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ep. 58 降臨(4)

「おお、まさかこの目で見られる日が来ようとは」

 囁きは瞬く間に広がり、何が起きたのかを理解した年寄りたちは、おそれとうやまいの念からその場に深く膝をつく。


 事情の分からぬ子供たちだけが、ぽかんと口を開けたまま、縁台の上に現れた神獣を見上げていた。


「黒い麒麟……まさか」

 豺狼さいろうせいは、視線を交わした。


 麒麟。

 全てのししの頂点に君臨する力を持つと伝わる、最高位の神獣。


――同胤どういんの神威を追って路を辿って来てみれば……なんとおぼこい子


 それは空気を響かせる声ではなく、頭に響くこえだった。

 男のようでも、女のようでも、言葉のない風のようでもある。


「これが、麒麟の声……?」

 青はまぶたに走る痛みに顔をひそめた。

 音波がこめかみを突き抜けて、鼻腔から額にかけて反響しているような感覚だ。


 やがて獣の漆黒の身体が、陽光の下でゆらりと揺らめく。

 輪郭が墨のような光の粒子に解け、踊り、再び収束していった。


 獣の形が消えたそこに立っていたのは、一人の女だった。


 背丈よりも長く、夜の河のように流れる黒髪。

 人の感情を映さぬ、磨き上げた黒曜石のごとき双眸そうぼう

 その身にまとうのは、夜のとばりそのものを織り上げたかのような黒衣で、地へと垂れ下がる長い袖や裾は風もないのに揺れ、長い袖に手は隠れて足元もおぼろげだ。


 年の頃は青や豺狼と変わらぬほどに見えるのに、その瞳の奥には悠久を映す深淵が広がっていた。


「あれ、実体じゃないわね」

 背中側から聞こえるホタルの声。

 言う通り、その輪郭は陽炎のように僅かに揺らぎ、谷を吹き抜ける風に黒衣の裾が透けている。


 女のくりの瞳が、ミツキへと向けられた。


「お、お姉さんは、どちらさまですか?」

 ミツキが、怯えて青の腰にしがみつきながら問いかける。


 女の深淵の瞳が、わずかに微笑んだように細められた。

 その場に傅くサイカやルイトには、答えが分かっているようだ。


――そなたといんを同じくするもの


 女の長い黒衣の袖が、ゆっくりと持ち上がる。

 すると袖口の闇から、影でできた一羽の黒蝶がふわりと生まれ出た。


 闇色の蝶は音もなく宙を舞いミツキの元へとたどり着くと、青の衣服を握る小さな左手の甲に、とまった。その直後に蝶の影が、皮膚に溶け込むように貼り付く。


「ひゃっ……」

 驚いたミツキは慌てて左手を振り回し、右手でも擦ってみる。が、蝶は手の甲に居座り続けた。


「シユウ様、ちょうちょ、とれないっ」

 虫を怖がる子どものように左手を振りながら、ミツキの助けを求める瞳が青を向く。


 青はミツキの左手をとる。刺青いれずみのように黒い紋様が白い皮膚に沈殿していた。蝶かと思われたそれは、鱗の形状をしている。


 この意味を問おうと青が顔を上げると、深淵の瞳はミツキを見据えたまま、舞の一差しのごとく黒い袖先が持ち上がり、北の空を示した。谷を縁取る藍色の稜線の影絵に、不動の北星が澄んだ光を放っている。


「北へ……?」


 黒い袖が、ゆるりと揺れた。すると、女の長く艶やかな黒髪、夜の闇を織り上げた黒衣の輪郭が、黒い光の粒となって、ほろほろと風に溶け始める。砂地を撫でる夜風に乗り、光の塵が舞い上がった。


 それと同時に、青の腰にしがみついていたミツキの小さな体も、その輪郭が仄かに光を放ち始める。女の姿が闇の粒子へと還っていくのに呼応するように、ミツキの体もまた少しずつ透けていく。


「な、なに?」

 己の身に起きた異変に気づき、ミツキが怯えた声をあげた。さらに強く青に抱きつこうとするが、透け始めた手がするりと青の体をすり抜ける。


「ミツキ……!?」

 連れて行かれる――青は咄嗟にミツキの腕をつかもうとするが、淡い陽炎に指が虚しく宙を切った。


「やだ、怖いっ!」

 ミツキが叫んだ、その瞬間だった。

 透けかかった小さい体の輪郭から、ゆらりと黒いもやが立ち昇り、見る間に急激に膨張し黒く濡れた幾本もの紐となって蛇のごとくうごめきながら、青の頭から体へとまとわりつく。


「!?」

 青は咄嗟に腕を振り払うが、手応えがない。黒い紐は青の抵抗を意にも介さず、何重にもその体や腕に絡みついていった。


「な……っ」

 豺狼が腰の苦無を抜き、青に巻き付く黒い糸を断ち切ろうと刃を振るうも、鋭く研がれた鋼の刃は空を掠り、伸ばした豺狼の指先をも、糸はするりと抜けていった。


 無数の黒い紐は止まることなく、青の視界を徐々に覆い隠していく。

「豺――」

 珍しく焦燥を滲ませた友の端正な顔へ、青は手を伸ばす。


 指先に触れる感覚が得られないまま、掠れて遠のいていく声を最後に、青の視界は完全に闇に閉ざされた。谷を渡る風の音も、人々の声も、全てが途切れる。


「うっ……」

 暗闇の中、浮遊と降下を繰り返す感覚に包まれた。


 固く目を閉じても、頭を内側から揺さぶられるような目眩めまいが治まらない。内臓を鷲掴みにされるような痛みに、思わず息が詰まった。


 この感覚は何度となく経験してきた、転送陣を潜る時の酔いだ。


――……のようにも見えるが、どう思う


 上も下もわからない闇に、遠く深く柔らかい男の声が響く。


――確かに、似ているな


 続いて、低く静かで、懐かしい響きを持つ男の声が応えた。


 この声はハクロ、そして、もう一人は――


「師匠……っ!!」

 己の叫び声が、間近で鼓膜を震わせた。


 重たい瞼を無理矢理にこじ開けると、まず己の手が見えた。何かを掴もうとしていたのか、まっすぐに伸ばした腕の指先が青々とした草を握りしめている。


 視界の片側半分は、吸い込まれそうなほどに深い紺色の空と、そこに散らばる無数の星々が占めていた。どうやら草地の上に横倒しになっているらしい。


「え……」

 青は数度、目を瞬かせた。


 もう片方の手で顔をまさぐると、いつも目元を覆っているはずの額当てが首までずり落ちて、全てが露わになっていることに気がついた。


 体を起こそうと、地面に手をつく。

 夜露に湿った草の、ひんやりとした感触が掌に伝わった。

 白狼ノ國の乾いた砂地とはまるで違う、生命の気配に満ちた土と草の感触。


 遠い地に「飛ばされた」のだと、直感的に理解した。


 ゆっくりと上体を起こすと、徐々に視界の焦点が合ってくる。

 そして、息を呑んだ。


 目の前に、広大なうみが横たわっていた。

 月光と星明かりを溶かし込んだかのように淡い青白い光を放つ水面が、周囲の闇を穏やかに照らしている。


 湖面を覆う、静かで、どこか物悲しい燐光りんこう

 その光に照らし出され、湖の中心には巨大な何かの「むくろ」が沈んでいるのが見えた。


 水面から突き出した、まるで聖域への入り口か、あるいは巨人の肋骨を思わせる巨大な白い岩の穹窿きゅうりゅうの連なりが、おごそかな影を落としている。


 耳を澄ませば、完全な無音ではないことに気づく。白岩の間から清水が湧き出しているのか、高く澄んだ水音が水琴となって響いていた。


 ひんやりと澄み切った空気には、湿った土の匂いと、嗅いだことのない清浄な花の香りが混じり合っている。


「……ここは……。豺狼?」

 死と生が溶け合った幻想的な光景に、一抹の恐怖が湧き上がった。無意識に、友の名を呟きながらその姿を求めている。


「何が起きた……」

 呟きは、誰に聞かせるでもなく夜気へと溶けた。

 青は周囲への警戒を解かぬまま、草を掴んでいた手で体を支え、ゆっくりと立ち上がる。


 直前の出来事を、混濁する意識の中から必死に手繰り寄せた。


 黒い麒麟が北の空を指し示し、ミツキの体が透け始めた。どこかへ連れて行かれる、そう直感して引き止めようとした、その直後。ミツキの体からほとばしった黒いひものような何かが、全身に巻きついて――


「ミツキ?」

 返事はない。


 青は懐から引き抜いた苦無を片手に握り込み、鋭い視線で周囲を見渡した。無闇に火を灯すのは危険だ。


 自分だけが飛ばされたのか。

 それとも、ミツキとは別々の場所へ飛ばされてしまったのか。それ以前に、自分は今どこにいるのか。


 答えを求めて青は改めて夜空を見上げ、星々の配置に眉根を寄せた。風哭谷かぜなきだにの夜空で山の稜線に隠れようとしていた赤みのある星が、今は少しだけ天頂に近い位置に留まっている。ほんのわずか、時が巻き戻ったかのようだ。


「かなり西へ……移動したのか」

 だが、どうやって。


 まだ思考にまとわりつく靄を振り払うように一度かぶりを振り、青は改めて周囲に目を凝らす。


 湖の光が届かない背後には、鬱蒼うっそうとした森が闇の壁となってそびえていた。光に身を晒し続けるのは愚策だ。青は姿勢低く落とし、音を殺して湖に背を向けた。身を隠せそうな場所を探し、森の際にひと際大きな岩があるのを見つける。


「あそこなら、背後を気にせず夜を明かせるな」

 岩肌に背を預けると、その冷たさに震えが走った。

 だが、今はそれがいい。鈍りかけた五感を覚醒させられる。

 青は苦無を握り直し、息を潜めて湖面を渡る夜風の音に耳を澄ませた。


 浅い眠りと覚醒を繰り返した夜半過ぎ、月が天頂からわずかに西へ傾くと、湖面を渡る風向きが変わり水面から乳色の霧が立ち昇り始めた。それは生き物のように岸辺へと這い寄り、青の足元を湿らせ、夜の冷気を一層深くする。


「少し久しぶりだ……この感覚」

 全身の皮膚で気配を探りながら、独りで息をひそめる一夜。


 若手の毒術師が「解呪役」を卒業すれば、戦道や双道といった戦闘型の者は、単独での隠密や暗殺任務に就く機会が増える。

 青もまた、豺狼、猪牙、一色といった顔馴染みの上士からの指名任務でなければ、その多くが単独での請負仕事だった。


 慣れていたはずの、この張り詰めた孤独が、今は妙に肌寒い。


「ここのところ、集団行動が多かったから……」

 無意識に、泣き言がこぼれた。


 懐いて抱きついてくるミツキの幼い体温や、慕ってくれる後輩たち、頼もしい上役の猛者たち、そして常に隣にいた友の顔が浮かぶ。


 未知の状況に置かれているせいか、ふと「寂しい」などという雑念が思考をよぎった。そして同時に、いかに豺狼の桁外れの強さが側に在るだけで、どれほどの安心感があったのかと、改めて認識した。


「気を抜くな……」

 やがて遠い森の奥で、正体の知れぬ獣の長く低い咆哮が一度だけ響き、それきり深い静寂が戻ってきた。


 青は息を殺し、夜がその深さを増していく様を、ただじっと見据えていた。


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