9-28 自己矛盾
そもそも、13神が選んだ十三人の『招かれた者』による世界救済とは何なのか。
肥大化した七つの魂による世界崩壊を防ぐために、神々は時を巻き戻して、新たなる歴史の流れを生み出そうとした。
平たく言ってしまえば、歴史の改竄だ。
無神時代よりも前から存在していた六体の『七帝』と、最後の一体『正体不明』を誕生させないための歴史改変作業。
世界に対して強い影響力を与えられると見込んだ魂を送り出し、崩壊へと繋がる歴史を変える。その行為の善悪はともかくとして、旧『七帝』を討伐する事で起きる歴史の変化を、神々は甘受する事にしたのだ。
例え、一週目のエルドラドにおいて存在した物が滅び、滅んだはずの物が残っていても。それを良しとした。
ヨシツネがガルスを知らず、リザやコウエン達ですら知らない国の貨幣を持つのは、それが一週目のエルドラドに存在したからだ。
逆に彼が獣人種を知らず、花の都が滅んだことを知らないのは、彼の居た歴史は違うからだ。獣人種は全滅か、あるいはごくごく少数になり、花の都は黄龍によって滅んでいない。
だからこそ自分たちと彼の間に、大きな知識の齟齬が生まれているのだ。
「多分、彼が見た黒い光が全てを飲み込むのは、クロノスが話していた世界崩壊の瞬間だと思う。彼はそれに飲み込まれ、どういう訳か生きていた。そしてこの時間軸に現れたのだと思う」
リザ達はそれぞれ驚きから言葉を失い、レイの考えた推測を聞き入った。彼女らの驚きは容易に理解できる。正直、口にしている自分とて、こんな事があり得るのかと信じ難い気持ちはあった。
「ちょ、ちょっと待って。それじゃ、本当にこの人はエルドラドが滅びる瞬間を目撃した生き証人だって、ご主人さまは言うの?」
レティが信じられないとばかりに言うが、残った可能性はこれしかないのだ。
「そうだ。ヨシツネが異世界人なのは間違いない。その上で、彼が13神以外の神によって招かれていると言う事は、彼は本当の意味での『招かれた者』だ」
「この世界が『神々の遊技場』と呼ばれていた頃の、と言う事ですか」
リザの確認にその通りだと返すと、レティがちょっと待ってと口を挟んだ。
「だとしても、それが一週目だとは限らないよ。例えば、無神時代が始まるよりも前にこの世界に送り込まれて、それが何かの拍子で時を渡ったって事もあるんじゃないかな」
彼女の言う事も一理ある。
レイの推測はチェスで例えるなら詰み(チェックメイト)の状況で盤から駒が落ちたような物だ。盤は落ちた駒を無視して時間を巻き戻して、ある地点から打ちなおし始め、そして再び終局が近くなった瞬間に落ちた駒が戻ってきた事になる。
それよりも、過去から現在へと時間移動したという可能性の方が受け入れやすのだろう。
だが、それはあり得ない。
「残念だけど、その可能性は無いわよ」
顎に手を当て考え込む仕草をしたシアラが、静かな声色で否定する。どこか無機質めいた響きは、深く思考している証だ。
「何でよ。赤龍の知識を引き継いでいるコウエンちゃんでも知らない国の硬貨を持っているからなの。それって単に、コウエンちゃんが知らない国が無神時代より前に存在したっていう可能性もありえるよね」
「ええ、そうね。それだけだと、否定する材料としては弱いわ。でも、彼は獣人種を見た事も聞いた事も無いのよ。無神時代より前にこの世界に転生していたなら、それは考えにくいでしょ」
獣人種は魔人種、人間種と同様に無神時代よりも前から存在している。その当時でどれだけ広く世界に分布しているかは不明だが、それでも存在を見聞きしていないというのは、不自然だ。
シアラの提示した論拠にレティは納得して己の説を取り下げた。
「じゃあ、本当に。本当にこの人は、世界が崩壊した時間軸から来たっていうの」
翠色の瞳が忍者を信じられないとばかりに見つめると、ヨシツネが手を上げる。
「待ってくだされ。貴殿らの話は要領を得ない。その、一週目のエルドラドや、世界が崩壊など。何の話をしているのだ」
渦中の人物が一番状況を理解していなかった。レイは彼を置いてきぼりにしていた事を詫びた。
「君を置いていくつもりは無かったけど、すまない。……まずはそうだな、この世界が迎えるであろう危機について話をしようか」
ヨシツネが一週目のエルドラドで起きた世界崩壊を体験した人物という予想すらしていない事実は、近くて遠い場所でも衝撃を持って受け止められた。
ある意味、レイ達以上の衝撃に言葉を無くしていたのは、神の観測所に集まった13神たちだ。
十四番目の『招かれた者』とレイが接触したという知らせに集まった神々は、各々の手元に開いた『窓』で状況を全て監視していた。
リアルタイムで届けられる映像に、彼らが正気を取り戻すまでに短くない時間を必要とした。
いち早く戻れたのは、魂を司るサートゥルヌスだった。彼は別の『窓』を開き、操作を行う。滑らかな運指が止まると、彼は開いた『窓』を神の数だけ複製し回した。
「情報が出ました。間違いありません。彼はアマツヒコが管理する世界からの『招かれた者』です」
その『窓』にはヨシツネの生前の名前や性別、享年と言った個人的な情報から、エルドラドでの来歴や特技、招かれた際に発現する特殊技能の内容などが事細かに記されていた。
十四番目の『招かれた者』こと、ヨシツネが口にした内容から、一週目のエルドラドの記録を検索して、彼の個人情報を見つけ出した。
つまり、彼が話した内容に偽りがない証だ。
「魂の記録が一致している。……成程、本当に一週目のエルドラドから此方の時間軸に転移したという訳か」
光を司るヘリオスが唸るように呟く。魂の記録は改竄不可能な情報だ。例え姿形が大きく変容しても、魂が同一ならば間違いはあり得ない。
「信じ難いな。よもや、あの崩壊から生き延びた生命が存在するとは」
いつもは気取っているアネモイですら余裕をなくすが、それを揶揄する神は居ない。皆が言葉に出さずとも同じ感想なのだ。
ヨシツネが口にした黒い光。それはまさに、世界が崩壊したエルドラドが発した光だった。
世界に満ちる様々な色を磨り潰す黒い極光。ブラックホールのような、荘厳であり、絶望的なまでな光景を、彼らは忘れない。
エルドラドの彼方此方で噴出した黒い光は、空を穿ち、海を割り、陸を飲み込み、その上にあった全ての生命を飲み込み、世界を砕いた。
手の施しようも無い、一片の欠片も残さない崩壊を前にして、13神に出来たのは時を巻き戻す事だけだ。時を巻き戻した過程で失われた命、無かったことにされた歴史に目を瞑り、あったはずの喜劇や悲劇に背を向けた。
あったのは唯一つ。世界を救済するという必死な願いだ。
そこから零れたものに感傷を向ける余裕などなかった。それがこうして、自分たちの前に現れたのは何の因果なのか。
『窓』の中でレイから現状の説明を受けるヨシツネを、13神らは複雑そうな視線を向けているなから、ただ一人、別の感情を抱いた者が居た。
それは時を司る神クロノス。
レイをこの世界に送りこんだ神だ。
彼女は優美とも言える相貌に浮かんだ焦りを汗ごと拭った。
おかしな話だが十四番目の『招かれた者』の正体を知ってほっとしていた。
何故なら、彼女は誰にも言えずに胸に抱えていた悩みがあった。それは神々の中に居るであろう裏切り者の存在だ。
レイに関する映像を改竄している何者かが、更に送り込んだ刺客が十四番目の『招かれた者』だと警戒していたが、これでその可能性は薄まった。
どういう経緯で時間軸を越えて出現したのか不明だが、十四番目がレイと敵対する事は無いだろう。その理由が無いのだ。
とはいえ、これで問題が片付いた訳ではない。依然として映像の改竄をした裏切り者が誰なのか不明なままだ。
『……なんと。拙者の見た光景が、真に世界の崩壊だったとは。俄かに信じ難い』
気が付けば、『窓』の中ではレイが説明を終えていた。
神々はヨシツネが呆然とした面持ちで呟くのを集中して観察する。
だからだろうか。
彼らの居る神の観測所。数多の世界が星の輝きとして天井を彩る空間の隅で、ひび割れが走るのを誰も気が付けなかった。
「しかし、レイ殿やエリザベート殿、シアラ殿の話を聞いていれば、それが嘘だと思えない重さがある。真実にしか宿らない、動かしようのない重さだ」
独特な例え方だが、言いたいことは伝わる。作り話や、相手を騙す嘘などはどこか脆さや、粗雑さを感じる時がある。
「十三人の『招かれた者』による世界救済。さしずめ、拙者は十四番目の『招かれた者』となるのかもしれないな」
この場の誰も知らない事だが、まさにそれは13神の中でヨシツネを表す言葉になっていた。
「そうか。……あの場所はもう、無いのか。戻りたくとも、戻る事は出来ないのか。主君もご家族も、皆、あれに呑まれてしまったのか。……歴史も、大きく変容している。あの方々がお生まれになる事は……無いのでござろうな」
再びヨシツネの瞳から涙が雫となって落ちる。しかし、これは意味合いが違った。故郷を思い出させる味に感動して流したのと違い、失った繋がりを思って涙を流している。
レイ達は静かに涙を零す青年に掛けるべき言葉を失っていた。
そんな中、エトネがヨシツネの元へと近づいた。忍者はどうしたのかと尋ねると、少女は黙ったまま、ヨシツネの背中を撫でた。
慈しむ様に、彼の苦痛を癒す様に、ゆっくりと。
「エトネも、こきょうに、もどれなくなったの。さいがいが、あって。もしかしたら、このまま、しゅうらくはかいさんするかもしれない」
「そう……なのか。幼い身寄りで、不憫な事だ。そうか、貴殿も故郷を無くしたのか」
この場において、ヨシツネと同じ感情を抱いているのは、エトネなのだ。故郷から拒絶されたばかりの彼女が、故郷を思って涙を流すヨシツネの気持ちに寄り添えた。
ヨシツネは涙を拭うと、もう大丈夫だと返した。
「こうなっては致し方ない。これも拙者の運命と思い、享受するしかない」
本心から口にしているのか、それとも自らの感情を誤魔化して言っているのか。その辺りは分からないが、立ち直ろうとしている人間に余計な慰めは不要だ。レイは気になる事を尋ねた。
「ヨシツネ。君は一週目のエルドラドを知る数少ない人間だ。だからこそ、君から知りたいことがあるんだ」
一拍開けて、レイは続けた。
「最後に現れると言う『七帝』。『正体不明』について、何か知っている事は無いか」
一週目のエルドラドを滅ぼした鍵にして、神々ですら正体を知らない最後の『七帝』。
男か女か、子供か大人なのか。人種だって不明だ。旧『七帝』や現在の『七帝』の中には、墜ちた精霊や、異世界の元神、魔法工学で生み出された戦闘兵器に古代種の六龍と人外も含まれている。人間でない可能性も十分にある。
旧『七帝』の内六体は討伐されたが、その席を埋めるように新たなる『七帝』は揃っている。これまでの『招かれた者』によって歴史は大きく変化しているが、『七帝』という滅びの因果が一度発生した時点で『正体不明』が誕生するのは確定事項となってしまった。
残りの時間は四年半。
『七帝』に空席は無い。
世界は緩やかに、避けようのない滅びを迎えつつあった。
だからこそ、13神の多くはこの世界を諦め、すべてを一から始めようと考えていた。
因果も何もかも、全て消そうとするのだ。
できる事なら止めたい。皆が居るこの世界を残したいために、レイは自分なりに出来る事をしようと決めていた。
『正体不明』が誕生した時間軸に居た人間ならば、何かしらの情報を持っているのではとレイは祈る気持ちで尋ねたが、結果は期待外れに終わった。
「申し訳ない。拙者には『正体不明』なる物に心当たりは無い」
「そう、か。そうなのか」
なかば予想できた回答だが、一縷の望みを抱いた分、落胆は大きい。落ち込むレイを余所に、シアラは別の疑問を口にした。
「それじゃ、黒い光に飲まれた後の事は? こっちの時間軸に来るまでの事で、何か覚えている事は無いのかしら?」
質問に対してヨシツネは腕組みをして考え込む仕草をした。
「ふむ……黒い光に飲み込まれた瞬間、拙者は己の特殊技能を発動しようとした。詳しくは明かせぬが、自身を守るための結界を張ったのだ。しかし、黒い光は結界ごと拙者を飲み込み、そのまま意識を失った」
「それで、気が付いた時にはこっちの時間軸に居たって訳ね。それが三週間以上前の出来事。……ねえ、コウエン様。これってもしかして、原因はあれかしら」
何か思いついたのかシアラがコウエンに確認を取ると、龍刀の中から幼い声が返って来た。
『恐らくな。時期は一致する』
「どういう事でしょうか、シアラ。何か心当たりでもあるのですか」
「まあね。ちょっとみんな、この敷物から出てくれる」
シアラの突然の指示に不思議がるも、全員は敷物から立ち上がった。後に残されたのは空になった食器だ。その中の一つを、シアラは手に取った。
「これをヨシツネ様。そしてこの敷物の上をエルドラドと仮定するわ。まず、この世界の上で『七帝』が揃い、世界は崩壊した」
言って、彼女は空の食器を転がしていく。
「その現場に遭遇したヨシツネ様は自分を守る為に結界を張り、結界ごと飲み込まれた」
シアラの右手に仮想ヨシツネとして食器が握られた。
「世界崩壊を目撃した13神は世界を管理する力を使い、歴史を巻き戻した。リザ、レティ。悪いんだけど、食器を片してくれる」
「良いですよ」「脇に置いておけばいいの?」
二人は敷物上から食器の類を片付けた。敷物の上は空っぽとなる。
そこに、彼女は自身の杖を置いた。
「千三百年分の時間を巻き戻し、再び時計の針は動き出した。主様を除いた十二人の『招かれた者』による歴史の変革が積み重なった結果、ワタシたちは生まれ、出会った。そこにヨシツネ様。貴方も来た」
自分たちを見立てた杖の横に、ヨシツネを見立てた食器を置いた。
これがヨシツネの身に起きた流れだ。神々による時間の巻き戻しに、彼は巻き込まれなかったと言う事になる。
「だとしたらさ、ヨシツネ様はどうやって時間の巻き戻しを逃れたって言うの」
「それに関しては推測が一つあるわ。多分、狭間の世界よ」
「世界の狭間って、黒龍が封印された場所の事だよな」
「そうよ。ワタシたちがこうして暮らしている大地と、13神や異世界の神々がおわす神の領域。その狭間にある空間にヨシツネ様は落ちたんじゃないかしら。そこは世界の内でありながら外でもあると言う矛盾した場所よ。多分、時間の巻き戻しの影響を受けなかったんだと思うわ」
自らの考えを喋りながら確かめているのか、シアラは一度言葉を区切ると、ゆっくりと続けた。
「そう思った理由はもう一つあって、ヨシツネ様が出現した時期と一致するのよ」
それだけで、彼女とコウエンが何を確かめたのか分かった。
「そうか。一月前と言えば、黒龍とフィーニスがぶつかった時期か」
レイの言葉にシアラはその通りだと肯定した。
狭間の世界への道を解放したフィーニスは、その世界の外でありながら内側である場所で激突した。もしも、シアラの推測通り、ヨシツネがそこに居たのだとしたら、『七帝』同士の衝突に弾かれてこの地に落ちた事になる。
もしもその推測通りならば、これは幸運な結果だ。
両者とも本気では無かったとはいえ、『守護者』サファと『機械乙女』ポラリスの激突を間近で体験する羽目になった時、レイは死を覚悟した。
その後に起きたサファと『勇者』ジグムントの激突は砦を粉微塵にして、地形を大きく歪めた。『七帝』同士の本気の激突は、大陸すら吹き飛ばすという。
そう考えれば、ヨシツネは生きているだけずっとマシだろう。
「世界の狭間……そこに漂っていた頃の記憶は何一つありませぬが、確かに此方で目を覚ます直前、この世の物とは思えない音や振動を味わったような」
何か心当たりがあるのか、ヨシツネは記憶を遡って感じた事を口にした。やはり、シアラの仮説が正しいのかもしれない。
「まあ、これ以上は判断する材料が無いわ。13神の方々ならば、何か違った情報とか視点があるかもしれいけど」
「そうだね。彼の事についても、何か知っているかもしれない。学術都市に着いたら、聖域が何処に在るのか調べないとな」
レイとシアラが話を纏めていると、レティがどかした器の片づけを始めた。エトネもソレを手伝っていると、飯盒の中を覗いて声を上げた。
「ねえねえ。おこめ、まだのこっているよ。だれか、たべない?」
「しからば、拙者が!」
あまりの反応の速さに全員が目を丸くした。ヨシツネは反射的に手を上げたのか、己の立ち振る舞いを恥ずかしそうに手を下げた。
「これは……失礼を。……何でもありませぬ」
「いや、構わないよ。食べたい人が食べたほうが、米も喜ぶさ。遠慮なく、食べてくれ」
エトネが飯盒をヨシツネの方へと置くと、彼は喜色を浮かべて残りを掻きこむ。整った顔が崩れて、頬をハムスターのように膨らませる姿に微笑ましさすらあった。
「美味しそうに食べるわね」
「ええ。見ていて気持ちが良くなります。それだけ、故郷の味に巡り合えたのが懐かしくて喜ばしいのでしょう。レイ様も久方ぶりのはずですが、違いませんか?」
何気ないリザの問いかけに、レイはそうだと言おうとして―――。
「―――いや、まったく、思わなかっ、た」
―――己の本心に愕然とする。
あれだけ恋い焦がれる故郷の味だと言うのに。
口に入れた瞬間、懐かしいと、嬉しいと、喜びに満ち満ちた感情は欠片も浮かばない。
己の記憶にある米との記憶を照らし合わせる、そんな機械めいた作業をしていた。
こんな事はあり得るのだろうか。いつも日本へと帰ると繰り返しているのに、故郷に近い物と触れあったというのに、何の感情も抱かなかった。それは見逃すには、あまりにも奇妙な矛盾だ。
一度気が付いてしまえば、手遅れだった。いまにも崩れる足場で立っているような不安感が、背中から自分を抱き締めている。
ヨシツネのようにエルドラドに来て十数年という長い時間を過ごした訳じゃない。此方に来て、半年足らず。その間に、エルフの隠れ里で醤油と巡り合った。だから、そこまでの郷愁に駆られなかったのだ。
そんな風に自分を納得させようとするが、薄っぺらい理屈はあっという間に膨れ上がった違和感に吹き飛んでしまう。
何かがおかしい。
エルドラドに来てから、日が経つにつれて故郷への想いが薄まっている。日本語を見た時の満ちた心。醤油を味わった時の驚き。あの時の感動と比べれば、乾いた砂のようではないか。そもそも、自分は日本人と会っているのだ。歴史や時代が違えど、彼は自分を日ノ本男児と言って喜んでいる。それなのに自分はヨシツネに対して、何の感情もわいてこない。
じわり、と。胸の中を見えない恐怖が染み込んでいく。
何かを見落としている。
それを掻き消そうと雑音が脳を揺らす。頭蓋に反響して大きくなる雑音に、記憶が蘇ってくる。これまでにも、この雑音はあった。アマツマラの街で、カプリコルの入国時の夜で。この雑音は自分の気づきを、違和感を闇の中に隠そうとしている。雑音の嵐が、何もかもを持って行こうとする。直感で気づいた。これはあれと同じだ。
《グレートディバイド》のペナルティ。認識の喪失に近い、自我への抗えない強制力だ。
―――させてまるか。これ以上、僕から奪っていくな!
レイは奥歯を噛みしめ、強引に持っていかれようとする違和感にしがみ付いた。途端、自分の内側が強烈に痛み出した。肉体が、ではない。精神だ。
死のイタミと同等の、いや、それ以上の苦痛がレイを襲った。研いでいないナイフで、肉体を細切れにされるような痛み。だが、レイは諦めない。
既に失った二人。名前を思い出せず、思い出を振り返る事も出来ない。一方的に、何処までも冷徹に奪われてしまった。もう、何も奪わせない。
ぐしゃり、と。頭の中を圧迫していた物が潰れる音がした。
致命的な音に、脳が割れるような痛みに襲われた。耐えがたい苦痛。自分を縛る鎖が砕け、破片が肉へと沈み込み、体の内側を寄生虫のように食い漁る。
みしり、と。心が軋む感触がした。
これは―――なんだ?
この漠然とした、言いようのない違和感は何なんだ?
その疑問に答えを得る前に、限界が来た。これまでに幾度も味わって来た死の感触。心臓が鼓動を止め、体から熱を消えて、意識が闇の中へと埋没していく。遠くでリザやシアラが名前を呼ぶ声が微かに聞こえると言うのに、耳朶にハッキリと響くのは錆びた歯車を無理やり回すような声だった。
『よう、ご無沙汰。元気にしてたか、兄弟?』
耳から入り、鼓膜を通して脳へと染み込ませるような悪意を言葉に乗せた声。これを聞き間違える事は無いだろう。
影法師の声だ。
読んでくださって、ありがとうございます。




