6-58 エリザベートの勇気
心に無数の刃を突きたてられ、えぐり取られたかのように痛む。両手が氷を掴んでいるかのように冷たくなる。気管に石を詰められたかのように呼吸が出来ない。視界が歪み、世界との距離感が正しくつかめない。頭蓋の中から金槌で叩かれたように痛い。
甲板に突いた膝が、自分が四大公爵の血を明確に受け継いでいるこれ以上ない証拠だ。主家である、帝室に逆らうことはあり得ず、帝国を支える四本の柱として生きて死ぬべきだと教わってきた。
貴族としての礼儀作法、そしてあり方は全て修道院まで付き従ってくれた乳母が教えてくれた。いつか、ここを出た時、公爵の名に恥じぬようにと育てられた。
武門を司る者として、剣術を学ばされた。乳母と同じように付き従った壮年の騎士が下働きの合間に木剣で型を教えてくれた。
その頃になると、赤ん坊だったレティも歩きはじめ、どこかへと出かけていきそうになる。それを止めて、手を繋いで連れ戻すのが私の役目だった。
季節の変わり目には、年の離れた兄たちがやって来た。優しく、頑強な兄たちは私に乗馬の手ほどきをしてくれたし、剣の稽古をしてくれた。寝る前には修道院の外の世界を色々と教えてくれた。特に兄たちは暗黒期や黄金期に活躍した強者たちの事を熱っぽい口調と尊敬のまなざしで語る。その内、私自身がそういった人たちの昔話に惹かれるようになった。
年に一度は、父上がやって来てくれた。大きくて、温かなまなざしを持つあの人は、いつもどこか疲れた様子で、しかし私たち姉妹の何でも無い日常の話に真剣に耳を傾けてくれた。
どうして自分が、自分たちが修道院に送られたのか。私は聞けずじまいだった。どうして家族そろって暮らせないのか、聞くことが出来なかった。聞こうとすると、固く重い空気が阻んだ。
外の世界で何が起きているのかすら、私は知らなかった。辺境の片隅にあった修道院では外での出来事は上手く遮断されていたのだ。
全てを知ったのは、全てが終わってからだった。
あの優しい父が。あの強くて頼もしい兄たちが。何年にもわたって帝国に戦争を挑み、国を乱し、民に血を流させ、大きな傷跡を作ったのだと知ったのは。
彼らが死んだ後だった。
辺境の修道院だったのが裏目に出た。情報の伝達に不備があったのか、乳母が顔を青ざめさせて部屋に飛び込んできた。彼女は息も絶え絶えに逃げましょうと言った。全部が終わってしまい、何もかもが手遅れになってしまった時にだ。
私が理由を問いかけても、ここに居てはいけないと繰り返すばかり。不安そうに泣きだすレティと、混乱する私の腕を掴んで、彼女は外に飛び出そうとして、地平線を埋め尽くそうとする兵士の姿に膝を屈した。
そこからは籠城戦だ。
修道院の半数は父上が用意した元冒険者の経歴を持つ者達。彼らが指揮し、事情を知らないシスターや下働きの人たちと共に即席の防御壁を築き上げた。
その間に、私とレティはウィンドヘイル家が帝室に反旗を翻した事。何年にも及ぶ内乱が起きていた事。そして、それがある存在の投入により、何もかも吹き飛ばされたことを知った。
私が受けた衝撃は計り知れなかった。
貴族が皇帝に反旗を翻す。それも、よりにもよって四大公爵家の一つが。
今まで教えられ、植えつけられた価値観がひっくり返るには十分すぎる衝撃で、足元から世界が崩れていく。これまで教わって来た事が一気に色あせていった。
何より、その反乱が国を乱したことが私にとっては悲しく、辛い事だった。貴族の役目は国を守り、民を守り、王を守る事。それなのに、国を乱し、民を傷つけ、王に剣を向けた父が許せなかった。それに付き従った兄たちも許せなかった。
どんな事情があっても、それは許されざる行為。
私は自分に流れる血を嫌悪した。貴族としてあってはならない裏切りをした、この血を恥じた。敵う事なら、この身に流れる血を全て絞りつくして死に絶えたいとさえ願った。
だけど、同時に、死ねない運命を背負い込む事にもなった。
どうして自分たち姉妹だけが修道院に送られたのか。その理由が乳母の口から伝えられたとき、私は知ってしまった。
運命に翻弄される妹、レティシア。彼女を守り抜くことが、自分の、生き残った者の使命となってしまったのだ。
何があっても、彼女を守り抜かなければならない。
だから、籠城を始めた修道院が僅か一時間足らずで陥落し、乳母を始めとした大人たちが私たちを庇い、『勇者』に切り伏せられた時も。
私はレティシアを守った。たった一人生き延びた者の使命として、あの子を守る為に、奴隷に身をやつす事も呑んだ。
その一方で、私の心は幾つもの感情に掻き乱されるようになった。
レティを守り抜くという使命。
主家を裏切ったという恥辱。
そして、家族を奪われたという憎悪。
例え、父や兄が貴族として間違った行為をしていたとしても、その家族を殺された恨みは私の中に根付き、時をかけて育った。
だけど、私を縛りつける貴族としての業は、憎悪の矛先に皇帝を選ばせなかった。いや、そもそも皇帝を恨むのは間違っている。確かに父が反乱を起こした原因は皇帝にあったが、それでもそれは父と皇帝の間の問題だ。そこに他者の、民の運命を巻きこんでもいいという道理はない。それなのに、父は国に不満を持つ反乱分子を巻き込んで旗を上げた。
だから、私は憎悪の対象を『勇者』に絞った。帝国の権威の象徴である『勇者』を憎み、倒すことを夢見、牙を研いでいた。
戦奴隷として世界を回りながら、レティを守りながらいつかこの剣であの『勇者』の首を落とす事だけを考えて生きてきた。
それなのに、今の私はどうだ。
炎天下の日差しを浴びた体は氷のように冷たく、服の上からでも分かるほど体は小刻みに震えている。体の芯が恐怖に満たされているのだ。
いままで、語る勇気の無かったツケをいま払わされている。
ご主人様に私の過去を暴かれてしまった。裏切り者の血だと明かされてしまった。恥ずべき存在だと知られてしまった。
怖い、怖い、怖い。
この人に見捨てられるのが、こんなに怖いと思わなかった。復讐の事とレティの事を考えていれば、それだけで十分だった頃とは大違いだ。
これまでに、語るべき機会は幾つもあった。彼が『勇者』と同じ異世界人だと知り、行き場のない憎悪が暴走したあの時。シアラが自らの過去を明かしたあの夜。それ以外にも幾つも、何時だって言う機会はあった。
なのに、私は言わなかった。
言って、嫌われたくないと思ってしまった。自分の中に、反逆者の血が流れていることを。国を乱し、民を苦しめた咎人の血が流れていることを。恥ずべき存在だと言う事を知られたくなかった。
嫌われ、突き放されたくないと願ってしまった。
何と醜い女なのだ。
自らの恥部を隠し、取り澄ました顔を浮かべて仲間の様に振る舞い、傍に居続けようとするとは。そのような恥ずべき行為をしてまで、私はここに居たかったのだ。
《ミクリヤ》に居たかったのだ。
ここはこれまで生きて来た中で一番優しい世界だ。朝には眠気眼を擦らせてレイが起き、シアラが朝食の内容を尋ね、レティが答える最中つまみ食いをしようとしたダリーシャスの手をエトネが叩き落す。昼には文字を覚えようとエトネが真剣な顔を浮かべ、シアラがそれを優しく見つめ、レティがキュイの世話をし、レイとダリーシャスは邪魔にならないようにチェスに興じる。夜には星空を見ながら、ひとり、またひとり瞼をつむる。
また明日と言って、眠るのだ。
穏やかに眠るレティの髪を撫でながら、いつも思う。ここは陽だまりのような場所だと。
だけど、それも今この時を持って終わりを告げようとしていた。
無意識にリザの手はレイの服の裾を掴んでいた。見放さないでほしいと願う少女の心がそうさせた行動なのだろう。軽く、赤ん坊のような握力で掴まれたそれをレイは引き剥がした。
リザは心の中で悲鳴を上げた。夏の日差しを反射する甲板が黒い絶望に塗りつぶされそうになっていた。
だけど、引き剥がした手をレイは掴んだ。自分の手で掴み直した。
レイはリザを見ることなく、ジョゼフィーヌを睨むように見据えた。
「ジョゼフィーヌさん。貴女は間違っています」
「間違う? 面白いわね、私が何を間違えたというの。その子の過去も、『勇者』に関することも全て事実よ。嘘を吐いた覚えはないわ」
その言葉にレイは首を横に振った。
「そうじゃありません。前提が間違っているんです」
一拍開けた後、レイは毅然と言い放つ。
「リザは裏切りませんよ」
「……ご、ご主人様?」
きっぱりと、まるで未来を視たかのような断定的な口調にジョゼフィーヌは面白そうに唇を吊り上げた。
「あら。おかしなことを言うわね。その子に裏切り者の血が流れているのは事実よ。親と子は別の存在。親のしたことを子が真似るなんてことは言わないけど、その子は貴方に自分の過去を語らなかったんでしょ」
ジョゼフィーヌの囁きは、蛇のようにリザの体を縛り締め付ける。牙が心に突き刺さり離そうとしない。
「貴方がこの子に出会って一月? 二月? それだけの月日があって、命を預け合う仲間に自分の秘密を明かそうとしないなんて、おかしいとは思わない。もしかしたら、裏切る機会をうかがうために黙っていたのかもしれないわ」
違う、とリザは叫びたかった。だけど、言葉が出ない。どこからか、本心はそうなんじゃないのかという問いかけが聞こえて、彼女は身を固くする。
自分の本心が自分でも分からなくなる。どす黒い感情だけが少女の心を塗りつぶし、黒く染めていく。そのまま、自分が消えたいと彼女は思う。
だけど。
「リザは裏切りません」
愚直なまでに、レイは同じことを言う。疑う余地は微塵もないとばかりの態度だ。ジョゼフィーヌは失笑とも嘲笑とも取れる笑いを浮かべると、
「話にならないわね。裏切らないなんて一方的な思い込みで済ますの。根拠もなしに、相手を信じるなんて愚かな行為よ」
「根拠ならありますよ。貴女の姑息な考え方よりも、ずっと信頼できる根拠がね」
その言葉に、ジョゼフィーヌのみならずリザも耳を疑った。レイの方を見上げると、少年は真っ直ぐに言い放つ。
「リザはレティを裏切らなかった。戦奴隷に身を落としても、モンスターの群れに囲まれた時も、彼女は彼女に残された唯一の家族を裏切らずにここまで来た」
あの日。ネーデを出発した旅の途中。モンスターに囲まれた奴隷商人は、レティを囮にして逃げた。奴隷に命令を施し、動けなくした。だけど、動けなかったのは、レティだけだ。あの状況下で、リザは見捨てようと思えば、見捨てる事も出来たはずだ。
だけど、彼女はそうはしなかった。妹を守ろうと、必死に戦っていた。
エルドラドは決して優しい世界ではない。城壁の外を歩くと、そこは危険なモンスターが跋扈する危険地帯。それでも商人のように国を跨ぐ必要のある人は、相応の実力を持った護衛を雇う。
戦奴隷はそのための道具だ。彼らの経歴が、元冒険者や、それこそ現役の冒険者のような即戦力となる戦士なら重宝される。でも、子供の戦奴隷の使い道はそう多くない。クロスボウの射手や、大人の戦奴隷の補助が関の山。下手をすれば、囮として使い捨てられるためだけに売られていく場合もある。
リザはそんな過酷な環境に、幼いレティと共に落とされても、彼女を見捨てることなく守ってきた。それがどれだけ過酷で、困難で、熾烈な道のりだったのか。レイは想像するしかできないが、きっとそんな自分の想像を超えているのだろうとも思う。
リザの震える手をレイはより強く握りしめる。
「僕が知っているリザは、主を決めるのに決闘を申し込んだり、異世界人と知るなり後ろから襲い掛かるぶっ飛んだ思考回路を持っているとんでもない女の子だ。でもそれはこの辛く悲しい世界で、妹を守る為に必死になって戦う姉の姿だ。決して誰かを裏切ろうとする姿なんかじゃない!」
言い放つと、レイは自分を見つめるリザに視線を合わせた。黒色の瞳が強い光を放つ。
「リザ。裏切り者の血が流れているとかそんなの関係ない。胸を張るべきなんだ。だって君は、君にとって一番大切なレティを裏切らずにきたじゃないか!」
「……ご主……人……様」
その言葉は、リザの心を押しつぶそうとした漆黒を打ち払うに十分すぎる光を放っていた。春の日差しを凝縮したような、優しく温かい光に、リザの青い瞳から涙が一筋、また一筋と流れ落ちて行く。
「僕はそんな君を尊敬している。これからも一緒に旅をしたいと、そう思っているんだ。……君はどう思っているかな」
リザは涙を流したまま、堰を切ったかのように喋り出した。
「居たいです! 一緒に、どこまでも。貴方が望む場所へと、お供したいです。この命が尽きるまで、何処までも。……裏切り者の血が、謀叛者の血が流れていることを隠していた、浅ましくて、醜い、卑怯者の私でも良いのなら、お傍に置いてください」
「リザは醜くなんかないよ。綺麗な子だよ。それに、隠し事をしていたのは僕も一緒だ。君の為なんて言いながら、『勇者』が七帝だと言わずに黙っていた。君が卑怯者なら、僕も卑怯者だよ」
「そんな事ないです。……ご主人様の仰る通り、あの時、アマツマラでこの事を聞かされていたら、私は、何が何でも討伐軍に参加しようとしたはずです。それこそ、レティを置いてでも、《ミクリヤ》を離れたかもしれません」
黒い炎のような復讐心はリザの心の一番奥深くに宿っていた。猛々しく燃え上がる火の中には、甲冑が手招きして待っている。今のままでは決して勝てないと知りつつも、倒したいという狂おしい欲求がリザを突き動かしていた。
だけど、いまのリザには引き留めてくれる手がある。
「でも、いまは違います。私は貴方の奴隷として、貴方の為に剣を振りたいです。貴方が、貴方の目的を果たしたその時まで、私は私の復讐を抑えます」
その言葉が決して強がりではないと、レイは彼女の青い瞳を通じて感じた。レイがリザに対して感じていた、『勇者』の事になるとでてくる破滅的な衝動。いつ折れるとも分からない危うさはそこには無かった。
「なら、泣いている暇はないよ。レティとエトネが苦しんでいるんだ。一刻も早くエレオノールを見つけて、治療方法を聞きだそう」
「はい……はい。その通りです!」
言うと、レイは立ちあがり、跪いたままのリザの手を掴んで、彼女を立ち上がらせた。彼女を縛りつけていた貴族としての業が緩み、視えない鎖が解けて行く。
「……あの……ご主……レイ様」
急に名前で呼ばれたレイは少しだけ驚きつつもリザに振り返ると、少女は意を決したように口を開いた。
「全部、終わったら、聞いて欲しい……ことがあります。こんな、誰かの口からでは無くて。自分の……口から、話したいんです。私とレティの事を。貴方だけでは無くて……シアラとエトネにも一緒に」
「……うん、分かった。全部終わったら、ゆっくりと聞くよ。聞かせてもらうよ」
レイは彼女の振り絞った勇気を正面から受け止めた。リザはほっと、胸をなで下ろし、笑みを浮かべた。
リザの本質は変わらない。
レティを守り抜くという使命。
主家を裏切ったという恥辱。
家族を奪われたという憎悪。
そこに新たな感情が加わった。
レイと、そして《ミクリヤ》という温かな場所を守り抜くという決意。
暖かい陽だまりが、少女を燃やしかねない黒い炎を優しく、しかし逃がさないようにと包み込んでいた。
読んで下さって、ありがとうございます。




