9-25 食料泥棒 『後編』
「ちょっと待って、エトネ。どういう事なんだ。まさか、もう中に侵入されたのか」
「そうだよ。なかのひとたち、たおれたおとがしたよ。だれかが、なかにいる!」
エトネの鋭い警告の声に、レイは戸惑いを隠せなかった。
視線の先にある食糧庫は、かがり火が放つ光の海に沈み、その中を泳ぐように青年団が固めている。加えて、自分たちが遠巻きで全体を監視している。この警戒網を、何の痕跡も残さずに潜り抜けて、あまつさえ中で詰めていた三人を瞬時に倒せる筈がない。
だが、集中したエトネが全身の毛を逆立てている姿が、常識を吹き飛ばす。エトネの感覚は、パーティー内でもずば抜けている。
その彼女が断言したのだ。
「私が先行して、様子を伺います!」
先陣を切ったのはリザだ。大地を舐めるような低い姿勢のまま、彼女は食糧庫の入り口へと疾走した。
「な、何だ、お前は!?」
森から飛び出したリザを敵と誤解した狼人族の一人が、持っていた槍を突くが、穂先が地面に刺さる時には、彼女は間合いから遠ざかっていた。
速度が違い過ぎる。コマ送りされる映像の中で、一人だけ滑らかな動きをするような、隔絶された速度だ。素人の槍がリザに届くはずがない。
他の男衆も騒ぎ出すが、その騒ぎを無視して食糧庫へと到着したリザは、扉を叩いた。
「もし! 中の方々! 無事ですか」
声をかけ、扉に耳を当てて返事を待つが、無音だけが跳ね返って来た。やはり、内部で何かが起きている。
そう判断して、精霊剣を抜き放ち錠を叩き切った。
金属の塊が落ちる音に、青年団の怒りは一気に高まった。
「貴様、なぜ押し入ろうとしているんだ!」「この女は、忌子の仲間だ。やっぱり、こいつらが食料泥棒だ!」「中に入れるな。取り押さえろ」
野太い罵声が響くが、リザはそれらに構わず、扉を開け放った。
青い眼光が、内部を鋭く射抜く。外とは打って変わって、食糧庫の中は暗く、静かだ。棚が規則正しく並び、天井の僅かな隙間から差し込む月光が唯一の光源となっている。舞台の上を切り取るスポットライトを浴びるかのように人影が倒れていた。
黒々とした毛並みの狼人族の青年、ムワイだ。
他にも二人、薄闇の中で蹲っているのが辛うじて視認できた。エトネの言う通り、既に何者かが内部に侵入して、三人を無力化していた。
リザは緊張を一段と高めた。この中は、もう敵地だ。薄闇の中、食料を詰めた木箱が圧迫する建物のどこに敵が潜んでいるのか、見当も付かない。
だが、リザはその中へと躊躇なく踏み込んだ。
板張りの床が軋み、閉じていた冷たい空気が肌を撫でていく。室内の為、ロングソードに切り替えて、ムワイらの様子を窺おうとしたリザは、食糧庫の中央辺りで異変に気が付いた。
微かに鼻を突く刺激臭。それを嗅いだ瞬間、体の平衡感覚が崩れた。平らな床が波打ち、世界が歪んで見えた。
(これは……毒!?)
吸いこんだ途端、喉と鼻の奥にべったりと張り付く得体のしれない煙。それが三人の倒れている付近に充満していた。賊は毒を用い、この三人を無力化したのだ。扉が開いて、空気が流れた分、自分が吸ったのは微量だが、それでも眩暈が起きていた。
相当に強い毒性だ。
リザはすぐさま反転して、食糧庫から脱出しようとした。これ以上煙を吸いこめば、立っていることすらままならない。
だが、彼女は振り返った先で奇妙な影を目視した。かがり火の灯りを取りこむ扉を遮る様に、天上から落ちる一本の線のような影。それが刃だと気づいた時には、リザは反射的に剣を振るっていた。
金属が金属とぶつかる音が闇に響く。そのまま、上から斬撃が二、三と飛んでくるのを、床を転がって回避した。
「……お見事」
食糧庫に五人目の声が響く。くぐもって聞こえたが、若い青年のような声だが、重要なのは人物像では無く、声のした方角だ。
床に片膝を突けたまま、彼女は天井を見上げた。さして高くない食糧庫の天井。そこに逆さまに張り付く黒い影があった。手には、そりの少ない剣が下を向いて握られていた。
リザは左右にある棚を蹴り、侵入者と同じ高さまで飛び上がるとロングソードを振るう。しかし、刃は空を斬った。謎の人影は刃をすんでの所で躱すと、床に音もなく降り立ったのだ。
リザも着地して相手と向き合う。
かがり火が射し込む扉を背にし、床まで届きそうな長布で口元を隠しているため人相は分からない。ただ、奇妙な造りの衣服を纏い、剣を構える姿はただ者では無かった。
《紅蓮の旅団》の高位冒険者相当の威圧感を放っている。
「食料泥棒にしては、随分と腕の立つ方ですね。何故、貴方ほどの凄腕がこのような真似を」
質問が口から出たのは純粋な疑問なのと、吸ってしまった毒が体から抜けるまでの時間稼ぎのつもりだった。最も、シアラほど口が達者とはいえず、相手に興味を抱かせるような質問は出なかった。
ところが、侵入者の雰囲気に乱れが生じた。どこか戸惑った風に、
「食料……泥棒?」
「恍けないでください。近隣の集落から共有財産である食料を一方的に奪って、泥棒ではないと仰るのですか」
「それ……誤解だ。……拙者、そのような、つもりは」
ぼそぼそと喋り聞きづらいが、無実を主張する侵入者。威圧感も消え、何やら意気消沈した様子だ。これは妙だとリザは思う。何か、見落としているのではないか。
「……もしかして、置いて行った貨幣は、盗んだ食料の」
思いついた可能性を最後まで口には出せなかった。床板が鳴り、侵入者の背後にある入り口から誰何の声が上がった。
「お前、集落の奴じゃないな。どこから侵入した!」
リザが突入したことを受け、様子を見に来た狼人族が槍を侵入者に向けていた。リザは止めようとしたが、一瞬遅かった。
室内に風が吹く。
空気が動いたとリザが感じた時には、全てが終わっていた。入り口に姿を現した狼人族は膝から崩れ落ちていた。
リザの中で意識が切り替わる。様子見するべきかと傾いていた思考が、警戒度の上昇と共に変化した。
「なにやら訳アリのようですが、申し訳ありません。問答無用で拘束させてもらいます」
「……横暴だ」
「弁明があるのなら、捕まってからしてください」
毒が体から抜け、リザは一気に距離を詰める。大上段から降り下ろした一撃は、侵入者が紙一重に見切りをつけ躱そうとした。だが、リザは握った剣を緩めた。遠心力でずるりと滑ると、剣の間合いが拳一つ分伸びた。
目測を誤った侵入者は大げさな動作で回避する羽目になった。刃は被っていた頭巾を掠め、更に近づく刃を躱す為に体を捻って後ろへと跳んだ。
リザは更に距離を詰める。相手の態勢が崩れた瞬間が好機なのだ。
その時、彼女の聴覚は別の異音を捉えた。左側の棚の向こう側で、何かの音がした。何だとそちらに一瞬視界を向ければ、棚から小瓶が落ちた音だった。
そして視線を元に戻せば―――侵入者はそこから忽然と姿を消していた。
あり得ないとリザは叫びそうになる。自分が目を離したのは刹那にも満たない僅かな時間だ。その時間で音も無く消えるのはエトネ以上の瞬発力でもない限り不可能だ。そして、そんな移動をすれば、空気の流れで感じられるはずだ。
だが現実として、侵入者の姿は無い。リザは混乱と動揺を押し殺して、入り口を背に陣取る。敵が逃げ出していないのなら、ここを通るはずだ。
(ですが、相手はこの厳戒態勢を突破して侵入したほどの人物。もしかすると、この入り口を使わずとも脱出している可能性も)
頭の中でどうするべきかと思案していると、背後に気配を感じた。鍛えられた戦闘反射が振り向きざまに剣を振らせたが、それは悪手だった。
彼女が切ったのは小さな玉状の物体だ。それこそ掌に入りそうなほど小さい。それが半分に割れると、中に入っていた煙が吐き出された。
白く濁ったそれを吸った瞬間、先程と同じ眩暈が彼女を襲う。否、先程以上だ。視界は天地が逆さまになり、指先から足の付け根まで全身が痺れていた。
立っていることすらおぼつかなくなり、リザは冷たい床に倒れこむ。意識すら蝕んでいく毒を前に、この煙は、間違いなく食料泥棒が投げつけたのだろうと推測した。しかし、奴は何処に居たのか。
その答えが彼女の前に現れる。
リザが何もないと判断した床が動いたと思えば、食料泥棒が姿を現したのだ。手には床板と同じ絵が描かれている布が。あれで偽装をしていたのだろうか。
恐らく、瓶が倒れたのも偶然ではないのだろう。自分の視線を一瞬でも逸らした瞬間に、あの布で姿を消したように見せた。気配で察知されないように何かしらの工作もしたはずだ。刹那ほどの時間も無い中での早業に加えて、異常な身のこなしに技術だ。
「不覚っ! レイ様、みんな、気を付けて。ただの食料泥棒じゃない」
警告の声は虚しく散る。食料泥棒はリザが気絶したのを確認すると、懐から鉛色のした硬貨を三枚、彼女の傍へと置いた。そして、もう一つ懐から取り出した。
射し込む灯りに映るのは巾着だ。侵入はその中身が無事なのを確認すると、長布で覆った口元を緩めた。
そして、外の気配を感じ取ると巾着を仕舞い、開け放たれた扉から出た。
食糧庫の内部で、斬撃がぶつかる音がした。中でリザが賊と戦っているのだとレイ達に理解できた。同様に、青年団も中で賊が侵入したという説明に納得して、森を抜けて食糧庫の前辺りまで来たレイ達への警戒を解いた。
「どうする、ご主人さま。お姉ちゃんと一緒に、中へ飛び込む?」
「いや、駄目だ。中が集団で戦えるような広さがあるとは思えない。乱戦になって、食料に傷を付けたら、捕まえたとしてもそれこそ集落の人を敵に回す」
「そうね。リザか、あるいは食料泥棒が出てくるまで、この入り口を押さえるのが正解ね。だから、おちび。今にも飛びこみそうなのを止めなさい」
全身から闘気を漲らせているエトネの襟首をシアラが掴んで制していると、扉の奥に溜まった薄闇からゆっくりと近づく人影があった。
一瞬、リザかと思ったが、即座に違うと分かった。
闇から光の中へと姿を現した食料泥棒の姿に、レイは絶句した。
夜の闇に溶け込みやすい暗い装束に、同じ色で顔の下半分を隠す長布。夜明け寸前の濃い藍色の髪は乱雑に切られ、周囲を睥睨する切れ長の視線は十分な敵意を振りまいていた。
その姿はレイの中にある、とある存在と合致した。
「……忍者……なのか」
口にしてからあり得ないと頭を叩いた。
ここは異世界エルドラドだ。
日本固有の、それもあのような逆に目立ちそうな姿の忍者が居るはずもない。
だが、食糧庫から現れた賊は、レイの幻覚では無い。
実体を持った人間だ。
「お前、どこから入った!」「中に居た者達は、どうしたのだ!?」
左右から挟み込む様に槍を構えた狼人族に、食料泥棒にして忍者らしき者は、
「中の者たちは、気絶してもらった。……拙者としてはこれ以上の無駄な争いは遠慮したい。……出来る事なら、このまま見逃してもらえれば助かるのだが」
と、ぼそぼそと喋った。それが返って男たちの怒気を煽った。
言葉の形にならない絶叫から繰り出された槍は、しかし、忍者の顔を追う長布すら掠める事は出来なかった。空中でコマのように回転した忍者は、正確に左右から迫る男たちの顎を蹴り抜いた。
一瞬の早業は、多くの物の目には、狼人族の男らが勝手に倒れた様にしか見えないだろう。だが、見えたレイ達は、忍者への警戒心を高めた。
「僕とエトネであいつを食糧庫から引き離す。そしたら、シアラは魔法であいつを拘束して。レティは状況をみながら援護を。いいか、くれぐれも殺さずに、生け捕りだ。聞きたいことがある」
レイの切羽詰まった様子から三人は頷き、指示に従って動いた。一瞬で仲間をやられて動けない狼人族の間を縫って、まずはエトネが仕掛けた。空中で何度も体を回し、遠心力を高めた足刀が忍者を襲う。
「幼子? ―――っ! 見事な体術だ」
人の肉体が出すには余りにも重たく響くそれは、エトネが憑依させた二種類の精霊の力による物だ。しかし、忍者はその一撃を腕の側面で防いだ。
長布で隠していない目を見開き、
「面妖だ。獣が人の言葉を使うと思えば、長耳との混じり物まで。ここは如何なる里なのだ」
「なに、いってんのか、わかんないよ!」
エトネが続けざまにかかと落しを繰り出そうとしたが、逆に足首を掴まれ放り投げられた。空中で一回転して着地すると、代わりにレイが忍者へと挑んでいた。
紅蓮の炎が龍刀の柄から尾のように伸び、加速した一撃は、忍者が抜き放った反りの少ない片手剣に阻まれた。
「信じ難い剛力。先の少女にしても、年に見合わない強者……なんだと?」
刃を両手で握りしめ、龍刀の一撃を辛うじて防いでいた忍者が強張る。一瞬だが、拮抗状態が崩れたのを見計らい、レイは龍刀を横に力任せに振るった。
忍者の体が刃に振り回され、大きく横に流れた。だが、エトネ同様に空中で身を翻して地面へと降り立った。
刃のように鋭い双眸は更に細くなり、忍者は空いている手でレイの龍刀を指差した。
「……坊。その武器、それは間違いない。何故この異郷の地で、日本刀を。貴様、何奴だ」
「これが日本刀だと分かるなら、僕が何者なのか、そっちも理解できるだろう」
「……成程。これも奇縁と呼ぶべきか。よもや、このような遠方の地で、日ノ本男子と相見えるとは」
信じ難いとばかりの呟きにレイは確信を深める。
忍者の正体が自分の想像通りなら、追い払うよりも確実に捕まえたい。だが、相手の立ち振る舞いや、刀を通じて伝わる力量から、それは難しいだろう。確実なのは仲間との連携しながら戦う事だ。
しかし、その思考を読んだように忍者は左右へと視線を滑らした。
「踏み込んでこないと言う事は……そこか」
袖口をはためかせると、忍者の手には何かが握られていた。それを手首の返しだけで投げた。狙いは、人に紛れて詠唱をしていたシアラだった。
腕を振っていないというのに、剛速球じみたそれを、シアラが躱すのは不可能だ。しかし、彼女の援護にレティを残していた。
レティは瞬時に判断して、自分たちを守る様に《盾》の魔法を展開した。
透明な守りの力が投げられた物を防いだ瞬間、それが殻を破り、中に入っていた粉を散らした。
「な、なにこ、ごほ、ごほぉ!」
「喉が、焼ける、ごほ、ごほっ!!」
薄黄色の煙が二人を包み込み、少女達は目に涙を溜め、喉に焼き鏝を当てられたような苦痛を味わった。
意識を奪わずとも、喉と目をやられれば魔法使いは無力化されてしまう。単純だが効果的な手段だ。
「特性の痺れ粉だ。しばらくは涙と咳は止まらんだろう……むぅ!?」
忍者が後ろへと仰け反るのと同時に、レイが食糧庫の入り口から跳んで龍刀を縦に振り下ろした。
刃先は忍者の懐を掠めたらしく、襟を縦に割いた。
「問答無用という訳か。いささか、暴力的ではないか」
「仲間に毒を使ったんだ。悪いけど、穏便に済ませると言う事も出来なくなった。殺しはしないけど、骨折位は覚悟してくれ!」
言葉と共に踏み込み、龍刀を斜めに振る。互いの距離を一気に踏みつぶす一撃は、忍者が逆にレイの懐へと潜りこむことで躱されてしまった。背後へと回った忍者が自らの刃でレイの背を狙った。
白刃が首筋へと届く前に、雷が両者の間を駆け抜けた。レイが持つバジリスクのダガーに秘められた雷が、レイを守った。
体の表面を雷で焼かれた忍者は、それでもとばかりに、刃を向けた。それを、体を反転させたレイは龍刀で受け止めた。
一瞬の鍔迫り合いは、直ぐに天秤が傾いた。忍者の体がぐらりと揺れた。
先の攻防で証明されたが、膂力ではレイの方が分はある。レイは力づくで押し切ろうとした。だが、忍者は動じることなく、更に踏み込むことでレイの胸元へと刃を突きつけた。
乾いた金属の音に、忍者の舌打ちが重なった。
刃は胸当てに防がれるどころか、金属を覆うように現れた盾に阻まれていた。《耐久》の加護によって攻撃を防いだレイは、懐に呼びこんだ忍者に膝蹴りを叩きこんだ。
精神力を纏わせた一撃を浴びた忍者は体をくの字に折り曲げる。長布で隠れていない顔が歪んだ。
手応えはある。レイは一瞬だが無防備になった相手の襟首を掴もうとしたが、その腕に絡みつく物があった。
「なっ!? 布が、動いた!?」
忍者が纏う長布が、風も無いのに、まるで意思を持ったかのようにレイの腕に絡みついたのだ。それはそのまま、レイを振り回した。予想外の力技に反応できなかったレイは高く持ち上げられ、地面へと叩きつけられた。
咄嗟に回した精神力で気絶は避けたが、鎧の加護が砕けた音がする。
腕に絡みついた長布は、まだレイを離そうとしなかった。所有者である忍者はみぞおちへの一撃で膝を屈しているというのに、主人に代わって戦いを続けようとする。
再びレイの体が持ち上げられそうになる寸前、エトネが風の勢いで飛び込んできた。膝を屈していた忍者のわき腹を蹴ると、地面と水平に吹き飛ばした。
同時に、長布に捉えられたレイも地面を転がった。
「ご、ごめん、おにいちゃん!」
流石にそうなるのは予想してなかったエトネの謝罪に返事をする余裕はない。長布を力任せに引き剥がし、辛うじて握っていた龍刀に炎を纏わせた。
『ようやっと本気を出す気になったか。人間相手だと、手加減をしてしまう癖、さっさと矯正せい』
「うるさいな、コウエン。少し黙っていてくれ」
龍刀の中から聞こえた耳に痛い苦言を無視して、同じように地面から起き上がった忍者へと構えた。相手もまだ動けるようで、反りの少ない剣を逆手に持って、腰を低くして構えた。
刹那のこう着状態。レイは自分が不利だと判断した。
勝敗が問題ではない。位置が重要なのだ。
忍者の後背にあるのは深い森だ。そこに飛び込まれれば、追いつけるかどうかは不明だ。エトネならば追いつけるかもしれないが、相手はこれまで獣人種の追跡を躱した手練れだ。
一足一刀の間合いでは無いため、忍者が森に向けて走り出せば間に合わない可能性が高い。遠距離向きの二人は、視界の端で涙を流しつつ咳き込んでいる。どういった種類の毒なのか不明だが、しばらくは戦えないだろう。
忍者を此処で逃がす訳には行かない。そう考えたレイは、《心ノ誘導》を発動しようとして、しかしある物に気が付いた。
両者の間に落ちているそれは、巾着だった。どうしてあのような物が転がっているのかは分からない。地面に転がった跡がある事から、もしかすると忍者の落し物かもしれない。
「む? ―――っ!?」
レイの視線に不審を抱いた忍者は、彼の視線を追いかけ、地面に落ちていた巾着を見て明らかに狼狽した。眉が吊り上がり、斬撃で裂けた襟を押さえている。
あの反応、やはり忍者の持ち物だ。
そう辿り着いたレイは、即座に走り出した。地面へと落ちた巾着へと。
僅かに遅れて忍者も駆けだした。当然のように、巾着へと。まるで磁石で引き寄せられるように近づく二人だが、またしても位置が悪い。
巾着は二人の間に落ちてはいたが、忍者よりだった。互いの敏捷や、走り出したタイミングから考えれば、ほとんど同着だろう。同じことを考えたのか、忍者は妨害の為に袖口から取り出したナイフを二本、レイに向けて投げた。
まるで糸で引き寄せるかのように、真っ直ぐに飛来するナイフ。軌道が読める分、避けるか、あるいは弾き飛ばす程度は造作も無い。
しかし、それをすれば巾着を相手に取られてしまう。レイは被弾覚悟で前進しようとして―――瞬間、耳朶を震わしたのは乾いた金属の音だった。
迫りくるナイフは二本とも、横合いから飛んできた何かに弾かれ、あらぬ方向へと逸れていった。そればかりか、その三つ目の何かは忍者のこめかみへと当たり、僅かに速度を落とさせた。
「っ! ええい、もう動けるのか!?」
苛立たしげな忍者の声。その意味をレイが理解する余裕はない。互いに、飛び込めば巾着へと手が届く距離だ。
何者かの邪魔によって態勢を崩した忍者は、そのまま地面へと飛び込んだ。後の事は考えていない、一か八かの賭け。胸を地面に打ちつけ、精一杯伸ばした指先に巾着が触れた時、長布の下で勝利を確信した。
だが、それは即座に凍り付く。
巾着へと伸ばした自らの腕に対して、真上から降り下ろされる龍刀を目にしたのだ。
レイは巾着の取り合いを諦めて、手に入れた瞬間を狙って攻撃を放っていた。その方が確実だと判断したのだ。
無慈悲に落ちる刃。腕を引けば、巾着を諦めれば回避できる一撃。しかし、忍者は腕を引こうとしなかった。歯を食いしばり、自らの腕を失う事になろうとも巾着を手放そうとしなかった。
その腕に向けて、龍刀の峰が落ちた。
衝撃が忍者の腕へと襲いかかる。歯を食いしばったとしても、骨は折れ、神経は命じていない事をさせてしまう。指先に掴んでいた巾着がこぼれ落ちた。
「ぐうう! わ、渡すものか!」
苦痛に喘ぎながらも、峰打ちとはいえ刃に阻まれているというのに、それでも巾着へと指を伸ばす忍者。だがその忍者の前で巾着は風のように飛び込んできたエトネに取られてしまった。
落胆が瞳に浮かぶ。刃を伝い、忍者が脱力するのが感じられた。
「降伏しろ。悪いようにはしない。君には聞きたいことがあるんだ」
告げた言葉に対する返事は、言葉では無かった。忍者は無事な方の腕から取り出した球を掌で握りつぶした。途端、白煙がレイの視界を飲み込んだ。
「ま、待て! 逃げるな!」
「逃げるつもりは毛頭無い。ただ、この場にて話し合うのは、拙者が不利ゆえ退かせてもらう。しからば、御免」
白煙の中、忍者の時代劇がかった口上が終わると、先程まであった気配が遠ざかった。
白煙が消えた時、そこには誰も居なかった。まるで最初から居なかったように。
いや、忍者は確かに居たのだ。
地面に光る物を見つけ、レイはそれを拾い上げた。縁が歪んでいるが、見た事も無い金貨らしき硬貨だ。おそらく、これがナイフの軌道を逸らしたのだろう。食糧庫の方へと振り返れば、入り口にしゃがみ込むリザの姿があった。彼女が、あそこからこれを投げて援護してくれたのだ。
「コウエン。この貨幣に見覚えはあるかな」
『知らぬ。人の世の物に妾は興味なぞ無い』
九百年前の黄金時代よりも前、それこそ無神時代が始まる前を知るコウエンに尋ねるも、芳しい答えは無かった。だとすると、この貨幣から忍者の正体に迫るのは難しいかもしれない。
そう考えていると、エトネが不思議そうな声を上げた。
「ねえ、おにいちゃん。これ、さっきのひとがおとしたものなんだけど」
彼女は巾着の中身を掌に乗せて、レイへと差し出した。
「あのひと、これをどうしてあんなにひっしに、とりかえそうとしたんだろ」
エトネは理解しがたいとばかりに首を捻った。レイがその気ならば、伸ばした腕を切り落とされる可能性もあったのだ。それを覚悟したうえで取り戻そうとした物が、これでは釣り合いが取れないと彼女は思ってしまう。
それほど、この地ではありふれた物なのだ。
だが、レイは違った。忍者が自分の予想通りの人物ならば、これを是が非でも手に入れたい気持ちに想像が着く。立場が逆ならば、レイも同じようにしたかもしれない。
そう、思わせてしまう物が、少女の掌に乗っていた。
読んで下さって、ありがとうございます。




