10-39 文殿 『前編』
文殿の内部は何かに守られているように冷気を遮断していた。貴重な文献を保存するために、温度や湿度を一定に保っているのだろう。その分、空間に積み重なった時間が空気を硬直化している。高い天井に足音が反響してしまい、重い静寂をうち破ってしまい申し訳ないとすら思ってしまう。
レイ達は入り口にあった案内板に従い、まずは13神に纏わる伝承を調べる事にした。
本来なら、その手の事を調べるなら聖都の方が良いのだが、法王庁への不信感は拭えないし、何より時間が無い。
「えっと、13神の本棚は……ここからみたいだね」
「そうでござるな。それにしても見事でござる。天を突くほどの高さにまで積み上がった書物の棚とは。知の都とはまさに言い得て妙ですな」
「同感だけど……これって地震があった時は大丈夫なのかな」
「大丈夫みたいよ。ほら、あれ」
日本人なら真っ先に気にしてしまう様な事を口にするのは、やはり御厨玲の記憶が原因なのか。レイの疑問にシアラが棚の内側にある溝を指した。
「たぶん、地震とか火事とか、異常を感知したらこの保護魔法が発動して本を守るんでしょうね。こういう部分一つとっても、ここが学術都市なんだって分かるわね」
感心した風な口ぶりの彼女は、そのまま本棚にあるプレートを目で追っていく。13神に関する書物は神ごとに分類されていた。
「時の神はあっちかしら」
「ありゃ、反対側か。ちょっと遠回りに……あれ?」
「どうかしたのかい、レティ」
「え? いや、奥に居る人が……嘘でしょ」
息を呑んで立ち止まるレティにレイは胸騒ぎを覚え、彼女の視線を追いかけ前を向いた。両側に背の高い本棚に挟まれた通路の奥に、人影があった。
背はさほど高くなく、凛とした立ち姿は武道を修めていると遠目でも分かる。藍色がかった髪を結び、自分の背丈以上に積み上がった本を片手で抱えながら、新しいのを引き抜こうと言う器用な真似をしていた。
瞬間、シアラとヨシツネの気配が変わる。隠してある武器を引き抜き、闘気を漲らせた。二人の変化が空気を伝わって、彼女へと伝わると、首が真横を向きこちらに気づく。
「……また貴様か」
「……うわぁ、まずいな」
キョウコツの不機嫌な声に対して、レイは天を仰いでしまう。どうやら自分は神に見放されているようだ。まさか、こんな所で出会う事になるとは予想もしていなかった。
「主様、ヨシツネ。もしかして、この女が?」
「シアラ殿の推察通りでござろう。蒸気船でレティ殿を攫った者の首魁でござる」
シアラはレティの腕を掴み、レイの方へと追いやる。同時にヨシツネがキョウコツへと距離を詰めた。伏兵を考えない特攻のように思えるが、あれはワザとだ。自分が囮になる事で、伏兵をおびき出し返り討ちにするつもりだ。周囲に神経を張り巡らして、異変を察知したらすぐに攻撃に転じれるように構えているのが、背中から伝わってくる。
一方で、キョウコツは面倒だと言わんばかりに大きなため息を吐いた。一瞬、レイの方に向けた視線は、話をしてないのかこのやろう、と言っているようだった。
最後にもう一度、切れの悪いため息を長々とついて本を置くと、途端に顔つきが戦士のそれになった。
静謐だった文殿に剣呑な空気が立ち込める。
上背のあるヨシツネを、臆することなく睨みつけるキョウコツ。左右にある本棚は壁のようにそびえていて、逃げ場は無い。
「……いつぞやは世話になったな、娘」
「……お前か。今日はちびじゃないんだな、でくのぼう」
睨みあう両者は隠し持っていた武器を構えた。今にも爆発しそうな一触即発の空気にレイは介入しようとした。
だが、それよりも前に均衡を破る者がいた。
「おやおや。シーちゃんじゃないか。それにレイ君たちも。こりゃまた奇遇だね、こんな所で会うなんて」
場面に似つかわしくない明るい声はキョウコツの背後からした。ひょい、と顔をのぞかせたのはカタリナだ。今度はシアラが物騒な気配を出す番だった。
「……最悪。なんで、こんな時に会うのよ」
最悪に込められた意味は幾つもあった。彼女にとって会う事自体が最悪の出来事であり、自分たちが此処に来た理由を知られるのも最悪である。
シアラはレイの袖を引っ張り、上目遣いに視線を送る。金色黒色の瞳が何を語るのか、レイにも察しは付いた。
クロノスの暴走をカタリナに知られるのは厄介だ。
善か悪かで分類すれば、限りなく最悪に近いカタリナが、クロノスの事を知れば介入してくる可能性は十分に考えられる。彼女の介入は、どこから手を着ければいいのか分からない、解体方法が不明な爆弾を抱えている時に、隕石が落ちて来るような不運と同じだ。
それはそれは大きなクレーターが出来るだろうなとレイは現実逃避をしてしまう。
「奇遇だね、奇遇だね。それとも、ワタシに会いに来てくれたのかい。二日続けてなんて、嬉しいねぇ。好感度を上げるつもりかい。だが残念! ワタシはそう簡単に攻略できないからね」
「別に貴女を攻略するつもりなんてありま、っ!」
ご機嫌な様子のカタリナから距離を取ろうとしたレイは、肘に鋭い痛みを感じた。見れば、袖を掴んでいたシアラの指が肘の薄い所を万力の如く抓っている。
美麗な顔もどこか強張り、彼女から殺気すら漂いだした。
ただひたすらに、怖いとレイは思う。
「どういう事かしら。二日続けてって。昨日も会っていた、ってことかしら。ワタシに黙って? この女とこっそり?」
血の気が引いていくのを実感する。胃の中に氷を突っ込まれたように震えが止まらなかった。
「いや、それは、その、話してないの?」
皆から庇われているレティに助けと確認を求めると、返って来たのは首を横に振る仕草だ。果たしてそれは、話していないという意味なのか、それとも助けられないという意味なのか。あるいはその両方か。
「ねえ、聞いているんですけど、答えてくれないかしら」
丁寧な口調に、絶対零度の声色。
ともかく、孤立無援のレイは、極寒の吹雪に近い怒りを宿したシアラをなだめなくてはいけない。
必死に無い頭を絞り、挽回の一撃を出した。
「えっと、その……ごめんなさい」
頭を深く下げる。それぐらいしか、方法は無かった。刃のように鋭い瞳でレイを見つめると、シアラは深呼吸を繰り返して一緒に怒りを吐き出した。
「頭を上げてよ、主様。……何となく、行った理由も、喋れなかった理由も分かってるわよ。昨日は色々とあったものね。話す暇なんて無かったし」
「……許してくれるの」
「いやよ。理解できても、許さないわよ。後でお説教だから」
ぴしゃりと言い放たれて、レイは項垂れてしまう。
「だいたい、この女の所に一人で乗り込むなんて自殺行為よ。せめて、リザとか連れて行くべきよ」
一人では無く、モランヌと一緒だったという反論は飲み込んだ。口に出しても、そういうことを言っているんじゃないと叱られるのが目に見えていた。
「酷いな、シーちゃん。母親の事をそんな風に言うなんて。それじゃまるで、ワタシが悪い魔女のようじゃないか。とって食わないよ」
二人のやり取りをどこか楽しそうに見つめるカタリナを、シアラは睨んだ。瞳に宿るのは、怒りと憎しみの色だ。
「よう、じゃないわよ。アンタは悪い魔女よ。最悪の魔女よ。アンタが居なければ、余計な事さえしなければ、あの島は、今だって平和の島として残っていたはず。……でも、でも!」
それ以上を言葉にする事は出来ないほど、彼女の中に渦巻く感情は強烈だった。怒りで震える肩に、レイはそっと手を乗せた。
「落ち着くんだ。ここで怒りをぶつけても何の解決にもならない。……それに騒ぎになると面倒だ」
視界の端で職員や利用者が様子を窺っているのが見えた。迷宮突入まで時間はあまり残されていない。騒ぎになって余計な時間は使いたくなかった。
聡明なシアラも、その事には気づいていた。彼女は一度喉を鳴らすと、出かかっていた感情に蓋をした。そして、そのまま反転する。
「どこに行くんだ?」
「……ごめんなさい。ちょっと頭を冷やしてくる。これ以上、この人と一緒だと、自分が何をするのか分からないの」
そう言って、本棚の森を奥へと歩き出した。レイはヨシツネに対して、彼女に付いていってほしいと頼む。
「宜しいので。ここを離れても?」
自分を睨むキョウコツから視線を外さないヨシツネは、壁が居なくなる事の危険性を気にしていた。だが、レイは問題ないと考える。
「僕らなら大丈夫だ。それよりもシアラが自棄にならないように見ておいてほしいんだ」
「……御意。しからば、御免」
全身に巡らせていた闘気を消すと、ヨシツネは最後にキョウコツをきつく睨んでから、森へと消えていったシアラを追いかけていく。後に残ったのは、レイとレティ、そしてカタリナとキョウコツだけだ。
キョウコツが二人の消えた方を眺めつつ、本棚に体を預けた。
「随分と、嫌われてしまったね、ワタシは。まあ、自業自得の部分が大いにあるから、仕方ないと言えば仕方ないね」
寂しげにつぶやく女の横顔に、レティはレイへと囁いた。
「なんだか、本気で後悔しているように見えるね。この人、本当に六将軍なのかな」
彼女の疑問に少なからず同意してしまう。レイが言葉を交わした六将軍はゲオルギウスとディオニュシウスの二人だけだが、彼らの振る舞いは自分の行動に一片の躊躇いも無く、踏み荒らされた命に憐憫の情すら湧かない、血も涙もない悪鬼共というイメージだ。
とてもじゃないが、反抗期の娘の行動に一喜一憂する親の姿とは結びつかない。
「あの、今日ここにきたのは偶然、なんですか。あたしたちを尾行していたとか……それともシアラお姉ぇと同じ物を持っているんですか」
レティの疑問に驚いた。シアラが持つ《ラプラス・オンブル》は未来を予知する特殊技能。技能は基本的に遺伝しないが、魔人ならあるいはという可能性を否定できない。
「可愛いお嬢ちゃん。それは考え過ぎだ。本当に偶然なのさ。キョウちゃんに君達を監視させていた訳じゃないし、ワタシにあの子みたいな未来を見る力はないよ。単に資料を取りに来たのさ」
「資料って、神の文献が置いてあるここに?」
「そうとも。昨日、君から頼まれただろう。肥大化した魂の謎を解明してほしいって。モランヌが色々と手配してくれるまでは暇だから、魂に関する過去の事例を確認がてら、ついでにキョウちゃんにここの使い方や案内をしているのさ。彼女には、研究用の資料を取りに来てもらう事になるからね」
「え? もしかして、この人の下で働いているの?」
思わず声に出してしまったのだろう。レティが口を押さえるも、一度出た言葉は消えない。キョウコツは口元を歪ませつつ、
「色々とあってな。そういう事になった。もう、お前を狙う理由は無いから安心しろ。……といっても信じないだろうから、無駄に警戒でもして疲弊してしまえ」
明らかに悪意ある物言いだが、キョウコツの置かれた状況が事実であると物語っている。どういう事なのかと視線で尋ねられても、レイには答えられない。
「そういう君達こそ、こんな所で何をしているんだい。神様のことを調べるなんて……いつから冒険者は廃業して神学者になったんだい」
「別に、貴女に話す必要は無いでしょう。それに冒険者は辞めていません。数日後には迷宮へと潜るのも決まっています。ああ、丁度いいから伝えておきます。しばらく迷宮に潜っていると思うので、屋敷はしばらく留守にしますから、来ても誰も居ません。だから、魂関連で何か分かった事があったらメモをドアにでも挟んでください」
「おや、そうなのかい。冒険者が迷宮に潜るのは当たり前のことだけど、気を付けていく事だ。何しろ、最近は色々と物騒だからね」
「……お気遣い、ありがとうございます。それでは先に失礼いたします」
これ以上、カタリナと話す事は無い。クロノスに関する資料はあとで取りに来ればいいと考えてレイはレティの手を引いて離れようとする。だが、それにちょっと待ったとカタリナは声を掛けた。
「まだ、何か用事でも?」
「聞きたいことがあってね。しばらく会えないのなら、今の内に確認しておきたい。……君はお父様の憎悪を消したいと僕に頼み込んでいたけど、それは何故だい?」
「何故って、そんなの決まっているじゃないか。僕は僕のままでいたい。憎悪に飲み込まれて、自分を見失った魔人になんてなるつもりはない」
思い出すのは、デゼルト動乱で憎悪に飲み込まれた時。どうする事も出来ず、フィーニスの溢れんばかりの憎悪に振り回され、リザ達や、マクスウェルやミストラル達に危害を加えようとした自分。もしも、あの時彼女たちをこの手に掛けていたら。
そんな恐怖がふいに背筋を凍らせていた。
だが、カタリナはレイの答えに不思議そうに首を捻った。
「そんなに嫌かい。魂から切り離さなくても、魔人にならなくても、その力は既に君の一部になっている。やろうと思えば、魔人にならなくてもお父様の影を自在に操れるはずだ。それぐらい気が付いているだろ」
カタリナの指摘にレティの瞳が驚きに開かれる。そうなのかと無言で訴える彼女から、レイは顔を背けた。
カタリナの指摘は正しい。影法師も言っていたが、『魔王』の力使う事は可能になっている。
しかし、それをする訳には行かない。
「僕はフィーニスの力は使わないと決めたんだ。だから、これは要らない」
目の下に走る傷をなぞりながら、レイは再び己の覚悟を口にする。ナリンザの命を奪った力を使うつもりは無かった。
だが、そんなレイの覚悟を、心に秘めた思いを嘲笑うかのようにナタリカは唇を吊り上げた。
「青いねぇ、君は」
「……なんですって」
「青いと言ったんだ。大方、敵の力は使わないとか、味方を傷つけた力なんて使いたくないって言う、そんな考えなんだろうね。それは単に、自分が綺麗でいたいからのごまかしだよ」
直球な物言いは、何故だかレイの奥底へと突き刺さった。影法師がせせら笑う声さえ聞こえてくる。
「だいだい、力は力に過ぎない。そこに善も悪も無いんだよ。あるのは使い手の願いだ。その力を使って、どうしたいかだ。君が仲間を大切にしたがってるのは、蒸気船での騒動を見ていれば十分に伝わってくる。だからこそ、言わせてもらおう。……助けられる力を拒んで、仲間を失う方が君にとっては死よりもつらい事だろう」
「それは……そう、なのかもしれません」
返す言葉も無かった。
もしも、フィーニスの影を使えば皆が助かる状況に陥った時、そうせずに仲間を見殺しにしてしまったら、自分を許せるだろうか。
いや、許せない。
一方で、思い出すのはナリンザの事だ。彼女を死なせてしまった後悔が、罪悪感がフィーニスという存在への嫌悪に繋がっている。本当に責められるべきなのは弱い自分だというのに。
「……まあ、決めるのは君さ。心優しい君に、後悔の選択はしないように祈らせてもらうよ。それじゃ、また」
そう言って、本棚から離れようとするカタリナに、今度はレイが呼び止めた。
「待ってください」
「おやおや? まだ、ワタシに何か用でもあるのかい。それとも、お父様の力を受け入れる決心でもしたのかな」
にやにやと薄ら笑いを浮かべる彼女に、ある疑問を投げかける。それは昨日、研究地区から帰宅する途中に浮かんだ、一つの疑惑だ。
「僕が心優しいなら、貴女も十分に心優しい人じゃないか」
「ワタシが? 急にどうしたんだい。まさか、キョウちゃんを助けたから、そんな事を言いだしたのかい。彼女を助けたのは、単なる気まぐれだよ」
「そうじゃありません。……貴女なんでしょ。不戦の島を作ったのは」
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