞ?!」
ヴィルヘルムは心底驚いて外れたオリクトである腕輪を凝視する。
「?でも外れたよ?」
何かおかしなことでもあるのか、とでも言いたげにルイスは眉をひそめていた。
「ちょっと貸して。んっ、あれ、はまんない。なんか小さくなってないか、これ?」
絶対取れなくなったんだって、と言い張るヴィルヘルムはルイスからオリクトを奪い取って再び腕にはめようとする。
しかし小さいのか、指から先がどうやってもはまらないらしい。
理解しがたい眼前の出来事に私は全く反応できずにいた。
「うーん?さっきと変わっていないように思うけど…」
ヴィルヘルムから手渡され、ルイスが再びオリクトを眺める。
「そ…それは、ヴィルヘルムの言うように、本当に外れなかったんだ。外れたら魔晶庁に預けることになっているから、ルイス、こちらへ貸しなさい」
私は必死に言葉を紡ぎ出し、立ち上がってルイスに手を伸ばす。
「そうでしたか。不思議な晶石なのですね」
ルイスはふむ、と頷いて私に渡そうと手を出すと、
「あ」
オリクトはルイスの指からするりと滑り落ちて…。
「?!」
・・・
「!!オリクト!動いた!」
アトラは大声を張り上げながら、上着を片手に急いで部屋を出た。
気配を逃さぬよう、その力の出所をしっかりと視線に収めて。
・・・
「うっそ、まじ?!…そうか、あの子だったのか、だからエリオスと共に…」
キャトラ邸の横庭にある森で、巨木の幹に寝そべっていた男は驚きのあまり落ちそうになって木にしがみついた。
オリクトがこの屋敷に来てからずっとキャトラ邸を監視していた男は、動き出した大いなる流れに、波打つような鳥肌を感じてごくりと唾を飲み込んだ。
・・・
オリクトはルイスの腕にすっぽりとはまった。
まるで初めからそこに在ることが自然だったかのように、とてもよく腕に馴染んでいるように見えた。
「危ない、落とす所でした。大切な物なのですよね」
ルイスはオリクトを抱えるようにして、ふう、と胸を撫で下ろした。
「………」
私は後悔した。あらゆることを。
こんなことになってしまったのは私の選択ミスだ。初めから何もかも。
ルイスは生まれてそのままガーランドに残すべきだった。
継承争いと言う背負うべき運命から反らすべきではなかった。抗おうとしたことが間違いだった。
これはきっと反動だ。世の中の出来事には流れがあり、それを無理矢理変えれば必ずしわ寄せが反ってくるのだと何かの本で読んだことがある。
私がルイスの運命を無理矢理変えたせいで別の大きな事象が降りかかった。そうだ、そうでなければ、何故この子がこんな重荷を背負わなければ…。
「あ、ルイスが付けてた方が似合うな」
ヴィルヘルムが無邪気に笑う。
「だめだよ。魔晶庁にお返しするのですよね、父上。…?父上?何だか今日はお加減があまり良くないようですね?」
立ち上がったまま硬直している私を見て、ルイスは心配そうに私を見上げた。
「…いや…そう、そうだね……。……ルイス、それは、外れるかい…?」
私は大きなため息をついてルイスの腕を掴んだ。
少し期待してしまう。
先ほどヴィルヘルムの腕から外したように、またするりと外せるのではないかと。
「え、えぇ、すぐにお返しします」
思いのほか手を握る力が強かったのか、ルイスは戸惑った様子でオリクトをとる。
けれど…。
「あれ?すみません、何故でしょう…」
ルイスは必死に腕からオリクトを外そうと試みたが、もちろん外れるはずもなかった。
私は落胆した。そう、外れるはずがない。オリクトだ。ただの晶石でさえ晶技師を介さずに外すことは出来ないのに、その大元たるオリクトが人の手で外れるわけがない。
「…たぶん…オリクトが選んだのだろう…」
私はアイネル卿の言葉を思い出しぽつりと呟いた。
『ー…あの手から外れた時がその時さ…ー』
そうか。今その時が来たのか。
止まっていた時が動き出した、そう表現するのがふさわしいのかもしれない。
「選んだ…?」
愕然としているルイスの腕で煌々と瞬くオリクト。
このオリクトがここに在る理由。ヴィルヘルムの手にありながら機能していなかった理由。それがようやく分かった瞬間だった。
オリクトは自らの意思によってあらゆる事象を操作してここへ来た。ルイスの元へ。ルイスが自ら手にするために。
オリクトとはそういうものだとアイネル卿が言っていたことがある。意思があり、所有者を選ぶが、所有者自らが選び行動しなければその腕へと収まることはない。オリクトがそう仕向けるのだと。そうなるように出来ているのだと。
「あ…え、…おれ、何か大変なこと…した、のかな…?どうしよう…」
絶望に打ちひしがれる私の様子を見て、ヴィルヘルムは泣きそうな表情で唇を震わせていた。
「!」
私は、子供たちの様子に気付いてはっとした。しまった。私が取り乱してどうする。いかなる困難が待ち受けようともルイスを愛し守ると、彼女との今生の別れと引き換えに誓ったではないか。今は、そう、落ち着かなければ。
ルイスにはこれから先あらゆる困難が待ち受ける。オリクトを手にしただけで、人生の選択を否定するのはあまりにも愚かだ。どう生きていくか、どう立ち向かっていくか、それを私が教え導いてやらなければ。
私は大きく深呼吸をしてルイスの傍に歩み寄った。
そしてヴィルヘルムを引き寄せ、二人をぎゅっと抱きしめた。
「ヴィルヘルム、驚かせてすまなかったね。これはおまえのせいではないよ。そして誰のせいでもない。オリクトが選んだことを私たち人間が拒むのは難しい。だけど前へ進むことが出来ないわけではないはずだ。私たちは今からこれまでとは違う生活になるかもしれない。けれど私はおまえたち二人のためならば何でもやって見せる。だからおまえたちも決して現状に絶望することなく、明日のために今出来ることをしよう」
「わ、分かりました」
ルイスは状況をいまいち分かっていない様子だったが、オリクトと言うものが何たるかは知っているだからだろう、体は少し震えていた。
「何かよく分かんないけど、俺も、何でもする…!」
ヴィルヘルムは自分が招いた事態への罪悪感からか、涙をこぼしていた。
私はさらに強い力で二人を抱きしめる。
この先がそうなろうとも、どんな結果が待っていようとも、己の持てる力のすべてで我が子を護ることを最優先に考えようと強く誓った。