47話 真意
「お母さん……僕の命を狙ってるの?」
囁くように、でも確かに聞こえるように。
抱き合ったまま、俺はその言葉を母親の耳元に滑り込ませた。
母親の体がぴくりと揺れる。
「……なに、言ってるの?」
少し遅れて返ってきた声には、明確な動揺が混ざっていた。
俺は少し顔を離し、母親の目を真っすぐに見つめた。わざと目を潤ませて。
「今日ね、刑事さんが学校に来たんだ」
「刑事……?」
俺はあえて「嘘」をついた。
今度は明確に驚いた顔だ。ここまでは想定通り。
「何かあったら大人を信じるなって……そう言われた。特に、家族には注意しろって」
俺の声は震えていた。もちろん演技だ。
だが、俺の目の前にいる“母親”は、それをどう受け取るか。
「アキラ……誰? その刑事って……」
一瞬、顔が青ざめた気がした。心なしか腕の力も緩んでいる。
動揺してる。間違いない。
だけど次の瞬間、母親はふっと目を伏せ、そして……もう一度俺をぎゅっと抱き締めた。
「――大丈夫」
今度の声は、さっきまでの動揺を消し去ったような、静かな力がこもっていた。
「アキラ、なにがあっても……お母さんがあなたを守るから」
その言葉は、まるで誓いのようだった。
俺の中で何かが引っかかる。演技じゃない。少なくとも、そう“感じる”。
(……なんだこれ)
この人は……嘘をついていないのか?
でもおかしい。
仮に“味方”だったとしても、何かひっかかる。
疑念と、微かな安堵。
その間で、俺の感情が揺れる。
(信じていいのか……? いや、駄目だ。ここで緩んだら終わりだ)
心の中でブレーキをかける。
信じたい感情を、自分で冷たく押し込めた。
「……でも、どうしてお母さんがそんなに必死なの? 僕、何か隠されてるのかなって思って……」
俺はあえて、不安そうな声を出した。
子供らしい混乱。疑いと恐れ。それを演出するのは、今の俺にとって当然の手筋だ。
母親は静かに目を閉じ、しばらく黙っていた。
その沈黙の間に、何を考えているのか、読み取るのは難しい。
だが、やがて母親はぽつりと呟いた。
「本当のことは……全部言えないの。でも、これだけは信じて。アキラは、私にとって……守るって決めた、大切な子なの」
(決めた? やっぱり最初は違ったってことか?)
疑念がさらに一段深まる。
だが、母親の目には偽りが見えなかった。
この瞬間だけは、本気でそう思っている。それは確かだった。
(……本心。少なくとも“今”は、か)
でも、“今”だけの本心に価値があるのか?
今は守ろうとしていても、明日には組織に屈するかもしれない。
情に流される人間は、守ることも、殺すことも、簡単に変える。
俺はそれを、前世で知っている。
「ありがとう、お母さん」
小さな声で、感謝の言葉を返す。
嘘ではない。少しだけ、本当にそう思った。
だけど。
(信じるな、俺。どれだけ優しくされても、何を言われても、“信じ切るな”)
心の奥で、冷静に自分を戒める。
疑いを捨てずに、状況を見極めろ。
そして、利用できるものはすべて利用しろ。
(母親とは……しばらく共存してやる)
敵か味方か――それはまだ決めつけられない。
だが、少なくとも今この瞬間は、俺が“勝っている”。
俺はわずかに笑みを浮かべながら、母親の腕の中に身体を預けた。
母親の腕からそっと抜け出したのは、それからしばらく経ってからだった。
「ごめんね、ちょっと……トイレ行ってくる」
俺がそう言うと、母親はまだ涙の跡を残した顔で優しく頷いた。
その表情に、演技の気配はなかった。むしろ、あまりにも素直すぎて、逆に怖い。
背中を向け、ゆっくりと廊下を歩く。
無防備な背中を見せることに一抹の不安を覚える自分に、思わず苦笑が漏れた。
(どこまで疑えば、満足できるんだろうな、俺は)
扉を閉め、ひとりになると、深く呼吸をした。
感情を切り替えるスイッチのように、冷静な自分が戻ってくる。
トイレから戻り、数十分後。
「ごはんできたよー!」という母親の明るい声が、階下から響いた。
まるで何もなかったかのような、軽やかな声。
あの涙を流した人間と、同じとは思えない。
(……これが、母親ってやつか)
階段を下りると、ダイニングテーブルにはいつもより少し豪華な料理が並べられていた。
ハンバーグ、ポテトサラダ、ほうれん草のおひたしに味噌汁。
「いっぱい食べてね、アキラ」
母親は柔らかく笑っていた。
「……うん、いただきます」
手を合わせて言うと、母親も同じように手を合わせる。
並んで座ったその距離が、今は遠くもあり、近くも感じられる。
一口目のハンバーグを口に運ぶ。
味は、いつも通り――いや、ほんの少しだけ、濃い気がした。
(……毒じゃないよな)
そんなことを一瞬考えてしまう自分に苦笑しながら、味噌汁をすする。
「今日、疲れたでしょ? 刑事さんのこと……驚いたよね。ごめんね、怖かったよね」
母親は俺を気遣うように話しかけてくる。
でもその言葉の一つ一つが、俺には“確認”に聞こえた。
(俺がどこまで知ってるか、探ってる? ……それとも、ただの心配?)
わからない。
だからこそ、俺は“最高の子供”を演じ続けるしかない。
「ううん、大丈夫。お母さんが守ってくれるって言ってくれたから……ちょっと安心した」
母親はその言葉に、目を細めて微笑んだ。
その笑顔が本物なら――どれだけ楽だろうと思った。
でも、それは願いであって、判断じゃない。
(この食卓も、今日だけかもしれない。明日は、牙を剥いてくるかもしれない)
それでも、俺は食べる。話す。笑う。
演じる。
(どこまでも、“子供”として)
ご飯を食べ終え、食後の食器を洗う母親の背中を見つめながら、自室へ戻った。
――ここまでは予定通り。
母親は懸命に「守る親」を演じていた。あるいは本気でそう思っているのかもしれない。
だが、問題はそこじゃない。
(……父親だ)
ガソリン。
なんらかの計画で火事を想定して動くべきだ。
ふと、自分が火に包まれる光景が脳裏をよぎる。
母親がそれを止めようとするが間に合わず、崩れ落ちる――そんな悪夢じみた想像。
いや、そもそも。
(母親が守るって、どういう形を想定してる?)
かばって庇う? 逃がす? それとも、父親を裏切って俺を連れて逃げる?
だとしたら、それは本当に“守る”なのか。
俺を安全圏に置くつもりなら、もっと早い段階で何かしら行動があるべきだった。
けれど、彼女は沈黙していた。見て見ぬふりをしてきた。
つまり――今の“守る”は、罪悪感からの願望であって、実行の意思とは限らない。
(そして、裏切り)
母親が、俺を裏切る場合のシナリオも当然ある。
一番怖いのは、あの涙もあの優しさも“父親の計画の一部”だった場合。
それこそ、「アキラはもう騙せる状態じゃない」と判断され、罠に誘導されているのかもしれない。
夕食に毒はなかった。
だが、明日かもしれない。父親と話している間に、計画は進行している可能性もある。
――俺は常に一手、二手、先を読まなきゃならない。
やられる前に、相手の動きを読む。
感情を信じるな。表情に惑わされるな。
少しの迷いが、命取りになる。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
この家にいる限り、安心なんて存在しない。
母親の優しささえ、毒にも薬にもなる。
(……それでも、)
少しだけ、あの涙を信じたいと思ってしまった自分を、どこかで叱るように呟いた。
「……甘いな、俺」
枕に顔をうずめ、目を閉じる。
頭の中で、幾つものシナリオを並べる。
父親が暴走する場合。母親が裏切る場合。俺を逃がそうとする場合。
母親が本気で戦う場合。あるいは、第三者が動く場合――刑事、あるいは……死神。
あらゆる可能性に備え、冷静に、慎重に。
(負けるわけにはいかない)
そう心の中で繰り返しながら、思考の波がゆっくりと遠ざかっていく。
微かに軋む床の音と、時計の針の音が、現実と夢の境界を曖昧にする。
俺は目を閉じたまま、戦場の真ん中で眠りについた。
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