9-40 小さな出来事の積み重ね
獣人の国、カプリコル。
閉鎖的で排他的な意識が根強いこの国で《ミクリヤ》は大きな転換点を迎えた。
故郷に刻まれた凄惨な爪跡を目の当たりにし、同胞から罵られてもなお故郷に戻りたいという目的を捨てなかったエトネ。今は帰れずとも、いつか故郷に戻り、そして震災にあった人々を助けられるような人になりたいと彼女は決意を新たにした。
新たなる仲間にして、一週目のエルドラドを知るヨシツネ。彼との邂逅は今のエルドラドの常識に染まった《ミクリヤ》の面々にとって、違う切り口の視点を得たようなもの。その力も未知数ながらモンスター相手に特化しているレイ達の中で、対人を得意とする彼の参入は大きな力になるだろう。
そして―――『招かれた者』レイ。
彼はこの地で、残酷な真実に辿り着いた。自身の記憶だと疑いもしなかった『御厨玲』としての記憶が、知識が、人格が、全て何者かによって植えつけられた物だと知った。元の記憶は断片的にしか残っておらず、自分が何者なのか、何処から来たのか、そもそも人間なのかも疑わしくなった。
その衝撃たるや、幾百の死にすら耐えた自我が一瞬にして崩壊するまでに至った。
赤龍の生まれ変わりであるコウエンによって助け出されなければ、レイの自我は消え、影法師が肉体の主導権を取ったか、あるいは何の反応も示さない人形のような存在に成り果てていただろう。
だが、その代償として彼女は消えた。紅蓮の花びらとなって散り、レイの両腕に自分の居た痕跡として熱を残して逝ってしまった。
彼女の消失を無駄には出来ない。レイは自分が何者なのか、誰が御厨玲としての記憶を植えつけたのか、その目的は何なのか。それら全ての謎を解くために旅を続けることを決めた。
この地で起きた事は、当事者達のみならずリザ達にも少なくない影響を与えていた。自身の過去に似通った部分を見出してそれとなく気を使い、あるいは幼いと思っていた子の成長を我が事のように喜び、新しく仲間に加わった者へ警戒の眼差しを送る。
《ミクリヤ》にとって、忘れようにも忘れられない出来事の連続であり、大きな転換点だったのは間違いない。
しかし、それは歴史の中では、極々小さな出来事に過ぎなかった。
世界とは、そんな小さな出来事が無数に起きて、結びつき、弾かれ、大きなうねりとなって歴史を紡ぐ。あたかも雄大なスケールで紡がれる織物のように。
彼らは知る由も無い。
同時期に、まるで見計らったかのように神々の領域が攻撃され、神の観測所が崩壊してしまった事を。
中央大陸は北方。聖都と呼ばれる場所で、幼くともエルドラドに存在する唯一の宗教団体を束ねる法王によって新たなる計画が動き出した事を。
西方大陸の覇者帝国においてまことしやかに噂される、『勇者』ジグムントを止めた少女の存在が皇帝の耳に入った事を。
そして、大陸から遠く離れた絶海の孤島にて、あり得ざる邂逅が果たされたことを。
その島は、水の都アクアウルプスよりもさらに南東に位置した。船乗りたちの航路からは外れ、海流同士がぶつかり合ったせいで魚も近寄らず、渡り鳥すら止まらない辺鄙な島である。
当然のように無人島なのだが、それは地理的な問題のせいではない。
かつては、人が住んでいたのだろう。森を開墾して建てられた家々が並び、水汲み場として賑わっていた井戸があり、神への信仰を捧げる教会がそびえ立つ。
それは間違いなく、人がこの島で暮らしていた痕跡だ。
だが、建造物の類は軒並み破壊の爪跡があった。巨大な力で吹き飛ばされたように柱や壁の残骸が辛うじて立っており、井戸の中は乾いてしまい代わりに人骨で満たされ、教会の上にあったはずの鐘はどこかへと消えていた。
破壊の爪跡に混じって、風雨でも拭えなかった赤黒い染みを覆うように草や蔓、苔が茂っていた。ここで起きた虐殺が、長い時間を掛けて隠されていくのが窺えた。
この島の名は不戦の島。
龍と人の争いによって疲弊した世界を焼き尽くす勢いで広がった人魔戦役。数で劣る魔人種たちは非戦闘員を狙った破壊工作を繰り返し、各地で悲劇と憎悪を振りまいていた。過熱していく人と魔人種の戦いに嫌気が差した一部の人間達によって、この島は誕生した。
人間種と、獣人種と、そして魔人種が憎みあわずに、殺し合わずに済む理想郷。
招かれざる者は訪れる事が出来ないように結界が施されたこの島は、平和だった。
だが、怒れる魔人の襲来によって全てが破壊され尽くされた。
一人を除き島民は虐殺された。見落としが無いように、死にぞこないが生まれないように、魔人は己の持つ力の全てを使い、全てを殺し尽した。
以来、この島は一人の姫を除いて生者は存在せず、とある悪魔のような女が結界を強引に突破するまでは島に誰も立ち入る事は出来なかった。姫もその後島を離れ、この島は本当に無人島となった。
しかし、そんな生者の存在しない島に人影があった。
斜面に寝そべり、中折れ帽子で顔を覆った男の姿は、この島において異色と言えた。
男は帽子を僅かにずらすと、視界に広がる青空を睨んだ。まるで、その空の向こう側に居る何者かへと挑むような視線は、瞬きと共に消えた。
「……やはり、これだけじゃ足りないか。まあ、あの糞共の目を塞げただけで良しとするか。とはいえ、稼げて二年かそこら。その間に、アイツも動くだろうな」
呟きは、誰かに向けてと言うよりも、自身を納得させるために発せられたようだ。
男は体を起き上がらせると、帽子の位置を調節して背後へと振りかった。
背後に広がっていたのは、かつては堅牢であったであろう城の残骸だ。どうやれば此処まで破壊できるのか、まるで島を踏み潰せるほどの巨人が指先で押しつぶしたように圧潰していた。
その最奥に、この島を象徴する姫は封印されていた。
だが、男にとって重要なのは城の地下だった。上物がいくら破壊されていても、地下さえ無事ならば問題は無かった。事実、地下にあった施設は無事だった。おそらく、この島で暮らしていた住民たちも、破壊の限りを尽くした魔人ですら、ここの存在に気づかなかったのだろう。
こうして男が斜面で寝転んでいたのは、日の光を浴びるためだ。この島に来てから季節が一つずれるまでの間、男は一度として外へは出ず地下に篭って作業していた。
目的が果たされていない以上、作業は続く。しばらくは地下暮らしに逆戻りである。
その前にと日光浴をしていたのだ。
地下暮らしが再開する事への不満を抱かずに太陽に対して背を向けた男は、ふと自身の足元にある異変に気づいた。
足元に伸びるはずの影が、更なる巨大な影に飲み込まれて消えたのだ。
振り返れば太陽をその巨体で覆う怪物が空を舞っていた。
色はどこまでも純粋な黒。光を飲み込み逃がさない、黒い宝石の如き鱗をした存在に男は目を細めた。記憶にある通りの姿をそのままに、それはゆっくりと降下していく。
しかし、その降下を阻む様に障壁が展開された。
不戦の島に施された結界は三百年の時を経ても健在だ。一度は魔人の強引な侵入を阻めなかったが、あれは相手が悪かった。
魔人ゲオルギウスが握りし槍は、死を司る神タナトスが振るいし神杖。概念殺しの権能を有している。それの前に結界などはあってないも同然だ。むしろ、神の権能に破壊されたというのに、自動で修復され三百年もの間維持されていたこの結界の方が異常とも取れる。
男にしても、この結界を破るのは不可能に近い。正規の手順以外で侵入するとしたら、神の権能に相当する物を持ちだすか、島の設立に関わった人間の協力、そのどちらかが必要だ。
いま、男の眼前で起きているのは前者だ。
侵入を拒む結界が、黒き鱗から立ち上る邪悪な気配に侵食されていく。それは次第に、強靭な結界にひびを走らせていく。しなる木に亀裂が入るのと似た音が島中に木霊したかと思うと、次の瞬間には結界が砕け散った。
日の光と混じり眩い輝きを発しながら落ちる結界の残骸よりも先に、純黒の死と呼べる存在が降り立った。
地響きだけで建造物の残骸は崩れた。それを意にも介さないまま、侵入者は厳かに口を開いた。
「探したぞ。よもや、この様な僻地に結界を持ち出して篭っていたとはな」
「結界を張ったのは俺じゃねえ。大体、三百年引き籠っていたてめぇに言われたくは無いぞ。なあ、『龍王』黒龍」
「相変わらず不遜な態度よ。古代種の六龍が相手でも、その言葉遣い。姿形以上に、その中身に変化はないと見たぞ。息災そうで何よりだ、オルタナ」
名を呼ばれた男―――オルタナは自身と比べるのも愚かしい巨体をした黒龍へと悠然と構える。そこに黒龍への恐れなど微塵も存在せず、どちらかというと苛立った様子だった。
「気安く名前を呼ぶんじゃねぇ。……てめぇが此処に居るって事は、フィーニスの奴は負けたのか」
「当然である。かつての『魔王』ならいざ知らず、ああまで弱体化した者相手に我が破れる道理があるはずもなし。これは必定、自明の理だ」
傲慢さが透けて見える物言いだが、正しい発言だ。『七帝』内に明確な強弱は存在せず、相性によって有利不利はあるが、現時点でのフィーニスは間違いなく最弱の『七帝』だ。
フィーニスが黒龍に挑んだところで勝ち目はない。
それでも挑まずにはいられなかったのだろう。
オルタナは地下で作業しながらも、黄龍の復活と死を感じ取っていた。それが何を意味するのかも理解していた。
人龍戦役終盤。魔人種の国を滅ぼした黒龍への憎悪で身が裂けんばかりに狂っていたフィーニス。その狂気が人魔戦役の火ぶたを切り、魔界を誕生させた。
三百年という時間が経過してもなお、その炎は轟々と燃え続けていたのだ。
「それで? 三百年の懲役を終えたばかりのてめぇが、どうして俺を探していた。折角の自由だ。もっと有意義に使えばいいだろ。てめぇにだって、見ておきたい場所の一つや二つ、あるはずだ」
「気遣い不要。我に遭いたい者など、見たい場所など存在しない。あるのは唯一つ。絶対にして永劫の救済である」
いっそ神々しくすら聞こえる黒龍の言葉だが、オルタナは不愉快そうに眉根を顰める。何故なら、黒龍の口にした救済の内容は、とてもじゃないが救いにならない事を知っていた。
黒龍の目的は、完全なる世界の破壊。
神々からエルドラドを取り上げるという壮大にして、無謀な自殺計画だ。
それゆえ、三百年前はこの存在と敵対する事を選んだのだ。
彼の願いを叶えさせれば、自身の願いが叶えられず。
彼の願いを阻もうとすれば、神々の為に働くことだと知りつつも、戦ってしまった。
「狭間の世界で破滅的願望も改善されたかと期待したのが間違っていたな。てめぇは、三百年前と何も変わんねぇ。あの糞ったれな神々を利すると知りながら、人の側に立たなかった時と同じだ……だったら、やる事は一つだな」
オルタナが言い切るのと同時に、彼の両手から炎と氷が渦を巻くようにして現れた。
詠唱も無しに、集中もせずに完成した魔法。それなのに、秘めた威力は超級魔法か、あるいはそれ以上に到達しているかもしれなかった。
空間が悲鳴を上げ、地響きが辺りを揺らしていた。
そんな神秘の塊を前にしても、黒龍は動じることなく告げた。
「慌てるな。我は戦いに来たのではない。―――提案をしに来たのだ」
「提案、だと」
破壊の権化が口にしたとは思えない理性的な言葉に訝しむ。確かに黒龍からは戦いに赴く気配は微塵も感じられなかった。もしかすると、本当に話をしに来ただけなのかもしれない。
気勢を削がれたオルタナは両腕に展開していた魔法を消した。
オルタナの反応を見て、黒龍は口を開いた。
「三百年前、我は一つの過ちを犯した。世界を相手取った戦争を始めた事ではない。愚かな人間どもを救おうとした白龍を死なせた事でも無い。業腹ではあるが我と同格とされる『七帝』を纏めて相手取った事ではない。……貴様だ」
「俺が、何だと言うんだ」
「貴様と敵対したことが間違いだったと、我はあの狭間の世界を揺蕩っている間に結論付けた。あの戦いの中で、貴様だけは我と目的を同じくする事が出来たはずだった。否、貴様だけは、我に最も近い存在である。それゆえ、貴様は我の天敵となった。人と龍の戦争が、我らの敗北で終わったのは、貴様を敵に回したからだ。ゆえに、此度は貴様と歩を合わせてやろう」
人類史に影を差す暗黒期。その発端である人龍戦役を引き起こした元凶から名指しされたというのにオルタナは不愉快そうに顔をしかめた。
「おいおい。何の冗談だ。俺が、てめぇと同盟を結ぶだと。はっ! そんな事、ありえないだろ。てめぇの願いは、俺の目的の障害に過ぎねぇ」
『龍王』黒龍の目的は、神々からエルドラドを解放する事である。
そのためにエルドラドを消滅させるというのは一見すると矛盾している様だが、黒龍の中では一本の線のように筋が通っているようだ。
重要なのは黒龍が神殺しを望んでいないと言う事だ。世界を管理し運営する神という役割は必要だと考え、その点において自身と相反していた。
「お前のやろうとしている事は、結果的に神々を守る事に繋がる。そんな奴と俺が手を組めるはずが無かろう」
「否である。我と貴様は手を結ぶことが出来ようぞ。至極真っ当に、簡易な方策を我は思いついた」
どういう事だと疑問に思っていると、黒龍が告げた。
「順序の問題に過ぎないのだ。我の目的を叶えるよりも前に、貴様の願望を成就すればいいのだ。異議はあるか?」
「あるに決まってるだろ。俺は神を殺すぞ。遊技場を管理する神々が死ねば、てめぇの目的はとん挫するだろ」
「否である。我は狭間の世界を揺蕩う内に、一つの方策を会得したのだ。……13神亡き後に、我が神の座に着くべきであると」
黒龍の発言にオルタナは意表を突かれた。
彼が口にした事が絵空事では無い事を、オルタナは知っていた。
何故なら前例を知っているからだ。
人の身でありながら、神へと至った存在を。
不倶戴天の敵を。
神殺し、最大の障壁が脳裏を過った。
その前例を知っているのかどうかは不明だが、黒龍は自分の考えに酔いしれているように続けた。
「我の、我による、我の為の世界救済。なんと甘美な計画なのだ。これぞ、真なる救世。魂は束縛から解放され、愚者たちは不可避の滅びに怯えずに済む。そのためには、13神に退場願いたい」
「……成程な。それならば、確かに俺と争う理由は無い」
「我は貴様を見誤っていた。よもや、神々の殺害という大それた願いを千年以上も本当に持ち続けていたとは気づかなかった。だが、理解できた今なら、我と貴様が手を組むことも可能であろう―――『魔術師』オルタナ」
久方ぶりに、『七帝』としての二つ名で呼ばれたオルタナは沈黙する代わりに頭の中で計画の見直しをしていた。黒龍の提案を許諾するか否か、それぞれのメリットとデメリット、その後に起きるであろう状況などを全て判断した上で答えを告げた。
「悪くない提案だ。……いいだろう。俺が神を殺したあとは、この世界をどうしようがてめぇの好きにしな。あの12柱の後釜になるなら、勝手になってな」
「……12だと? 貴様、何を言っているのだ」
「ああ、そうかい。まだなのか。なら、気にするな。ただの戯言だ。……手を組むぞ、黒龍。神を殺す為に力を貸せ」
その返答に、黒龍は自らの翼を広げ、咆哮を空に向かって上げたのだ。
これもまた、小さな出来事の一つであった。
遠い、遠い海の果てで、恐るべき怪物であり、同時に頂点である『七帝』同士が同盟を結んだことを、誰も知らずにいた。
そして、地の底深くにて、とある女性が目覚めた事をまだ誰も気が付いていなかった。
頬に冷たい感触があった。まるで氷の精霊に頬を押さえられたような冷たさに意識は覚醒を促された。
視界に飛び込んできたのはおうとつのある地面だ。土の湿った匂いが鼻孔に入るのを不快に感じた。もっとも、土の匂いを嗅ぐという行為自体が何時ぶりなのか、それを思い出す事も出来ない。
それどころか、此処が何処なのか、自分が誰なのかすら思い出せなかった。
思い出そうとすると、虹色の光が視界を塗りつぶそうとする。
「……ここは、どこ? 地面、地上? でも天井があるわ」
体を起き上がらせて四方を見渡す。広い空間の端は霧に包まれており良く見えない。辛うじて、天井の存在が、埋まっている鉱石が発する輝きによって分かるぐらいだ。
じっと、自分の体を見つめた。着込むというよりも薄布を纏わせていると言った方が正しい布切れに、素足にサンダルという軽装。自分を証明するような物は無く、他に私物は無い。
自分が何者なのか、此処が何処なの。
自身を構成する記憶は穴だらけだ。頭の中を、得体のしれない虹色の虫に食べられたかのようだ。意識が混濁しているせいなのか、もしかすると時間が経てば思い出せることもあるかもしれない。
あるいは、二度と思い出せないのか。
それでも。
たった一つだけ覚えていた事があった。
否、覚えていたのではない。
刻みこまれていたのだ。
痛みに反応して視線を落とせば、左手の甲が裂けていたのだ。
爪で肉を抉った痕は文字のようだ。
誰かの名前なのだろうか。読み方はするりと思い浮かび、喉を出た。
「……レイ。……レイ、レイ。ああ、レイ、そうよ、レイ! 誰だか思い出せない。何処に居るのかも知らない。でも、でも忘れちゃいけない。私は、この人に、この人に会いたい!」
何度も口にした所で、記憶が蘇る事は無い。だが、言葉にする度に、魂が呼応して叫ぶのだ。
何一つ覚えていないが、これだけは確かに断言できる。
この者と会わないといけない。そうしないといけないのだ。
青い髪を振り乱しながら、彼女は迷宮に木霊しながら何度もその名前を繰り返した。
―――レイ、と。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
これにて9章本編完結となります。年内の投稿につきましては、短編閑話を二本。年が明けましたら、長編閑話を投稿する予定です。一応、冒険王の物語を予定しております。




