第一話「御簾の向こう」
御簾の向こうに、光が差していた。
外廊を渡る誰かの足音。木の床を踏む音は、今日も普段と変わらない速さで遠ざかっていく。君はその音を、ただ数えるように聞いていた。
一、二、三——足音が消える。
また、誰も来なかった。
御簾を上げてはいけない。それが、烏渡の里に生まれた巫女に課せられた、最初の約束だった。理由は誰も説明してくれない。ただ「上げてはならぬ」と、繰り返し言われ続けてきた。
キミは自分の指先を見た。
爪の根元、皮膚のすぐ下に、薄く黒い筋が浮いている。今朝より、また少し伸びていた。
(また、増えた)
誰にも言っていない。言えば、何が起こるか分かっているからだ。
その日の夕刻、里の長老・志波が、御簾の外から声をかけた。
「キミ様。お耳に入れたきことが」
「……何でしょう」
「北の社の結界に、揺らぎが」
キミは顔を上げた。御簾越しに、志波の影がわずかに動くのが見える。
「揺らぎ、ですか」
「はい。長らく眠っていたはずの——あちらの方々が、目を覚まされたご様子で」
あちらの方々。
里では、それを「鬼」とは呼ばない。直接名指すことを避けるための、古い言い回しだった。
「いつから」
「昨夜半より。社の灯りが、ひとつ消えました」
社の灯りは、結界そのものだ。一つ消えるということは、封じが一つ、解けたということ。
キミは膝の上で、自分の指先をもう一度見た。黒い筋が、わずかに脈打ったように見えた。
(——私の中のものと、関係がある?)
「……分かりました。明朝、北の社へ向かいます」
「キミ様お一人では——」
「一人で行きます」
いつもより、強い声が出た。志波の影が、一瞬止まる。
「……承知いたしました。念のため、案内の者をつけさせていただきます」
御簾の外で、足音が一つ増えた気配がした。誰かが、すでにそこに立っていたらしい。
「——颯、で構いませんね」
颯。里の外から流れてきた青年で、烏渡の里では珍しい、外の言葉を使う者だった。志波が連れてきたときから、キミは彼と一度も顔を合わせていない。御簾の外にいる者と、御簾の内にいる者は、基本的に視線を交わすことを許されていないからだ。
「構いません」
キミは答えた。
それが、キミにとって初めて、御簾の外の世界へ足を踏み出す日になることを、まだ誰も知らなかった。
翌朝、夜明け前。
キミは初めて、自分の足で御簾をくぐった。
外廊の床は冷たかった。素足に伝わる木目の感触さえ、初めてのものだった。生まれてから今まで、御簾の内側の畳と、布団の温かさしか知らなかった。
「——おはようございます」
声がした。低く、静かな声。颯だった。
外廊の先に、青年が一人、立っていた。烏渡の里の者にしては珍しく、髪を短く切り、動きやすい筒袖の装束を纏っている。腰には、社の巫女が持つような祓い串ではなく、無骨な鉈のようなものを差していた。
「……颯、ですね」
「はい。北の社まで、ご案内します」
颯はキミの顔を見て、わずかに目を見開いた。それから、すぐに視線を逸らした。
「……何か」
「いえ。——御簾の中の方を、初めて見たので」
その言葉に、特別な感情はなかった。観察するような、ただの事実確認のような響きだった。
キミは、その態度に少しだけ安堵した。
北の社へ続く道は、里の外れにあった。
朝靄の中、社へ向かう小道を二人で進む。颯は半歩前を歩き、時折足を止めて、地面や木々の様子を確かめていた。
「……何を見ているのですか」
「足跡です。——獣のものじゃない足跡が、増えています」
キミは足元を見た。霜の残る土の上に、人のものよりわずかに大きい、爪のある足跡が点々と続いていた。
(——これが、目覚めたという、あちらの方々の)
「キミ様」
颯が、不意に立ち止まった。
「社が見えました」
木々の合間に、古い社の鳥居が見えた。だが——様子がおかしい。
鳥居の周りに、本来あるはずの灯りが、ひとつだけ消えている。残った灯りも、心なしか弱々しく揺れていた。
そして、社の前の地面に——
誰かが、倒れていた。
「——!」
颯が走り出した。キミも後を追う。
倒れていたのは、里の警備にあたる若い男だった。息はある。しかし、両腕に、爪で引っかかれたような傷が幾筋も走っている。傷口の周りの皮膚が、わずかに黒く変色していた。
「これは——」
「鬼に、触れられた痕です」
颯が、傷口を見ながら言った。声に動揺はない。だが、その手は、傷に触れる前に一度止まった。
「……触れても、大丈夫なのですか」
「分かりません。——でも、放っておけば、この人も」
颯が言葉を切った。視線が、傷口から、男の顔へ移る。
男の目が、薄く開いていた。瞳の色が——本来の色ではなかった。黒目の部分に、薄い金色の筋が浮いていた。
キミは、自分の指先を見た。
そこにも、同じ色の筋が、確かに浮いている。
(——同じだ。私の中にあるものと、同じ)
「キミ様、下がってください」
「……いえ」
キミは、男の傍にしゃがみこんだ。颯が止める間もなく、男の手を取る。
触れた瞬間——
頭の中に、声が流れ込んできた。
幾つもの声。古い声。怒り、悲しみ、訴え。言葉にならない感情の塊が、波のようにキミの中に押し寄せた。
「キミ様!」
颯の声が遠くに聞こえる。
キミは、その声の中から、一つだけ——はっきりとした言葉を聞き取った。
「——帰してくれ」
ただ、それだけだった。
キミは、男の手を放した。
声の波は、手を離した瞬間に消えた。だが、その余韻だけが、頭の奥に重く残っていた。
「キミ様、大丈夫ですか」
「……はい。——颯、この人を里へ運べますか」
「一人では無理です。応援を呼びます」
颯が懐から、小さな呼子を取り出して吹いた。鋭い音が、朝靄の中に響く。
その音に応えるように——
社の奥、鳥居をくぐった先の暗がりから、何かが動いた。
キミは、そちらを見た。
暗がりの中に、人の形があった。だが、それは人ではなかった。輪郭が、影のように揺らいでいる。背丈は男よりも一回り大きく、その輪郭の中で、二つの金色の光が、こちらをじっと見ていた。
「——颯」
「……見えています」
颯が、腰の鉈に手をかけた。だが、抜こうとはしなかった。
影は、動かなかった。ただ、金色の光が、キミの方を——正確には、キミの指先を、見ていた。
(——私の中にあるものに、気づいている?)
しばらくの間、影とキミは、見つめ合うような形で動かなかった。
やがて——影は、ゆっくりと後ずさり、社の奥の暗がりへと溶けるように消えていった。
「……行きました」
颯が、息を吐いた。
「キミ様。今のは——」
「分かりません。——でも」
キミは、自分の指先を、もう一度見た。
「私を、見ていました。何かを、確かめるように」
颯は、それ以上何も言わなかった。だが、その表情には、今までになかった種類の警戒が浮かんでいた。
二人は、負傷した男を背負い、里へ戻ることになった。
戻る道中、颯はずっと無言だった。キミも、何も言わなかった。
ただ、里の入り口が見えてきた頃——颯が、ふと足を止めて、こう言った。
「キミ様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「……何でしょう」
「先ほどの——男の手を取ったとき。何か、聞こえましたか」
キミは、一瞬迷った。
御簾の内のことを、外の者に話してはいけない。それも、里の古い約束の一つだった。
だが——
「……『帰してくれ』、と」
颯の足が、完全に止まった。
「それは——誰の声でしたか」
「分かりません。一人の声ではなく——たくさんの声が、重なっていました」
颯は、しばらく黙っていた。それから、低い声で言った。
「キミ様。——その力のことを、長老にお伝えする前に、少しだけ、私にも考える時間をいただけませんか」
「……どうしてですか」
「……いえ。今は、まだ」
颯は、それ以上言わなかった。
ただ、その横顔には——キミがまだ理解できない、何かを知っている者の表情が、確かに浮かんでいた。
里に戻ると、男はすぐに薬師の元へ運ばれた。傷の処置が始まる間、キミと颯は外の縁側で待つことになった。
志波が、奥から急いで現れた。
「キミ様。北の社で何が——」
「灯りが、もう一つ消えていました」
キミは、起きたことを順に話した。負傷した男、影のような鬼、そして——自分の手に浮かんだ金色の筋のことは、まだ伏せたままにした。
志波の顔が、みるみる険しくなった。
「二つ目の灯りが……。これは、想定よりも早い」
「想定、とは」
「……キミ様。これは、まだお伝えするべきではないと思っておりましたが」
志波は、一度、周囲を見渡した。誰もいないことを確かめてから、声を落とす。
「烏渡の里の灯りは、もともと七つございました。一つ消えるごとに、封じの力は弱まります。——そして、七つすべてが消えたとき」
「……何が、起こるのですか」
「里そのものが、あちらの世界と——境を失います」
その言葉に、キミは何も返せなかった。
七つの灯りのうち、二つが、すでに消えている。
(——残り五つ。それが、どのくらいの速さで)
「キミ様。今後は、御簾の外に出ることを、お控えいただきたく」
「……それでは、何も分かりません」
「分かることが、必ずしもキミ様にとって良いことではないのです」
志波の声には、初めて聞く強さがあった。それは、命令というよりも——何かを守ろうとする、必死さに近いものだった。
「……承知しました」
キミは、それ以上は言わなかった。
志波が去ったあと、縁側には、キミと颯だけが残った。
颯は、ずっと黒い筋の浮いた自分の手を見つめていた。それから、ようやく口を開いた。
「キミ様。——一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」
「……何でしょう」
「先ほどの灯り。——七つというのは、本当は違います」
キミは、颯を見た。
「違う、とは」
「俺が、この里に来る前にいた場所で——似たような『封じ』の話を聞いたことがあります。灯りの数は、封じている『鬼』の数と同じはずです。でも」
颯は、一度言葉を切った。
「七つの灯りに対して、社に祀られている『鬼』の名は——八つあります」
キミは、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……一つ、多い、ということですか」
「はい。——もしかしたら、最初から、封じられていない『鬼』が一体いる、ということかもしれません」
「封じられていない……?」
「あるいは——」
颯は、そこで言葉を切った。何かを言おうとして、思い直したように、視線を逸らす。
「……いえ。今は、確証のない話です。すみません」
キミは、それ以上問い詰めなかった。だが、颯の言葉は、夜が更けても、頭の中に残り続けた。
御簾の内に戻り、布団に入っても、眠れなかった。
指先の黒い筋は、今朝よりも、また少し伸びている気がした。
(八つ目の鬼——それは、どこにいるの)
遠くで、社の方角から、風の音に混じって、何かの声が聞こえたような気がした。
「帰してくれ」
あの声と、同じだった。




