閑話:冒険王 奴隷時代Ⅰ
三歳になった。
正確に言うのならばエルドラドに来てから三年の月日が経ったというべきか。
日の傾く速度、月の満ち欠け、星の移り変わり、周りの大人たちの会話からエルドラドでは一年が大よそ三百日である事を知ったが、そもそも、カレンダーが存在しないこの地で、自分が生まれた日や今日が何日なのか知る術は無い。
単に生まれた頃の季節が春で、四季が一巡し、二巡し、三巡したから三年が経過したのだと理解した。
とまれ、赤ん坊だった体は多少なりとも発達し、渡される衣服のサイズもそれに合わせて大きくなった。もっとも、薄汚れたボロなのは変わらない。擦り切れ、嫌な悪臭を放つ、誰かのおさがりだが、もう鼻は慣れてしまった。
慣れたと言えば、首に着けた鋼鉄の塊にも慣れた。自分が奴隷であると自覚させるようにと子供のサイズに合わせた首輪を嵌めさせられた。最初は、首を絞めつける感覚と、掴まれたような重さに辟易したが、慣れてしまった。これも成長と呼べば、成長といえるだろう。
赤ん坊だった体は一端に歩くことが出来るようになった。そうなると、活動範囲が広がる。安城は奴隷たちに定められた居住区を一人で歩いていた。あちこちに木で組まれた掘立小屋が並ぶ。嵐が来れば簡単に吹き飛び、大雪が降れば屋根が潰れるあばら屋だが、屋根があるだけ増しだ。そのうちの一つを横切ると、中から赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。
昔、といっても三年前だが、あの小屋で自分は生活していた。いまは自分たちの弟や妹たちが暮らしている。日夜泣き声が止むことは無く、その度に人の出入りが繰り返されている。
エルドラドでの父母の顔はおぼろげにしか覚えていない。どちらもさっさと死んでしまい、そもそも自分のような奴隷の子供たちは一緒くたに育てられているので親という物の認識が薄い。純血の人間族という事は、どちらも人間種の人間族なのだろう。ただ、彼らが自分のように奴隷の子供として生まれたのか、外から買われてきたのかまでは知らない。
ここはどこかの国が所有している採掘場だ。ここで働くほとんどの人間は奴隷だ。つまり、安城を含めた奴隷たちの所有者は国という事になる。
面積は高校球児が目指す聖地二つ分といった所か。深さはというと、ビル五階分ぐらいはありそうな、すり鉢状の窪地から横穴が無数に伸びている。その一つ一つでは、埋まっている鉱石を男たちがつるはしを手に掘り出し、女子供が精査し分別する。仕事が終われば、この居住区に全員が集まり、収容限界を迎えている掘立小屋で雑魚寝をする日々。
労働環境、生活環境、共に最悪だ。
朝日が昇れば見張りの兵士たちにどやされながら起床し、それよりも前に起きていた女たちが作った味も量も足りない食事を腹に収め、葬式に参列するかのように足取り重く横穴へと向かう。太陽を浴びられるのは、それが最後だ。月が空に昇るまで、横穴から出る事は許されない。
落盤事故は大なり小なり頻繁に起きる。杜撰な発掘計画に、参加する奴隷たちの士気が低いからだろう。酷い時は、横穴一つが全面に渡って潰れた事もあった。
まだこの身は幼児だからと労働の義務は免除されていたが、それもほとんど猶予は無い。というのも、四歳か五歳ぐらいになれば下働きとして女たちの仕事を手伝うようになるのだ。
朝は日が昇る前から食事の準備に駆り出される。配給される食料は週に一度。量は当然のように少ない。彼女らは可能な手段を尽くして全員の口に行き渡るように工夫をする。
それが終われば衣服の洗濯、小屋の掃除、道具の手入れ、産出された鉱石の分別、そして赤ん坊の面倒とやる事は山積みだ。
一歳上の子供たちが、女の手伝いとばかりに足元をうろちょろしているのをよく見る。自分も次の年にはああなるのだろう。
もっとも、女の手伝いを少年がするのは十ぐらいまでだ。その年の頃の子供はこの環境で一人前扱いされる。つまり、大人の男たちに混じって鉱石掘りに回されるのだ。
夜になると自分の未来を歩んでいる少年が疲労困憊の体を引きずって帰って来るのを、毎晩のように見た。
この採掘場では、男に限っていえばこの年代が、最も数が少ない。
鉱石の採掘という重労働のせいか、劣悪な環境が原因なのか、あるいはその両方か。体を壊す子供が続出するのだ。子供だけでなく、大人も怪我や病気で体を壊していく。
そうなると、末路は一つしかない。
間引かれるのだ。
体を壊し働けなくなったり、何かしらの病気を発症し、それが周りに伝染するかもしれないという可能性を考慮して、派遣されている兵士たちが子供を何処へと連れていく。子供だけじゃない。使えないと判断された大人も何処かへと連れていかれた。
今年に入って二人。そうなった子を見た。そうなった子が帰ってきたところは誰も見ていない。
見張りの兵士は手に鞭を構え、剣とクロスボウを腰にぶら下げ、鎧帷子などで身を固めている。動きの悪い者に容赦なく鞭を振るい、罵倒の言葉を容赦なく浴びせていた。
誰もそれを助けようとはしない。助けようとしたら、次は自分の番かもしれないと恐れ、その恐れは事実正しい。此処では善人ほど早く死に、悪人ほど生き延びる。
食事一つとってもそうだ。
女たちがあれやこれやと試行錯誤して食事を作っているが、やはり量が少ないのは変わらない。多くのエネルギーを欲している大人たちにしてみれば、生きて行くだけのエネルギー分にも満たない食事は物足りない。そのため、他者から奪うのが当たり前のように起きていた。
強い大人は弱い大人から奪い。
奪われた弱い大人は子供から奪い。
奪われた子供は弱い子供から奪い。
奪われた弱い子供は誰からも奪えずに死んでいく。
なるほど、汚い奴が生き伸びるはずだ。
まだ、自分の年代の子供たちはそういった螺旋に組み込まれていないのが幸いだが、いずれ自分もその螺旋に飲み込まれるのは明白だ。
奪う事、奪われる事が前提の閉じた世界。
螺旋を昇った先に何があるのか、全員が理解しながら目を背けている。
この採掘場では大人は見かけても、老人となるとほとんど居なくなる。
理由は考えるまでもない。食料に限界があり、生命を削るような重労働が続き、動けない人間を間引く兵士が居るのだ。
ここは閉じた世界。命の終わりが定められた最悪な箱庭だ。
「早く、ここから逃げ出さないと。俺は何もすることなく、ここで死んでしまう」
区切られた空を見上げながら安城はいつも、自分に言い聞かせるように呟いていた。
そんな安城の背を誰かが叩く。振り返れば、豹人族の雑種の子供が立っていた。
「そんなところで、なにやってんの」
細長い尻尾は黒い丸が点々と浮かび、舌っ足らずな口調で話しかける同い年の少女に安城は何でもないと返した。
「それより、何か用なのか、くろまる?」
くろまるとは豹人族の雑種の事だ。細長い尾に、豹人族特有の斑点が浮かび上がっていることからくろまると兄弟の間で呼ばれていた。
ここでは皆、名前は無い。外から来た奴隷は元の名前を剥奪され、奴隷の子供は一緒くたに扱われる。だからか、兄弟間でしか通じない名前で呼び合うのが通例となっていた。
「うん。あっちでみんながまってるよ。いっしょにあそぼ」
見れば同い年ぐらいの集団が安城と少女に向かって手を振っている。どれも同じようなボロの布きれを纏い、明らかに栄養が足りていない貧弱な体をしている。背を叩いた少女を含めて、全員が奴隷の子で、兄弟だ。
性別も、種族も違う。血が繋がっている訳ではない。単に同じ時期に生まれたというだけだが、それがまるで運命かのように固く強い繋がりで結ばれている。奪い、奪われる螺旋でも、同じ年の頃の相手から奪う事だけは誰もしなかった。
「ほら、はやくいこうよ。きょうはにーにーのかんがんえた、かくれんぼやろう」
「分かった、分かった。でも、あんまり遠くまで行くなよ。特に斜面に近づくと、兵士がうるさいんだから」
安城は小さな手を振り払うことなく、少女に付いて行く。待ちかねたとばかりに文句を言う兄弟たちに謝りながら、安城は教えたかくれんぼに参加する。
ここでは奴隷同士を番にし、生まれた子供も奴隷として扱っていた。そして死ぬまで奴隷として扱われるのだ。ここから解放される手段は死しかない。この兄弟たちはそれを受け入れていた。彼らは本当の空の形を知らない。尽きる事の無い波を湛える海を知らない。世界が広い事を知らないのだ。
(そんなの、ふざけるな。奴隷の子として産まれたから、奴隷の人生しかないなんて、そんなの認めない。俺は生きて、ここを脱出してやるんだ)
その時を夢見て、安城は一人、孤独に牙と意思を磨いていた。
八歳になった。
予想通りと言うべきか。ある日起きたら、女たちに仕事を手伝うように言われた。子供の体で出来る事は多くは無いが、それでもこの採掘場でやるべき事は山のように積まれている。
「今日は昨日採掘した鉱石を仕分けちまいな」
蓮っ葉な、化粧どころか顔を洗ったのかと疑いたくなるほど顔を汚した女性が、男衆が掘り出した鉱石の山を前にして、そう命じた。兄弟たちと共に、山のように積まれた鉱石を一つずつ、種類ごとに分けて行く。
少し離れた場所に緩衝材として藁が敷き詰められた木箱が口を開けて待っている。その前には鉱石の色付きの看板が刺さっている。
ここで、文字が読める奴隷はほとんど居ない。奴隷の子ともなればゼロに等しい。そうなると、こうして絵で意味を説明するしかないのだ。赤みがかった褐色の鉱石を、指定された木箱に積める。次に取りかかろうとすれば、兄弟たちが玉のような汗を浮かべたのと横切る。ここでは少年も少女も区別なく、労働の単位として扱われる。働きが悪ければ鉄拳が飛び、働けなくなったら間引かれる。この五年で兄弟の数は減ってしまった。
一瞬、寂寥感に足を止めた安城は誰かとぶつかってしまう。向うは鉱石を持っていたのに、そのまま後ろへとひっくり返ってしまう。
「ごめん。ボーっとしてた」
「う、ううん。こっちこそ、ごめんね」
安城とぶつかったのはくろまるだった。彼女は取り落とした鉱石を拾おうとするも、重さに耐えかねてまたしても取り落とす。その音に見張りの兵士が鋭い視線を向けた。いまにも飛んできそうな兵士よりも先に、安城は鉱石を掴んだ。
「これは俺が運ぶから、息を整えながら戻れよ」
「……ありがとう。それにごめんね」
「気にしないでくれ。兄弟だろ。なら助け合わなきゃな」
安城の言葉に力なく笑みを浮かべた豹人族の雑種は山積みとなった鉱石の方へと歩いて行った。その足取りは遅く、背中がふらつているのが手に取るようにわかる。おそらく、空腹からの疲労の蓄積だろう。彼女だけでは無い。五歳を超えた頃から、上の世代からの搾取が始まった。
奪い、奪われる螺旋に組み込まれるようになったのだ。食料にありつけるのが二日に一ぺんが当たり前となり、酷い時は三日もの間、水も飲まずに過ごした時もある。このままでは栄養失調で全滅してしまう。そう考えた時、安城は兄弟を助けるために、兵士と取引をする事にした。
「おーい。アイツは居るか? 二二七三は」
自分を呼ぶ声に安城は反応した。鉱石を木箱に押し込めると、駆け足で声の主へと急いだ。
二二七三は安城の管理番号だ。奴隷の子として産まれた安城を含めた兄弟たちは、名前を持っていなかった。代わりとばかりに与えられたのは、二の腕に刻まれた数列だ。これが此処での安城の呼び名となる。もっとも、奴隷同士で管理番号では呼び合わない。奴隷として此処に連れてこられた奴はその前の名前があり、奴隷の子として産まれた奴はあだ名で呼び合うのが常だ。
つまり、管理番号で呼ぶのは管理する側。兵士たちしか居ない。
「はい、はい、はいはい! 二二七三! 二二七三! ここに居ます!」
働く大人の女性たちの影にならないように、両手を天に伸ばして吼えるように言うと、兵士が見つけたとばかりに視線を向けてくる。
「おう。悪いんだが、またお前の耳が必要なんだ。来てくれるか」
「分かりました!」
この環境では、下級の兵士でも神のような権限を持つ。必要以上に、年齢にそぐわない言葉遣いだとしても下手に出るのは悪い選択肢ではない。事実、兵士は気を良くしたのか大股で歩き出した。此方は子供だというのに。足の長さが違い過ぎるから、小走りとなった。
連れてこられたのは発掘作業中の横穴入り口。奥からつるはしが叩く音や、トロッコの車輪がすれる音が歪な合奏曲のように響く。それを不安そうに覗くのは犬の頭をした獣人種だ。
別の兵士が獣人種の集団を前に叫んでいるが、言葉が通じ無いようで苛立ちを募らせていた。
「待たせたな。二二七三を連れて来たぞ」
「遅いぞ、餓鬼! さっさとこっち来い!」
今にも鞭を振るいそうな兵士を前にして安城はこっそりとため息を吐いた。
「見ての通り、犬人族、それも全員純血だ。こいつら、体力とかはあるから購入したのは良いが、奴隷商のやつ、教育がされていない事を黙っていやがった。ほれ、お前の出番だ」
足で蹴とばされ、前に出ると十数人の犬面が一斉にこちらを見た。奴隷の中には獣人種はよくいる方なので、驚きはしないがこうやって見つめられると居心地の悪さが出てくる。
すると、その中の一人が前に出て手を差し伸べた。
『大丈夫か、少年。随分と酷い対応をする奴らだ』
放たれた言葉は紳士的な内容だった。見た目とは裏腹に、と思ってしまう自分を安城は恥じた。
『大丈夫ですから。問題ありません』
そう、答えると犬人族は揃いも揃って驚きの表情を作った。
『少年。君は私達の言葉が話せるのかい!?』
『ええ、まあ。そういう事になります』
これは事実でもあり、間違いでもある。
安城としては話している言葉も、聞こえている言葉も、全て日本語なのだ。ところが、安城の口から出る言語は、聞く者に慣れ親しんだ言語で変換されるのだ。
その理由は、エルドラドに転生した時に手に入れていた技能の一つ、エルドラド共通言語の恩恵だ。
エルドラドは幾つもの言語がある世界だ。この国―――いまだに此処が何処で、どんな国なのかすら知らない―――で使われている言語を兵士は使い、購入されて遠方から連れてこられた奴隷たちも学ぶことで使い、奴隷の子供は当たり前のように使える。
だが、犬人族のように言語教育がされずに売買される奴隷も存在し、彼らは自国の言葉しか理解できない。買われたばかりの奴隷に、此処での決まりを教えるのは兵士の仕事なのだが、言葉の通じない奴隷に理解させるのは並大抵の苦労では無い。
そんな時に出番なのが、二二七三である安城だ。
『遠い所からいらしたのでしたら、お疲れでしょう。ですが、申し訳ありませんが俺の話を聞いてください』
見た目は幼児なのに、出てくる言葉の流暢さに犬人族は戸惑いを隠せないでいた。むしろ疑心の視線を向ける者もいたが、安城は素知らぬ顔で受け流した。
今の安城の状況を分かりやすくすると、英語が母語の地域に紛れ込んだドイツ語の人々に日本語で会話を成立させているようなものだ。安城の言葉は、英語に慣れた者には英語に聞こえ、ドイツ語に慣れた者はドイツ語に聞こえ、安城には全てが日本語に聞こえるのだ。
それを気味悪がる者は、エルドラドにおいて少なかった。この世界には、生まれた時に天から技能を授かる場合がある。特殊技能と呼ばれるそれは、珍しいが認知されてはいたのだ。
そうでなければ、安城はもっと前に、誰とでも話が出来る不気味な子供として処理されていたかもしれない。
一通り、採掘場での必要な知識や決まりを伝えると、いつの間にか夕暮れを迎えていた。太陽が盆地の影へと隠れた。
「ご苦労さん。ほれ、これが報酬だ」
説明が終わった犬人族を寝泊りする小屋まで案内しに行く前に、兵士が腰からぶら下げていた袋を安城に差し出した。袋の紐をほどくと、中には固く焼かれた小麦粉の塊が幾つも入っていた。
「それにしても、変わった奴だよな、お前。俺達が支給されている保存食を寄越せなんて。まあ、こんな所じゃ、その炭のように固い奴でも御馳走なんだろうな。じゃあ、またな」
兵士の憐れみの視線を受けつつも、安城は走り出した。すでに夕暮れを迎えているという事は、兄弟たちの作業が終わったという事だ。そして同時に、もうじき大人たちや、大人たちに混じった年上の少年たちが戻ってくることを意味している。彼らに奪われる前に報酬を分配しなくては。
安城が兵士に売り込んだのは、彼の持つ技能だった。自分が、この世界来たときに幾つか技能を手にしていたのは、直ぐに気が付いた。目をつぶれば、浮かび上がる本が全て説明してくれた。その中で最も役に立ちそうなエルドラド共通言語を使う事にした。
言葉の違いに四苦八苦する兵士たちに、自分は誰とでも喋れると売り込み、それが事実だと証明すると、兵士から通訳の代わりに食料を分けて欲しいと頼んだ。
あまり頻度は多くは無いが、それでも五日に一度ぐらい、言葉の通じない奴隷たちは何処からか連れてこられる。そんな彼らが此処の言語に慣れるまで、兵士との橋渡し役をする事で、安城は食料を得ていた。
「ただいま。みんな、戻ってるか」
「にーにーだ。にーにーが帰ってきたよ」
割り振られている掘立小屋に飛び込むと、兄弟の一人が安城の帰宅を全員に知らせた。
にーにーとは、此処での安城の呼び名だ。同い年ばかりの中で、不可思議な遊びや、子供たちを楽しませる物語を語る安城を、皆は兄のように慕っていた。安城にしてみれば遊びは日本ではメジャーなかくれんぼや鬼ごっこ、物語はおとぎ話をエルドラド風にアレンジしているだけなのだが、娯楽らしいものが一つもないこの環境では、それが宝物のような存在感を放つ。
「にーにー。お仕事、おつかれさま!」「ね、ね、ね。今日はどこの人が来たの」「それよりさ。その手にあるのって」
安城に無数の視線が突き刺さる。目は口程に物を言うとはよく言った物だ。先に戻っていた兄弟たちの視線は空腹に喘いでいた。安城は大丈夫だと笑いかけ、手に入れたばかりの袋を掲げた。
途端、皆が群がった。まるで地面に落ちた砂糖に群がる蟻のように、安城が掲げた袋へと手を伸ばす。
「分かった、分かった。順番、順番に渡すから待てよ!」
兄弟たちはようやく冷静さを取り戻したのか、しゃがみ込み、希望に満ちた眼差しを安城に向けた。それはどこか、餌を待ちかねる犬のように見え、安城はくすりと笑ってしまった。それを誤魔化すように咳払いをした。
「一人、一枚だ。全員分はちゃんとあるし、ここに居ない奴の分も取っとかないといけないからな」
そう説明しながら、炭のように固いと言われている小麦粉の塊を手渡していく。兄弟たちはそれを、黄金を見つめるかのように眩しそうに目を細めた。ある者は、舌で舐め、ある者は石で砕いて細かくしてから手製の袋にしまい込んだ。
残りの枚数と、まだ仕事中の兄弟の人数を確認していると、兄弟の一人が大変だと言って飛び込んできた。
「にーにー、大変だ! くろまるが、大怪我した!」
「何だって! どういう事なんだ!!」
「鉱石の仕分けしてたら、山の上が崩れちまったんだ。アイツ、今日は朝から調子が悪くて、避ける事が出来なくて」
安城は兄弟の説明を最後まで聞いてはいなかった。掘立小屋を飛び出し、くろまるの元へ駆けだしていた。
息が切れる。短い足がこの時ばかりは恨めしかった。くろまるはこの時代の安城にとって仲の良い親友と言えた。転生した影響で大人びていた安城は、兄弟の輪から離れた場所にいつも居た。そんな彼を輪の中に連れ込んだのは、いつもくろまるだったのだ。
ようやく鉱石の仕分け場に着いた時、そこは黒山の人だかりだった。安城は大人の足の間を潜りながら、黒山を越えた。
「くろまる。無事か!」
口にしてから、自分が何と惨い事を聞いたのかと安城は後悔した。崩れて散らばる鉱石の中で、くろまるは体を横たわらせていた。足がおかしな方向に螺子曲がり、折れた骨が肉を突き破って血が流れている。呼び名の斑点は真っ赤に染まっていた。
「あは、にーにーだ。心配して来てくれたの」
「……当たり前だろ。兄弟なんだから」
脂汗を流し掠れるような声を出したくろまるに、安城は虚勢を張った。不安にさせないように、いつもと変わらない声色を使おうと意識するが、上手くできている自信は無かった。
「まったく。なに、怪我なんてしてるんだよ」
「えへへ。しっぱいしちゃった。……ねえ、にーにー。その袋ってもしかして」
「ああ、そうだよ。兵士から貰ったんだ。ちょっと待ってな」
安城は袋にある小麦粉の塊を砕いて、くろまるの口元へと伸ばした。小鳥が啄むように欠片を口にしたくろまるは嬉しそうに笑った。
「ああ、おいしいや。ありがと、にーにー。さいごにこれが食べられたよ」
「さ、最期なんて、そんな事いうんじゃない!」
思わず、荒げた声が出てしまう。一方で、頭の冷静な部分が囁いていた。この怪我を見れば兵士が下す決断は一つしかない。
それを証明するかのように足音と怒鳴り声が響くと、人垣を割って兵士の一団が騒ぎを聞きつけ姿を見せた。その中には昼に安城を呼んだ兵士もいた。
彼らはくろまるの傍に居た安城を突き飛ばすと、怪我を負ったくろまるを取り囲んだ。ひそひそと交わされる会話に、安城は耳を塞ぎたかった。だけど、それを許さないように兵士の一人がくろまるを掴んだ。それは怪我人を運ぶというには荒っぽいやり方だ。
「ま、待ってください。待ってください、待って、待てよ!」
背筋が凍りつき、態度を取り繕う余裕もない。立ち去ろうとする兵士にしがみ付くと、彼らは不快そうに振り返った。その中の何人かは安城の世話になった事もあり、彼の顔を覚えていた。
「二二七三か。こいつは、お前の兄弟か」
安城は首が折れんばかりに縦に振った。すると、兵士は気の毒そうな、しかし仕方ないとばかりに表情を変えた。
「諦めるんだな。こいつの怪我は回復薬かあるいは回復の魔法が必要なほどだ。このままいけば、傷口が膿んで悪い気を運ぶか、足を切る必要がある」
「なら、回復をして下さい!」
「……奴隷のお前らに、なんでだ?」
それはこの男が血も涙もない冷血漢という訳でも、残虐な加虐趣味を持つ訳でも無く、この時代に根付いた常識からでた、当たり前の回答なのだろう。答えた兵士に罪悪感は無く、周りに居る奴隷たちに戸惑いは無かった。なにより、掴まれているくろまる自身が、仕方ないとばかりに諦めていた。
―――それが溜まらなく、悔しかった。
安城の手を兵士が振りほどく。途端に、バランスを崩した幼子の体は地面を転がった。遠ざかっていく、くろまるの姿が滲む。安城の頬を涙が道を作る。
ぼやけた視界の中、くろまるが手を振るのが見えた。
それは別れの挨拶だった。
くろまるは帰って来なかった。おそらく、この掘立小屋に戻ってくることは、二度と無いのだろう。名前を与えらず、満足な教育を受ける事もできず、何かを為すこともできずに散った命。それはこれまでにもあり、これからもあるのだろう。
「あいつ、にーにーから貰った食料を隠してたら、上の奴らに見つかって奪われたんだ。その時、随分と殴られて、それで調子が悪かったんじゃないかな」
誰かの呟きを安城は悲痛そうな表情で受け止めていた。
安城は寝静まった掘立小屋をそっと抜け出した。兄弟たちはくろまるの死を悼み、泣き疲れて起きる事は無い。
月が昇る採掘場。見回りの兵士を掻い潜りながら、安城は目的地へと進んだ。それは居住区の一角。あまり人の来ない空き地だ。その隅には、小石が積み上がっていた。
墓石だ。
兄弟が一人死ぬ度に、安城が積み上げてきた。これまでに八人が死に、ここに九個目の石を積むことになった。
二十五人居た兄弟が、いまでは十六人に減った。僅か八年で九人減ったのだ。
十になれば、男は大人に混じり過酷な労働に切り替わる。また、一気に兄弟の数が減るだろう。
そもそも、ここでは奴隷の子供の命は最底辺の扱いだ。もしかすると、元から勘定に入っていないのかもしれない。毎日のように、彼方此方から奴隷が運ばれ、消費されていく。管理する兵士たちの更に上に居る人間は、数が減らないようにと調整しているのかもしれない。だけど、そいつは子供がどうなろうとも気にしていないはずだ。
「このままじゃ、駄目だ。皆、死んじまうよ。でも、俺は如何すればいいんだ」
物言わぬ墓前に語りかけても返ってくる言葉ない。
それでも安城は心に溜まった感情を吐き出すかのように語りかけた。逃げたい、でも兄弟を置いてはいけない。彼らを助けたい、でも力が無い。堂々巡りの、懺悔のような言葉は不意に聞こえた足音に中断される。
見回りの兵士かと振り返った安城に風が吹いた。
いや、それは風では無かった。まるで風のように素早く動いた人影だった。マントで全身を覆い、そこから出した手で安城の口を塞ぎつつ、片方の手で刃を突きつけていた。
首に、青き月光を浴びた刃が触れる。
『動くな、童。動かなければ、殺しはしない』
そう告げた謎の人物は、顔を隠すターバンから長い耳を覗かせていた。
読んで下さって、ありがとうございます。




