大陸南西の農村にて:1
体がどうしようもなく重い。疲れているわけでもないのに剣の支え無しには歩けない。
原因は解りきっているほどに解っている。
咽せ返るような血の臭い。
吐き気を催す腐った肉の臭い。
床も壁も天井もなく視界を犯す赤い血の色。
道の至る所に無造作に放置され薄ら黒く変色した人骨。
かつて魔王に滅ぼされ、そのまま支配された大陸中央の大国の廃城内。その全てに満ちる死の気配が勇者の精神を犯していく。その凄惨さは聞こえるはずのない犠牲者の悲鳴まで聞こえてくるほどだ。
喉の奥から込み上げる嘔吐感に負け、既に黄色い液体だけになった吐寫物を床にぶちまけながら、それでも前へ歩き続ける。
全ては成すべき使命のために?
いいや、それはきっと違う。違っていて欲しい。
肩を預け、寄りかかるように玉座の間への扉を押し開ける。軋む音を引き連れて足を踏み入れた先に、それはいた。
血の赤、空の青、草の緑、大地の黄。生命を宿す全ての色彩の悉くを否定するような、全身が白と黒の怪人。世界を滅ぼそうとする悪しき者たちの王が、玉座からこちらを見下ろしていた。
「……ふむ、成程。ここまで一人でやってくるというから何者かと思えば、やはりそういうことか」
漆黒の瞳でこちらを射抜きながら、口元を手で抑えて笑いを漏らす。何を思っているのかは想像がついても、何で笑っているのかは理解できない。僕はそこに立ち尽くす。
ひとしきり笑った後、魔王は小さく息をついて立ち上がった。玉座の横に掛けてあった剣を抜き、ぞんざいに鞘を投げ捨てる。
「だがまぁ、試させて貰うぞ勇者。お前が正しく勇者であるなら、私は容易く討ち果たして見せろ」
からからと剣先をならしながら玉座を降り、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「これで最期だ。精々愉快に踊ろう」
剣の間合いから数歩分を残して足を止め、ゆっくりと上げられた剣の切っ先が僕を捕らえた。
止まず込み上げてくる吐き気を無理矢理飲み下す。そして僕は、剣を握った両手を上げ――。
「いつまで寝てるんだよ!」
怒号。それと、頭部を引っぱたかれる小気味のいい音で目が覚めた。欠伸をしながら目元を擦り、目の前にいた少年に手を上げる。
「やぁ、おはよう」
「おはようって言われてももうお早くないんだよ! あんたを起こした時に『すぐ行くから先言ってて』って言われてから顔を洗って朝食とって、遅いなーと思いながらも父ちゃんの仕事の手伝い始めて、苛立ちを超えて何かあったんじゃないかって心配になって様子を見に来るくらい時間が経ってるんだよ! それが何で二度寝だ! 謝れ! 無駄な心配した俺に謝れ!」
「ごめんごめん。でもさぁ」
「でも?」
首元を両手で掴まれながらも、ゆっくりと窓に目を向ける。窓枠から飛び込んでくるのは、抜けるような空の青さと慎ましい小鳥の囀り。青々茂る草木の香りだ。
自然の気配を胸いっぱいに吸い込み、笑って少年に目を向ける。
「窓から差し込む陽射があんまり気持ちよかったから」
側頭部に青筋を立てて歯軋りをする少年の右手が上がり、再びすぱこーんと小気味のいい音が響いた。