10-28 特異研 『前編』
空からこぼれ落ちた雪が街を白に塗りつぶしていく。道を行き交う人は皆、厚手のコートに袖を通している。面白いのは、分厚い毛皮に覆われている獣人種でもコートを着ている所だ。
レイも黒のコートを襟まで止めて、モランヌと二人で足跡を作っていく。
「学術都市だと雪はどれぐらいの高さまで積もるものなんですか」
「年によって違いますが、本格的に降りだしたら大体50サンチ、私の足元がずっぽりと埋まるぐらいは積もります」
「そんなに積もるんですか!」
サンチとはエルドラドでの単位だ。一センチと一サンチは同程度だから、50センチ。日本の北国ぐらいは積もるようだ。
御厨玲は関東の人間の為、数センチ積もれば大騒ぎが常識だ。その十倍となると想像もできない。
「レイ様の故郷だと雪はそれほど積もらないのですか?」
「そうですね。土地によってばらつきますが……僕の住んでいた場所は数サンチ積もれば、大騒ぎになってしまうぐらいでした」
御厨玲の記憶を元に話すとモランヌは意外そうな顔をした。
「どうかされましたか、そんな顔をして」
「いえ。まさか答えて頂けるとは思っていなくて。先日、コクーン商会の方がお聞きになった時は秘密と通していましたから。正直、レイ様の印象とは違うなと思いました」
「ああ、お恥ずかしい。あの時は交渉相手をちょっと威圧するぐらいが舐められないと仲間から助言されて。トロンスさんは不快に思っていないと良いんですけど」
「大丈夫かと思いますよ。あの後、学長とコクーン商会会長が会食をなされ、その席で今回は世話になったと謝辞を先方に伝えています。きっと上役から褒められているはずですよ」
「それなら良かったです」
そんな風に話していると、遂に研究区画の入り口へと辿り着いた。扉を守護する警備員が、モランヌを見て敬礼をした。
「これはモランヌ様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「生体研究部門主席研究員ナタリカ博士への面会よ。アポイントは朝の内に取りました」
「確認させて頂きます。……確認が取れました。同行者一名というのはそちらの方ですか」
「ええ。こちら、《ミクリヤ》のレイ様ですわ。彼は学長の信任を受けています。くれぐれも粗雑な対応を取らないでください」
了承の意が返ってくるとレイ達は門の中へと案内された。そこで二人は別々になり、審判官の質疑応答を受ける。どこかの国の組織に入っているのか。空間に作用する技能を持っているかどうか。研究地区に悪意を持って入ろうとしているかどうか。
長々と続いた質問が終わり、身体検査を受けてから、やっと研究地区へと足を踏み入れた。ダガーを没収されなかったのは、学長の名前が効いたのかもしれない。
「……暖かい。それに、どういう事なんだ、これは? 空が見えるぞ」
レイは呆然と空を見上げた。空は澄み切った青空に疎らな雲が浮かび、まるで春めいた陽気を漂わせていた。コートの下は汗ばんでいき、扉に入る前と後では、世界が違い過ぎた。
扉が別世界に繋がるゲートだったと説明されれば納得してしまう。
そんなレイの反応を予期していたように、彼女は説明を始めた。
「この空は偽物の空です。研究地区には可動式の屋根が建設されていて、今日みたいな雪の日や雨の日、嵐の日に研究地区に被害を出さないために屋根が展開されます。内側には幻術によって偽の空が映し出され、内部の空気や気温は気象魔法によって制御されます。ですから、今日みたいな日はこちらの方が過ごしやすいぐらいですよ」
「魔法工学で管理されているドーム型の都市って訳か。こりゃ、異世界の中に出来た異世界だな」
頭を覆うドームだけでなく、整備された道路にはTの文字を逆さにしたような機械で移動する研究者や、決められたルートを清掃する機械などが自動で働いていた。学術都市で使われている魔法工学の道具も他の街のよりも格段に進歩していたと思っていたが、この研究地区の比では無かった。
驚きと興奮で目移りするレイと違い、何度も来たと思われるモランヌは目当ての施設へと迷うことなく辿り着いた。
そこは他から遠ざけられた場所にある研究所だった。人気も少なく、どこか陰鬱とした空気が流れている。
「生体研究部門別棟。ここですね」
プレートを読み上げて確認すると、入り口に立ち、ベルを鳴らした。
扉の向こうで音が連鎖して響くのが微かに聞こえた。
「モランヌさんはナタリカ博士と会うのは初めてですか?」
「はい、生体研究部門の主席と言う事しか存じ上げません。機関発足にあたり、彼女の人となりや来歴を自分で調べ上げたのですが……やはり変わり者と呼ぶしかありません」
カタリナの、性格にはナタリカとしての人となりや来歴と聞いて、レイは興味が惹かれた。
おそらく偽造だらけの経歴だろうが、そこに一欠けらの真実が無いとは断言できない。人は不思議な物で、嘘を吐く時に本当の事に近い風に脚色してしまうものだ。
「それは興味がありますね。お会いする前にちょっと聞いてみたいです」
モランヌはベルと扉を見つめ、人が近づく気配が無い事を確認して口を開いた。
「では、かいつまんでご説明を。彼女が学術都市に招へいされたのは五年前に遡ります。中央大陸で御霊と魂とモンスターに関する研究を幾つも発表していたのが審査機関の目に留まり、優秀な頭脳の持ち主だと判断されたそうです。事実、彼女がこちらに移ってから発表した論文は、魂という未知の分野に光を灯す革命的なアプローチだったそうですが、同時に彼女が異端である証明にもなりました」
「異端ですか。確かに、変わった所がある人物に思えましたが、異端とまで言い切るのは激しすぎませんか」
「……公式記録には残っておりませんが、どうやら死者の肉体と魂を融合させる実験に取り組んでいたようで。それに人の魂をモンスターに移植させるという実験も」
「……そんな事が可能なんですか」
「不明です。ただ、彼女がこうして他の建物から離された場所に研究所を用意されたのは事実です」
人の魂という、尊厳と倫理によって尊ばれている領域に彼女は土足で踏み荒らした。やはり、カタリナ・マールムは危険な人物なのかもしれない。
レイが彼女への警戒度を上げていると、扉の向こうで人の気配がした。続いて声が発せられた。
「どちら様でしょうか。ここはナタリカ博士の研究所ですが」
女性の声だ。しかし、カタリナの声では無い。
「面会の約束をした学長付き秘書のモランヌです。博士はこちらにいらっしゃいますか?」
名乗りに応じるように扉が開かれる。そこに居たのは、白いシャツに紺のパンツという動きやすさを主体に考えたコーディネートをした若い女性だ。
「いらっしゃいませ。博士は中でお待ちしております。ご案内いたしますので―――」
最後の言葉は紡がれない。伏した頭が持ち上がり、来客の姿を見た瞬間、言葉を失ったのだ。
驚きに硬直したのはレイも同じだ。
―――なぜ、お前がここに。
言葉には出さなかったが、互いに同じことを思ったのは手に取るようにわかる。
藍色の髪が揺れ、その下にある表情が一呼吸も終わらない内に切り替わったのを見て、レイも瞬時に思考を切り替えた。
戦闘へと。
少女は一度距離を取ろうと後ろに下がるが、レイの踏み込みの前に一瞬で距離を詰められてしまう。玄関口で捕まった彼女は左拳を真っ直ぐに突く。狙いは眉間。もちろん、精神力で強化されている。
常人相手なら頭蓋すら砕く一撃。例え死を免れたとしても衝撃で脳震盪を起こし数秒は満足に戦えない。奇襲としては最上の選択肢だった。
ところが、レイはその拳に向けて頭を振り下ろしたのだ。
まるで自分の頭部を鈍器のように見立てて、額で拳を叩く。
くぐもった悲鳴と、骨が砕けた音。
矛と額のぶつかり合いは額に軍配が上がった。
同じように精神力で強化された頭部は、互いのレベル差もあって簡単に優劣が付いた。
指が逆に曲がるようになった少女は、痛みを堪えながらも右拳で攻撃を放とうとした。だが、それよりも早くレイの次の一手が彼女に迫る。頭を振り下ろした勢いそのまま低い体勢で一歩沈み込むと、少女の細い胴体めがけてタックルを仕掛けた。
予想外の組み付きに、少女は対応できなかった。拳は宙を泳ぎ、背中は床へと叩きつけられた。気づいた時には遅い。レイは少女を押し倒し、馬乗りになっていた。
徒手格闘において、マウントポジションは取った者が有利だ。実力が上の人間にやられると脱出も難しい。
ヨシツネとの模擬戦において、如何にしてマウントポジションを取らせないかというのが、一つの課題になっているほどだ。レイは敵を見下ろした。
「どうしてお前が此処に居るんだ、ガシャクラの孫!」
レイは彼女の名前を知らない。だが、その顔は忘れてはいなかった。
陰鬱な色を湛えた暗い瞳に、薄闇を糸にしたような髪。顔立ちはどこかガシャクラとの繋がりを感じさせる少女。
蒸気船でレティを誘拐しようとした集団のリーダー、キョウコツだ。
「馬鹿か、貴様。聞かれて素直に答えると思っているのか」
「ああ、そうだな。僕が間違っていたよ」
キョウコツのふてぶてしい態度にレイは拳を固めた。
「喋りたくなるようにしなくちゃな」
この状況下で相手を無力化しつつ、効果的にダメージを与えられるのは顔面だ。相手は左手が潰れ、右手も膝で押さえられている。キョウコツの顔を一方的に叩くという行為に躊躇は無かった。彼女はレティを狙った敵だ。
拳が裁判官の振るう鎚のように落ちる瞬間、レイの視界からキョウコツの姿が消えた。
代わりに飛び込んだのは、白い天井だった。それこそ染みの数まで判別できそうな程に近い。
ほんの一瞬、天井まで吹き飛ばした力と引き戻そうとする重力が吊り合い、レイの体は静止したかのように天井のすれすれで止まった。それもほんの一瞬だ。重力に従い戻る最中、レイは態勢を立て直して着地をした。そこに倒れ伏したキョウコツの姿は無い。
代わりに、誰かの靴の爪先があった。
「いやあ、お見事、お見事。まるで猫みたいな反射神経だね。でも、君が悪いんだよ。ワタシの新しい秘書を殴ろうとするなんて。慌てて止めに入っちゃったよ」
どこか無邪気な、それでいてこの世の邪悪さを煮詰めて作る甘い蜜のような声が耳朶から染み込む。レイは声だけで誰だか分かった。
靴から視線を上げれば、そこに立っていたのは目を瞑ったまま眼鏡を拭いている女性だ。それを掛けると、偽りの色に染められた瞳がにぃと、ナイフで抉った傷口のように細く嗤う。
「やっぱり、また会ったね、レイ君」
「……こんなに気が進まない再会は初めてですよ。……ナタリカ博士」
「ささ、汚くて狭苦しい所だけど、ずずいっと座ってくれないか。キョウちゃん、紅茶の準備を。サウスマリアナ産の良い茶葉が残っているはずだよ。戸棚にクッキーがあるから、それも持って来てくれよ」
雑然とした、足の踏み場もないような研究室を軽快に渡り歩くナタリカに戸惑っていた。それは研究室がモンスターの血や肉で埋め尽くされているからではない。確かに、鼻を突くすえた匂いや、今にも動き出しそうな生々しい死骸などは見ているだけで気分が悪くなりそうだ。耐性の無いモランヌは早々に顔を青ざめていた。
だが、レイが気にしているのはこの部屋の惨状では無い。隣の部屋から顔を出すキョウコツの方を睨む。
「博士。茶葉は見つけましたが、カップなどは全て埃まみれです。それに戸棚のクッキーもカビており、とても客人に出せるような代物ではありません」
あまりにも普通にこの場に居座るキョウコツ。そんな彼女を睨んでいると、モランヌがわざとらしい咳払いで注意を自分に向けさせた。
先程の一幕について、彼女は何も言わなかったが、何かあったのだろうと気を使ってくれたのだ。目的を優先する彼女に、レイも従った。
「おおっと! そいつはしまった。ちょっと前まで野外調査に出てたから、そういうのすっかり忘れてたよ。カップは使えそうなのを見繕って、無ければ大急ぎで洗って。クッキーは、そういう訳だからごめんね、二人とも」
「い、いえ。お構いなく博士。それでは、座らせてもらいますわ。……この、何でしょう? 半分に割ってある頭部はどかしても?」
「構わないよ。ああ、でも動かす時は気を付けてくれよ。それでもまだ、部分的には生きてるから噛みつかれちゃうよ」
本当なのか冗談なのか判断できないのはナタリカの冗談めかした雰囲気や、陰惨な屠殺場めいた空気のせいなのか。ともかく、モランヌは縦に半分に割かれたモンスターの頭蓋を下ろして空いた席に着く。レイも同じように手近にあった椅子に座ってカタリナと対峙する。
「それで? 学長付き秘書が直々にお出ましとはいかなるご用件かな。などと勿体ぶって尋ねてみるが、実の所用件は把握しているよ。この前の通達だろ」
「流石はナタリカ博士。用件が早く済んで、こちらとしては助かります」
「くふふ。多忙な君の手を煩わせるなんてこと、慎み深いワタシに出来るはずが無いだろ。分かってるとも、分かってるとも。あれだろ? 意中の男を意のままに操る飲み薬の件だろ」
「そんなもの、注文した覚えはありませんよ!?」
勢いよく席を立って叫ぶモランヌ。あまりの大音声に、檻で丸くなっていたホットラッドが飛び起きた。
「違ったかい? おかしいな。一口飲ませればたちどころに相手は自分の言いなり。婚姻関係を結ぶのも、妻子を捨てろと命じるのも自由自在、という薬。ワタシは誰に頼まれて作ったのかな」
「さも、私が依頼したかのように言うのは止めて頂けませんか。そもそも、そんな薬、完全に条例違反品じゃありませんか。いますぐ警務に連絡しますよ!」
「くふふ、冗談冗談。そんなに目くじらを立てないでくれよ。善良なる一市民であるワタシが、法に触れるような代物を作るように思えるかい?」
「まったく……その、本当に、作ってないのですか? その薬は」
「うん? 興味が出てきたのかい」
問いかけにモランヌは答えず、視線を彷徨わせた後、隣にレイが居るのを思い出して咳払いをした。先程までの醜態は無かったかのようにきりりとした顔をした彼女はナタリカに尋ねる。
「私どもが本日、こちらに伺ったのは先日打診した新研究機関発足の件です」
足を運んだ理由を説明してもカタリナの反応は鈍い。まさかと思ってモランヌは尋ねた。
「ご存知無いのですか。今朝には正式な通達が届いているはずなのですが」
ナタリカはぐるりと乱雑な机の上を見渡し、その上に置いてある空の封筒を拾い上げた。
「ああ、はいはい。思い出したよ。あれだろ、新しい研究機関を発足するから、ワタシにも加わるようにって」
ようやく本題に入れたとモランヌが胸をなで下ろそうとした時、奥の部屋からキョウコツが戻ってきた。彼女はお盆の上にある紅茶を三つ、それぞれの前に並べる。
モランヌは琥珀色の液体を口にしようとして、レイがぴくりとも動いていないのに気づいた。横目で見れば、レイは出された紅茶に目もくれず、奥の部屋へと消えていく少女へと向けられていた。少女も消える直前、刃のように鋭い視線をレイへと向けた。
一触即発の空気。
このままでは話し合いが進まないと考えてモランヌはキョウコツの事を尋ねた。
「話をする前に、ナタリカ博士。先程の人物はいったい? 部下の研究員、には見えませんでしたが」
「彼女は研究者じゃないよ。ワタシの個人秘書さ」
「秘書、ですか。しかし、先程の動きは秘書というよりも」
「護衛、といいたいんだろ。まあ、あながち間違ってはいないよ。彼女の役割にはワタシの補佐以外に護衛も含まれているからね」
「……失礼ながら、彼女は外部の人間では。身元は大丈夫なのですか」
学術都市は、都市内部で行われる研究の貴重性から多くの国や組織に狙われている。日夜、各組織間の政争が静かに横行し、諜報員を分厚い壁の向こうへと送りこもうと躍起になっている。それぐらいは誰でも知っている事実。
学術都市は、それらを上手く躱して情報や研究の流出を防いできた。
そんな難攻不落の園に明らかに戦闘訓練を受けた人間が居るとなれば、流石にモランヌも気になってしまう。
「彼女が他国の人間で、誰かの息が掛かった人間なら即刻―――」
「―――即刻、何かな」
ぞわり、と。大して強く言われたわけではないのに、モランヌの心臓は悪寒に強く鼓動を刻んだ。一歩間違えれば奈落の底に落ちてしまいそうな危うさに、彼女は続く言葉を飲み込んだ。
「……いえ、何でもありません。……ですが、お忘れなきように。学術都市の規範を」
「分かっているとも。この都で生み出された物は、みだりに都の外へは持ち出すべからず。さあ、仕事の話をしようじゃないか。確か、特別異常存在対策研究機関……だったかな」
「略称は特異研となります。ナタリカ博士はこの特異研における実質的リーダーだと思って頂いて差し支えありません」
モランヌが鞄から取り出した用紙をカタリナに、そしてレイにもう一度渡す。そして自分の分に目を通しながら、詳しい説明を始めた。
「本研究機関の当面の目標は三つあります。『七帝』と呼ばれる存在がどうして誕生したのか、どうして旧『七帝』が倒されると新しい『七帝』が誕生するのか。そして『七帝』を排除、あるいは正常に戻すにはどのようにするかです」
「まあ、端的に言ってしまえば、『七帝』の謎を解き明かせって話だよね」
「その通りです。ですから、学術都市において魂の分野で並ぶ者はいない貴女に白羽の矢が立ちました」
レイとしては、出来る事なら彼女以外の存在が居てくれればなと思ってしまう。ある意味、『正体不明』よりも真意が掴めない人物だ。
「過分な評価、痛み入るよ。それでこの組織図を見ると、大体が空白になっているのはどうしてなんだい。ワタシが実質的なトップだとしても、下には誰も居ないだろう」
特異研の組織図は、頂点に学長の名前があり、その下にカタリナ、横に逸れてレイの名前がある。研究者で名前に上がっているのは彼女一人。リーダーと言われても、これでは名ばかりだ。
「特異研は、その目的から大規模な研究になるのが予測されます。ですが同時に、その内容から極秘裏に進めなければなりません。よって学長からは、研究員、研究費、活動場所などの制限は撤廃され、貴女が必要だと思う人材、物資を全て揃えるとの事です」
モランヌが、正確に言えば学長が出した条件は破格だ。研究者にとってその三つは常に頭を悩ませる問題だ。
優秀な研究員を手足のように使い、潤沢な研究費でいくらでも実験が可能となり、貴重な設備や資料がある場所を使い放題。研究者にしてみれば夢のような環境だ。
本来なら、頭を下げたくない相手にまで自分を売り込み、資金を出してもらうのだが、これは逆だ。どうかお願いしますと、学長が頭を下げているのだ。
「随分と気前の良い話だね。……その代り、研究する内容はワタシに一任されないって訳ね」
これだけの好条件を前にカタリナが皮肉げに頬を歪めた。
たった一点。
学長が打ち出した夢のような申し出は、たった一点において欠点があった。
それは、自分の研究したいテーマか否かという話だ。
研究者とは、暴論ではあるが自分の知的欲求心を満たす為に研究をする生物。それが世界に対してどんな影響を与えるとか、どんな風に変革するのかは二の次だ。だからこそ、『科学者』ノーザンは躊躇うことなく魔法工学を発展させたのだ。自分が作りたいものを作っただけに過ぎない。
「どうせ、今の研究は凍結して、そっちに全力を注げとか、そういうことでしょ」
「……仰る通りです。博士が行っている研究は全て凍結。以後、目的が達成されるまでは特異研での研究に集中してもらいます」
「断れば?」
「学術都市からの退去……などは如何でしょうか」
にっこりと、ある意味完璧なまでに本心を塗りつぶした心無い笑顔を見て、カタリナは白々しいと呟いた。
「ワタシのような人種にとって、この街を離れるのは死刑宣告に等しいって知ってて、そんな条件を出してくるなんて。レイ君、あまり学長を信じるべきじゃないよ。彼は繁栄の賢者になった瞬間から、学術都市の歯車になり下がった男なんだから」
「その言い方は心外ですわね。学長は誇りと信念を持って、歯車の務めを果たしているのです」
ちょっとだけ唇を尖らせたのはモランヌの本心なのか。カタリナは面倒だとばかりに鷹揚に頷いた。
「はいはい。まあ、いいさ。あまり興味の惹かれるテーマじゃないけど、君と一緒に仕事が出来るならワタシとしては大歓迎だ。宜しくね、レイ君」
掌をひらひらと振るカタリナに、レイは小さく会釈した。
「ではこちらに参加の署名を。捺印も。……それとレイさんもこちらに同様に頂戴します。……結構。では、今より特別異常存在対策研究機関の発足を宣言させて頂きます」
何処か事務めいた宣言に、レイは首肯を返し、そしてカタリナは小さく手を鳴らした。
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