閑話:受付嬢の終点Ⅳ
聖都における重要区画の一つには法王の私邸がある。周囲を武装神官に守られ、幾つもの関所があり、そこに辿り着くためには例え枢機卿であっても身体検査を行われる厳重な区画。
そんな厳戒態勢な場所を真紅の馬車は無人の園を行くかの如く進む。時折、関所で足を止める事になるが、即座に解放され道を譲られた。
馬車の小窓から差し出された書状に記された、法王直々の印章を前に引き留めるような真似は誰にも出来なかった。
そのまま馬車は法王の私邸前へと辿り着いた。番兵として置かれた武装神官が二列に分かれ客人を出迎える。
扉が開いた途端、彼らは鮮烈な香りに包まれた。豪華絢爛なまでに美しく咲く鮮やかな華束を想起させる香りを漂わせたのは、美を体現したような女性だった。
真っ赤なドレスは白い乳房が今にも零れそうなほど大きく開き、細い腰は優雅な曲線を描いていた。意外な事に装飾品の類は少なかった。小ぶりながらも美しいダイヤモンドの指輪と、小さな首飾りが胸元できらりと輝いていた。しかし、それで十分だ。どれだけの金と物をつぎ込んでも、彼女の美貌を超える宝飾品は存在せず、全てが霞むだろう。
禁欲を是とする武装神官であっても、押さえていた欲情を掻きたてられる。美女が前を通る度に生唾を飲み込む音がしていた。随伴する燕尾服を纏った男装の麗人が、黒色の瞳に侮蔑の色を浮かべている事にすら気づかないでいた。
すると、武装神官の間を通り過ぎ階段の中ほどまで昇った女性が立ち止まった。何を思ったのか、後ろへと振り返ると、宝石と見紛うエメラルドグリーンの瞳で武装神官たちを撫でるように見つめ、そしてウィンクを送った。
途端、神官たちは心臓を見えない刃で貫かれたかのような衝撃を味わう。決して、何らかの魔法や技能を浴びたわけではないのに、物理的な衝撃を味わったのだ。中にはそのまま崩れ落ち、恍惚の笑みを浮かべて気絶する者もいた。
「主。お戯れもそこまでに」
「ふふふ。ごめんなさいね。でも、神官たちって、ほら。色々と溜めこんでそうでしょ。だから、ちょっとした御褒美よ。ご、ほ、う、び」
そう面白がるように言い、ウージアの女帝、ジョゼフィーヌ・ヴィーランドは再び階段を昇る。自身の色香が他者にどのような影響を与えるかを完璧に理解し、最大限活用する術を持つ女帝にとって、仕草一つが凶器と成りえた。
ジョゼフィーヌに付き従う名を捨てた従者は、主が手も触れずに、ウィンクと囁き一つで年若い貴族を破滅させたことを思い出した。きっかけは愛用していた靴のヒールが折れたからだったか、あるいは飲んだワインの保存が甘かった時だったか。
自由奔放に悪辣を為す主の影を踏まない様に階段を昇る従者だったが、階段の先に何者かが居る事に気が付き、視線を前方へと向けた。
階段を昇り切った先に待っていたのは、神官服に身を包む女性だった。まだ体に馴染んでいないのか、窮屈そうにも見えた。伏した顔が持ちあがると、ジョゼフィーヌに好奇の色が浮かんだ。
「ようこそいらっしゃいました。ジョゼフィーヌ・ヴィーランド様。法王猊下が庭園でお待ちです。どうぞ、此方に」
そう言って立ち上がる案内人の髪が揺れた。その色は間違いなく―――黒だった。
静謐に包まれた邸内をジョゼフィーヌと従者は歩く。先を行くのは黒髪の案内人だった。
ジョゼフィーヌはその案内人に対して、好奇の瞳を向けていた。体の線が浮かぶ法衣は、彼女の細くとも成熟した女性らしい柔らかな弧を描いており、大抵の男ならば目を向けてしまっても仕方ない。
加えて、楚々とした美貌に収められた神秘的な黒い瞳が、彼女の魅力を上げていた。市井で見かけたら、配下に命じて攫わせて、間違いなく閨に連れ込んでいただろうとジョゼフィーヌは確信していた。
だが、それ以上に気になったのは、彼女の出自だ。
「ねえ、貴女」
「はい、何でございましょうかジョゼフィーヌ様」
足を止め、振り返った案内人に対してジョゼフィーヌは切り込む様に尋ねた。
「貴女、魔人種よね」
一瞬、案内人の表情が強張ったが、しかし、次の瞬間には完璧かつ事務的な笑みを浮かべていた。丁寧な仕草でお辞儀すると、
「その通りでございます。もし、私の出自を不快にお思いならば、案内役を代わりますが、如何致しましょうか」
「別に、貴女に不満があるという訳じゃないの。ただ、不思議に思ったのよ。どうして、聖都の、それも法王の私邸で魔人種が居るのかしら」
「それは……神のご縁、とでも申しましょうか」
「ふふふ。なーに、それ。面白いわね、貴女。案内、お願いできるかしら」
「承知しました」
上機嫌に笑うジョゼフィーヌに背を向けた案内人が役目に戻ると、ジョゼフィーヌは己の従者へと声を掛けた。
「ねえ、身内以外の同胞を見たのって、もしかして初めてかしら」
「夏に顔を会わせた雑種の姫君を除けば、生まれて初めてですね」
「そうよね。だって純種の魔人種なんて、『龍王』に滅ぼされたか、『魔王』と共に彼方側に旅だったか、不戦の島に逃げ込んだのでしょう。まさかこちら側に残る事を決めた世代の子らが、こうして顔を会わせるなんて、奇跡みたいね」
同意しかけた従者だが、続けざまにポツリと呟いた主の一言に首を止めてしまう。
「あるいは、誰かの脚本通り……かしら」
燕尾服の下を冷たい汗が流れていく。暗黒の深淵をこする風音のような低い声に、身震いすると同時に、軽い興奮もしていた。
天使のような清純さと、悪魔のような邪悪さを兼ね備えた不可思議な存在。出会った時から変わらないジョゼフィーヌの在り方に、従者は心酔していた。
「こちらでございます」
軽い絶頂を味わっていた従者を引き戻したのは、案内人の丁寧な言葉遣いだった。彼女は廊下の奥まった場所にある扉の前に立っていた。
どう見ても、それはどこかの部屋の前にある扉だ。庭園に続くとは思えなかった。
だが、案内人は不思議に思うことなく、扉を開け放つと、そこにあったのは地下へと続く昇降機だった。
従者は思考を警戒へと切り替えた。
「失礼。庭園に案内すると言って、地下に向かう昇降機とはどういった事でしょうか」
語気を強めた従者に対して、案内人はすまなそうに頭を振った。
「申し訳ありませんが、私からは何とも。全ての指示は、法王猊下から賜っております」
「ならば、法王に確かめて―――」
「―――あら? 私は問題なくってよ」
更に詰め寄ろうとした従者を止めたのは事もあろうにジョゼフィーヌだった。彼女は翠の瞳を爛々と輝かせていた。
「面白い趣向だわ。庭園なのに、地下なんて。良くってよ。これに乗ればいいのかしら」
怖れを知らないのか昇降機の中へと入る主に従者は珍しく焦りを浮かべていた。
「お、お待ちください。罠という可能性もあります!」
すると、ジョゼフィーヌは従者に対して薄く微笑んだ。その笑みを直視しただけで、首筋から腰の付け根までを舌で舐めとられたような快感を味わう。
「大丈夫。あの子が私を罠に嵌めるなんて……あり得るわね。まあ、その時はその時よ。それよりも、預けていたのを頂戴」
「―――っ! も、申し訳ありません。此方に」
快感から覚醒した従者は懐に忍ばせていた、二つ折りの羊皮紙をジョゼフィーヌに渡した。ドレスと同じ赤の手袋で覆った指先で摘まむと、彼女は案内人へと視線を向けた。
「貴女も、乗るのかしら」
「いえ。私が仰せつかったのは此処までです。後は昇降機を降りれば目的地は直ぐとの事。……それと、お連れ様はご遠慮いただきたく存じます。招待を受けた方のみ、此方をお使いください」
「そうなの。それじゃ、この子の相手をお願いするわね」
承知いたしましたと頭を下げた案内人は、室内にあった操作盤を動かす。途端、微かな振動音と共に、ジョゼフィーヌを乗せた昇降機が床に飲み込まれるように降りていった。
残されたのは魔人種が二人。
「それでは此方に控えの部屋をご用意しております」
言って、再び案内をしようとする神官に対して従者は首を振った。
「申し訳ないが、主が戻るまで此方で待機をさせてもらう。何者かの侵入が無いとも限らないので」
「……そうですか。では椅子などでも、お持ちしましょうか?」
「結構です。私の事は気遣わずに、どうか御役目に戻って下さい」
冷たい反応と取られかねないが、これが従者の基本対応だった。主以外には鋼鉄のような冷たさと固さで対応していた。それを案内人は困り顔で返した。
「御役目と申されても……法王猊下にお仕えして日も浅く、特にこれといった仕事もありませんので。問題が無いようでしたら、こちらで待たせてもらっても構いませんか」
「……此方としては、何も問題ありません」
ありがとうございます、と告げた案内人が従者の隣を己の位置とした。
二人はそのまま、言葉を交わすことなく、目線を交わらせる事なく、棒立ちのまま時間が過ぎていった。どこかの窓が開いているのか、冷たい秋の風が通り過ぎてもなお、無言だ。
従者としてはこのまま日が暮れ、昇り、また暮れても構わないのだが、頬に当たる視線が気になった。案内人の黒い瞳が、隣に立つ従者を何度も盗み見ていた。本人は気づかれていないと思っているのかもしれないが、一目瞭然である。
恐らく、同種の、それも同年代と出会ったのが珍しい―――というよりも初めての事なのだろう。従者にとっても同様だ。
交友を深めるとまでは行かなくとも、何か語りたいと思っているのかもしれない。そんな考えがすんなりと出ると言う事は、自分の中にも近い感情があるのかもしれない。
ふと、気になった事を口にしていた。
「あの、一つ宜しいですか?」
「ひゃい! な、何でしょうか!」
背筋を伸ばして驚く案内人。どうやら、彼女も何かを言おうとしたのだが、先んじられてしまい驚いたのだろう。従者は案内人の言葉を繰り返した。
「法王猊下に仕えて日も浅いと仰っていましたが、その前は何を? 失礼ながら、この街で魔人種が暮らすのは難しいかと」
人魔戦役から三百年が経つも、魔人種への侮蔑と偏見は拭い去れていない。長命種以外は代替わりしたが、むしろ正確な脅威を知らない分、想像という闇が恐怖を煽る事もある。ましてや聖都は、魔人種と敵対している法王庁の総本山。そこで魔人種が暮らしていけるはずがない。
その疑問は正しかった。
「私がこうした身分になったのはつい三週間ほどまえでして、春まではネーデという街でギルドの業務を行っていました」
「成程、そうなので―――なんですって」
従者の鉄面皮が再び崩れる。
春、ネーデ、ギルド、魔人種。
一つ一つは無関係そうな単語が、一つの文に収まると全く別の表情を見せる。ジョゼフィーヌ子飼いの隠密であるガシャクラが集めた情報に、その単語の羅列はあった。
「申し遅れました。私の名はアイナと申します」
やはりそうか、と。従者は心の裡で呟く。既に鉄面皮を被り直しているが、内心では驚きを隠せていなかった。
ネーデの街のアイナといえば、春ごろに起きた六将軍第二席ゲオルギウスの騒動に一役買った人物の名前だ。記憶を紐解けば、報告書には『岩壁』や『弓姫』といった高位冒険者に引けを取らなかったと記されていた。
その登場人物が何故此処に。
これも何かの、誰かの意思なのか。
考え込む従者に対してアイナは小首を傾げた。
「あの、よければ名前を伺っても」
「……申し訳ありません。私は、主とお会いした時より前の過去を捨てた身。それゆえ名を持たず、ただの従者となった者です。ですので、従者とお呼びください」
「そ、そうですか。従者さん。変わった人なんですね」
「よく、言われます」
それまでの完璧な営業スマイルを崩したアイナに、ついでとばかりに揺さぶりを掛けた。
「ネーデの街のアイナ。……もしかすると、あの御仁とお会いしたのでしょうか?」
「あの御仁と言いますと、誰の事でしょうか」
不思議そうに問い返すアイナに対して、従者はゆっくりと言葉を紡いだ。
「《ミクリヤ》所属の冒険者。名をレイという者です」
真っ直ぐに地下へと向かって進む昇降機の中で、ジョゼフィーヌは頬を緩めていた。その笑みを見たくて、全財産と命すら差し出す貴族豪族が後を絶たないというのに、彼女は誰も居ない暗がりへとほほ笑んでいた。
鼻歌すらしそうな程上機嫌な彼女を乗せた昇降機は停止した。
目的地に着いた様だ。
地下の為、窓の無い小部屋には魔法工学の明かりが辺りを照らし、予想していた人物の姿は無い。あるのは、またしても扉だった。
「ふふふ。ああ、胸が弾むわ。どんな驚きが、私を待ってるのかしら。庭園というぐらいには酒の泉がそこかしこに会って、林を模った人の調度品でもあるのかしら」
「以前から思っていたけど、君の美的感覚は大分歪んでいるよね」
ほんのりと上気した頬を手で押さえるジョゼフィーヌの耳朶を、冷たい声がくすぐった。しかし、この場には彼女以外誰も居ないはずだ。
声がしたのは羊皮紙の中からだ。
だが、ジョゼフィーヌは驚くことも無く、ただ二つ折りの羊皮紙を振り回す事で満足を得る。そして足早に扉を開け放ち―――光に包まれた。
地下だと言うのに、目も眩むような光。それは間違いなく日光だ。
思わず目を瞑り、手で光を遮断したジョゼフィーヌは、しばらくして目が慣れた頃に開けると、息を呑んだ。彼女が驚きを露わにするのは珍しかった。
それだけ、驚く光景だったのだ。
地下深くに手彼女を待っていたのは庭園だった。
天上には太陽が掲げられ、日差しの中で輝く左右対称(シリメントリ―)の庭園は、咲き誇るバラや噴水などが絶妙なバランスで並んでいた。しかし置かれている彫像などは二級品、ともすれば三級品の物もある。エルドラド唯一にして最大の宗教の長が、帝国の元姫君にしてシュウ王国現王の義母を迎えるには、いささか不相応な品だ。
だが、彼女には十分すぎるほどの歓待だった。
翠の瞳から流れ落ちる涙は、彼女の腐り切った魂とは裏腹にどこまでも透明な美しさを誇っていた。
「ああ、なんてこと。おかあさまの、お屋敷のお庭だわ」
「……なんだって?」
羊皮紙の中から静かな、それでも十分に驚いている声が聞こえるもジョゼフィーヌの意識は全く別の所へと飛んでいた。在りし日の、駆けまわった懐かしの我が家。彼女の胸にあるのは望郷の念だ。
ふと、視線が一点へと向かった。正面にある、庭園の中心にある屋根と柱だけで構築された建造物に人影があった。背中を向けているが、波打つようなウェーブがかった黒髪を紐で縛った姿に見え覚えがあった。
ジョゼフィーヌは悠然とした足取りで、真っ直ぐにその背に向かって歩き出した。
気配に気が付いたのか、黒髪の主はゆっくりと振り返り、金色の瞳を嬉しそうに細めた。
「久しいわね、ジョゼフィーヌ。最後に会ったのは、確か貴女が嫁ぐ時だったかしら」
「ええ、そうね。お久しぶりね、カタリナ」
名を呼ばれた魔人、元六将軍第四席カタリナは空いている四つの椅子を指した。
「座ったらどうかしら。ワタシたちを呼んだ主催者はまだ来てないけど、話したいことが沢山あるわ」
読んで下さって、ありがとうございます。
次回の更新は、木曜日頃を予定しております。




