9-22 精一杯生きる
庵に炭が弾ける音が響く。
大長の話を聞き、納得が行った。
何故、エトネの父は、愛する妻と娘を人里離れた場所で暮らすような真似をさせたのか。それは愛する家族と共に暮らしつつ、受けた恩を返すのを両立させる唯一の選択肢だった。
そして、ミエリッキがあれほど過剰とも言える殺意を抱いた理由も同じだ。集落に育てられたという恩を、義理の肉親とはいえ仇で返すような形になってしまったのが許せず、凶行に走らせた。
誰が悪いと、簡単に断じれる問題ではない。
エトネの父親、タノが選んだ道が、このような悲劇になるとは誰も思っていなかったのだから。
「皆、心の奥底からあの母娘が悪い、などとは思っておりません。ですが、人とは弱い生物。このような悲惨な災害を前にすれば求めてしまうのです。あいつが悪い、あいつのせいだ、と」
「……だから、このままで良い、と。集落の人々の心を慰めるために、あの子に悪感情を抱いたままでいいと、そう仰るんですか」
答えは無かった。だが、老婆の深く刻まれた皺が、微かに縦に動いたのは間違いない。
ここで声を荒げたとしても、この老婆に掴みかかったとしても、どうしようもない。
人の中にある憎しみを拭い去るのは一朝一夕では到底不可能だ。それは自身の中で巣食うフィーニスの憎悪もそうだ。この集落がこのよう状態である以上、エトネを受け入れる事はあり得ない。
だからといって、レイとしてもこのままエトネを連れて旅をするのは危険だと言う考えは変わらなかった。
「仮に、エトネがこの集落以外の場所に移住したいと望んだ場合、それは認められるのですか」
その質問は予想外だったのか、大長は一瞬考え込み、
「可能……かもしれませんな。時間はかかるでしょうが、儂から入国管理局に取り成せば、幾らか融通を利かせてくれるかもしれません」
どうやら手はまだあるようだ。
港の入国管理局までここから一週間。往復すれば二週間程度。
夜毎、フィーニスの憎悪が臓腑を内側から掻くような悪寒に苛まれているが、幾ばくかの余裕があるのも事実だ。大長に頼み込んで、段取りを付けてもらおうかと考え込むレイに、老婆は探るような声色を発した。
「もしや、レイ殿。貴殿は、あの子と離れるのを望んでおられるので?」
「……それが、何か問題でも」
思わず冷たい言い方になったのは、心の中にあった弱い部分に触れたかだろうか。大長は頭を振って否定した。
「いやいや。貴殿を責めるつもりは毛頭ございません。貴殿がどのように考えるかは、この老いぼれが口を挟む事ではありません。ですが少々、意外、と思ったにすぎません」
「意外とは、どういう意味でしょうか」
「言葉通りでございます。あの幼子と会ったのは、エス二ア殿が山を離れる決心をした夜遅くの事。月明かりからも隠れるようにして挨拶をしに来た母の背にしがみ付いていた子供が、貴殿らに心を開いている様子で。さぞ、あの子に居心地の良い場所なのだろう、と。そう、思ったのです」
そこで言葉を区切ると、大長はレイをじっと見つめた。心の奥底まで覗き込みそうな深い色の瞳に、何故か身構えてしまった。
「なのに、あの者と離れる決意をしているのが、少々理解できず、つい、あのような問いかけをしてしまいました。失礼を」
頭を下げる大長に、レイは言葉短く気にしていない事だけを伝え、押し黙った。
顔は苦悶の色に苛まれ、胸中は黒雲の下で荒れ狂る大海の如き様相だ。
ここが分岐路だと、骨の髄まで理解できていた。
エトネと離れる。それこそが彼女を守る唯一にして、最後の手段だ。
確かに、黒龍復活によって世界の危険度は跳ね上がった。それでも、エトネの力量と経験ならば一人で暮らしていっても問題は無い。先立つ物も、自身の蓄えを切り崩せばしばらく安泰だ。パーティーの共有資産ではあるが、エトネの為ならリザ達も文句は言わない。つまり、何ら問題は無いのだ。資金の面でも、安全の面でも、法律の面でも。
問題はたった一つ、――――自分の感情だ。
エトネとの離別が目前にまで差し迫ると、針の山に身を投げ出すような痛みを感じた。これまでにも様々な人と出会い、別れて来たというのに、エトネと別れなくてはと考えるだけで心が砕け散りそうになる。
この感情を名付けるのなら、それは家族への愛だ。
同じ物を、リザやレティ、シアラに対しても抱いている。朝、目を覚ました時に交わす挨拶や、昼の準備を皆で行っている時の賑やかさや、一日の終わりに日本の童話を聞かせる時。それら一つ一つの何気ない日常からエトネが消えてしまうのだ。
一方で理性は冷静になれと叫んでいた。感情だけで、エトネの今後を決めるなと告げた。
激化する戦いにおいて、《トライ&エラー》の加護を得られない彼女は仲間の中でも死ぬ危険性は最も高い。なにより、彼女に戦う理由なんて存在しない。
それに、別れはいずれ来るものだ。
自分は五年という期限付きでこの世界にやって来た。春に訪れ、直に秋が終わる。半年が経過すれば、残りは四年半。
四年半後には、この世界を去るのだ。リザやレティ、シアラとも別れを迎える事になる。
その頃には、三人の中で最も幼いレティでも十六。今のリザよりも年上だ。だが、エトネは十一かそこらだ。
自分が元の世界に戻れるかどうか不明だが、その時を迎えた時、今のようにちょうどいい時宜を迎えられるか不明だ。もしかしたら、とんでもない事に巻き込んだまま、自分だけが元の世界に戻される可能性もある。
妙な話だが、今ならば円満に、尚且つある程度の援助もできる。
別れるか、それとも共に旅を続けるのか。
二つの選択肢のどちらが正しいのか迷宮を彷徨うが、一向に出口を見つけられる気配が無い。
そんな時だった。
「どうやら、迷っておいでのようで」
するりと、レイの思考の隙間にしおりを挟む様に、大長は声を掛けた。意表を突かれたせいか、身構えることなく頷いてしまった。
「どうじゃろう。良ければこの老骨めに話してはもらえないだろうか。なに、大長などと崇められているが、実際の所は隠居の爺。今の集落を実質的に仕切っておるのは、不在の息子で、いまや半分相談役のような立場。話を聞くのがもっぱらの仕事でして」
だからだろうか。伽藍とした庵は人の息づかいを感じさせず、なのに清潔に保たれ、こうして茶を出す準備が出来ているのは、ここで、こうして相談を受けているのだろう。
どうしますかと、優しく問いかけた老婆に一瞬逡巡するも、レイは答えを求めて自らの胸中を明かした。
「……僕は、何と言いますか。あと四年と半分ぐらいしか、ここには居られません」
世界救済を託された『招かれた者』だと説明できない為、曖昧な表現になったが、大長はそれを別の意味と誤解した。
「なんと。その若さで病気とは。いや、何とも残酷な話ですな」
「いえ、そういう訳……まあ、そう言う事で。話を戻すと、四年半後には、彼女たちと別れます。その時がどうなっているのか、それは分かりません。もしかしたら、借金で首が回らなくなったり、妙な政治的な柵に身動きが取れなくなったり、あるいは余計な所で怨みを買っているかもしれません。……いまなら、エトネを平和な場所に戻す事ができるはずです。それこそが、彼女の両親が望んだことだと、僕は思っています」
「ふむ。話を聞く限り、いいことづくめの様子ですが、何をそれほど悩んでおられるのか?」
「……単なる、我儘です」
そう。言葉にすればなんという事は無い。
これは我儘なのだ。
「エトネと別れたくないという、僕の気持ちが、心が、どうしても決心を鈍くさせるんです。別れるべき理由は幾らでもあるのに、別れてはいけない理由なんて一つも無いのに、それでも嫌だと心が叫んでいるんです」
別れるべきだと言う理由は幾らでも理論立てられるのに、別れてはならないと言う理由はたった一つ。自分がそれを望んでいないという、幼稚な感情だ。
彼女の安全な生活と自分の我儘な感情。どちらを通すべきなのか、一目瞭然であるはずなのに、どうしても答えを出せずにいた。
「ふむ。……仲間との別れが辛い気持ち、この老婆にも分かりますとも。それを恥じるというレイ殿の感覚も間違ってはおりません。……ですが、一つ。大事な事が抜け落ちておりますぞ」
「大事な事。それは一体、何ですか」
「決まっております。エトネの気持ちです」
悠然と言い放たれた内容に、レイは落胆しそうになる。彼女の願いなら知っている。エトネは故郷の山に帰りたがっている。
父の眠る山に戻りたがっているのだ。
「エトネの気持ちならば知っています。彼女は、この山に戻りたがっています。だから、僕らは此処まで来ました」
この程度の助言しか得られないかと気落ちしていると、老婆は首を横に振った。
「それは、過去のあの子の思いでしょう」
突きつけられた指摘に、言葉にならない声が喉の奥で鳴った。大長はたたみ掛けるように、
「貴殿らと出会ったばかりの、母御を亡くしたばかりの混乱した子供の下した決断。それが貴殿らの旅を通じて、同じ気持ちを持ったままかどうか、一度でも確かめた事はありますかな。何より、故郷の惨状を見て、彼女が同じ思いを抱き続けていると、何故頭からお思いなのでしょうか」
まさに脳天に落雷を落とされた気分だ。出口を求めて迷宮を彷徨っていると、迷宮自体がひっくり返された。
エトネの、今の希望。
そこを一瞬でも考えただろうか。
エトネの為と独りよがりに考え込み、思考の袋小路に陥っていた自分に恥ずかしくなる。
老婆は、全てを見通すかのように続けた。
「それに、別れは寂しいでしょう。ですが、別れとしても過去を無かったことにはなりません。その思い出がどれだけ楽しく、温かく、離れがたい物であっても、時がそれを過去とします。しかし、その先に新しい出会いがあるかもしれませんぞ。エトネが、両親と別れ、貴殿らと出会ったように、あの子の未来にどんな出会いがあるのか、それは儂らには分かりかねます。ただ、こうして出会った以上、別れる時までを精一杯に過ごすべきだと、儂は思いますな」
なにより、と老婆は続けた。
「あの子がどうしたいのか。それが最も重要な事ではありませんかな。それを知るまで、外野がどうのこうのとするのは、余計なお節介と苦言を呈させてもらいましょう」
「……成程。お見それしました」
レイは霧が晴れた事に感謝して頭を下げた。そして陶器に入っていた茶を一気に飲み干すと、立ち上がり、戸へと急いだ。
「行きますかな?」
「はい。会って、聞いてきます。君はどうしたいのか、って」
「それが宜しいでしょう。今夜はこの庵をお使いくだされ。後で寝具を持ってこさせますので」
大長の気遣いにありがとうございます、と返してレイは出ていった。
いつの間にか、空は夕焼け空になっていた。
庵の外では土砂の撤去などが行われていた。額に汗を掻く人の中には突然現れたレイの姿を見て驚くも、事情を知る者から耳打ちされていた。
エトネの仲間だと知っても、此方に向けて敵意以上の物をぶつけてこないのは、その程度の理性があるからか、此方が武器を腰から提げているからか。
レイは、そんな群集を無視して、リザ達の姿を探すと、後ろから強い力で髪を掴まれた。
「いったいなぁ! 何の用……ってキュイか」
「キュ、キュ、キュ」
馬車から外れたニチョウがレイの髪を嘴で挟み込んでいた。足を止めると解放した。
「珍しいな。お前が僕に触れるなんて。……というか、初めてなんじゃないか」
珍しい事もある物だと感心していると、キュイは嘴を鳴らし、羽を開いては閉じてを繰り返した。
「なんだ? 何がしたいんだ、お前? 僕はいま、エトネを探しに―――」
「―――キュキュキュキュ! キュキュイ!!」
エトネの名を耳にした途端、キュイの動作は激しさを増した。繰り返し羽を開いて閉じて、それを左右に揺らして。そこで、ようやくレイもこの鳥が何を言いたのか理解できた。
「お前、もしかして。エトネがどっちに行ったのか、僕に教えようとしているのか」
「キュイ!」
その通りだ馬鹿垂れ、と言わんばかりの尊大な態度だが背に腹は代えられない。
「お前とは何処かで決着を付けたいが、それは後回しだ。エトネは何処に居るんだ」
「キュ、キュイイ!」
キュイが羽を伸ばした方角へと振り返る。それは集落の後背に位置する山の方角だ。
「……そうか。両親の住んでいた場所に向かったのか。ありがとう、キュイ。お前は此処で待っていろ!」
「キューイ」
一仕事終えたぞとその場にしゃがみ込んだキュイを置いて、レイはニチョウが指した方角へと走る。ほどなくして、その予想が正しかったと知った。
山頂へと続く斜面の入り口に、シアラが居たのだ。
「やっと来たわね、主様。女を持たせるなんて、随分と偉くなった物ね」
腕を組みふんぞり返る彼女にレイは、
「はいはい。それで、エトネはこの上か。リザ達もそっちか」
「あら、ぞんざいな態度。まあ、今回は許してあげる。おちびはこの斜面をすいすいと昇っていったわ。ワタシじゃ、追いつけそうもないから、ここで留守番中。リザはレティを連れて追いかけたわ」
「そうか。分かった。なら、ここで待っていてくれ」
言って、斜面に引っ付く様に生えた木を足場にしようとしたレイだが、シアラに腕を掴まれ止まってしまう。振り返れば、金色黒色の瞳が不安と懇願を混ぜたような色に濡れていた。
「どうするのか、決めたの」
「……ああ、決めた」
何を、とは言わない。だが、シアラはそれで良いのか腕を離した。
「そ、ならいいわ。エトネをよろしくね」
ひらひらと手を振り、彼女は地面から頭を出している石の上へと座った。
レイは彼女に背を向け斜面を登り始めた。
山は、初めの傾斜こそは厳しいが、昇っていくにつれて緩やかになっていた。すると、一本の木にしがみ付くようにして座り込む少女と遭遇した。
レティだ。
彼女は落ちないように《盾》を使い、体を固定していた。
「相変わらず、器用な魔法の使い方をするな」
「お兄ちゃんがやらせたから、慣れたもんだよ。エトネとお姉ちゃんはあっちの方に向かったよ。あたしはここに残って立て札役」
「そうか。……一人で、待ってられるか?」
レイの心配する気持ちが伝わったのか、レティはくすぐったそうに笑い、
「心配しないでよ。今は、お兄ちゃんを待っている人の所に行ってあげて」
と、背中を押した。レイは頷くと、そのまま斜面を跳ぶように移動した。あっという間に見えなくなった背中に、レティは頬を掻いて冷や汗を浮かべる。
「などとは言ったものの、一人で降りられるかな、これ?」
不安そうな呟きは拾われず、薄暗くなっていく世界に吸い込まれた。
傾斜は緩くなり、登山道らしき平らな道も見え始めていた。だが、それは山の輪郭に沿っているため目的地に対しては遠回りになる。レイは一直線に駆けあがった。目的地ならぬ、目的人は視界に捉えていた。
「リザ!」
名を呼べば、金色の髪が翻り、リザがホッとし表情を浮かべた。
「お待ちしておりました、レイ様」
「エトネは、この先か?」
挨拶も省略して尋ねるレイに、リザは視線を元の方へと戻した。
「この先に里を見下ろせる開けた場所があり、その奥に洞窟があります。おそらく、火事で住居を失ったエトネとその母親が暮らしていた場所かと」
言われて、森でエトネと初めて会った時の事を思い出した。木の根の下にあった空洞に隠れていた少女は、奴隷商人の襲撃にあった後も似たような場所に隠れていたと。
「それじゃ、もしかして」
「はい。あの場所に、エトネの父親の墓があるのかもしれません」
「そうか。……ここからは僕一人で行くよ」
「それが宜しいかと。私は先に降りています。途中でレティを置き去りにしてしまったので」
リザは言うと、山を降りようと歩き出した。その背に庵で待っているように伝えると、
「畏まりました。どうか、御二人でお戻りください」
と、最大限のエールを送った。
幾つもの、言葉にならない思いが駆け巡り、レイは意を決して最後の坂を上った。
そこはリザの言う通り、開けた場所となっていた。洞窟の入り口が顔を覗かせ、その前にしゃがみ込むエトネは沈みゆく夕日と混じり、燃えているように見えた。
彼女の視線は、十字に固定された板へと注がれていた。
エトネの父親の墓だ。
読んで下さって、ありがとうございます。




