閑話:冒険王 転生前 『前編』
安城琢磨は死に瀕していた。
白く清潔さが保たれたシーツの上で横たわる体には、幾つもの管が繋がれ、数種類の薬や栄養を流し込む。
脇に置かれたモニターが幾つもの波形と、刻々と変わる数字を表示させ、それはまるで命の残量を表しているかのようだ。
既に自発的に呼吸をするのもままならず、喉を開いて通した人工呼吸器が酸素を肺へと送り込んでいた。
薄く開かれた瞳に意識が宿っているのかどうか、周りを囲む人々には判断がつかなかった。
ひそひそと深刻そうに交わされる会話は、はたしてベッドに横たわる安城に届いているのか。
体から立ち上る匂いの中に、人の老廃物以外の、死の香りらしきものが混じる。
医者でない者達にも安城がもうじき亡くなるのだと理解できた。
ふと、傍に居た幼子が横たわる安城の手を掴んだ。いまにも死への旅路へと歩まんとすることを理解できるだけの知識は無くとも、本能的に察することは出来る。幼子は安城によく懐いていた。会うたびに頭を撫でてくれたのをよく覚えていた。それゆえか、もう一度頭を撫でて欲しいと思い手を握ったのだ。
すると、乾いた皺だらけの手が、幼子の瑞々しい柔らかな手を掴んだのだ。はっきりと、力強く、まるで死の淵に落ちるのを拒絶するかのようにしっかりと。
それも一瞬の出来事だった。急な反応に驚く幼子の前で、力はあっという間に霧散した。桜の花びらが散るかのように、あっけなく、あっさりと。
機械が一斉に騒ぎ出し、それが何を指すのか分かる大人たちが息を呑んだ。傍で待機していた医師が駆け寄り、安城の瞳を覗きこむ。
既に光を失った眼球が動くことは無く、そっと瞼は閉じられた。
「ご臨終です」
医師の一言に、集まった親族たちはわっと泣き崩れた。死の間際に、これだけの人間が集まり、そして泣いたというのは彼の人生が幸福だったと言えるのではないかと医者は思った。
安城琢磨。享年89歳。死因は老衰。
安城琢磨はオタクだった。
いや、過去形を使うのは相応しくない。世界を旅する間、片時もアニメや漫画、小説などがこれでもかと収まった電子端末を離すことはせず、病院に入れられるまでもその類の愛読書を老眼鏡の傍に置くほどの古強者だ。
元々、年の離れた長兄がその道にどっぷりと浸かっていたこともあり、当たり前のように傍にあったオタク文化に傾倒していった。
そんな彼が青春を過ごした時代。
一つのジャンルが大手を振るっていた。
それは『異世界転生』という名前だ。
安城が生まれるよりずっと前からフィクションの領域において平和な環境で暮らしていた主人公が、まったく別の未知と困難と冒険が待つ環境に飛ばされる類のストーリーは一定の人気があった。意味合いが多少違うが、十五少年漂流記や、おとぎ話では不思議の国のアリス、それにガリヴァ―旅行記もそうだろう。
これらが大衆に受け入れられたのは大航海時代が始まり、人々が世界の大きさを知りつつ、その全てを解明できず、世界の外側に未知の領域が広がっていたことに起因したと思われる。
平たく言えば、世界にはまだ冒険とロマンが眠っている、と誰もが思っていた時代だ。
ところが、安城が生を受けた頃には、世界は余すことなく探索されてしまう。インターネットが世界を網羅し、パソコンやスマートフォンさえあれば世界の裏側で起きた事件を知ることが出来てしまう。地図を見ようとすれば、世界の端から端まで克明に記されてしまった。
地球をあらかた調べ終わると、遂には宇宙まで人々は飛び出そうとしていた。未知を未知のままには出来ないとばかりに、貪欲に先へ先へと目指す。
その反動なのか、最後に残ったフロンティア、異世界という誰も辿り着いていない領域に人々の興味が向いたのかもしれない。異世界へと旅立つ物語は元から存在していたが、ある時期を境に一気に加速した。
彼が一人前のオタクになる頃には、本屋に行けば、その類の本だけを集めたコーナーが存在し、自作の小説を投稿するサイトでもランキングの上位が異世界物で埋められるのは当たり前のようになっていた。
当時の閉鎖的な世情や、自分の人生などに不満を抱く気持ちが反映してこれだけの人気を博したのかもしれない。もしくは、純粋に異世界という響きに憧れた読者が大勢いたのかもしれない。
安城琢磨は後者の人間だった。
エルフ、ドワーフ、ハーフリング、ゴブリン、オーク、ドラゴン。
元々、夢見がちな少年だった安城にとって、響きだけで胸が躍り、文章を追いかけるだけで見たことも無い世界が脳裏に描かれ、まるで自分がそこに居るかのような錯覚を味わえていた。
次第に彼は、自分も異世界へと行きたいと思うようになった。
良識ある大人が聞けば一笑に付す夢。だけど、安城はその夢を諦めるような事はしなかった。
なぜなら、彼には希望があった。
死後の世界。
異世界転生の始まりではよくある、世界を渡る手段として、死が挙げられている。彼はそこに着目した。
人が死ねば、肉体は腐敗していくだけだが、魂はどうなるのか。世の宗教家がそれぞれの死後の価値観を語るも、そこから戻って来たと証明した人間を安城は知らなかった。
つまり、死後の世界がどうなっているのか、誰にも分からないのだ。死んだ時、人の魂が異世界へと運ばれないとは誰にも断言できないはずだ。
だったら、死後の世界に夢を託そう。
安城琢磨はそう決めたのだった。
とはいえ、彼は望んで自殺をするようなメンタリティーを持ってはいなかった。死後の世界に夢を抱きつつも、彼は同時にこうも考えていた。
(自分は何ら特別な才能も、努力もしてきていない。このまま単に死んでしまったら、何も出来ない無能者となって終わってしまう。そんな人間を誰が転生させたいと思うんだ)
異世界転生を夢見ておきながら、どういう訳か妙な部分が冷静だった。
折角、高度文明社会にして平和を維持していた日本で生まれ、親の経済力で大学までは出してもらえる。安全に学び、鍛えることに集中できる、稀有な環境だ。
転生時に向こうに持っていけるのは、やはり知識と経験だろう。ならば、これだけの好条件が揃っているのだから徹底的に自分を鍛えようと安城は考えた。
例えるなら、世の学生が就職活動で高評価を得るために資格や勉学に励み、ボランティアやアルバイトに勤しみ、海外を旅して稀有な経験を得るように、異世界転生するに相応しい能力を持った人間になろうと決意したのだ。
彼にとって安城琢磨の人生は、異世界転生するための下準備に過ぎなかった。
全ては死んだ後の異世界生活の為に。
どう考えても、常軌を逸している思考回路。あるかどうかも分からない、死後の世界、異世界転生というあやふやな存在の為に一生を費やすとは正気の沙汰では無い。
とはいえ、彼自身はそれを幸福と捉え、そのための努力を惜しむつもりは無かった。そんな安城を周りは精力的に活動する人物だと好意的に捉えていた。
かくして、安城琢磨は異世界へと渡るための準備に入った。
体を鍛える為と称して剣道を習い始め、より勉強に集中でき、なおかつ高度な内容を学べる大学へと進学した。
大学でも多岐に渡る分野を自主的に学んでいた。経済、法律、医学は勿論のこと、心理学、コミュニケーション論、サバイバル術、宗教学に歴史学、言語学など異世界で使えそうな知識を端から挑戦していく。
知識だけの人間にならないように、積極的に外にも繰り出した。大学四年、卒業の単位も一通り取ると鞄一つで世界中を旅してまわった。無論、移動は徒歩だ。
知識と体力と人脈を築いた大学時代を終えると、社会へと繰り出した。そんな彼が選んだのは意外というべきか、写真家という道だった。
それも頭に冒険と単語が付く。
企業に務める事も頭の片隅にもあったし、興味のあった物流に関する会社からも内定を貰っていた。だけど、自分がネクタイを締めて満員電車に揺られ、昼をデスクワークと外回りで潰し、夜に疲れて倒れこむように帰宅をしていたら磨き上げた知識とスキル、経験が失われていくのではないかと恐れたのだ。
冒険写真家となれば、未開の地に赴くこともある。その方が魅力的だと安城は考えた。
この人生は、次の人生の為の下準備。それは大学生活が終わった後も変わらなかった。その点で言えば、変わらなかったと評するべきか、成長しなかったと評するべきか悩ましい所だ。
幸いというべきか、世界を旅行中に師となる人物に出会ってしまい、彼と共に世界を回るようになった。彼の足跡に付いてくうちに、道は広がっていき、安城の活動を企業が支援をし、撮った写真が評価されるようになる。
何時しか自分にも弟子と呼べる存在が居るようになり、体が冒険に耐えられなくなると肩書で食べていけるようにもなった。日本に終の棲家を用意して、衰えて行く体を休めつつ、次なる人生に向けた準備を再開していく。手足が動かなくなったとしても、頭が動く間は知識を詰め込むのを止めなかった。
結婚はしなかった。
何人かの女性と交際をしたものの、全員から振られてしまった。
印象的だったのは最後に付き合っていた女から、
「貴方は今を生きていない。ここに居るのに、心は私も、誰も見ていない」
と、言われた事だ。確かに、自分の心はここにあらず。目の前で自分を好きだと言ってくれた人に誠実な対応をしていなかった。むしろ、そんな自分に付き合ってくれたことに申し訳さが先立ってしまい、以後特定の女性と付き合う事はしなかった。
その点で言えば、親に孫の顔を見せられなかったのは心苦しい。もっとも、安城には兄弟が居り、彼らが結婚して孫の顔を見せていたので親もそこまでは気にしていなかった。
こうして死の岐路に立ち、彼は自分の人生を振り返り達成感に満ちていた。学ぶべき事は学び、やるべき事をやり、自分の思い描いていた以上の人生を歩めた。
それは全て次の人生の為の下準備である。
死の微睡の中、安城琢磨は穏やかな笑みを浮かべつつ、死ぬことが出来た。
落ちる、堕ちる、墜ちる。
光は一切ない。周囲を闇で潰された空間を、ひたすらに落ちている。何時からなんて分からない。気が付いた時には、落下しているという感覚だけがあった。
自分は死んだ。それは間違いない。死の間際に親族や弟子たちが集まっていたのを覚えているし、誰かが手を握ってくれた。指先に柔らかい温もりが残っている。
年老いて満足に動かすどころか、息をするだけでも苦痛を味合わせる肉体からも解放されたはずだ。
ところが、どういう訳かずっと落下しているのだ。体は動かず、視線も動かず、そもそも闇の中に光なんて無い。いま、自分が瞼を開けているのかどうかすら定かでは無かった。
これが死後の世界かと放心していた。
無しか存在しない世界。
そこには他者は介在せず、闇だけが在る世界だった。途方もない漆黒を前にして、安城の心が騒めいた。
―――これで、終わりなのか?
自分はこのまま、永劫をここで過ごすのか。異世界へと渡る夢をかなえる事もできず、ただ何処とも知れない、もしかしたらどこにも辿り着けず落下するだけの存在へなってしまったのか。
「冗談ではない! それでは、儂は、私は、俺は、何のために生きてきたんだ。何のために学び、鍛え、経験を積んできたんだ! それじゃあ、俺の一生は無駄に終わってしまう。そんなの、そんなの、認められるか!!」
口を突いて出た言葉は、後悔の怨嗟では無く、憤怒の雄叫びだ。
ありえない、認めない、繰り返される言葉は誰かに聞かせるように、無の世界に拡散されていく。
「神よ! 何処かで見ているのなら答えてくれ! 俺は、俺は自分の人生をこの時の為に捧げてきたんだ! この一回しかないチャンスに掛けた! だから、応えてくれ! 俺を異世界に連れていってくれ!!」
―――奇跡は起きた。
「あっはっはっはっは! やっぱり、君は面白いな、安城琢磨!」
何処からか、軽快な声が響いた。途端、落下していく体が見えざる力に縛られたかのように動きを止めた。
そして、闇を切り裂く巨大な光が生まれた。
圧倒的な光を前にして安城は目を閉じた。閉じたという事は、それまで開いていたのかと心の隅で思った。
そして、瞼越しに感じられる光が弱まった頃に恐る恐る目を開けると、世界が一変していた。
闇しかなかった世界に、満天の星が浮かんでいた。世界を旅してきた中でも、見たことがないほどの美しい星々がドームのように空を覆う。
「あれら一つ一つが世界さ。ご覧、あの青く輝く星を。君が生まれ、育ち、そして死んだ世界さ」
声をかけられて安城は気が付いた。自分の眼前に青き頭髪をした、尋常ならざる美しさを持つ人物が穏やかに微笑んでいるのを。
「ようこそ、安城琢磨。神の観測所へ」
差し出された手は安城が狂おしいほど求めてやまない、異世界への切符だった。
読んで下さって、ありがとうございます。




