4-19 赤い森
エトネが鼻をひくつかせる。大気中に残っているレッサーデーモンの体臭を嗅ぎ取っている。時折立ち止まっては犬のように匂いを確かめると少女は進行方向を調整する。レイたちはおとなしく彼女に従う。
レイが真似して空気を鼻孔から吸い込むも、むせ返るような青い草の匂いしか分からない。
無人の村を出て三十分。全員の足取りは軽く、道程は順調だった。朝早くから戦闘を行ったというのに、気力が漲っていた。
超級モンスターに身も凍る重傷を与えた存在が居るかもしれない方向に向けて進んでいるのに、全員の胸には期待感が宿っている。
昨日の探索は徒労に終わった。何しろ森のどこを進んでも、上級モンスターが等高線のように至る所に犇めいていた。放たれる威圧感に当てられてエトネの体調が悪化。レイたちも精神を削るような疲労を味わっていた。
それが今日は一転して平和だった。モンスターの濃い気配で死地とかしていた森の姿はどこにもなく、これがいつものクライノートの森なのだとレイは理解した。穏やかな日差しが燦々と注がれ、木々が風になびき、小鳥が囀り合う平和なぬるま湯に浸かっている。
この進行方向に待ち受ける存在がエルフなのか、人なのか、それともモンスターなのかは分からない。だけど状況に変化が起きたのは全員にとって喜ばしい事だ。昨日の探索が徒労に終わっただけに反動が大きい。
もっとも、それで気を抜く訳にもいかない。死んだら元も子も無い。各自武器を抜いて、いつでも戦闘に移れるよう、準備を怠らず、森を進む。
すると、エトネが急に動きを止めた。
鼻を摘まみ、眉を顰めて嫌そうに告げた。
「くさい」
「え? もしかして匂う?」
レイが服に染みついた汗の匂いが気になるのかと思い、問いかけたが、エトネは首を横に振って否定した。
「ちなまぐさい」
淡々と。告げられた言葉の意味を理解するのに数秒掛かった。
レイたちは弾かれたかのように動いた。背中を互いに預けて周囲に向けて武器を向ける。静謐な森の景色が、途端に不穏な空気に包まれる。
冷たい汗が服の下を伝う。心臓の音だけが早鐘のように鳴り、レイは落ち着くためにワザと大きく呼吸する。
「エトネ。その匂いは近いのか?」
レイが短く尋ねると、エトネは不安そうに頷く。そして、ある方角を指差した。
「そっちからレッサーデーモンの匂いがするのか?」
再度、レイが尋ねると、先程と同じにエトネは頷いた。レイたちの間に重苦しい沈黙が立ち込めた。
エトネの嗅覚はこれまで恐ろしいほど正確だった。
血の匂いや、モンスターの体臭、武器の金気などを嗅ぎ取ると、見えない場所で起きている状況を正確に読み取る。エトネの鼻はモンスター同士の戦っている場面や、モンスターの食事シーン。睡眠中のコロニーなどを次々と見つけた。
そんなエトネが血腥いと言ったのだ。
今までになかった表現に全員は緊張した。
「どうするの、主様。これでも進むの? それとも引き返す?」
シアラに問われてレイは唇を噛みしめる。選択の時だった。
仮に進んだとして、エルフの隠れ里なら問題は無い。エトネを里の人間に引き渡せば今抱えている問題は片付く。
でも、これが人間なら? モンスターなら? 自分達と敵対する存在が待ち受けていたら?
戦闘になるのは避けられず、その結果は確実に死だ。《トライ&エラー》で戻った場合、厄介な事にレッサーデーモン戦前に戻されてしまう。
傷の存在を知っている点でレイたちは有利だ。むしろ今回よりも次は上手く戦闘を行えるかもしれない。けど、その前に《トライ&エラー》のイタミが待ち構えている。ステータスダウンというペナルティも起きるかもしれない。
しかし、森を出た場合の方がレイにとって選びたくない選択肢だった。
仮にここで進むのを諦めて、エトネを森に置いてアマツマラに戻った場合。直ぐにロータスの協力を得られれば問題は無い。しかし、そう事が上手く行くとは限らない。ロータスと会うのに時間が掛かれば、そもそもロータスから協力を得られるかどうかも不明だ。……あまり考えたくはないが、ロータスが、いや『紅蓮の旅団』がアマツマラを離れている可能性もある。
その間にエトネが死んでしまったら……悔やんでも悔やみきれない。
(やった後悔とやらない後悔。……選ぶべきなのはどちらの選択か)
どちらを選んでも危険な事には変わらない。しかし、片方は《トライ&エラー》でやり直すチャンスはある。
熟考した結果、レイは選択した。
「進もう」
「……本気ですね、ご主人様」
リザが静かに意思を確認する。レイは頷くと指示を出した。
「これから先、遭遇する相手は敵であれ味方であれ、僕らよりも強い。戦闘は避ける。レティ。僕が合図したら敵に向かって《半球ノ盾》を発動。シアラは追って来られないように、魔法を連発。ただし森の中だから《ファイア》は厳禁。リザは殿をお願い。エトネは僕が掴んで走る。逃走中に脱落しそうになった人を援護してくれ」
三人はレイの指示に頷いた。そして、レイはエトネに向けて視線を向けた。
「道案内を頼みたい。……やってくれるかな?」
しかし、エトネは嫌そうに首を振った。嗅覚だけで遠くの状況を理解できる彼女だからこそ、この先に待っている危険性を正確に理解している。幼い少女の顔が青ざめるどころか、白く血の気が失せる。
レイはエトネの肩に手を当てて、目線を合わせる。
「頼むよ。今回がエルフの隠れ里を見つける最大のチャンスだと思う。……それに何かあっても、絶対に守る。これは約束する」
「やくそく?」
「うん。……指切りって知ってる?」
首を横に振るエトネ。アイナは知っていた事から、土地の違いか、あるいは知らずに育っただけなのか。ともかく、レイは握り拳から小指を立てる。
「僕のせか……国での約束を守る簡単な契約だよ。同じようにしてくれるかな」
エトネはおずおずと、小さな指を立てた。レイは自分の小指と絡ませると歌う。
「ゆーびきーりげんまーん。嘘ついたら針千本のーます。指きった」
言葉の内容に面喰ったように萌黄色の瞳が見開かれる。やや、躊躇った後にエトネは繰り返した。
「……ゆーびきーりげんまーん。うそついたら針千本のーます。指きった?」
「うん。これで約束だ」
一方的な約束だ。エトネが受けるとも受けないとも返す前に、勝手に誓っている。
だけどレイの指切りはエトネの心を揺り動かした。彼女は不承不承ながらも頷くと、一歩、進みだした。彼女の踏み出した道をレイたちは追っていく。
すると、森の雰囲気が急に切り替わった。
乱立する木々も、鳥の囀りも、草花の香りも、注がれる日差しも、何一つ変わっていない。空気だけが違っていた。
まるで見えない水に四肢を絡めとられているかのように、レイは自分の動きが鈍くなっていくのを感じ取っていた。自然と呼吸は荒くなる。いくら酸素を取り込んでも、息苦しさは一向に減らない。
ちらり、と横目でリザ達を伺うと、レイと同じように緊迫した表情を浮かべている。
闘気や殺気の類では無い。
無色透明。それだけに得体の知れない力が森の一角に充満していた。それに全員が気圧されている。レイが今までに出会った強者、『聖騎士』ローランや『銀狼』テオドール、それに六将軍第二席ゲオルギウスからも感じたことの無い類のプレッシャーだった。
レティが不安そうにレイに視線を向けるも、レイはあえて黙殺して進む。
そして、ついに辿りついた。
辿りついてしまった。
圧倒的なまでの鉄錆び臭い血。
緑を塗り替える大量の赤い血。
屍となって転がる怪物達の血。
血、血、血、血、血、血、血。
視界に飛び込んだ、極彩色に脳が痺れる。
どれもこれもレイが見たことも想像したことも無い禍々しき造形をしている。おそらく、上級以上。それどころか、超級モンスターの類だとレイはぼんやりと思った。
息をするのも忘れ、強張った体は逃走を選択できず、その場で動けなくなる。唯一、動かせる眼球が情報を集めようとする。何処も彼処も赤黒い鮮血に染まった森の中で視線を巡らせ―――見つけた。
屍で築いた絨毯の上に人影があった。
一見すると若い男のように見えた。
固く瞑られた瞼は開かず、顔は能面のように無機質ながらも整った造形だ。まるで、氷を削り生み出されたかのような透き通った肌に、赤黒い返り血が着いている。緑色の髪の間から自分の出自を表すように長耳が飛び出している。
まるで枯れ木のような細い体格。身に着けている衣服は和装の着流しのごとく薄い。
男は屍の絨毯に腰かけながら、手に黒色の鞘を握っていた。
レイは直感した。
この男だ。
レッサーデーモンに神業じみた傷を与えたのも。この一帯の死体を生み出したのも、森に広がる無色透明なプレッシャーを広げているのも。
全てこの男だ。
確証は無い。全てはレイの勘でしかない。だけど、間違いないとも確信していた。
彼は反射的に叫ぶ。
「全員、逃げ―――」
言葉は最後まで言えなかった。
―――世界が速度を失う。
最初に感じたのは口が重い、だった。頬が引き攣り、言葉が出せない。
次いで気づいたのは腕の振りの遅さだった。ファルシオンを構えようとしているのに、まるで見えない鎖に縛られているかのように遅々として進まない。
遅れてレイは気づいた。
《生死ノ境》Ⅰが発動していることを。
今まで、幾度となく、レイを助けてきた力。僅か数秒の間だが、生死の狭間にいるレイに行動する時間を与えてくれた力。レイはこの技能を信頼していた。それこそ、《トライ&エラー》以上に信頼している。
それなのに。
(……どういう事だよ!?)
速度を無くした世界で、レイは思考だけを動かした。
違和感は胸元にあった。
ニコラスが作った胸甲が砕けていた。《耐久》の加護は粉微塵になり、金属の欠片が飛び散るのが視界に映る。その中に、自分のと思われる鮮血が舞う。ほぼ同時に、自分が斬られた事を激しい痛覚が教えてくれた。
致命傷だ。
死すらも遅れる世界でレイは確信した。幾度も味わってきた死が、助かる傷かどうかの判断を下す。
間違いなく、技能が切れた瞬間、自分は死ぬ。
問題はどうして死ぬのか。それが分からない。
レイの視界は敵の攻撃を捉えられなかった。影も形も、何一つ分からない。
こんな事は初めてだった。攻撃された事は間違いなのに、それを見る事すら叶わない一撃を浴びた。
じわり、と。
視界が黒くなっていく。死が自分を捕まえに来たのだと、レイは理解した。
そして世界は速度を取り戻す。
「おにいさん! おねえさん!?」
暗闇に意識が落ちていく。取り乱したエトネの声だけが遠くから聞こえた。
★
凍てつくという言葉が生ぬるくなるような吹雪が全身を襲う。開いた目は純白に包まれ、閉じる前に凍り付く。
吸い込む空気が体を中から凍らせる。パキパキ、と手の触れられない場所が凍り付き始めるのを自覚する。
全身が音を立てて、凍り始める。体を揺らせば、肉と氷の狭間が剥がれ、血が流れる。まるで見えない刃に幾度も切られるかのように鮮血は舞い、地面に落ちる前に凍る。透明な氷越しに見ると、紅い華が咲いているようにも見える。
最後には意識が凍る。何かを考える事すらできず、吹雪によって削れていく氷漬けの体を見続けなければいけない。
そして、肉体が再生すれば全てはまた繰り返される。
無限に凍え、削られていく極寒の地。墓標のように紅い華が咲く。
★
「―――ッううううう!!」
シアラは咄嗟に自分の口に指を突っ込んだ。苦痛に身悶えし、歯が軋むほど力を込めてしまう。間違って舌を噛まないように指を噛ませたのだ。
イタミの波が全身を駆け巡る数秒間。ベッドの上から動くことすらままならなかった。ようやく波が収まった頃になって指を抜いた。
てらてらと、唾液で汚れた指の根元に、くっきりと歯形が残っていた。切断されなかっただけマシかと思う。
「これが死に戻りのイタミ……ってやつなのね」
シアラは最後の記憶を辿る。死に戻りの最中のイメージよりも前。死んだ瞬間を思い出そうとしていた。枯れ木のような、病人のような痩せこけた男。緑の髪から飛び出している長耳がエルフだと証明していた。
彼女はあの男を知っていた。三百年前と何一つ変わらない姿を保っていた。そしてその強さも、いささかの衰えを見せていない。何しろ、死んだことを死に戻ってから気づかされた。それだけ、一撃は鋭く、深く、凄まじい物だった。
「でも、やっと見つけた。アイツが居るって事は、あの先にエルフの隠れ里がある」
シアラは確信していた。絶対にあの先にエルフの隠れ里があると。そして自分たちの失策も理解していた。あの男に武器を抜いた状態で遭遇してしまったのが失敗だった。
震える体にむち打ち、隣のベッドに眠っているはずの主の方へと向いた。彼に伝えなくては。急がないとレッサーデーモンがやってきてしまう。
―――しかし。
「……主様?」
レイはベッドの上で苦悶の表情を浮かべたまま、動けないでいた。顔は青白さを通り越して、雪のように白くなりつつある。シアラはあまりにも嫌な予感がして、《ラプラス・オンブル》を発動させる。
途端。
レイの全身をいまにも包もうとする、黒い影を金色黒色の瞳は捉えた。
「主様? 主様、主様、主様ッ!!」
必死の呼びかけに、レイは応じられなかった。
読んで下さって、ありがとうございます。




