閑話:呼び方
「お帰りなさいませ、レイ様。預けていた防具の修繕が終わったと店の方から連絡がありました。あとで取りに行きますね」
「あ、お帰りなさい。ねえねえご主人さま。青と黄色だったら、どっちが好き?」
「やっと帰ってきた。主様。悪いんだけど手を貸してくれない。地下室の掃除が終わらないのよ」
「キュイのこや。ゆきおとしがおわったよ、おにいちゃん」
「主殿。今しがたモランヌ殿がお見えになりました。例の件に関する資料を纏めた資料を置いていかれたでござる」
「よし、一辺に言わないでくれ」
帰宅早々、応接室で待ち構えた仲間達に次々と声を掛けられたレイは一人一人に丁寧に対応をする。テキパキと対処する姿は、この世界に降りてきたころとは違いリーダーとしての資質が垣間見えた。
そんなレイを、暖炉の前にある一人席からぼうっと見つめる白い視線に、レイは気づいて声を掛けた。
「どうかしましたか、クロノ」
「……いえ。何でもありません、玲様」
本当に言いたいことを飲み込み、名前を呼ばれたクロノス―――ではなく、クロノは色が抜け落ちた頭髪を横に振った。
レイ達が迷宮から生還して十日が過ぎていた。本格的な雪のシーズンに入った学術都市は、雪の街へと姿を変えていた。一日の内に一度は必ず雪が降り、街で導入されている雪かき用の魔法工学の道具が道を開いていく。
もっとも、そんな便利な道具は人が行き交いやすい主要な道路を優先し、それ以外の区域は後回しにされやすい。レイ達が住む区域も、どちらかというと街の外れにあるからか雪かきや雪下ろしは住人の手で行われている。
周りの屋敷と違い、魔人種の血によって魔道具化した屋敷は並大抵の雪では潰される事はなく、肌を刺すような冷たさとは無縁。だが、外に出れば話は別だ。
冒険者として死線を幾つも超え、器を広げてきたレイ達でも極端な寒さや暑さには弱い。外出する際には防寒具が必要になる。
外回りの用事を片付けたレイも、玄関口で帽子とコートに積もった雪を落としてから室内に入るが、取りきれなかった雪の結晶が溶けだし衣服に染みていく。素早く脱ぎ、コート掛けに預けると、ヨシツネの持っていた資料を持って自室へと戻って行った。
その背中を何とはなしに追いかけていくと、横からふいと覗き込んできたエメラルドグリーンの瞳に遮られた。
「どうかしたの、クロノさま。やっぱり、まだ体調が優れませんか? 無理をなさらないでください」
自分の事を気づかうレティに対して、クロノは心苦しさすら感じてしまう。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、この通り大丈夫です」
そう言って、クロノは笑みで本心を誤魔化した。
クロノという名前は話し合いの末に付けられた偽名だ。13神の名前をそのまま使う事は恐れおおいとされ、タブーとまではいかなくても避ける傾向が強い。一方で、神の名前を一部拝借する事で、その子供に幸あらん事を、と願う風習はある。
また、クロノスとの戦いの余波で学術都市に住む人々は彼女の権能を浴びた。時間が幾度も巻き戻るという現象はガスによる集団催眠という事で強引に処理されたが、その事件が起きた直後にクロノスという名前の女性が現れたら、この二つを結びつける者も居るかもしれない。
ただでさえ、目立ちやすい《ミクリヤ》に神と同じ名前の女性は悪目立ちする。そういった経緯もあって、クロノスはクロノと名乗る事となった。
この決定を彼女は受け入れた。というよりも、自分から言い出したのだ。
神としての自分と決別する意味を込めて。
神だった自分を捨てる覚悟を持って。
一人の女性として生きると決めて。
とはいえ、名前が変わっても、人間として生まれ変わったとしてもクロノはクロノスであり13神の一角だった存在。染みついた価値観は簡単に変わらない。
暖炉の前でクロノの横に椅子を並べたレティは誰が見ても強張っていた。
「そんなに緊張しないでください。いまの私は13神として崇められるような存在ではありません。それに私の事は呼び捨てで構いません、レティシア様」
「と、とんでもないです。あたしの事こそ、レティシアと呼び捨てにして下さい」
手に持った棒針を取り落とし、全身を震わしたレティに、クロノは困った様に眉を下げた。色々な過去を持つ者が集まった《ミクリヤ》の中で、修道院で育ったレティにとって13神とは信仰する対象として刷り込まれていた。こうして気安く話しかけられる存在では無い。
粗相が無いようにと神経をすり減らしていた。
「……では、こうしましょう。レティシア様が私の事をクロノと呼ぶまでは、私はレティシア様と呼び続けます」
「そ、そんなぁ」
「さあ、レティシア様。この次はどんな風にすればいいのですか」
「うう。クロノ様のいじわる」
どんよりとした影を背負いつつ、レティはクロノの手元を覗き込み、アドバイスをする。暖炉の前を陣取る二人のひざ元には、青色と黄色の毛糸で編まれたマフラーが、半ばまで完成していた。
新しい入居者のためと、予想よりも厳しい学術都市の冬への備えとして、防寒具は一から見直された。数が足りず、すぐに必要な物は既製品を買い足したが、マフラーのような小物は材料だけを買って作った方が安い。幸い、レティは修道院時代にマフラーの編み方を教わっていた。冬の時期に修道院の子供たちで編んだマフラーは、街などで売られて修道院の運営費の一部になっていた。
そんな彼女が緊張した面持ちのまま、クロノにマフラーの編み方を教えているのは、彼女のリハビリを兼ねているためだ。
人間に転生したクロノは、新しい肉体に馴染んでいない。最初の頃は歩くどころか立つのも難しく、迷宮の中ではずっと背負われていた。ようやく一人でベッドから降りて壁に手を付けば立てるぐらいまでにはなったが、階段の上り下りは誰かに背負われなければ無理だ。
だからといって、ベッドの上で横になっていては体力が衰えるだけ。座りながらでも体を動かせる作業をしていけば、新しい体と馴染んでいくだろうと言ったのは、古式めいた喋り方をする幼女だった。
編み物は複雑そうに見えるが、一定の手順を繰り返す事で物が出来上がる。今の彼女のリハビリとしてぴったりだった。仲間内で編み物が出来るのはレティだけのため、彼女が教える事となった。
そういった経緯で、クロノはレティの弟子となったが、レティにしてみればどう対応すればいいのか困りかねていた。
相手は元神。どんな話題を振れば不敬に当たらないのか、どんな風に接すればいいのか、彼女は答えの出ない問題に頭を悩ませていた。
「観測所では気にも留めていませんでした」
「え?」
別の事を考えていたせいで、クロノが何と言ったのかレティは聞き逃してしまう。彼女は気にしたそぶりを見せないまま、同じことを繰り返した。
「観測所では気にも留めていませんでした」
「観測所って、神々が地上を見下ろすための、最も高き場所にある空間の事ですよね。何を気にも留めていなかったのですか?」
「呼び方です」
「呼び……方?」
思わず繰り返してしまう。クロノはどこまでも真面目な様子で話を続けた。
「はい。玲様を呼ぶとき、皆様はそれぞれ違いますよね。レティシア様はご主人さまかお兄ちゃん。シアラ様は主様。エトネ様はおにいちゃん、ヨシツネ殿は主殿」
クロノの口から出たお兄ちゃんという響きに、レティの耳は赤くなる。人前では言わないようにと気を付けていたのだが、気が付けば口に出していることが多かった。
気持ちが緩んでいた。
「誰かを呼ぶとき、それはその人との関係性を表すだけでなく、繋がりを意味します。気さくに呼び合えるなら、互いに心が開いているという証ですし、逆に敬称を付けたままなら距離があります。そして、呼び方の変化はその人との関係性の変化を表しています」
「……そう、思います」
クロノの意見にレティは素直に賛同した。まさにその通りだった。
それまで、どれだけ親しくなっても、ご主人さま、と呼び続けていたのは自分たちの抱えている秘密に近づけさせないための予防線だった。これ以上心を開けば、自分たちの秘密に彼を、そして仲間達を巻き込んでしまう。
しかし、デゼルト動乱が終わり、自分の秘密が明らかになり、それでも共に居てくれると誓ったレイに対して、レティは呼び方を変えるようになった。
呼び方の変化は、レティの気持ちの変化によって生じた。クロノの言う通りだ。
「皆様の呼び方が、一人一人違うというのは、それだけ玲様との繋がりを大事にしているということなのでしょう。だから、気になってしまったのです」
「気になったって、もしかして」
言葉を区切ったクロノの気持ちを、レティは直ぐに察した。
先程、名前が上がらなかった自分の姉。
彼女がレイを呼ぶときは、
「レイ様。エリザベート様は玲様を、そう呼びます。私の呼び方と同じです」
「そう言われてみれば、そうですね」
レイ様と玲様。響きは若干違うが、呼び方が同じなのは間違いない。
「エリザベート様は自分を律しようとする強い感情をお持ちの方なのは、すぐに分かりました。そんな方がご主人様からレイ様と呼び方を変えたのは、並々ならぬ決意か、あるいは大きなきっかけがあったはずです」
これもクロノの言う通りだ。
その現場にレティは居なかったが、姉が呼び方を変える経緯は後から聞いていた。その理由に納得し、同時にこれまで自分の幸せや喜びから背を向けていた姉が、少しでも変われた事を嬉しく思っていた。自分という存在を守り抜くことを絶対の使命のように考え、それに殉じている姿を、レティは痛ましく思っていた。せめて、リザだけは幸せになって欲しいと、それだけを考えていた。
だからこそ、呼び方が変わったのはレイに心を開いた証であり、変化の兆しだった。
だからといって、呼び方が同じだからとへそを曲げるような器の狭い人では無い。
クロノが気にする必要はないのだ。
「それなのに、私などがおこがましくも同じ呼び方をするのは……例え、表面的には変化が無くても、胸の内では思う事があるかもしれません。……いえ、なんとも思っていなかったとしても、私が納得できません。あの方の大事な部分を踏み荒らすような、そんな気になってしまいます」
瞬間、レティはクロノという人物の、クロノスという神のあり方に触れた気がした。
彼女は、本当に心優しいのだろう。
自分と深く関わってしまったレイだけでなく、リザの感情を慮り、気遣っている。同時に、クロノとして、《ミクリヤ》のメンバーに深く関わろうとしているのだ。だから、仲間達のレイへの呼び方なんて些細なことを気にした。
彼と皆の距離感や関係性を観察し、自分はどう振る舞うべきなんだろうと考えているのだ。
そんないじましい姿に、レティは緊張で上がっていた肩から力が抜けていくのに気が付いた。
「……妹として断言できますが、あの姉は呼び方が被っている事に気づく余裕とか気配りはありません。本当は、そういう繊細な部分を持ってほしいと思うんですけどね。こう、女性らしいお淑やかさとか」
「レティシア様?」
手厳しいに表現にクロノは目を丸くする。構わずにレティは続けた。
「呼び方を変えたのは意図的じゃなくて、無意識だったと思いますよ。だから、クロノさまが……クロノさんがご主人さまの事を同じように呼んでも気にしません。これは神に誓ってもいいですよ」
「レティシア様、いま」
「様を付けていたら、自分も様を付けるってクロノさんが言ったことだよ。だから、あたしの事はレティと呼んで下さい」
「レティ……さん」
意を決したように言うも、呼び捨ては恥ずかしかったのか、クロノは耳を赤くして、さんとか細い声で付け足した。
「しょうがないですね。まあ、これから慣れていきましょうか。……それで、呼び方ですけど、クロノさんが気にするなら変えた方が良いと、あたしは思います」
「そう、思いますか」
「はい。だって、玲様はクロノスさまとご主人さまの繋がり。でも、今の貴女はクロノさん。神と人じゃなくて、人と人の新しい関係をこれから作っていくんですから、呼び方も新しいのにした方が良いですよ」
「……新しい関係性。それって、すごく素敵な考え方ですね。……でも、いざ新しい呼び方となると、悩ましいですね」
真剣に考えこむクロノの横顔を見て、やはり違うと思う。法王庁が編纂した13神の逸話や説法では、彼らは超常の存在として描かれている。先の見通せない闇を類まれなる叡智で切り開き、道に迷う人々を導いてきた、まさに神と呼ぶに相応しい存在。
だが、今のクロノからはそんなイメージは湧いてこない。
人と人の繋がりを重んじ、その中に溶け込もうと努力する普通の女性にしか見えなかった。
呼び方一つでこんなに悩む姿を見て、彼女が神だとは誰も思うはずが無い。
気が付くと、扉の向こうから足音がした。レティが顔を上げるのと同時に扉は開かれ、白髪交じりの頭髪が視界に飛び込んだ。
「あれ、ご主人さま、どうしたの。また外に出るの?」
「そうなんだ。モランヌさんから貰った資料で気になる事があってね。シアラと一緒にモランヌさんと会ったら、その足でギルドの職人部門まで行くかもしれないから、夕食は遅くなる」
慌ただしく説明しながらコートを羽織り、帽子をかぶるレイ。後ろに付いているシアラも同じように温かい格好をして準備を整えていた。彼女も同行するようだ。
「りょーかい。いってらっしゃいね」
そう言いながら、レティはクロノを肘で突っつく。考え込んでいた彼女は、それが合図だと気づき、慌てて声を上げた。
「あ、あの!」
本人が思っていた以上に出た声量に、レイは動きを止めた。
「ど、どうかしましたか、クロノ?」
問いかけに、さらに慌てだすクロノ。白い視線が部屋の中をぐるぐると駆けまわり、ややあってからか細い声で言う。
「あの、その……行ってらっしゃいませ……レイ……さん」
耳まで真っ赤にして俯くクロノスに、何か手ごたえを感じてガッツポーズを取るレティ。何かを察したのか、形の良い眉の間に皺を作るシアラが睨んでくる。
何とも形容しがたい空気が応接室に流れ、レイは瞬きを繰り返した。
その呼び方にレイは頭の奥底で靄のような物が広がる悪寒に苛まれた。
何処かで聞いたような、あるいは失ってしまったかのような、そんな何とも言えない感情に揺さぶられる。だが、それも一瞬だった。
呼び方の変化。
それは彼女の変化を意味する。
13神が一柱、時を司るクロノスから、《ミクリヤ》の新しいメンバー、クロノとして。
呼び方という些細な変化ではあるが、これはきっと大きな一歩を意味する。
だからだろうか。レイは知らずの内に、口元を綻ばせて言葉を返す。
「ああ。行ってきます、クロノ」
読んで下さって、ありがとうございます。
次回の更新は8月7日を予定しております。




