第二十話 川上との一日②
真菜の新居のある街は、雪本のマンションの最寄り駅から、十五分ほど地下鉄に乗ってたどり着く。
駅前はそれほど大きくないが、それなりの人通りがあり、そのうえ雑多な雰囲気はない。立ち並ぶ飲食店や古着屋、雑貨屋の中には必ず人がいて、それぞれの店のたたずまいには特徴がありながら、まるで教科書やノートを重ねて机で軽く小突いたような、風通しの良い個性のまとまりを感じられて好ましい。
*****
駅から歩いてほどなくして、真菜の部屋があるマンションに到着した。
三階建てで、窓とベランダの数自体は少ないが、その分一つ一つがやたらに広い。
川上はしばらくじっと見上げて、くたびれたようにため息ついて、何も言わず建物に入った。
雪本はため息を聞かなかったことにして、あたり一面を努めていちいち見回しながら、ひょいひょいと軽く階段を上った。川上のため息が嫌という程分かるからだ。
真菜の部屋は最上階の角だった。
部屋の玄関自体は一人暮らし然としたサイズだ。
玄関を入って、一歩二歩歩くとすぐに、左右に伸びる廊下に出る。玄関からも右斜めにうかがえるような位置に扉があって、川上はまず、その扉を開けた。一瞬立ち止まった。そのあと、嫌そうにゆっくりと中に入って行った。雪本は川上が部屋に入りきるのを見計らい、扉からそっと中を覗いた。
覗いた、というよりは、見渡したと言ったほうがよかった。
部屋は入った人間から見て横に広く広がり、正面から見ただけでは全容を視界に収めきることが出来なかった。そのはみだした正面の視界全て、大きな大きな窓が、そしてその窓の向こうの街の景色が占拠する。
雪本は思いがけない広さに踊らされるように、視界の右端から左端まで、そして高い天井の隅々まで、首を回し体を回して眺めまわした。扉から見て右手には、十分すぎるほどに大きな薄型のテレビと、L字に組まれた背もたれのない白いソファがあった。またそのソファのさらに奥の方にはもう一つ、鍵付きの扉があって、その向こうには新品のベッドが当然のような顔でそこに居た。おそらくは真菜の部屋だろう。
「ご実家から送られてきたらしい」
「どうして?」
「『必要最低限』の家具は、援助したかったのかもな」
川上は品良く微笑みながらそう言って、部屋の左手にあるダイニングテーブルの上に自分の持ってきた弁当を置いた。まなざしは重たく伏せられていて、薄暗い部屋の中では、その目の光の色を観察することはできなかった。
ダイニングテーブルのさらに奥、扉側から見て左側の短辺に添うように、掃除のしやすそうなキッチンがあった。近くの冷蔵庫も立派なもので、まず間違いなく二百五十リットルは下らない。本気で娘の一人暮らし用のつもりなら、贅沢とか裕福とか言う以前に、ありえない程の愚かしさというほかはない。そんな間取りと、家具のとりあわせだった。
「でも、あの人、こんな広々としたところじゃないと暮らしていけないって方でもないですよね」
「まったく。今住んでるカフェの屋根裏がそもそもそんなに広くはないし――」
はっきりと言い切るのをためらうようにそこで言葉を区切った川上が、弁当の箱を開けようとしたところで、チャイムの音が鳴った。
リビングに取り付けられてある防犯モニターに、運送会社と思われる制服を着た男性が立っていた。
「先に食事を済ませろ」
立ち上がりかかった雪本を、川上が片手で制した。
「川上さんは」
「後にする」
それだけ言って川上は、止める間もなく玄関の方に消えてしまった。雪本は、それでも手伝いに出ようかと一瞬逡巡したものの、食べてから手伝いに行った方が話が早いと判断した。ベランダに出て見下ろすと、大きなトラックがマンションのすぐ近くにつけていた。
物自体は多くとも大きな家具はなかったため、荷物をすべて運び込むのには三十分も要さなかった。川上がキッチンの近くのテーブルに置いたままになっていた弁当を見たので、雪本はすかさず
「食べてください」
と言った。
「でも」
「俺はもう食べちゃったし」
一瞬躊躇した川上が、それでも最後には伏し目がちにうなずいたのを見届けて小さく安堵しつつ、雪本は手近にあった段ボールに手を付けた。雪本が梱包を手伝った冬物のニットだった。今は盛夏も盛夏であるので、しばらくはかさばらないようどこかに保管しておくしかないが、どのように置いておくかは真菜本人に任せるしかないだろうか。
「なあ、お前これ――」
険しい声に振り向けば、眉をひそめた川上が、雪本の食事のゴミが入ったレジ袋の中を覗いていた。
「ごめんなさい、置きっぱなしにしてました」
「いや、それは構わないけど」
雪本が歩み寄るよりも早く、川上はレジ袋を手に取った。
「お前、いつもこれで済ますのか」
「え?」
「確か一人暮らしだったよな、お前」
川上はレジ袋の持ち手を両手で軽く広げるようにして持っていた。半透明のレジ袋から少し前に慌てて飲み下した栄養ゼリー食品の影が一つ、捕まった蛙か何かのように、ばつが悪そうに透けていた。
「ああ、はい。いや、いつもって程じゃないですけど、よく食べます。手っ取り早いし美味しいから」
「美味しい?……まあ、美味しいか。まずいわけはない」
川上はそれだけ言って手早くレジ袋の口を閉ざすと、ごみ箱に捨ててしまった。
「ごめんなさい、わざわざ」
「ああ、いや、それはいいんだ。こっちがバタバタしていたから急いでくれたんだろうし」
「すみません」
「大した手間じゃないし。気を遣わせてごめんな」
やり取りを重ねるほどに川上が困った顔で笑い返すので、やむを得ず作業に戻ると、背後で川上が弁当を開く音がした。川上は何故か、自分の食事に一口つけるより先に、雪本の栄養ゼリーの方が気になったらしい。
「川上さんは」
うん?と、川上がまた手を止めた。
「あんまり好きじゃないですか?」
「え?」
「ゼリー、嫌いなのかなって」
時計の秒針が数回鳴って
「いや、俺もたまには食べるよ。便利だし」
と、川上が笑った。小さな小さな、いただきます、が後に続いた。
冬物の衣服、メモ帳やノート、日記帳、手帳、写真アルバム――と言った、真菜にしか処遇の決められないものがいくつかあった。しかしそれ以外のものの量は膨大だった。
「虫よけとか、大丈夫ですかね」
「それは問題ないと思う」
川上は宣言通り、夕飯を手早く済ませ、段ボールを次々と開封していた。
「部屋を確保し始めた時に済ませたって聞いたから。――ただ、それを抜きにしたところで、荷物がこの量だと相当時間がかかるな。だからあれだけ減らせって言ったのに」
「これでも結構、捨ててはいたんですけどね」
雪本は川上の声の低さに逆らわないようなトーンで答えた。
真菜がかなり荷物を厳選している様子を、雪本は直接目撃していた。それでもなお、改めて、見渡す限りの荷物だった。
「必ずしも、全部荷解きする必要はない。真菜もそこまで要求はしないだろうし。お前、終電は」
「えー、っと、六時間後?ですね」
「二人ともそう変わらないか。……何をどこまでやったもんかな」
「川上さん、明日、朝早いとか」
「明日は一日、何もない」
「俺もです」
川上は頷くだけ頷いて、そこから先、何か切り出しそうなそぶりを見せつつ、しかし、切り出さなかった。雪本が切り出すことにした。
「泊まり込むのも一つの手ですよね」
力んだ声が思いのほか響いて、川上が間髪入れずに噴き出した。雪本は多少なりとも恥じ入りながら、半ば追い込み返すように続けた。
「泊まり込むにしろ、住み込むにしろ、ここからの時間の使い方は変わってくるじゃないですか」
「そう――そうだな、お前は住みたいんだな」
「そうです、じゃなきゃ言いません」
「そうだな、そう、そりゃそうだ――いや本当、そうだな。そこも話すか」
川上は軽く咳払いして笑い止んだが、口元の端には穏やかな笑みが保たれていて、視線も円い。そうした変に清潔な人間らしさが、見ようによって、チラチラと癇に障る。
「俺は真菜と一緒にここで過ごせたらいいなって思ってます。せっかくの機会だし。……ただ、俺も親の用意してくれてる部屋で生活してるし、高校がらみの手続きも面倒なんで、元の部屋もしばらくはそのままにして……」
「高校を卒業して、大学にでも入ったら、同棲も考える、そんな感じか」
「そうですね。それが一番現実的だと思うし」
「なるほど」
「まあ、大学の位置によっては、またそれも考え直すかもしれないですけど」
「ああ――」
川上はやや深くうなずいて頬杖をついた。
「それこそここは二年更新だろうから、大学に入ってしばらくしたくらいに、真菜がまた新しいところに移り住むってこともできるだろうな」
「まあ、ご実家との兼ね合いはいろいろ考えたほうがいいでしょうけど」
「西口さんのご一家はそこまで強烈じゃないよ。それこそその時、俺と真菜がしっかり破局していて、お前が二十歳にでもなっていれば、交際自体に文句をつけてくることはないし、そのまま行儀よくしてれば、三年以内に結婚もできるだろ」
川上はそう言って、また穏やかに軽く笑った。
奥歯のあたりで唾液がにじむ感覚をあえて飲み下して、雪本は半ばにらみながら返した。
「ならよかったです」
「うん。ただ、そうか、お前が泊まり込みで作業するなら、俺もそれは同席しておくよ」
「それは、ありがとうございます。じゃあ、えっと、荷解きは今日中に全部済ませるってことでいいんですよね」
「だな。あいつも、今日はカフェのご主人から送別会をされてるんだろうし、いい気分で新居に来てみたら段ボールだらけってのもまあ、気の毒といえば気の毒だ」
「じゃあ、やっちゃいましょう。俺は一応着替えとか持ってきていたんですけど、川上さんは買ってこないとまずいですよね」
「は?」
川上が目を丸くした。
「え、だって、泊りがけで作業するんだし。まあでも、一日くらい着替えなくても平気っちゃ平気か―」
「……ああ、そういうことか。いや、雪本、俺は泊まらないよ」
「え?」
「作業は手伝う。ただ作業が終わったら、俺はタクシーで帰るよ」
「え?……え?あの、あれ、明日でも、用事」
「うん。用事はない。だから夜遅く帰っても別に問題は無いし」
「ん、いや……俺、あの、何なら今日から住み込み始めようかなって」
「いや、わかってるよ」
また笑った。
「着替えまで持ってくるんだからそりゃそうなんだろう。結構図太いところあるんだな」
「川上さんは真菜と住まないんですか」
「住めないだろ、お前が住むんだったら。お前が住まないんだったらそりゃ、選択肢にくらいは上がるけど、お前は住む気満々みたいだし」
「じゃあ俺も住まない」
雪本は知らず知らず声を荒らげていた。川上は本当に驚いたような顔をして、また困ったように笑った。
「わからないな、そんなに気に障るようなこと言ったか」
「気に障るっていうか、……いや、すみません、ちょっとなんか、自分でもまとまってないけど」
「じゃあ例えば、俺がお前に、『真菜と暮らそうなんて考えるな、俺が真菜と同棲するからお前は我慢しろ』みたいなことを言ったらどうする」
「言いたいんですか」
「違うけど」
「それが本音なんですか」
「いやだから、そうじゃなく」
「じゃあ川上さんはなんて言いたいんですか、本当は。俺がどうしたいかって以前に、川上さんは?いったんはそこ話し合わないと始まらないじゃないですか」
「言っただろ、それは」
叱るような語調をやや強めて、川上は立ち上がった。
「お前次第だ。お前が住みたいと思うなら、住めばいい。真菜も多分そう望んでるんだろ」
「誘ってもらいはしましたけど」
「うん。ならそれ以上のことはないだろ、ここは真菜の部屋だし、お前は、」
「いやわかるんです、でも」
「雪本。もう一遍聞くけど、俺がお前と真菜の同棲に反対したら、どうするんだ」
「反対されても同棲したいです」
「だろ?」
「でも川上さんがどうしても反対するなら、お互い、意見が合わないなら、話し合ってみんなで決めるしかないじゃないですか、それこそ真菜に選んでもらったっていい。……今、川上さんは、なんにも言ってないじゃないですか」
自ずと川上の目を見て話した。高野に部室で言われたことをそのまま言ってしまっている自分に気が付き、少し勢いを落とす。あの時の自分は、そう言われてむしろ傷ついた。
「……川上さんが何も言わないから、じゃあ自分だけ同棲しちゃおう、やったーってなれるほど、図太くないってだけです」
雪本の言葉に、川上はややあってから頷いて、そうだな、と消え入りそうに低くつぶやくと、なぜか小さく頭を下げた。
「悪い。……ただ、どっちみち、凄く暮らしたいとか、逆に暮らしたくないとか、そんな希望が無いのも事実なんだよ。無いというか……ハッキリと、そういう物があるわけではないというか、あんまり急なこと過ぎて、ちょっと混乱してるってのも本当だ」
「そっか、だって、話があってまだ二日ですもんね」
川上は笑みを残したまま、苦々しく目を細め頷いた。
「だから、今ハッキリ意見が決まってるやつに合わせる。それで後から文句は言わない」
「でも、それじゃ」
「後悔はするかもしれないけど、それは、俺の自己責任だ。トロくさい俺が悪いだろ」
「スピード勝負ってわけじゃないでしょ、こんなの」
「……まあ、そうだけど……」
お互い同じくらい主張が乱れて崩れると、へたりこむように言葉を失ってしまった。川上は黙ってもう一度しゃがみ込み、手元の段ボールを開けた。真菜が大切に使っていたコーヒーミルが詰め込まれていた。川上はぎゅうぎゅう詰めになった段ボールの空間にそっと長い指を入れて、音を立てずに抱え上げると、迷わずキッチンの一角に置いた。コンロからの位置関係が、真菜が例のカフェでいつも置いていた場所と全く同じだった。雪本でもそこに置くだろうと思った。
「川上さんは」
「なんだ」
「真菜と、二人きりの時間を確保するのと、真菜と一緒に暮らすのと、どっちが大事ですか」
「は?」
「例えば、真菜と一緒に暮らしていて、俺も一緒に暮らしていて、とか、抵抗がありますか」
「それはつまり、お前と、真菜と、俺とで―三人で生活するってことか」
「そうです」
「ここで?」
「例えばですけど。川上さんか俺が、嫌だなって思うまで、ここでどっちも一旦暮らしちゃうのは、どうですか。……つまり、その、答えが出るまで」
川上は面食らって、絶句した。
顔立ちは似ていないのに、真菜にそっくりのその表情に、恋人なのだとつくづく思いながら、雪本は言った。
「保留して、一旦、三人暮らししませんか?………………すごく嫌だったり、しなければ」




