6-38 断末魔
暗い室内に獣じみた殺気が充満していた。蒸し暑い夏の夜、不快な汗が流れて落ちた。
レイは信じられないとばかりに震える声を発した。
「レ……レティ。何を、やっているんだ」
少年の声に、天涯付きのベッドの上で姉を押し倒す、いや、殺そうとしている少女は反応する。口からはむき出しなった歯がギラリと光り、充血した瞳がレイを射抜く。
正気とは思えない姿だ。レイは部屋に入るなり、声高に叫んだ。
「レティ! 《リザから離れろ》!」
戦奴隷に対する、魂に働きかける命令。それを弾くことはできないはず―――だった。
あり得ない事に、リザの首を締める小さな手は緩まることなく、レティは石のように動かない。レイは再度命令を下した。
「《そこを退け》!」
だが、結果は同じだった。レティはリザの上から退こうとはしない。戦奴隷に対する命令が弾かれてしまった。レイはやむなく、実力行使に出た。力任せに、少女の体を引き剥がそうとする。
ところが。
「う、動かない。凄く、強い!?」
レティの体はビクともしないのだ。回復や支援を務める魔法使いにあるまじき膂力に、レイはレティが何かおかしな存在に取りつかれたと思ってしまうほどだ。
「ご……主……逃げ……て」
リザの口から喘ぐような言葉が漏れ出す。蝋燭の明かりからでも、その皮膚が紙のように白くなっているのが分かる。余裕のない状況なのは誰の目にも明らかだった。
レイは直ぐに決断を下した。
「《留めよ、我が身に憎悪の視線を》!」
至近距離からの《心ノ誘導》だ。命令は弾かれたが、技能ならば通じるかもしれないと考えた。
それは正しかった。
正しかったのだが、選択としては悪手だった。
レティの意識は姉からレイに向かい、そして少女の体が捻じれたような動きを見せ、ベッドを軋ませて飛びかかる。
―――飛びかかった影は一つでは無かった。
「な!? エ、エトネ!?」
死角から飛びかかってきたエトネに驚き、レイは幼女二人に突き飛ばされ、床に倒れた所を圧し掛かられた。どちらもいつもよりもはるかに強い力でレイの体を押さえつける。
拘束から逃れようともがくレイだが、一方で冷静に状況を観察していた。蝋燭の明かりからでも、二人の形相が異常なのは明らかだ。眼球が赤く染まり、大きく開かれた口には牙のような犬歯がせり出している。
異常なのは形相だけではない。レティの細い指がレイの首を押さえつけようようとする。レイは両手を使い、その手を押しとどめるが、力負けしてしまう。精神力を両手に宿らせてもなお、拮抗状態に持ち込むので精一杯だ。
そして、下半身を押さえているエトネがゆっくりとレイの太腿の辺りへと顔を近づける。まるで、大きな肉を噛み千切ろうとするかのように、口を開けた。
「《器を満たせ》、《バレット》!」
牙が太腿に突き刺さるまであと数秒の所で、室内にシアラの凛とした声が響く。天涯付きのベッドの向こう側から無色透明な魔法の塊が二つ飛ぶ。それらは狙いを外さず、レティとエトネを弾き飛ばした。
二人は窓際の壁に叩きつけられた。拘束が無くなったレイが立ちあがり二人に駆け寄ろうとすると、その襟首を細い手が捕まえ、ベッドの方へと引き寄せた。
手の持ち主はリザだ。首筋に指の赤い痕を残した少女は戦闘時のように鋭い殺気を放っていた。
「近づいてはいけません。……今の二人は明らかに異常です」
「そんなの見れば分かる! 一体全体、何が起きてるんだよ」
「そんなのワタシ達に分かる訳ないでしょ!」
杖を構えているシアラとレイが怒鳴り合う中、一人リザは冷静に壁際に叩きつけられた二人を見つめている。少女たちは緩慢な動きで立ち上がろうとしていた。
「原因は分かりませんが、あの二人は何かの影響下にあります。特徴としては御覧の通り、筋力が著しく上昇し……私に噛みつこうとしていました」
「噛みつくって、文字通り歯で噛みつこうと?」
「そうよ。リザはレティに。ワタシはエトネにやられそうになったわ」
部屋に突入した時、手前に居たリザ達ばかりに注視していたから、シアラがそんなピンチに陥っていたとは気が付かなかった。
同時に、レティであれ程強化された状態。元の筋力がレティ以上のエトネを相手にしてシアラが無事でいられたことに驚きだった。それに気が付いたのか、シアラは足元に落ちている枕を踏みつけた。高級品らしいシルクの枕に穴が開き、そこから羽毛が零れていた。
どうやら、噛みつかれる際に枕を噛ませて防いでいた様だ。
「もう一つ、特徴としては噛みつくのを防がれると、対象を気絶もしくは……殺害しようとします」
殺害の部分を絞り出すように言うリザの横顔は苦渋に満ちている。当たり前だ。これまで姉妹力を合わせて生きて来た二人。互いを思い合う気持ちは、傍で見ているレイにも十分伝わった。それなのに、こんなことになっているのだ。
絶望が今にもリザを押しつぶそうとしていた。それに抗おうとリザは歯を食いしばっていた。
杖を構えていたシアラが、リザを庇うように前に出た。
「ワタシが魔法で足止めするわ。そしたら、どうにかして気絶させて」
「気絶させてって、一体どうやって」
「そんなの自分で考えなさいよ!」
苛立ちを隠さないシアラ。するとその時、悪魔の悪戯のように隣室の扉が開いた。そこから顔を出したのはダリーシャスだった。
「おい、レイ。何が起きているんだ? ……其方ら、誰に向けて武器を構えているのだ! 相手は仲間だぞ!!」
様子を見に来たダリーシャスが怒気まじりの絶叫を上げた。それがいけなかったのかもしれない。壁にもたれかかりながら立ち上がったエトネがダリーシャスに向かって飛びかかる。
「ちぃ! 《アイス》!」
シアラの杖先から氷の塊が二つ飛び出した。一つはいまだ壁際から動かないレティの足元に着弾すると、床と足を氷結させて拘束する。しかし、もう一つは目標を外し、壁を凍らせるに終わった。エトネはダリーシャスを突き飛ばし、隣室へと消えていた。
「ダリーシャスは僕が! 二人はレティを」
言うなり、レイは隣室へと踏み込んだ。すると、耳を震わすのはダリーシャスの悲鳴だ。
「ぐおおお! エトネ。止めろ。俺は敵じゃない!」
扉のすぐ近くで、エトネに押し倒されたダリーシャスが苦悶の声を上げる。彼の濃い色の肌に血が伝い、床を汚す。エトネはダリーシャスの前腕に牙を突きたてていた。
レイは縋るような思いで技能を発動させる。
「《留めよ、我が身に憎悪の視線を》!」
今さっき発動したばかりの《心ノ誘導》だ。単なる力比べでレティに押し負けていたことから、エトネを引き剥がすにはこれしかないと判断したのだ。一刻も早く、ダリーシャスを助けたいという焦りから、使用回数を分かった上で、発動させた。
レイの技能は不発に終わ―――らなかった。
エトネは不自然な行動に出た。誰かに首を捻じ曲げられたかのように、ダリーシャスの腕から顔を上げ、背後に居るレイの方へと振り返ったのだ。幼い顔に似合わない紅が唇に差していた。それがダリーシャスの血で塗られた口紅だと考えると、吐き気すら込み上げてくる。
「こんなタイミングで、能力の進化か。神様も粋な計らいをしやがるよ」
目標を自分に切り替えたのを殺気としてレイは感じていた。それを裏付けるようにエトネはレイに向けて飛びかかって来る。レイはそれを横の床に飛び込むことで回避した。そのまま、床を転がり距離を取ってから態勢を整える。だけど、エトネはそれよりも早く追撃を仕掛けていた。
飛びかかった勢いが強くて壁にぶつかるように着地するなり、その壁を足場として蹴ったのだ。衝撃が室内を、もしかすると建物すら揺るがしたかもしれない。
弾丸のように飛びかかるエトネを前にして、レイは腰に差していたダガーを構え、
「雷牙!」
と、ダガーに宿る雷を牙のように形成し飛ばした。狙いは付けるまでもない。レイに向かって愚直に飛んだエトネは避ける事もできずに雷撃を真っ正面から浴びて、床に強かに打ちつけた。レイが様子を伺うと、白目を剥いて気絶していた。
「ごめん、エトネ。痛いだろうけど、少しだけ我慢していてくれ。……ダリーシャス、アンタは無事か」
ダガーを鞘に戻し、回復薬を片手に近寄ると、ダリーシャスの様子がおかしかった。床に倒れ伏したまま、天井を凝視している。嫌な予感を抱きつつ顔を覗き込むと、目は充血し、口元に牙が生えたのが分かった。
レティ達と同じ現象だ。さらに付け加えると、ダリーシャスの腕についていた噛み傷は煙を上げて消えていた。その光景に、レイはある事を連想した。
「な、何なんだよ、これは。噛まれると、変異するなんてまるで―――っ!?」
言葉は最後まで言い切れなかった。ダリーシャスが唸り声と共に起き上がり、衝撃を受けていたレイに向かって飛びかかった。
理も術も無い、単なる組みつき。しかし、その力はおかしくなった三人の中でも抜きんでている。レイはあっという間に押し倒された。相手の噛みつきを回避するために顎を手で押し上げるが、その分、ダリーシャスの両手がレイの首を絞めつける。
「ぐ……ぐうう……っう……ううう」
気道は全て塞がれていないが、それでも酸素が足りない。黒く染まりつつある視界の中、レイは賭けに出た。右手に握りしめたままの回復薬を、自分の顔に瓶を割る勢いで叩きつけた。
がしゃん、と。砕け散る瓶に鮮血が流れるも浴びた回復薬が傷口を治す。ダリーシャスはその自傷行為を見ても何の反応を示さなかった。
どうやら、思考能力はない様だ。それを確認すると、心の中で謝りつつ呟いた。
「雷電放流!」
言葉とともに、レイの体が紫電に包まれた。ダガーを鞘に納めた状態でも発動できる技だ。ダガーから発生した雷を自分の体全体に流して、自分に触れている相手に感電させる、いわゆる自爆技。レイがもっとダガーとの親和性が高くなれば、自分にダメージを受けなくても紫電を扱えるかもしれない。未熟なレイは相手と同じだけのダメージを浴びる事になるのだ。
だけど、その対策はしてあった。
直前に浴びた回復薬の分、ダメージを耐えられる。
「がああああああ!」
「うおおおおおお!」
二人の叫び声が永遠に続くかと思われたが、突如として片方が止まった。
ダリーシャスの体がレイの上に崩れ落ちた。耐久レースはレイの勝利だ。
ぷすぷすと煙を上げるダリーシャスの体。しかし、噛み痕と同じようにそれも次第に癒えて行く。一方でレイは紫電のダメージから立てずにいた。動けない体に焦っていると、エトネとダリーシャスがそれぞれ緩慢な動作で立ち上がろうとしていた。
「《アイス》!」
そこを隣室から飛び出してきたシアラが放つ氷魔法が二人を絡めとった。身動きの取れない二人は唸り声を上げる。
「主様。もっと雷を浴びさせて! 完璧に気絶するまでやってちょうだい!」
戸惑うレイだが、シアラに急かされダリーシャスとエトネの首筋に雷を流す。二人は何度か苦しそうな悲鳴を上げ、ダガーの中の魔力が使い切る頃になってようやく動きを止めた。
「はぁ、はぁ、はぁ。そっちは。レティの方はどうなんだ」
「リザが気絶させて、シーツを使って拘束しているわ。主様、二人を連れて隣室へ」
アイスの魔法は弱い威力の氷魔法。強化されている二人には簡単に拘束を解かれてしまうとシアラは言う。レイは血を腿で拭い、エトネの体を優しく抱き起して、隣室に向かった。すると、変わり果てたベッドの上でレティが横になっていた。ベッドのシーツや天涯の布は見るも無残に切り裂かれ、レティの体を何重にも拘束するのに使われていた。
リザがその横で深刻そうな表情を浮かべて、意識を無くしている妹を見つめていた。レイが呼びかけると、覇気のない表情でエトネを受け止め、妹と同じように縛り上げる。
レイは掛ける言葉が出なかった。ただ黙々と、ダリーシャスの体を引きずり、リザと協力して同じように縛り上げた。そして、止めのように三人の体をシアラの魔法が固定した。これで意識を取り戻しても簡単には外せないはずだ。
ようやく一息吐ける。そう思ったレイだが、その考えは甘い。
三人の耳に微かに悲鳴のような声が聞こえたのだ。それも一つや二つでは無い、幾重にも折り重なった悲鳴の合奏だ。視線を合わせ、無言で確認をした三人は揃って廊下側の壁へと駆け寄り、耳を近づける。
廊下の向こう。更に階段の奥から断続的に人の悲鳴と、物が壊れる音が響く。どうやら、異変はこの部屋だけではないようだ。
「……一度、宿の外に出ましょう」
リザが意を決したように告げる。レイは慌てて、
「待った。あの状態の三人を置いて部屋を出るのか」
「確認の為です。……それに、あの三人を連れて外に出るのは現状として危険かと」
でもと続けようとしたレイをシアラが止めた。
「主様。ワタシもリザに賛成よ。……とりあえず、最低限の荷物を持って周囲の状況を確認。何が起きているのか確認してから、できるなら、ここよりも安全な場所に三人を移動させて、そして、あの三人を治療するための方法を探すのよ」
治療なんて出来るのかとレイは問いたくなったが、シアラの瞳を見てそれを躊躇った。金色黒色の瞳は何も言うなと縋るように語りかけていた。
リザの気持ちを考えれば、その疑問は口に出してはいけない。妹が突如として異常な状態に陥ったのだ。気丈に振る舞っているが、一番動揺しているのは間違いなく彼女だ。
「扉はこのままにしましょう。開かなければ、そう簡単には入ってこないでしょうし……出ようとも思わないわよ」
「それはいいけど、どうやって僕らはこの部屋を出るんだよ」
「そんなの簡単じゃない。あっちを使うのよ」
シアラが指したのは窓の方だ。レイ達は手早く必要になりそうな荷物だけ掴むと、装備品を身に付け窓から身を乗り出した。潮風と並みの打ち寄せる音に交じって、悲鳴が聞こえてくる。
それを無視し、レイは上を振り返る。最上階という事もあり、屋上までの距離はほとんどなかった。ロープを肩にかけて、するりと壁を昇る。オウリョウでの経験が役に立った。
屋上に人影はない。大丈夫だと下に向けて告げると、荷物を背負ったリザが同じように上った。最後に、体にロープを巻き付けたシアラをレイとリザが二人がかりで引き上げた。
どうにか宿屋の屋上へと上がった三人は街を一望し―――絶望する。
「いやだ、止めろ、こっちに来るな!」「アナタ、アナタ! 正気に戻って!」「殺せ、いや、殺すな!」「くっそ、噛まれて血が」「やばいぞ。こっちに来る!」「なんなんだよ、一体!?」「神様。どうか哀れな私たちを御救いください」「化け物だ。子供が化け物に変わっちまった」
宿屋だけでは無い。
外層も内層も芯層も関係ない。
街そのものが断末魔を上げていた。
水の都アクアウルプス。
都市国家にして海上都市が日を跨いで僅か二十分足らずの内にナニカに敗北し、滅びようとしていた。
読んで下さって、ありがとうございます。




