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試行錯誤の異世界旅行記  作者: 取方右半
第8章 動き出す世界
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8-6 悪夢再来

 これから始まる神前決闘を一目見ようと押しかけた民衆の熱気が充満する祭儀場。貴賓席では十四氏族の長らが談笑し、王子たちは視線を合わせようともせずに開始の合図を待っていた。そんな喧噪と裏腹に、酷く苛立った様子の少女が居た。


 紫がかった長髪を鬱陶しそうに掻き上げ、何度も足組を変える少女、シアラ。貴賓席からほど近い場所で不機嫌な雰囲気を隠そうともしない仲間をリザが窘める。


「シアラ。何をそんなに苛立っているのか知りませんが、あまり横でそんな空気を出さないでください。正直に言いますが、鬱陶しいです」


 ぴしゃりとした口調にレティはひやりとした。姉のいう事はもっともだが、あまりにも直情すぎる。これでは喧嘩に発展するかもと構えたが、意外な事にシアラは金色黒色の瞳を丸くして、


「……そんなに不機嫌そう? ワタシ」


 と、確認を取ってきた。リザは首肯すると、シアラは反対側に首を向けて、レティたちに確認を取る。同様にレティとエトネも頷いた。


「そう……悪かったわね。自分じゃ気が付いていなかったけど、朝の事でまだ引きずっていたようね」


「気持ちは分かります。ですが、レイ様にもお考えがあるはず。それを尊重するべきだと私は思います」


 したり顔で頷くリザだが、シアラの苛立ちは少々違う。


 話は朝食の席まで戻る。シアラは自分が視た未来予知を如何するべきか、一人で悩み、結論を出せないでいた。


 進化したと思しき《ラプラス・オンブル》がもたらした新しい未来予知。何処かの戦場で涙を流すレティと、それに何かを言おうとするレイ。視ているだけで心が切なく、悲しくなる未来をレイに伝えるべきかどうか。彼はこれから神前決闘に赴くという、重大な使命を背負っている。そんな人間にこれ以上の負担を掛けるのが正解かどうか。


 早朝に目が覚め、まんじりともせずまま一人悩んでいると、リザ達も起きだして朝食の時間となった。答えが出ないまま食堂に向かうと、初めて顔を合わせたレイの様子に彼女は驚いた。彼女だけでは無い、リザもダリーシャス、ローランですら驚いたのだ。


 頬は脂漏めいたぼうっとした蒼白に染まり、反対に目元は色の濃い隈を作り、ひび割れた唇から声が震えていた。尋常ならざる様子。消耗しきった姿を見せた主にダリーシャスやローランは薬師やヒーラーを呼ぶ。《ミクリヤ》の面々は直ぐに気が付いた。


 《トライ&エラー》が発動したのだと。


 それも途轍もない回数かもしれない。スタンピードの赤龍戦や、シアトラ村の迷宮で遭遇したフィーニスとの戦いに匹敵するだけの死に戻りをすれば、こうなるのではないかと嫌な想像がその時の彼からしてしまった。


「主様、ちょっとこっちに来て!」


 シアラは強引にレイの襟首を掴み、人目のつかない場所で少女たちは事情を問い質すも、当の本人は何も答えようとはしなかった。口調は柔らかくも、瞳に宿る意思は鋼鉄のように固く、生半可な方法では口を割らすことは出来ないと悟る。そうこうしているうちに時間が来てしまい、神殿の祭儀場へと連れて行かれた。


 結局、レイが何度死に戻ったのか、分からないままだ。


 隣に居るローランたちに悟られないようにと小声でリザは囁く。


「今の所、私達の中で記憶の引き継ぎが行われて居る者は居ません。つまり、レイ様がお一人で戦い、死んでいるという事なのは間違いありません。……口惜しいですが、ここは様子見以外、私達には何もできません」


「そんなの分かっているわよ。……分かっているからこそ、何もできない自分に腹が立つのよ」


 帝国の将軍が強いという事は重々承知していた。レイが強敵を相手にする時、死に戻りを繰り返す事で勝ち筋を見出そうとするのも理解している。だけど、その場に立つこともできずに、こんな所で阿呆のように見ていることしかできない事が、たまらなく悔しかった。


 そしてシアラは自分が視た、もう一つの未来。何処かの戦場で呆然と立ち尽くすレティとレイの事は誰にも明かせなかった。もしかしたら、明かすべきかもしれないが、あれ程憔悴したレイを、そしてそのレイを前に心を痛めるリザ達にこの事は話せない。話せば、余計に事態をよくない方に向かわせるかもしれない。


 もっとも話さないという選択肢が、未来に何かしらの悪影響を及ぼすのではないかという不安もある。こうすればよいという答えは誰も提示してくれず、こうして座っているだけの自分に漠然とした不安が忍び寄ってくるようにシアラは感じていた。


 そんなシアラの、固く握りしめられた拳にリザの掌が重なった。その温度に、シアラは驚く。降り積もる雪原に手を埋めたかのように、血の気が引けて冷たいのだ。


「……無力な自分に対する憤りは私も一緒です。……いいえ。皆、一緒です。だからこそ、いまはレイ様の勝利を信じ、声援を送るべきだと私は思います」


 違いますかと続くリザに、シアラはそうねと返した。


 いま、自分がするべき事は一つしかない。レイの勝利を祈る事だ。今まで、神に祈って何かしらの恩恵があったわけではない。神々が去って千年以上の時が過ぎた無神時代。それでも人々は神に祈るという事を歴史から消し去りはしなかった。


「遠き彼方から照覧されている13神よ。矮小なる人の身で祈る事を許されよ。願わくば、どうか我が主に勝利を」


 組んだ両手を胸の前に持ってきたレティの祈りの言葉を掻き消すように、観客の熱狂が一段階上がった。祭儀場の舞台に、神前決闘に赴く二名が姿を現したのだ。


 純黒の闇を纏う帝国の将軍に対して、いつもと変わらない装備を身に着けたレイ。両者は舞台中央近くへと歩むと、揃って貴賓席にいる王族達へと顔を上げた。


 カリバン王や神官が声高に演説する最中、ローランがぼそりと、独り言のように呟いた。


「……随分と、覚悟を決めた表情をしているね、レイ君は」


「然り。だが、結構な事ではないか。それだけの強敵だと自覚しているということだろう」


 マクスウェルが応じているのを聞きながら、リザ達はより不安が増した。


 これまでの経験で一つ分かっていることがある。


 レイが覚悟を決めた時、それは大抵、自らの身を省みない戦い方をするときに他ならない。







(皆には心配かけたな)


 王と神官の演説を聞き流しながら、レイの意識は貴賓席近くに座っているはずのリザ達に向いていた。舞台から観客席は離れており、大勢の観客が居るせいで四人の姿を探し出すのは難しい。それでもあの辺りに居るだろうと適当に見当はつけていた。


 《トライ&エラー》で戻った時、レイの体は指先一つ動かすのも至難の技だった。心臓は破けそうな程鼓動を早く刻み、血管は煮えたぎったマグマのような熱を全身に運んでいた。数秒だが、死と生の境界線が曖昧になったのを覚えている。


 あの頃と比べればレベルは格段に上がり、死のイタミを何百と繰り返した事で耐性が出来たと密かに思っていたが、そんな自尊心は一瞬で、一撃で消え去った。


 鎧の男から与えられた死のイタミは、魂を削るイタミだ。


 赤龍や、フィーニスから与えられた死のイタミが、そよ風にすら思えるほどに郡を抜いている。それはこれまでの死のイタミの法則から大きく逸脱している。何かしらの受動的パッシブ技能スキルでも働いたのか。


 それとも、あの二本の槍が絡み合った禍々しい槍のせいだろうか。


 あるいは、今の状態があの男の完全復活した状態だからこそ起きたのだろうか。


 レイは蜃気楼のように現れては消えていく答えに辟易する


 それらしい答えを思い描いたところで、真実には辿り着かない。辿り着いたと思った瞬間、砂漠に現れたオアシスのように掻き消えるだけだ。


 厄介なのは、たった一回。


 たった一回死に戻った程度でこの消耗ぶりだ。


(……連続で耐えられるとしたら、あと三回。多く見積もっても、それぐらいしか持たないな)


 赤龍を相手に二百以上の死を味わい、『魔王』相手に百以上の死を潜ってきた男の発言とは思えないほど弱々しい。しかし、それだけ常軌を逸していたのだ。


 この男がもたらす死のイタミは。


 レイは自らよりも大きな鎧姿を盗み見る。自分と同様に演説に興味を示さない男と、兜越しに視線があった様に感じた。


「両名! これは王を決める神前決闘である。己が命を燃やし尽くす覚悟で挑まれることを誓うか!?」


 神官からの、レイにとっては二度目の問いかけに、頷くことで答えた。


 いいだろう。文字通り、燃やし尽くしてやろう。


「宜しい。ならば、両者距離背中を合わせ、十歩の距離を取ること」


 指示に従うように、レイと男は背中合わせになる。そして、まず一歩、レイは踏み出した。


(コウエン。頼みがあるんだ)


 心の中で龍刀に宿る存在へと声を掛けるも、返事はない。ただ、話を聞いている気配だけは伝わってくる。


 無視していない事を確信しながら、二歩目と同時に告げた。


(僕の体を代償に差し出す。だから、僕の扱える限界以上の炎を、僕に使わせてくれ)


 三歩目を終え、四歩目が石に足跡を着けた時、返事が返ってきた。


『自害するつもりならば、勝手にせい。妾の灼眼が届かない所でやってくれ。さすれば骸を見ずにすむ』


(自殺するつもりじゃないよ。ただ、結果として死ぬのは間違いないだろうけど、これは自殺なんかじゃない。……まあ、炎を操りきれなければ、自殺判定になるのかな? それとも、君に殺された事になるのかな)


『ふん。変わらずに恍けた男だ。……それで? 何ゆえ、そこまでの覚悟を抱いておるのだ。何をしようと企んでいるのだ』


 五歩、六歩と進み、残りは僅かだ。今頃になってこんなことを切り出してと憤るコウエンに、レイは心の中で詫びをする。何しろ、ここに至るまでに考える事は幾らでもあり、方針を定めるのにも時間が掛かった。そして何より覚悟を決めるのに時間を要した。


 今回の生を、捨てるという覚悟を抱くのに。


(確認だよ。アイツがアイツなのか。僕はそれを知る必要があるんだ。知らなければ、次に行けない)


 七歩目を踏み出すのと同時に、レイは自らの胸と、右手首が痛むのを感じた。片方は、かつて与えられた古傷。片方は、死と共に消え去った幻痛。


 レイの推測が間違っていなければ、この傷はどちらも同じ相手から受けた傷の筈だ。


(九割九分九厘。間違いなく、アイツはアイツの筈なんだ。だけど、最後の最後まで詰めておく必要がある。もしもや、まさかといったまぎれを無くすために、あの兜を、正体を隠す仮面を剥ぐ必要があるんだ)


 何より、レイ自身、信じたくないのだ。あの鎧の男が、自分の考えている通りの男だとしたら、それは何を意味しているのか。帝国と、あの怪物たちが手を組んだというのか。それをアフサルは承知しているのか、それとも彼も利用されているのか。


 だからこそ、この衆人環視の場で、あの仮面を剥ぐ。剥いで、反応を確かめる必要がある。そのためには、この身を薪にくべるつもりでいた。その果てで死ぬことも計算に入れている。


 そう告げてレイは歩を八つに進めた。残りはあと二歩。


(駄目……かな?)


 不安げに尋ねるとレイの心に不機嫌そうな鼻息が返ってきた。


『腕一本』


 急な発言にレイは首を傾げた。コウエンは不機嫌さを隠すことなく、


『あの鎧を破壊するだけならば、其方が考えている方法と腕一本の犠牲で事足りるだろう。言っておくが、妾の全力を今の其方が引きだそうものなら、この程度では足りんぞ。其方の体を燃やし尽くしても足りぬ。このコウエン、舐めるなよ』


(ありがとう、コウエン)


 腕一本という物騒な単語が飛び出しておきながら礼を言う少年にコウエンは不貞腐れた様に鼻を鳴らした。どうやら、脅しても考えを検めるつもりは無さそうだ。その頑固さは好ましくもあるが、考えものである。そして、一転して言葉に苦渋を滲ませながら。


『もっとも、今の妾が全力を出した所で、あれを倒し切れるとは言い難いがな。認めたくないが、あれは……今という時代を切り取った中で最強格の一人で相違ない』


 十歩。


 レイは振り返ると合わせて二十歩先に居る男へとコウエンを抜き放つ。同時に、自らが持つ指輪を起動させた。


「そんなの知っているよ。それでも、やるしかないんだ。《全力全開オールバースト》!」


 指輪に刻まれた魔法式が、指輪に宿る魔力を糧としてとある魔法を発動させた。新式魔法の肉体強化系における最上位の一つ、《全力全開オールバースト》。光の粒子がレイの体を覆い尽くすと、彼の能力値アビリティが上昇した。しかし、これでは足りないのだ。


「もう一回、《全力全開オールバースト》!」


 二度目の詠唱に呼応する形で、指輪が怪しく輝いた。レイの体から生命力が奪われ、指輪に組み込まれた生命変換の式によって、急速に魔力が補充され、それは即座に魔法として消費された。


 再び、粒子がレイの体を取り巻くと、僅かに残った生命力以外の全ての項目が一気に上昇したのだ。《全力全開オールバースト》の二乗、これがソーマなしでレイだけで使える限界である。


 そしてレイは自らの精神世界へと潜った。


 視界が切り替わる。熱砂に晒された祭儀場では無く、それ以上に乾ききった大地が無辺に広がり、赤灼けた空に滲んだ太陽が浮かぶ、生の無い世界。その中心で不機嫌そうに膨れている幼女こそ、龍刀コウエンに宿るコウエンである。


「来よったか、このお戯け者。妾が前に申した事を忘れおって」


「忘れてないよ。魂の交換において、指輪の使用は一度までって奴だろ」


「なら、貴様は大戯け者じゃな。覚えておいて、同じ愚行を重ねるとは。その頭は帽子を乗せるための飾りに過ぎんのか」


 皮肉を言うコウエンだが、彼女はレイの行動を非難するだけで、決して止めようとはしない。それは精神世界で繋がっているがゆえに、語らなくてもレイの気持ちが分かってしまう事の弊害かもしれない。


 コウエンは灼眼を悲しそうに伏せると、自らの手を噛む。八重歯の隙間から血が溢れると、それをレイに向けて差し出した。レイはそれをコウエンの手を皿のようにして啜る。


 一滴残らず飲み干すと、今度はレイが同じように自分の掌を噛もうとした。ところが、コウエンが煩わしいとばかりに、レイの手にそのまま噛み付いたのだ。驚き、振りほどく間もなく、コウエンはレイの血を吸血鬼のように吸った。


「これで仕舞いじゃ。さて、後は其方の頑張り次第じゃ。励めよ、レイ」


 別れの言葉に追い出されるように、視界が切り替わった。魔法を発動してから一秒も経たず、しかし、自分の中に恐るべき力が渦を巻いているのが分かる。何より、龍刀が力を貯めるかのように鳴動しているのだ。


 刀身に浮かぶ紅蓮の波紋が激しく、荒々しく、禍々しく、意思を持っているかのように蠢いていた。空気を侵食するように深紅のオーラが立ち昇ると、それらがあっという間に紅蓮の炎へと変化した。


 まるで太陽の表面を泳ぐ紅炎プロミネンスのように膨れ上がった炎が龍刀へと戻っていく。


 消えたのではない。


 収束しているのだ。


 その事に気が付いた鎧の男は手にした二本の槍を触れさせ、一本の剛槍へと戻そうとする。穂先が同化し、柄が互いに絡み合う。途端に、邪気が強まった。


 だが。


「コウエン! 《紅蓮爪牙》!」


 それよりも先に、レイの振り下ろした刃が、強大な紅蓮の塊を解き放った。


 一度振るえば、人の体を抉りとるのも容易かった赤龍の爪牙。それに酷似した炎の塊は空間を焼き尽くしながら鎧の男へと直撃した。


 瞬間、神殿を、それどころか大地を震わすような衝撃が走る。余波だけで歴史ある神殿の社にひびが生まれ、観客席の外壁が崩れてしまう。


 開始の合図を待たずに始まった攻撃。掟破りのレイの行動に、祭儀場は怒号と悲鳴が折り重なる最中、人々は見た。天に向かって真っ直ぐ立ち昇る火柱と、それを前にして蹲る少年。その少年の右腕が真っ黒になっているのを。


「ぐううぅぅ。よ、予想はしていたけど、まさかこれほどとは」


 レイは脂汗を浮かべながら、自らの右手だった物を見下ろす。ブレイブサラマンダーの手袋と炎鉄の手甲を纏っていた右腕は、今や単なる黒い塊へと成り果てていた。《紅蓮爪牙》の代償は凄まじく、攻撃を放った余波だけで、龍刀を握っていた右腕は、肩の根元から指先まで炭化していた。


 《全力全開オールバースト》を二度も使い、魂の交換をした上で、この結果。コウエンの言葉に偽りはない。龍刀に宿る本当の力を引き出すには、自分を生贄に差し出しても、まだ足りない。


 脂が焼け焦げる不快な匂いが、自分の腕が焼けた匂いだと理解するのを脳が拒否する。鉄と革と肉の境すら分からないほど黒ずんだ塊は、火柱へと集まる風に嬲られ崩れていく。


 この炎は現在のレイが扱うには難しい。身の丈に合わない行為の代償として、右腕は腕の形を保てなくなった。


 これを回復するのは不可能だろう。


 掴んでいた龍刀の重みに耐えかねたかのように、手首が砕けた。落ちた衝撃で、柄にぶら下がっていた右手は砕け、指らしき小さな塊が五つばかり転がる。


『かの都で放った時と比べれば、まだまだといった所であろう』


 コウエンが口にしたのは水の都での戦いの事だ。レイは難敵エレオノールに対して、赤の指輪に込められた《全力全開オールバースト》を複数回使用した上で、魂の交換を行い、龍刀の力を引き出しても大丈夫なようにした。その際に《赤龍咆哮》なる戦技を身に着けた。


 指輪とソーマという絶大な効果を発揮したポーションがあってこその無謀な行為。


 あの時の戦技は太陽を大地に下ろしたかのような輝きと熱量だった。相対したエレオノールが放った超級魔法を打ち破ったそれと比べれば、弱いのは否めない。


「あの時は使えるだけの手を打った上での結果だろ。今回は今ある手段を最大限利用した結果だ。いまはこれで十分だ」


 元々、今回の戦いは相手の正体を知るための、いわば捨て石の一回。最初から勝敗は度外視であり、自らの体がどうなろうとも構わなかった。


 そんな、レイの覚悟した通りに、右腕は肩まで炭化し、風にあおられる度に削れ、身じろぎするだけで崩れ落ちて行く。すでに、肘の部分までしか無かった。


 痛みはある。


 今にも発狂し、衆人環視の中を子供のように泣き叫びたい。それを押しとどめているのもまた痛みだった。下手な行動をすれば最後、右腕から伝わる痛みだけでショック死しかねないからだ。


 炎の余波は右腕を中心として、右半身全体に及んでいる。鎧は溶け、衣服は焼け焦げ、皮膚は赤い染料を叩きつけた様に真っ赤だ。どうにか無事な左手で龍刀を拾い上げるレイ。そして天に向かって伸びる火柱に視線を向けた。


 すると、どこからか空間を震わす音が響いた。


 それは人を不安にさせる為だけに生み出された楽器のような音色をした、あまりにも不吉な笑い声だ。


「はっはっはっはっは! 矮小なる者と侮っていたが、これは詫びねばなるまい。よもや、これほどまでの大炎を一息で放てるほどに成長していたとはな。危く、ここで死ぬ所だったぞ。様子見で死んでしまえば、私の立場はないな!」


 声の源泉に気づいた者は体を硬直させる。なぜなら声がするのは、いまだに紅蓮が渦巻く火柱の中なのだ。


 レイは右腕だった物から伝わってくる痛みの奔流に耐えつつ、火柱を睨んだ。すると、今までで一際強い風が吹いた。


 それは炎を内側から切り裂くと、一気に散らしてしまった。大炎が火の粉となって拡散する中、人々は見た。


 火柱の中で、それまでとは違った、悪魔的な衣装を施された鎧を身に纏い、むき出しの両肩から人間のような、野獣のような口が歯を剥きだしで笑い、茨のように絡み合った長髪を地面まで垂らした、不吉という概念を人という鋳型に注ぎ込んで焼成したかのような存在を。


 今まで、この男の名前は何度も口にしてきた。思い浮かべていた事もある。自分が剣を心臓に突き刺した時の感触は、手のひらにも残っているという。男を前にして、潰された右の手首が疼いたりもした。考えてみれば、幾つもヒントはあったはずなのだ。ローランすら圧倒できる技量を持ち、珍しい効果の魔道具を使え、そして自分と会った事のある存在。一つ一つでは分からなくても、全てを重ねれば浮かび上がるのはたった一人しかいない。


 それが死ぬまで気が付けなかったのは何故か。


 原因は分かっている。《トライ&エラー・グレートディバイド》のペナルティ、認識の喪失だ。


 この男の事を忘れているのではなく、この男との戦いに、思い出す事もできなくなった誰かが関わっているのだろう。だから記憶を遡ると決まって、黒い靄が行く手を遮った。誰かへの認識は喪失し、意識すら空白に飲み込まれようとしていた。


 いまだに、この男に対する憎悪の理由は分からないままだ。


 それでも。


 それでもようやく。


 それでもようやく、こいつの正体に辿り着いた。


 記憶を隠していた黒い靄を突き破って、一つの名前が頭に刻み込まれる。瞬間、右腕の激痛すらも忘れて、レイはその名を叫ぶ。瞬間、胸の内で渦巻く憎悪が、出口を見つけたかのように喜んでいるのを感じた。


「六将軍第二席―――ゲオルギウス!!」


 名前を呼ばれた男―――ゲオルギウスは頭を上げた。黒き長髪から覗かせる、金色の双眸がぐにゃりと歪んだ。


 それが笑みだと気が付いたのは誰も居ないだろう。


 なぜなら、それはあまりにも邪悪すぎた。



読んで下さって、ありがとうございます。

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