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ep. 60 鬚(ひげ)(2)

 見晴台みはらしだいを後にし、一行は岩山の深奥しんおうへと誘われた。


 先頭を、砂子いさご黒鉄くろがねの手を支えにしながら進む。

 その隣に並ぶ貂奎ちょうけいは軽い足取りで、岩の不規則な凹凸をものともしない。

 豺狼さいろうとホタルはその後ろに続き、最後尾をサイカが固めるように歩いた。


 案内された空間は、風哭谷村かぜなきだにむらの素朴さに不似合いな緊張が支配していた。


 岩を削り出した回廊を進む区画ごとに門衛が立っている。律盟衆りつめいしゅうの黒装束に身を包み、通り過ぎる一行に恭しく会釈を向けた。


 不規則に折れ曲がる回廊を進むうち、足音の反響が硬質になる。岩肌が乾いた砂色から徐々に、夜明けの空を溶かし込んだような蒼い鉱脈を帯び始めた。


 四人目の門衛が守る最後の扉を潜る向こうは、広くはないが一分の隙もなく磨き上げられた石室いしむろだ。

 冷たく清浄な気が満ち、音が吸い込まれる静寂の中、中央に一体の石板が横たわっている。


「これ、転送陣?」

 一目見るなり、ホタルが反射的に声を漏らした。


 長衣の裾を静かに揺らし、砂子がゆっくりと振り返る。

「こちらでは『渡門わたりのもん』と呼びますのじゃ。そなたたち東方の術を、写したものでな」


「ますます、法軍のようだわ」

 頷きながら、ホタルの視線は石板に釘付けだった。身を屈め、磨かれた板面に刻まれた文字や幾何学紋様に目を凝らす。


「さきほど砂子殿が『麒麟路を抜けてきた』と仰っていたのは、地脈のことかしら」

「しょの通り。ワレはこの門を通り、里からここへ抜けてきたのだ」


 ホタルの独り言を、貂奎が拾った。

 ひらりと振った前脚(手)の肉球に、ミツキに刻まれたものと同じ鱗の紋様が淡く浮かび上がっている。


「砂子殿は元々、優秀な『ギシ』でしてな。各所での渡門の開通に尽力しゃれたのだ。ギは技、シは師匠の師である場合と、使いの使である場合がある。くしゅ師(薬師)、鍛治師、罠師、毒使い、獣使い、などが分かりやすい例であろうか」


「我が国における技能師ですね。そしてさながらこの村は、律盟衆にとっての陣守村といったところでしょうか」

 豺狼の補足に、貂奎は鬚を揺らして目を細める。

ひしゅい(翡翠)ほうに東のくにの公館が置かれたという話でしたな」


 貂奎は「いやはや」と、どこか自嘲するように小さくかぶりを振る。


「ワレらはこしょこしょ(こそこそ)と陰に動くが精一杯というのに。お客人たちは国交という表の道をもって、堂々と路を拓く。見事なまつりごとのご手腕」


 そこで貂奎は、はっと我に返ったように言葉を切った。


「話がだいぶしょ()れましたな。さて。なぜこれをお客人にお見しぇしたかというと」


 と、改まる。

 それまでの飄々《ひょうひょう》とした空気が霧散し、ぴんと張っていた自慢のひげが、力なく垂れ下がっていた。


「正直に申し上げましゅと、『シユウしゃま』がどうなってしまったのか、ワレにも、誰にも分からんのでしゅ」

「え……」

 豺狼の喉から、声にならない音が漏れた。


 貂奎が語るには、青は涅麟くりんがミツキを里へ召すために発動させた渡術わたりのじゅつ――転送術に巻き込まれたのだという。


 意味を解した瞬間、豺狼とホタルの貌から血の気が引いた。


 渡術が、地脈を介した神通祖国の転送術と同じ術理であるならば、転送術の失敗は、対象者が地脈の亜空に囚われるか、最悪の場合、その存在ごと消滅する可能性をはらんでいることを意味する。


「そんな――」

 声を荒げかけた豺狼を、イタチの小さな手が止めた。


「まあ聞いてくだしゃいな。ミツキを診たところ、鬚を発現していたようでしゅので、少なくとも『シユウしゃま』の身は護られているはじゅ」


「「ヒゲ?」」

 豺狼とホタルの声が、ぴたりと重なった。


「そう、ヒゲ。黒い紐のようなものを、見ましぇんでしたかい」

「おぉ……結鬚たまのおを」

 砂子が、まるで吉兆の訪れを寿(ことほ)ぐかのように感嘆の息を漏らし、皺深い手を長衣の両袖の中でそっと擦り合わせた。


「当て字ではありますが、鬚を結ぶ、と書きます」

 と、サイカが説明を継ぐ。

「伴侶やつがい、半身と認めた者など、()が守護対象と定めた相手を己の鬚で結ぶ――いわば、霊による親愛の証」


「しょのとおり」と、貂奎は自らの鼻先から伸びる見事な鬚を、小さな手のひらで自慢げに揺らしてみせた。


「鬚は霊や神獣、幻獣……あらゆる高次元なししにとって、霊力を送り、気を汲み、満ちる力を制御しゅるためのもの。魂の一部であり、力の源泉であり、弁でもあり、管でもある。そんな大事な部位を捧げるわけでしゅから、しょ()の神聖しゃ()、尊しゃ()がお分かりいただけましゅかい」


「ミツキの懐きようを見れば納得はできます。結果、シユウ一師はどうなったのでしょう」

 豺狼の心を占める友の安否、その問いに砂子がゆっくりと口を開いた。


「ミツキが涅麟様によって里へ渡る間際に、結鬚でシユウ殿をとらえようとしたことで、術に巻き込まれてしもうた。ところが、シユウ殿は里への通行証を身に宿していなかったために弾かれ、異なる地脈に流されてしまったものと」


 砂子は一度、息をついた。


「結鬚の守護があれば、地脈の奔流に身を滅される心配は無用でしょう。いずこかの渡門わたりのもんを潜って転移しているはず」


「……そういえば」

 豺狼の記憶が、青から聞いた昔話を掬い上げた。


 まだ新米毒術師の青が保健士を務めていた頃の任務中、妖魔の攻撃を受けて生徒とともに見当違いの地へと転移してしまったという体験談だ。


 まれではあるものの、起こり得ない事故でもない。


「どこへ飛ばされたのか、見当はつくのですか」

「うーむ……渡門の設置場所を一つ一つあたってみるしか、思いつきませぬなぁ……」


 明快さを欠いた砂子と貂奎の反応が、一度は安堵に傾きかけた豺狼の心に不安の影を落とした。


「神通祖国の転送陣の場合は、国ごとの距離限界があるから、おおよその範囲は絞れるのだけど。律盟衆の『渡門』の場合はどうなのかしら?」


 と、ホタルの問いは淡々としたものだ。


「わしらの渡門も、基本は同じ。この谷から里へ渡るにも、いくつかの門を経由せねばならん。じゃが、涅麟様の御業みわざとなれば、その限りではない。獣の頂点たる麒麟の霊力に巻き込まれたとなれば、果たしてどこまで飛ばされてしまったか……」


 砂子はそう言うと、まるで己の無力を詫びるかのように、小さな肩をいっそう丸くした。


「……いや、そこは、どうぞご心配に及ばず」

 豺狼は寸時の沈黙のあと、居たたまれなさも手伝って口を開く。


「シユウ一師は単独での隠密行動に長じ、ああ見えても、なかなかの猛者。時間はかかっても、我々との合流が可能な地を目指して歩みを進めるでしょう」


「いちばんの問題は『どこ』に飛ばされたか、なのですじゃ」


 砂子が語るに、律盟衆が築いた転送陣は、必ずしも風哭谷村のように陣守村然とした場所に設けられているわけではないという。

 辺境、危険地帯、そして――


「中にはワレら律盟衆が異端視、敵視しゃ()れる土地も、含まれているのだ」


 貂奎の太くしなやかな尾が、硬い岩の床を一度、強く打ち据える。


「じゃんねんながら、まだまだワレらを『禍鬼まがき』だの『黒い邪鬼』などと呼んで忌み嫌う者が少なくない。そんな土地柄の場所に飛ばしゃれたとしたら……あらぬ誤解をしゃれて、追われる身となるやもしれましぇんなぁ」


 どこか他人事のようにも聞こえるその懸念が、遥か西、玄武げんぶの地で現実のものとなろうとしていることなど、石室に集う面々の知る由もなかった。


「なる、ほど」

 豺狼は吐きかけた溜め息を、噛み砕く。


「……それほどに律盟衆に敵対する勢力が、存在しているのですか」

 律盟衆を見極める――凪之国、法軍上士としての使命が、ただちに豺狼を私情の渦から引き上げた。


 貂奎は眉間から鼻筋にかけて、くしゃりとしわを寄せて、白く小さい牙をちらつかせる。


「ワレらは、敵対しゅるつもりは毛頭ない。古くしゃく(くさく)て頭でっかちな連中が、勝手にワレらに牙を剥いてくるだけだ」

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