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第十九話 川上との一日①

 翌日、七月二十八日。


 駅のホームから階段を駆け上がって改札を抜けると、正面の柱の角に川上が立っていた。

「すみません、お待たせしました」

「時間に遅れてるわけじゃないんだ、謝ることない」

川上は近くの時計を見上げながら言った。午後四時五十七分だった。

「半にくるんですよね、トラック」

「そう。現地までは歩いて五分もかからないから、少し持て余すかもな。そこの売店で飲み物とか買って来い」

「川上さんは何がいいですか?」

渡された千円を畳みつつ尋ねると、川上は笑いながら首を横に振った。

「この状況でお前をパシってもしかたないだろ、俺の分はもう買った。自分の分だけ好きに用意すればいいよ」

「そんな、お金も持ってきてるし……」

「一応社会人で給料ももらってる立場なんだよ。千円くらいのおごりを高校生に遠慮されても却って立つ瀬がないんだ」

年長のわがままだと思って、と、困り笑いを浮かべながら、川上はやんわりと雪本の肩を売店側に押した。


*****


 昨日、あらかた荷物をまとめ終わるころには、すでにあたりは真っ暗になっていた。真菜は雪本と自分の分のコーヒーを入れながら、手元を見つつ切り出した。

「実家にはね、良ちゃんと一緒に、ワンセットで呼びだされてたのよ」

「ご両親は、川上さんの事」

「知ってるよ。A先輩の件とか当然知らないから、私と良ちゃんが、結婚間近の『つもりだと』思ってるみたい」

 真菜は少し、まつげを震わせて言った。

「何の引っ掛かりもない、安心できる人相手じゃないと、娘を差し出せないって話らしいのね」

「川上さんは、でも、まともそうな人じゃない?なんとなく、ご両親受けとかよさそうだけど」

少なくとも自分よりはと、自然に口をついて出そうになって、流石に飲み込んだ。

「そうなの。うん。紹介した最初の方とかは、普通に、まあいいんじゃないって態度だったんだけど」

「大学中退したから、とか?」

「それもあるけど、一番は、顔」

コーヒーカップを差し出して、真菜はカウンター越しに手を伸ばして、雪本の頬を軽くつねった。

「良ちゃんは顔、変えちゃったからさ。ずっと聞くのよ。『何でいきなり整形したんだ』って」

「なんで」

「私もよくわからない。……堅苦しいのよ。とにかく。最初の印象がまあまあ良かったのもあって、余計にがっかりしちゃったのかな。だから、ほら。自分たちのあてがった家に暮らしてるうちは、少なくとも、勝手に夫婦になるってことはないでしょ?それで今回、引っ越しなのよ」

 話を聞きながら、雪本は、何度も何度も首をひねった。それでもまだわからなかった。

「……新しいおうち、広いんでしょう?」

「広いよ」

「…………俺には、わざわざお金出して、同棲の補助してるようにしか見えないけど………」

「ああ、ね」

真菜は笑って、自分の分のカップに口をつけながらもたれかかった。

「そういう発想はね、あの人たちにはないね。結婚させないぞ、ってはっきり言えば、勝手に結婚することはないし、勝手に同棲しちゃだめだぞ、ってはっきり言えば、しないでいてくれるって本気で思ってるのよ。だから今回おうちを用意してくれたのも、自己満足っていうのかな、そういうのに近いんだと思うよ。娘が案外タフだからさみしいんじゃない?」

「川上さんと別れろって、言われたことないの」

「ある。今回も言われてきたよ。二人そろってね。でもそういう時、私、別れたくないです、って、ただそれだけ言うのよ。説明するのも面倒だし、良ちゃんの隣でこまごましたこと説明するって、そんなひどい話もないじゃない。だから事実だけいうの。別れたくないですって。そしたら良ちゃんも、別れたくないです、信頼していただけるよう今後も頑張っていきますって、馬鹿丁寧に言うしかないでしょ。そしたらそこから、押し込めないのよ。親としては。具体的に別れなきゃいけない理由を持ってないから。だから、結婚だけはさせないぞ、って、それだけ念押ししたってこと」

「川上さんの方の、親御さんはなんて言ってるの。お父さんと二人暮らしなんでしょ」

「絶縁状態」

真菜の答えは簡潔だった。

「良ちゃんのお父さんはね、良ちゃんが整形して、大学辞めて、それにすっごく怒っちゃったのよ。良ちゃん本人にも、私にも。怒って、怒って、出て行けって言って、良ちゃんは本当に出て行って、それっきり。なんにも連絡取れてない」

 雪本はコーヒーをすすった。唇に当たった瞬間、熱いな、と思ったが、敢えて一口分、抵抗せずに口に含んで、喉の奥をちりちりと痛めながら飲み下した。「俺、新しいお家で、一緒に住んでもいいの?」

「うん。私も、雪ちゃんにそうしてほしい」

口元にかすかな力を込めながら言う真菜に、雪本も、うん、と頷いた。一緒に住みたい、と真菜がまた言うので、また、うん、と返してから、軽く息を吸った。

「川上さんも、一緒に暮らすの?」

「どうしようねって、話してるところ。良ちゃんは雪ちゃん優先にしてって言ってた」

「川上さんとも、一緒に暮らしたいって思う?」

「そうね。良ちゃんが嫌っていうなら、無理には言わないけど。それは、雪ちゃんも同じ。雪ちゃんはさ、良ちゃんが私と暮らしたいって言ったとしたら、それが確定してたとしたら、雪ちゃん、私と一緒に住むの、遠慮したいって思う?」

「それは、思わない」

雪本は素早く頭を横に振った。

「そんなに人間、できてないよ。逆にどうなの」

雪本は苦笑して、そして尋ねた。半ば答えを知りながら。

「川上さんがもし、二人で暮らそうって言ったら、どうする?俺は真菜さんと暮らしたいって言ってて、でも川上さんはそれが嫌で、俺を捨てて川上さんだけと暮らしてほしい、って、そんな風に言ってきたら?」

「それは良ちゃんに諦めてもらうしかないと思う」

真菜の答えも、続く言葉も、雪本が予期した通りだった。予期した通りだったので、雪本はむしろ、自分が浅ましいと思った。

「私、雪ちゃんが好きなんだもん。もし雪ちゃんが私と良ちゃんに別れてほしいって言うんだったら、そうじゃないと、私を嫌いになっちゃうっていうなら、良ちゃんと別れると思う」

「それは……だから、さっきの話で言うんなら、俺の事を、今、一番欲しいって思っているから?」

「うん。良ちゃんがもう要らないってわけではなく」

 

 絆されているのか。流されているのか。

 ともあれ真菜の言い分は、あながちトンチンカンではないのかもしれないと、思い始めていた。

 例えば、好きな人がいて、その人間と付き合っていたとして、他にさらに好きな人がいて、その人間と付き合うことになったとし――だからと言って、前に付き合っていた好きな人が、好きでない人になるとは限らない。

 好きであるという事実、毎日でなくとも一緒にいたいと思っている事実、すべてでなくてもその人間を所有したいと思っている事実はそうきっぱりとなくなってしまう物ではない。

 それでも普通は相手に対する義理や、思いやりや、そうあるべきだという価値観から、「今はもうあなただけ」ということにするし、実際そうなっていくのだろう。

 しかし真菜は、正直に、自分が持っている欲求を細大漏らさず表に出す。

 川上や雪本に出し、結論として二人の了承を得ているから、それをそのまま言葉に出しているにすぎないのかもしれない。

「……」

 勿論、それこそが、愛されていることを十分理解している証左でもあるのだろう。


「この荷物、どうするの?」

八時ごろ、帰り際に雪本は尋ねた。真菜は、コーヒーの入っていたカップを洗いながら答えた。

「明日ね、新しいおうちに送るんだ。で、良ちゃんに荷物下ろしといてもらうつもり」

「じゃあ明日は、シフト休むの?」

「ああ、いや、私は休めなくて。だから良ちゃんに丸投げになっちゃうのよ。本当は引っ越し業者さんにお願いすればいいところなんだろうけど、急だし、高くなっちゃうしで、良ちゃんが買って出てくれて。――でも、これじゃあちょっと、大変すぎるかなあ」

真菜は手の水けをきりながら、キッチンから出てきて、ばつ悪そうにほほをかいた。

 段ボールをある程度まとめ上げるのに、二人がかりで三時間かかった。これを新しい家に積み込んで、ある程度荷解きして、掃除や害虫対策やらを、川上一人で済ませなければならないと考えると、どう早く進めても五時間くらいはかかりそうだった。

「もっと荷物減らなかったの」

「減らしたつもりなの、これでも。私、どんどん物買って、増えてっちゃうんだ。捨てられないし」

「まあ、引っ越し先が広いんだから、無理に捨てることないのはそうなんだろうけど――もしよかったら、手伝うよ」

「え?明日も?」

「うん。普通に大変な作業になっちゃいそうだし、早めにおうち見ておきたいっていうのもあるし。川上さんさえ嫌じゃなければ」


*****

 

 その後、雪本が帰宅して十五分ほどたったころ、知らない番号から電話がかかってきていた。電話に出ると、相手は川上だった。川上は、明日の雪本の予定を聞いて、体力を使う用事が前後に入っていないことを確認してから、そういうことなら手伝ってもらえるとありがたい、と、待ち合わせ場所と時間を指定してくれた。


 ありがとう、助かるよ。


 そう、何の引っ掛かりもない響きで言ってから、それじゃあ、と、川上は電話を切った。雪本は自分の不思議な感覚を、しばらく噛みしめていた。川上のその、何の衒いもない、単純な感謝の言葉を、雪本自身もまた、そのまま単純に受け取れてしまった。嫌味を邪推することも、気まずさや後ろめたさや、嫉妬を覚えることもなく。


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