婚約者に「君とのキスは、きっと甘い」と囁かれて、砂糖を吐きました(※本当に出ます)
ミレーナ・シュガレイン公爵令嬢には、ひとつ困った体質があった。
甘い言葉を聞くと、口から砂糖が出る。
比喩ではない。
本当に出る。
「ミレーナ。君を見るたびに思う。朝の光は、君に似ているから美しいのだろうね」
「ごふっ」
さらさらさら、と白い砂糖がティーカップの受け皿に降り積もった。
向かいに座る王太子ノエルは、満足げにうなずいた。
「粒が細かいな。上質だ」
「評価しないでくださいませ」
ミレーナはハンカチで口元を押さえた。隣に控える侍女が、慣れた手つきで銀皿を差し出す。
「本日は粒が細かくて、お菓子向きでいらっしゃいます」
「品質確認も不要です」
この体質が発覚したのは、ノエルと婚約したばかりの頃だった。
初めて王宮の庭園で茶を共にした日、ノエルが何気なく言ったのだ。
「君の笑顔を見ると、春が来たような気がする」
その瞬間、ミレーナの口から小さじ一杯分の砂糖が出た。
王宮は大騒ぎになった。
医師も、魔術師も、神官も呼ばれた。
この国では、人の体に少量の魔力が宿ること自体は珍しくない。火を起こしやすい者、水に親和性のある者、植物を育てるのが妙に上手い者。そうした小さな性質は、家系や本人の感情に結びつくことがある。
ミレーナの場合は、甘い言葉に反応して魔力が糖へ変換される。
以上。
治療法はないが、命に別状もない。
ただし、非常に恥ずかしい。
以来、ミレーナは甘い言葉を徹底的に避ける努力をした。褒め言葉は聞こえなかったことにし、恋愛小説は禁書扱いし、舞踏会では天気と音楽の話だけで乗り切ろうとした。
それなのに。
それなのに、である。
婚約者が、国で一番甘い言葉を吐く男だった。
「ミレーナ、君と過ごす一日は短い。君に会えない一日は、やけに長い」
「殿下、どうかお控えくださいませ」
「努力はしている」
「している顔ではございません」
さらさらさら。
砂糖が増えた。
ミレーナは一度、本気で婚約解消を申し出たことがある。
「殿下。私はこのような体質です。王太子妃として問題があるかと」
ノエルは首をかしげた。
「どこが?」
「甘い言葉のたびに砂糖が出るのです」
「うん」
「公務中に出たらどうするのです」
「茶会なら助かる」
「外交の場では」
「我が国の豊かさを示せる」
「議会では」
「和やかになる」
「戦場では」
「兵糧になる」
「なりません!」
思わず声を荒げると、ノエルは不思議そうに瞬いた。
「君の口から砂糖が出ることを、私は少しもおかしいと思わない」
「本当ですか」
「もちろんだ。乳牛は乳を出し、鶏は卵を産む。生き物が何かを生み出すのは自然なことだ」
「殿下」
「うん」
「慰め方が最悪です」
ノエルは、少しだけ考え込んだ。
「すまない。では言い直そう」
「お願いいたします」
「君は牛や鶏よりもずっと美しい」
「比較対象を変えてくださいませ」
「難しいな」
「難しくありません」
「いや、私が間違えていた。君の美しさを何かと比べること自体が難しい。君は君だから美しい」
「――っ」
さらさら、とまた砂糖が落ちた。
ノエルの目が少しだけ嬉しそうに細まる。
「やはり、私の言葉は君の心に届いているのだな」
「そういう解釈をしないでくださいませ」
「違うのか?」
「……違わないのが悔しいのです」
さらに砂糖が落ちた。
ノエルは楽しげではあったが、ミレーナを馬鹿にしたことは一度もなかった。
ある夜会の席で、隣国の貴公子が近づいてきた。
金髪に青い瞳の、いかにも令嬢たちが騒ぎそうな美しい青年だった。以前からミレーナに関心を寄せていたらしく、王太子が少し離れた隙を狙ったように声をかけてくる。
「シュガレイン嬢。噂は聞いております」
「噂、でございますか」
「甘い言葉に反応されるとか。ならば、私にも少しは機会があるのではないかと思いまして」
声は穏やかだった。
けれど、その目には、どこか試すような色があった。
「あなたは月より美しい。星よりも輝かしい。今宵の広間で、誰よりも愛らしい」
何も出なかった。
しん、と空気が止まる。
貴公子の顔が引きつった。
「……出ない?」
そのとき、背後から低い声が落ちた。
「決まっているだろう」
ノエルだった。
「どんな甘言でも、ミレーナの心に届かない言葉は、甘くない」
静かにミレーナの隣に立つ。
「ミレーナ。君が嫌なら、私が退ける。君が傷つくなら、私が守る。だが私は、君のすべてを愛おしいと思っている」
胸の奥が熱くなった。
ミレーナは口元を押さえる。
さらさらさら。
今までで一番細かく白い砂糖が、静かに降り積もった。
ノエルはそれを見て、隠しきれない喜びを瞳に浮かべた。
「出たな」
「出ました……」
「嬉しい」
「そこは、よかった、くらいに抑えてくださいませ」
「無理だ。私の言葉だけが君を甘くするなら、私はかなり嬉しい」
「そういうところです」
さらに砂糖が落ちる。
周囲の令嬢たちがざわめいた。
「本当に愛されると出るのね」
「殿下は本当にミレーナ様を愛していらっしゃるのね」
「いけないわ。見ているこちらが砂糖を吐きそう」
ミレーナは恥ずかしさのあまり、その場から消えたくなった。
けれど、ノエルは堂々としていた。
「皆に誤解のないよう言っておく。彼女は砂糖を出すから価値があるのではない。私が彼女を愛しているから、たまたま砂糖が出るだけだ」
「殿下」
「そして、この砂糖は彼女のものだ。本人の許可なく菓子に使うことは許さない」
「そこも宣言なさるのですね」
「大事なことだ。君のものを、勝手に誰かへ渡したくない」
「……そういう言い方をなさるから」
さらさらさら。
また増えた。
その日から、ミレーナの体質を面白半分に試そうとする者はいなくなった。
ただし、王宮には新しい制度ができた。
王太子による甘言は一日三回まで。
公務中は禁止。
外交儀礼の場では事前申請制。
砂糖が出た場合は、本人の許可なく使用してはならない。
ただし、これはあくまで努力義務であり、明確な罰則はない。
ミレーナはその通達を見て、額を押さえた。
「罰則がないのでは意味がないのでは?」
「そうだな」
ノエルは真面目に答える。
「私は放っておくと制限を守れない」
「自覚がおありなら抑えてくださいませ」
「努力はしている。だが、君があまりに素敵な女性だから、言葉がこぼれてしまう」
さらさら。
ミレーナは無言で銀皿を見た。
「……殿下」
「うん」
「今ので本日二回目です」
沈黙が落ちる。
やがてノエルが、少しだけ身を寄せた。
耳元へ落とすように、そっと囁く。
「ミレーナ」
「はい」
「君とのキスは、きっと甘いのだろうね」
「――っ」
ざああああ、と音を立てて砂糖があふれた。
銀皿からこぼれ、テーブルクロスの上に白い山ができる。
「やめてくださいませ!」
「まだ三回目だ」
「回数の問題ではありません!」
顔が熱い。
逃げ場がない。
ノエルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「では、今夜、確かめても?」
「確かめなくて結構です!」
その夜、王宮ではさらに追加の通達が出された。
王太子と婚約者の接触距離について、暫定的に三歩以上を推奨する。
なお、これはあくまで推奨である。
罰則はない。
翌日、王太子の寝室から角砂糖が大量に発見された。
侍従長は眉間を押さえ、医師団は真剣に記録を取り、菓子職人たちはそっと計量器を用意した。
ミレーナは真っ赤な顔で何も語らず、ノエルはただ一言だけ答えた。
「甘かった」
詳細は、公式には発表されていない。




