ep.3 凪之国(1)
森を歩き続けたこと、二刻と少し。
朝食もすっかり消化されて小腹が空いてきた頃、藪を抜けると視界が急に開けた。
森との境から、踏み固められた人道が始まる。
まっすぐに伸びた道の両脇には獣除けの木杭が並び、その先に閉じられた門が待ち構えていた。その両側には、一人ずつ門衛が立っている。
いずれも肩当てと胸当てを身につけ、揃いの武装と、紋章が刻印された腕章を装着している。軍属であることが、一目で分かるいでたちだ。
「止まれ!」
若い門衛の鋭い声が響いた。
黄土色の袋を背負った幼い少年と、仮面の男の二人連れ――森から現れた異様な組み合わせに、警戒を露にしている。
腰の武器に手を添えて、こちらに接近しようとする若い門衛を、
「おい、待て、その方は」
年長の門衛が手で制し、前に出る。
「失礼しました」と藍鬼へ礼を向ける年長者に、若い門衛は戸惑いつつも従った。
「森で保護した。都まで送り届けたい」
「迷子ですかな。承知しました。では中へ」
「開門だ」と年長者の指示を受けた若者は急ぎ門前へ戻り、中へ声をかける。
すると、大人の背の三倍はあろうかという木の門が、きしみ音を立てながら外側に開かれた。
「うわあ……」
門の内側に広がる光景に、青は呆けた声を漏らした。
草深く鬱蒼とした森を抜け出たばかりだというのに、そこにあるのはまるで箱庭のような村の風景。石垣で囲まれて、東西南北に門が設けられた小さな集落。
田畑が石の道で区分けされ、小さな藁葺き屋根の家屋が点在している。小さい、だが人の手が行き届いた村だ。
「行くぞ」
「う、うん」
先を行く藍鬼の後を追い、青も村の中へ足を踏み入れる。門の内側にも門衛が控えており、通り過ぎる藍鬼を目で追っていた。
村の入口は広場になっていて、小さな平屋の店が一軒、青たちを出迎えるように建っている。
「おや、どうしたんです、センセイ。子連れとは珍しい」
店の軒先を掃除していた初老の男が、藍鬼と青の存在に気づいて破顔した。
「迷子を拾った」
「おやおや」
「青。そこで少し待っていろ」
藍鬼は店の軒先に置かれた竹の長椅子を指し示し、早足で村の奥へ向かっていった。
「こ、こんにちは……」
店主にぎこちなく挨拶し、言われるままに長椅子へ腰を下ろす。
喉の渇きを覚え、腰にぶらさげた水筒を手に取った。
「大変だったね。でも、運が良かったよ。拾ってくれたのが、あのセンセイで」
「あらあら、センセイのお連れかい?」
店の奥から、初老の女も顔を出す。店の主人夫婦なのだろう。
「何か食べるかい?」
青の返事を聞く前に、女は店の奥へ戻り、団子を載せた皿を持って再び姿を現した。
よそ者の子どもが珍しいのか、次々と村人が愛想よく集まってくる。農民が多いようで、中には農具を手にしたままの者もいた。
麻の上っ張りを腰紐で締めただけの質素な装いながら、貧しさは感じられず、どの顔も穏やかだった。
「センセイって?」
村人たちは口々に藍鬼を「センセイ」と呼んでいる。
青の知る「センセイ」とは、学校の先生のことだが――。
「よく薬を作ってくれたり、ケガや病気を看てくれるのよ。だから、みんなしてセンセイって呼んでるのさ」
「ここいらの森は、薬の材料になる珍しい植物が豊富なんだけど、毒花や毒虫もいるもんだからね。センセイがよく材料を採りに来るついでに、お薬や解毒剤を置いていってくれるんだ。すごく助かってるよ」
気がつけば一人、また一人と村人が輪に加わる。
どの顔にも、藍鬼への敬いと感謝がにじんでいた。
「何の騒ぎだ」
村の入口に戻ってきた藍鬼に気づいて、村人たちは慌てて道を開ける。
長椅子に座る青は、ちょうど団子を頬張っている最中だった。
「準備ができた。それを食ったら行くぞ」
「まあまあ、センセイ。ボウズ、ゆっくりお食べよ」
青が団子を食べている間が好機とばかりに、村人たちは藍鬼を囲む。
もらった薬がよく効いた、ケガの手当のおかげで今はすっかり元気だ、など――感謝の言葉が飛ぶ。
対して、藍鬼は黒い仮面の下から小声で「そうか」と小さく繰り返すばかり。
それでも村人たちは「センセイ」のそんな愛想のカケラもない態度や、そもそも恐ろしげな仮面を気にする様子もない。
一方で――。
村人たちの輪の外、門衛や駐屯兵らしき武装姿の者たちの、藍鬼に向ける眼差しは異なる色をしていた。
何か忌まわしいものから距離を取ろうとしているような、だが、無礼をはたらくわけでもない。
それが「畏怖」であると青が知るのは、もっと後のことだ。
「お団子、ありがとう!」
「あいよ。元気でな」
団子を食べ終え、青と藍鬼は村の中心を貫くまっすぐな道を歩き出す。入口の広場を抜け、田畑の合間を進むうちに、青は落ち着きなく左右の景色へと好奇心を撒き散らした。
茅葺や藁葺の民家や、石造りの蔵が並ぶ中、所々で薄水色の社を見かける。田畑の一角や池の中州にも、小さな社と祠の組み合わせが点在していた。
藍鬼によれば、「凪之国を最初に創り上げた神とその守護神」が祀られているらしい。
学校では、そうした国の成り立ちや神話を学ぶ機会があるという。また一つ、学校へ通う楽しみが増えた。
やがて、村の奥に設けられた小さな堂の前にたどり着く。
そこにも、警備兵が数名、控えていた。
「これは……何?」
兵が堂の扉を開けると、室内は藍鬼の小屋とは真逆で、調度品ひとつないがらんどうだった。
ただ、床に何かの模様が刻まれている。
「転送陣だ。転送術を使って、同じ陣を設けた場所へ身を移すことができる」
「そっか! だから、陣守の村っていうんだ」
納得する青の横で、藍鬼が兵の一人に「頼む」と声をかける。
兵は「では」と短く応え、床の模様の前へと進む。
二言、三言、呪文らしき言葉を呟きながら手を触れると、薄暗い堂内で模様が仄かに発光し始めた。
「どうぞ」
促され、藍鬼が陣の上に立つ。倣って、青も横に並んだ。
見計らい、兵が「転!」と一声あげた瞬間――
「……う」
床の模様が輝きを増し、視界が白く弾けた。
光の洪水に飲み込まれ、まるで床が消えたような感覚に、頭がくらりと揺れる。
たまらず青は固く目を瞑り、手探りで藍鬼の袖を掴んだ。